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シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」<br />(4)人事制度が形骸化する瞬間  <br />—運用が壊れるのではない。構造がそうさせている— | 人事コンサルティング

シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」(4)人事制度が形骸化する瞬間 —運用が壊れるのではない。構造がそうさせている—

制度はある。評価もしている。面談もやっている。 それでも、現場からはこう聞こえてくる。「正直、意味がないと思っています」と。 このとき多くの組織は、原因を「運用」に求める。マネージャーの意識が低い。評価が甘い。面談が形だけになっている。だから研修を増やし、ルールを厳しくし、チェックを強化する。 しかし、その結果として何が起きるか。現場はさらに疲弊し、制度への信頼は一層低下する。 結論から言う。運用が悪いのではない。運用が壊れるように設計されている。   現場は怠慢ではない。合理的に動いている 現場は、怠慢だから制度を守らないわけではない。むしろ逆だ。現場は極めて合理的に振る舞っている。 あるマネージャーAは、毎回の評価面談を丁寧に準備していた。部下一人ひとりの行動を記録し、フィードバックの言葉を考えた。しかしある時、気づいた。自分が伝えた「次に挑戦してほしい役割」が、そのまま異動申請に反映されたことは一度もない。配置は別のところで、別の論理で決まっていた。 翌期から、Aの面談準備は変わった。30分で終わるようになった。 これを「手を抜いた」と言うのは簡単だ。しかし正確には違う。Aは学習したのだ。時間をかけても、何も変わらないことを。評価を丁寧に行っても、その結果が配置に反映されない。面談でキャリアの話をしても、異動や機会につながらない。育成計画を立てても、次のアサインで活かされない。 この状態で、誰が真剣に制度に向き合うだろうか。 現場は制度を壊しているのではない。制度が意味を持たない環境の中で、合理的に最適化している。これが形骸化の出発点だ。そして重要なのは、この「合理的な最適化」を引き起こしているのが、個人の意識ではなく構造だという点である。   「話す」と「決める」が分断されている では、なぜ制度は意味を失うのか。 「話す」と「決める」が分断されているからだ。 評価面談では、期待や課題が語られる。しかしその内容が、昇格や配置の意思決定に接続されない。1on1でキャリアの希望を聞いても、実際の異動には反映されない。育成の議論は行われるが、次の機会設計にはつながらない。現場で行われているすべての対話が、「意思決定の外側」に置かれている。 もう一つの場面を挙げたい。 あるメンバーBは、1on1で上司に「プロジェクトマネジメントの経験を積みたい」と伝えた。上司は「わかった、機会を探してみる」と答えた。3ヶ月後、Bは別の定型業務に配置された。理由の説明はなかった。 Bはその後、1on1でキャリアの話をしなくなった。「どうせ変わらない」という言葉は語られなかったが、行動がそれを示していた。 この構図が示しているのは、Bや上司の問題ではない。「話す場」と「決める場」が構造的に切り離されているという問題だ。対話がどれだけ誠実でも、意思決定に接続されていなければ、やがて儀式になる。儀式は形式だけ維持されながら、意味を失っていく。   分断は「構造的に」必ず起きる ここで重要なのは、この分断が偶然ではないという点だ。多くの組織では、構造的に必ず起きるようになっている。 第一に、意思決定の主体が分散している。評価は上司が行う。配置は人事や経営が決める。育成は現場や研修部門が担う。それぞれが独立した部分最適で動いており、全体を一貫して設計する主体が存在しない。「評価と配置の接続はどこが担うのか」と問えば、多くの組織で答えが返ってこない。 第二に、時間軸が一致していない。評価は半期ごとに行われる。育成は中長期のプロセスだ。配置は欠員や事業都合で突発的に決まる。この三つが異なる時間軸で動いている限り、評価結果が育成に反映され、育成の成果が次の配置に活かされるという流れは、設計しなければ生まれない。偶然に任せていれば、まず接続されない。 第三に、責任の所在が曖昧だ。評価はするが、その結果に責任を持たない。配置は決めるが、その後の成長には関与しない。育成は行うが、成果との接続は問われない。誰もが自分の担当範囲を誠実にこなしている。しかしその誠実な仕事が、全体として「流れ」を持てていない。 この三つが重なると、意思決定は「点」で終わる。評価も、配置も、育成も、それぞれが独立したイベントとして処理される。流れにならない。接続されない。現場が感じる「意味のなさ」は、この点の孤立から生まれている。   組織は「回路」である この構造を理解するために、比喩を使いたい。 組織は「回路」に似ている。回路とは評価・配置・育成を接続する意思決定の流れとしての構造である。評価や面談、研修はスイッチだ。しかし回路がつながっていなければ、どれだけスイッチを増やしても電流は流れない。 重要なのは、スイッチ自体は壊れていないという点だ。面談は実施されている。評価シートは提出されている。数字の上では機能している。しかし電流は流れない。現場は何度かスイッチを押し、何も起きないことを確認すると、やがて押すのをやめる。あるいは、押すふりをしながら、押したことにするようになる。管理側はスイッチの数を数えて「制度は機能している」と認識する。現場はスイッチを押す作業を「儀式」として処理する。この認識のズレが、形骸化を不可視にする。   施策を増やすほど、なぜ機能しなくなるのか この問題に対して、多くの組織は新たな施策を追加する。1on1を導入し、サーベイを実施し、研修を強化する。しかし結果は変わらない。むしろ悪化することさえある。 理由は単純だ。既存の回路と接続されていないからである。 1on1を導入しても、評価や配置につながらなければ雑談になる。研修でスキルを身につけても、それを活かす配置がなければ定着しない。新しいスイッチを増やしても、回路が断絶したままでは電流は流れない。 それどころか、スイッチが増えるほど現場の負荷は上がる。意味のない行為が積み重なることで、制度全体への信頼が失われていく。「また新しい施策が始まった」という諦観が組織に広がるとき、その組織はすでに回路の断絶を文化として内面化している。 ここに皮肉がある。 施策を増やした側は「改善に取り組んでいる」と認識している。現場は「また増えた」と受け取っている。この認識のズレ自体が、回路の断絶の証拠だ。改善の努力が、信頼の低下を加速させる。誠実さが逆効果になる構造——これが、断絶した回路の中で施策を打つことの本質的な問題だ。   形骸化とは何か——再定義する ここで改めて定義する。 形骸化とは、制度が守られていない状態ではない。意思決定に接続されていない活動が増えた状態だ。 この定義は重要だ。なぜなら、形骸化した組織の多くで、制度は「守られている」からだ。面談は実施され、評価シートは提出され、研修への参加率も高い。数字の上では機能している。しかし内実では、誰もそれが意思決定に影響するとは思っていない。 形骸化を「守られていない」と定義する限り、対策は「守らせること」になる。ルールを厳しくし、チェックを強化し、未実施者に注意を促す。しかしそれは、断絶した回路のスイッチをより強制的に押させることだ。電流は流れない。現場の疲弊だけが増す。 問うべきは「守られているか」ではない。「意思決定につながっているか」だ。 この問いの転換は、診断の深さを根本から変える。「なぜ面談の実施率が低いのか」と問う組織は、面談を守らせることに向かう。「なぜこの面談が昇格につながらないのか」と問う組織は、回路の設計に向かう。同じ現象を見ながら、到達する場所がまったく違う。   構造を変えない限り、何も変わらない 制度はある。運用もしている。 それでも機能しないとき、問うべきは「やり方」ではない。 構造だ。 具体的には、三つの問いを持つ必要がある。評価の結果は、どの意思決定に、どのタイミングで使われるのか。配置の決定には、誰の情報が、どのように入力されるのか。育成の成果は、次の機会設計にどう接続されるのか。 これらを問われて即答できる組織は、ほとんどない。「評価結果は配置に参照される」という建前はある。しかしそれがどの会議で、誰によって、どのように使われるのかは曖昧なまま放置されている。建前と実態の間にある、この「設計されていない空白」こそが、回路の断絶の正体だ。 その空白は、誰かが意図してつくったわけではない。評価を設計した人事、配置を決める経営、育成を担う現場——それぞれが自分の役割を誠実に果たしてきた結果として、空白が生まれている。悪意がないからこそ、問題が見えない。誠実さが、断絶を覆い隠す。 これらが設計されていない組織では、評価・配置・育成はそれぞれ誠実に行われながら、全体として「流れ」を持てない。誠実な仕事の積み重ねが、意味のない儀式として結晶化していく。 人事がやるべきことは、制度を増やすことでも、運用を厳しくすることでもない。問題は制度の有無ではなく、流れが設計されているかである。評価が配置に接続され、配置が育成に接続され、育成が次の評価に接続される——その流れを設計することだ。流れができて初めて、スイッチは機能する。 この問いに向き合うとき、人事は初めて「制度を管理する側」から「回路を設計する側」へと立場を変えることができる。 制度は壊れていない。 現場は合理的に動いた。 その結果として、回路が死んでいる。 ==シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」=== (1)評価制度はなぜ納得されないのか (2)優秀な人材ほど辞める会社の構造 (3)キャリア支援が機能しない本当の理由 (4)人事制度が形骸化する瞬間    

選抜の覚悟と「配慮」の足かせ | 人事コンサルティング

選抜の覚悟と「配慮」の足かせ

 経営人材育成の取り組みが加速するなかで、候補者の選抜は避けて通れないプロセスである。限られた経営ポストに対し、誰に重点投資するかを決めることは、企業として極めて合理的な判断だ。しかし、人事の現場では常に一つの懸念がつきまとう。「選ばれなかった人への配慮」である。モチベーションの低下や離職を恐れるあまり、日本企業の多くは、選抜という行為に伴う摩擦を極端に回避しようとする。  私自身、コンサルティングをする中で、その配慮に対する議論はこれまでも数多く経験してきた。最初は「経営人材選抜研修」として開始したものの、選ばれなかった人への配慮を重ねた結果、数年後には管理職全員を対象とした研修に変わってしまったケースもある。  この「配慮」こそが、日本企業が長年抱えてきた構造的課題の象徴ではないだろうか。 新卒一括採用、横並びの昇進、一律の給与体系。こうした「差をつけない」ことを前提とした日本型雇用の体質において、選抜は異物となる。人事担当者が「選ばれなかった人にも期待している」と説くとき、そこには多分に、現状の平等主義を維持したいという妥協が混ざっている。  実際、選ばれなかった側が「自分はこの会社では期待されていない」と受け取るのは、必ずしも誤解ではない。企業側が特定の数名に経営資源を集中させる決断をした以上、相対的に他の社員への期待の質が変わるのは事実だからだ。それを曖昧なメッセージで包み隠すことは、本人のキャリア自律を妨げるだけでなく、選抜された側の覚悟をも鈍らせることになる。  本来、選抜とは「非連続な差」をつける行為である。それまで明文化されずに漂っていた「なんとなくの将来の見通し」に、明確な区切りを引くことだ。この区切りによって、選ばれなかった人が「では、自分はこの先どこに向かえばよいのか」と自問し、社外に新天地を求めることは、市場原理から見れば極めて健全な反応である。  真に避けるべきリスクは、選ばれなかった人材の離職そのものではない。むしろ、摩擦を恐れて選抜の基準を曖昧にし、誰にでも「期待している」という顔をすることで、組織全体のプロフェッショナリズムを損なうことにある。  経営人材育成とは、一部の候補者を育てる施策であると同時に、組織全体に対して「この会社では、何をもって価値とするのか」という過酷な問いを突きつける行為である。選抜に伴う痛みを恐れ、事なかれ主義的な配慮を優先している限り、日本企業が「差をつけること」から脱し、真の競争力を手に入れることはできない。  選抜の後に、社員が自分の次の役割を主体的に描ける環境を整えることは重要だ。しかしそれは、決してショックを和らげるための「なだめ」であってはならない。企業には今、選抜という決断に伴う責任を直視し、プロとしての実力主義を徹底する「選ぶ覚悟」が問われている。

シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」<br />(3)キャリア支援が機能しない本当の理由  <br />—「設計されていない自由」の正体— | 人事コンサルティング

シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」(3)キャリア支援が機能しない本当の理由 —「設計されていない自由」の正体—

「キャリアは自分で考えろ」 多くの企業で、半ば当然のように語られる言葉である。自律的なキャリア形成。主体的な成長。自己責任での意思決定。一見すると、極めて正しい。むしろ、この考えに異を唱えることは、時代に逆行しているようにも見える。 しかし現場では、まったく異なる現実が広がっている。キャリア面談は形式化し、キャリアシートは提出されるが活用されず、キャリア研修は実施されるが行動は変わらない。そして最終的には、「キャリアは本人次第だから」という言葉で整理される。言葉は前向きだが、実態は思考の放棄だ。 この構図に、違和感はないだろうか。 キャリアは本当に「自由」なのか キャリア支援が機能しない理由を問われると、多くの場合、原因は個人に帰属される。主体性が足りない。将来像が描けていない。自己理解が不足している。しかし、この説明は都合が良すぎる。 なぜなら、キャリアはそもそも完全に自由なものではないからだ。 個人は組織の中で働いている。経験できる業務、担う役割、求められる成果は、すべて組織によって規定されている。キャリアとは、個人の意思と組織の構造の交差点に生まれるものだ。この前提を無視したまま「自由」を語るとき、キャリア支援は機能しなくなる。 現場の場面を一つ挙げたい。 あるメンバーが上司に「将来はマーケティングに携わりたい」と伝えた。上司は「それはいいね。社内公募もあるから、自分で動いてみては」と返した。メンバーは自己申告書にその希望を書いた。翌年も、また同じ部署に配置された。理由は説明されなかった。 この場面で何が起きているか。本人は意思を示した。上司は否定しなかった。制度もある。 しかし何も動かなかった。問題は、希望を「受け取る仕組み」が存在しないことにある。意思は表明されたが、それが配置という意思決定に接続されていなかった。 「設計されていない自由」という矛盾 多くの企業はキャリアの自由を掲げ、自ら手を挙げ機会を取りにいくことを推奨する。しかしその一方で、どのような選択肢があるのかは見えない。どのルートが望ましいのかは示されない。何をすれば次に進めるのかも曖昧なままだ。 これは自由ではない。設計されていない自由である。 地図もなく、現在地も示されず、ただ「好きに進め」と言われている状態に近い。このとき、人はどうするか。多くの場合、動かない。あるいは、目の前にある安全な選択肢を選び続ける。結果としてキャリアは停滞し、組織側はそれを「本人の主体性の問題」と解釈する。 しかしこの停滞は、構造が生み出している。地図がなければ、どれだけ意欲があっても歩き出せない。「動かない」のではなく「動けない」状態が、主体性の欠如として見えているだけだ。 重要なのは、この状態を個人の問題として扱い続ける限り、何も変わらないという点だ。 「自律的なキャリア形成を促す研修」を実施しても、配置の仕組みが変わらなければ結果は変わらない。行動を変えようとする前に、行動できる環境を設計することが先だ。 キャリアは「配置の履歴」である キャリアという言葉は、志向や成長の方向性として語られることが多い。どのような仕事をしたいのか、どのようなスキルを身につけたいのか。しかし実態は、もっと単純だ。 キャリアとは、「どこに配置され、何を経験したか」の履歴である。 どれだけ高い志向を持っていても、その機会が与えられなければキャリアは形成されない。 営業に配置されるのか、企画に配置されるのか。成長機会のある役割を担うのか、維持運用に従事するのか。この違いが、その後のキャリアを決定づける。 つまり、「キャリアは自由だ」という言葉は、選択肢が提示されていて初めて意味を持つ。 選択肢が見えない状態での自由は、自由ではない。放置である。 ここに気づくと、キャリア支援の問い自体が変わる。「本人が主体的に動いているか」ではなく、「本人が動ける構造になっているか」が問いになる。この問いの転換なしに、キャリア支援は前に進まない。 評価と接続されないキャリアは機能しない では、配置はどのように決まるのか。本来であれば、評価と接続されているはずだ。評価によって何ができているのか、何が足りないのか、どのような経験を積むべきかが明らかになり、その延長線上で配置が決まる。そして配置によって得られた経験が、次の評価につながる。この循環が成立して初めて、キャリアは動き出す。 しかし現実には、この接続が断たれている。評価は評価として完結し、キャリア面談はキャリア面談として行われ、配置は別の論理——主に「欠員補充」や「部門都合」——で意思決定される。 結果として何が起きるか。 評価の結果が次の機会に結びつかない。キャリアの希望が配置に反映されない。経験が蓄積されても、意味づけされない。評価とキャリアが分断されている組織では、個人がどれだけ努力しても、その努力が「次のステップ」に変換されない。 この断絶が、長期的には「何をやっても変わらない」という諦観を生む。その諦観は、離職よりも厄介だ。組織に残りながら、キャリアへの期待を失った人材が積み上がっていく。前回述べた「優秀な人材ほど辞める」という現象は、この諦観を持つ前に動ける人材が外へ出た結果だ。諦観を抱えたまま残る人材の問題は、より静かに、しかし深く組織に影響していく。 キャリア支援が「機能している」ように見える理由 一部の企業では、キャリア支援がうまくいっているように見えることがある。社員が主体的に動き、成長しているように見える。制度も整備されている。 しかしその実態を丁寧に見ると、優秀な個人が自力でキャリアを切り拓いている、特定の上司が個別に支援している、あるいは偶然、良い配置がなされた——というケースが大半だ。 これは構造ではない。再現性がない。 「あの人はうまくいっている」という事例は、制度の成功を証明しない。その人が、制度に関わらず自力で動いているだけかもしれない。一部で機能していることは、全体が機能している証明にはならないのだ。 この錯覚が危険なのは、問題を見えにくくするからだ。優秀な個人の活躍が、構造の不全を覆い隠す。組織は「制度はある、機能している」と認識したまま、設計の問題に気づかない。 では、何を設計すべきなのか キャリア支援を機能させるために必要なのは、「キャリア制度」を整備することではない。 キャリアが自然に動く構造を設計することだ。 具体的には、三つの接続を問い直す必要がある。 一つ目は、「評価と配置の接続」だ。評価結果が、次の配置や機会にどう反映されるのか。 この接続が言語化されていない限り、評価はキャリアに影響しない情報として扱われる。評価を受けた本人が「で、これが自分の次に何を意味するのか」を理解できる状態が必要だ。 二つ目は、「希望と意思決定の接続」だ。本人が示したキャリアの希望は、どのプロセスで配置に反映されるのか。社内公募や自己申告制度があっても、その後の意思決定が見えなければ、制度への信頼は失われる。希望が「入力される場所」ではなく、「意思決定に使われる情報」になっているかどうかが問いだ。 三つ目は、「経験と育成の接続」だ。ある配置で得た経験が、次の役割にどうつながるのか。その文脈が本人に伝わっていなければ、経験は蓄積されても意味づけされない。育成とは、経験を意味に変換するプロセスだ。その変換が機能していないとき、人材は「経験を積んでいるのに、成長している感覚がない」という状態に陥る。 例えば、ある社員が3年間、同じ業務に従事している。スキルは確実に上がっている。しかし本人には「なぜ自分はここにいるのか」「この経験は何につながるのか」が見えていない。上司からの説明もない。この状態では、3年間の経験は「時間の経過」として蓄積されるだけで、キャリアとして意味を持たない。 この三つが接続されて初めて、キャリアは動き出す。逆に言えば、この接続がなされていない状態での「自律的なキャリア形成」は、構造の不在を個人の問題として転嫁しているにすぎない。 設計不在は、偶然ではない キャリアは自由であるがゆえに難しいのではない。設計されていない自由であるがゆえに、機能しないのだ。 そしてこの設計不在は、偶然ではない。評価・配置・育成がそれぞれ異なる部門、異なる担当者、異なるタイミングで動いている組織では、接続は自然には生まれない。誰かが意図的に設計しない限り、分断は維持され続ける。 「キャリアは本人次第だ」という言葉は、設計の責任を個人に転嫁するときに使われる。しかし本来、キャリアを動かす構造は組織が持っている。どこに配置し、どのような経験を積ませ、それをどう評価につなげるか——これらは組織の意思決定だ。その意思決定が設計されていないとき、個人の主体性はどこにも着地できない。 キャリアは個人の選択ではない。どこに配置され、どのような経験を積むかによって形づくられるものだ。にもかかわらず、その配置は多くの場合、設計されていない。それでも私たちは「キャリアは本人次第だ」と言い続ける。 ここに、キャリア支援が機能しない本当の理由がある。 キャリア支援の問題は、個人の主体性にない。 主体性が機能する構造が、設計されていないことにある。 ==シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」=== (1)評価制度はなぜ納得されないのか (2)優秀な人材ほど辞める会社の構造 (3)キャリア支援が機能しない本当の理由 (4)人事制度が形骸化する瞬間  

AIを使うと損失が増える_ワークスロップ(workslop)の罠 | その他

AIを使うと損失が増える_ワークスロップ(workslop)の罠

 AIは、強力な道具である。一方で、扱い方によくよく気を付けないと、見栄えは良いのに中身が伴わない成果物を生みやすい。会社の中においては、これは、単なる『質の低い文書』では、終わらない。必要な役割を果たしておらず、受け手に「確認・修正・差し戻しの負担」を発生させるため、害とも言えよう。  こうした「他者から受け取った、一見もっともらしいが、実際には低品質で、本来果たすべき仕事を達成していない成果物」を「ワークスロップ(workslop)」と呼ぶ。スタンフォード大学とBetterUp Labsの研究員が2025年9月に発表した論文で定義された新たな概念だ。  問題は、作成者がAIに任せたことで、仕事の目的や文脈、必要水準を自分で十分に咀嚼しないまま提出してしまう点にある。すると受け手は、まず「何がズレているのか」を見抜き、そのうえで差し戻すのか、自分で直すのかを判断しなければならない。実に迷惑である。  当該論文では、米国企業で働く1150人のデスクワーカーを対象にした調査を行っている。算出された損失の概要は下記の通りだ。  当社で実際にあった「ワークスロップ」の一例も紹介しよう。とある若手社員が、営業先企業の情報と、提案サービスとの関連をAIで分析し、資料を作成した。上司と共有すると、「これは、使えない」と、読んでもらえなかった。資料が長大すぎて何を言いたいのか、一見して分からないためだ。さらに上司が口頭で説明を求め、質問を重ねる。若手社員は上手く対応ができない。「自分の頭で考える」過程をAIで代替したため、内容が自分のものになっていないためだ。  また少し話題はそれるが、「AIの便利さに頼るほど、自分の思考力・判断力が落ちていく。また、そのことに気づきにくい」という厄介な点にも触れたい。  手で書く、体を動かして実際にやってみる、人と対話する――その過程の中で得られる発見やひらめきは、人間の思考力・判断力の向上に欠かすことができないものだ。しかしその機会は、効率化と引き換えに失われやすい。脳科学者の中には「AI を使うことによって脳を使えなくなる人、AI を全く使わないで脳が使える人が生まれ、逆の格差をAIが生むのでは」と主張する人もいる。AIによる効率化で生まれた余白やアウトプット量によって、自身の能力が向上したかのように錯覚するが、思考関連の能力自体は上がっていない、むしろ発揮する機会を失い下がってしまっている可能性もあるのだ。  もちろん、だからAIを使うな、という話ではない。重要なのは、AIを「自分の代わり」に使うのではなく、「自分の思考を増幅する道具」として使うことだ。スタンフォードの議論でも、優れた使い手はAIに丸投げする“乗客”ではなく、自ら操縦する“パイロット”として振る舞うべきだとされている。  大切なのは、AIか人間かという二項対立ではない。 「これは自分が本当に伝えたいことか」と問い続け、責任をもったアウトプットを提供し続ける姿勢ではないであろうか。 参照) Harvard Business Review, September 22, 2025(updated September 25, 2025) https://hbr.org/2025/09/ai-generated-workslop-is-destroying-productivity ※文中の図はAIによって作成

シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」<br />(2)優秀な人材ほど辞める会社の構造 <br />— 離職は個人の問題ではなく、構造の帰結である — | 人事コンサルティング

シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」(2)優秀な人材ほど辞める会社の構造 — 離職は個人の問題ではなく、構造の帰結である —

「なぜ、あの人が辞めるのか」 周囲からの信頼も厚く、成果も出している。将来を期待されていたはずの人材が、ある日静かに会社を去っていく。一方で「特に問題はないが、突出もしていない人材」は残り続ける。結果として組織には、無難な人材が積み上がり、変化を生み出す人材が抜けていく。 この現象が起きるたびに、こう説明される。「優秀な人ほど市場価値が高いから」「成長意欲が強いから」「相性が合わなかったのだろう」と。いずれも間違いではない。だが、それは説明であって原因ではない。 本来問うべきは「なぜこの組織では、その人材が力を発揮できなかったのか」だ。答えは個人の属性にも市場の引力にもない。組織の構造にある。 離職は「意思決定」ではなく「反応」である 一般的に、離職は個人の意思決定として捉えられる。しかしこの見方は一面的である。人は、何もないところから突然「辞めよう」と決断するわけではない。日々の仕事の中で感じる違和感、積み重なるズレ、言語化されない不満——その連続の先に、離職という行動が現れる。 離職とは、個人の自由意思の発露ではなく、組織環境に対する「反応」だ。 では、その反応を引き起こしているものは何か。それが、組織の「構造」である。 構造とは何か。 個々の制度や人物の問題ではない。評価・配置・育成・期待の伝え方——これらの要素が「どのように接続され、誰がどのタイミングで何を決めるか」という、意思決定の流れそのものだ。構造が歪んでいるとは、この流れのどこかが断絶しており、人材に関わる意思決定が一貫した文脈を持てていない状態を指す。 ここで重要なのは、組織は中立ではないという点だ。構造は、どの人材が活躍し、どの人材が去るかを、無自覚のうちに決定している。「上司が悪い」「制度が悪い」という個別要因への帰属では、この問題は解けない。上司を変えても、制度を直しても、意思決定の流れの断絶が残る限り、同じ現象が繰り返される。 組織は「水槽」である 組織は水槽に似ている。水質が良ければ魚は健全に育つが、悪化すれば弱るか外へ出ていく。重要なのは、すべての魚が同じ行動をとるわけではないという点だ。弱い魚は環境に適応しようとする。しかし強い魚は、環境を選ぶ。結果として、水質が悪い水槽ほど強い魚から先にいなくなる。 水質の悪化は、一度に起きるわけではない。管理者は「水を換えている(面談をしている)」「エサをやっている(フィードバックをしている)」と認識している。しかし水槽の底には澱(おり)が溜まり続けている。言語化されない期待のズレ、曖昧なまま放置された役割定義、機能していない評価基準——そういった小さな分断の蓄積だ。魚にとってはそれを感じながら泳いでいる状態だが、水槽の外からは水が透明に見える。 優秀な魚が辞めた後、初めて「水が濁っていた」と気づく。 そして、見落とされている事実がある。強い魚が出ていった後、水槽には何が残るか。澱の中でも泳げるよう自分を最適化した魚だ。構造の歪みに適応することを選んだ人材が、組織の中心になっていく。「無難な人材の積み上がり」とは、偶然の結果ではない。構造が選別した結果だ。 「評価」がズレると、「キャリア」がズレる 構造の歪みの中心にあるのが「評価」である。 評価制度は「構造 × 関係 × データ」によって成り立つ。 この3つが接続されていないとき、評価は「結果の通知」にしかならない。本来、評価とは「何を期待されているのか」「どこに向かっているのか」「どのように成長すべきか」を接続する装置だ。それが機能していないとき、評価のズレはキャリアのズレへと転化する。 現場の場面を一つ挙げたい。 あるマネージャーAは今期も高い評価を受けた。しかし昇格はなかった。上司からは「あなたは評価されている。ただ、今年は枠がない」と伝えられた。説明は理解できた。しかし腑には落ちなかった。評価の高さと昇格が、制度上も説明上も接続されていなかったからだ。 Aの中で「自分は何のために成果を出しているのか」という問いが生まれ、答えのないまま積み上がっていった。半年後、Aは転職した。会社側から見れば「突然辞めた」に見える。しかし当人の側から見れば、「半年間、徐々に決断していた」のである。 違和感が確信に変わる瞬間は、劇的ではない。「また同じ説明をされた」「今年も変わらなかった」という、静かな積み重ねの果てにある。離職届は突然提出されるが、その決断は半年前、あるいは一年前に始まっている。 優秀な人材ほど「構造の限界」を見切る ここで重要なのは「誰が、何を判断しているか」だ。 優秀な人材は、ズレに敏感なのではない。より正確には、構造の再現性を評価している。ここでいう再現性とは、同じ成果を出せば、同じ評価と機会があたえられるか、という意味である。自分の成果がどのように評価され、それが昇格・配置・育成にどう接続されるか。その一連の意思決定の流れに、再現性があるかどうかを見ている。再現性がなければ、長期的にこの組織に投資する価値がないと判断する。この判断は、感情ではなく認識だ。 一方、組織への適応を優先する人材は、ズレを「個人の問題」として内側に収める。「自分がまだ足りないのだろう」「もう少し待てばよくなるかもしれない」と。しかし、これは問題の先送りに過ぎない。構造が変わらない限り、待っても何も変わらない。 もう一つの場面を挙げたい。 入社4年目のBは同期の中でも頭一つ抜けた成果を出し続けていたが、成果では劣る同期Cが先に昇格した。Bが理由を聞くと「評価は高い。ただ、昇格には総合的な判断がある」と返ってきた。Bはその「総合的な判断」が何を指すのか、最後まで理解できなかった。 「総合的な判断」という言葉が使われる時、多くの場合、評価基準と意思決定基準が分離している。評価という回路と、昇格という意思決定の回路が、別々に動いている。Bが見切ったのは、Cの昇格ではない。この組織では、どれだけ成果を出しても、意思決定の回路が自分には開かれないという構造の限界だ。 その後に残ったのは誰か。「総合的な判断」に疑問を持たなかった人材、あるいは持ちながらも諦めた人材だ。彼らが組織の主力になっていく。これは個人の選択ではない。構造が選別した結果だ。 離職は問題ではない。シグナルである 多くの企業は、離職を問題として捉え、離職率を下げようとする。しかしこの発想が、すでに誤っている。 離職は、構造の歪みを知らせるフィードバックだ。優秀な人材が辞めるとき、組織は「評価・配置・育成の意思決定の流れに、再現性のある文脈がない」という診断を受けている。その診断を「個人の事情」として処理した瞬間、組織は改善の機会を失う。 退職面談でよく語られる理由は「キャリアアップのため」「やりたいことが見つかった」といった前向きな表現だ。本音が語られないのは、当人がすでに「説明しても変わらない」と感じているからである。フィードバックは届いている。しかし、受け取る側の構造がない。 構造を変えない限り、結果は変わらない 評価制度はある。目標設定もしている。面談も行っている。それでも優秀な人材は辞めていく。このとき問うべきは「制度があるかどうか」ではない。それらが意思決定の流れとして一貫して機能しているかどうかだ。 新たな施策を追加するとき、既存の制度との接続を設計しないまま導入する組織は多い。1on1を導入したが評価とつながっていない。ジョブ型制度を導入したが育成の仕組みが変わっていない。制度が増えるほど「やっている感」は出るが、人材から見た「意味のある一貫性」は失われていく。優秀な人材ほど、この一貫性のなさを早く見抜く。 優秀な人材が辞めるたびに「次の採用」で補おうとする組織がある。しかし構造が変わらなければ同じことが繰り返される。水槽の澱を取り除かずに、新しい魚を入れ続けているのと同じ状態だ。やがて、新しく入った魚も、同じ理由で出ていく。 では、キャリアはどのように扱うべきか 重要なのは、評価制度単体を見直すことではない。評価・配置・育成といった人事機能を、意思決定の流れとして設計し直すことだ。その流れの中心に置くべきものが「キャリア」である。 キャリアは個人の問題として扱われがちだが、実際には組織の構造の反映だ。評価がズレていればキャリアもズレる。配置が適切でなければ成長も歪む。育成が接続されていなければ学習は断片化する。個人が「自分はどこへ向かっているのか」を見失うとき、その原因のほとんどは、組織の意思決定の流れが個人のキャリアを支える文脈を持っていないことにある。 方向が見えない環境では、優秀な人材ほど自分で方向を決める。そしてその方向が組織の外を向いたとき、離職は起きる。構造を設計するとは、この「方向」を組織が示し続けることができる仕組みをつくることだ。 この問いに向き合うとき、人事は初めて「制度を管理する側」から「構造を設計する側」へと立場を変えることができる。 優秀な人材が辞めていく組織に、人材の問題はない。 構造が、去るべき人材を選んでいる。 そしてその選別は、誰も気づかないまま続いている。 ==シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」=== (1)評価制度はなぜ納得されないのか (2)優秀な人材ほど辞める会社の構造 (3)キャリア支援が機能しない本当の理由 (4)人事制度が形骸化する瞬間  

評価に必要なのは「ブレを制御する期待行動の構造設計」である | 人事コンサルティング

評価に必要なのは「ブレを制御する期待行動の構造設計」である

評価では「納得性が重要」と言われるが、多くは「本人が納得できるか」に偏っている。 しかし納得は主観であり、設計できない。これを軸にすれば、評価は構造ではなく関係性に依存する。 それは評価というより調整に近い。 一方で評価は本来、事実と基準に基づく測定であり、配置・処遇・育成の前提となるものである。 しかし現実には、能力や行動、姿勢といったものを正確に測定することには限界がある。 同じ行動でも「主体的」と見るか「独断的」と見るかで、解釈は分かれ、そもそも事実の収集自体にも制約や負荷が伴う。 評価は人が行う以上、解釈のズレは避けられず、完全な一致は成立しない。 多くの制度はそれでも一致を目指すが、現実には機能しない。 問題はズレることではなく、ズレた際に判断がブレることにある。 ここで重要なのは、どこまでならブレが許容できるのかという視点である。 刑法の相当因果関係説では、単に行為と結果がつながっているだけでは足りず、その結果が経験則上予見可能であることが責任帰属の基準とされる。 評価も同じではないだろうか。 何をすれば評価され、何を欠けば低く評価されるのかが予見できない評価項目定義や基準では、責任を帰属することができない。 そして、そのような状態で低い評価をつけてはならない。 被評価者にとっても、評価者にとっても、何を拠り所に判断すべきかが見えないなら、そこで行われているのは測定ではなく、事後的な意味づけにすぎない。 予見できない評価項目定義や基準による低評価、つまり許容できないブレは、評価ではなく、後出しの判定である。 そこで必要になるのが「期待行動の構造」である。 評価項目とは単なるラベルではなく、求める行動とその意味を具体的に示したものでなければならない。 解釈が分かれる時点で、それは基準ではなく単なる言葉にすぎない。 重要なのは、一致させることではなく、 ズレても判断が収束する状態を設計することである。 そのためには、 何を目的とするか どの行動が適切か なぜその行動なのか を明示し、解釈の「幅」を規定する必要がある。 例えば「主体性」を 「目的を踏まえ、自ら考え業務を進めること」と定義し、 その目的を「顧客満足(品質・スピード・誠実対応)」とすれば、 評価は行動の有無だけではなく、目的への適切性で判断され、判断の方向性が固定される。 つまり、解釈が完全に一致しなくても、判断軸が共有されていれば評価は収束する。 評価を収束する上で、実務上重要なのは設計である。 評価基準や評価項目定義は解釈の幅を前提に、そのばらつきをどこまで抑えるかを意識して定義する必要がある。 また、「なぜその基準なのか、その行動を求めるのか」まで説明できる状態にすることで、判断軸はより強固になる。 この前提が曖昧なまま評価会議に持ち込めば、判断ではなくすり合わせになる。 それは設計不備の後処理にすぎない。 問題の本質は運用ではなく設計にある。 解釈のズレを前提に、判断が収束する構造を設計しない限り、評価は機能しない。 そして、予見できない基準で人を低く評価してはならない。 評価とは、一致を作るものではなく、ブレを制御し、適正に判断できる構造を設計することである。

シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」<br />(1)評価制度はなぜ納得されないのか<br />—「正しいのに不満が出る」構造的な理由— | 人事コンサルティング

シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」(1)評価制度はなぜ納得されないのか—「正しいのに不満が出る」構造的な理由—

評価面談の場で、こんなやり取りを見たことはないだろうか。 「評価基準に照らすと、この結果になります」 「説明は理解できました。ただ、納得はできません」 この会話は、多くの企業で繰り返されている。評価はルール通りに行われ、論理的にも筋が通っている。それでも不満は消えない。 こうした場面に直面したとき、私たちはつい「評価基準が曖昧なのではないか」「評価者のスキルが足りないのではないか」と考える。あるいは、甘辛調整の問題だと片付けてしまうこともある。しかし、本当にそうだろうか。 もし問題が「精度」にあるのなら、制度を緻密に設計し、評価者教育を徹底すれば不満は解消されるはずだ。だが現実はそうなっていない。むしろ、制度を整えれば整えるほど「説明は完璧なのに納得できない」という状態が生まれやすくなる。ここに、評価制度が抱える本質的な矛盾がある。 評価の目的は、本当に機能しているのか 評価制度の目的は何か。この問いに対して、多くの企業は次のように答える。個人目標を組織目標・会社目標に接続すること。評価結果を処遇へ適切に反映すること。そして評価を人材育成につなげること。いずれも正しい。むしろ、これ以外の答えはない。 ただ、ここで一度立ち止まりたい。それは「本当に機能しているのか」という問いだ。目標は本当に接続されているのか。評価は本当に処遇へ納得感をもって結びついているのか。評価は本当に人材育成につながっているのか。 もしこれらが機能しているなら、評価制度に対する不満がここまで広がっているはずはない。問題は、目的が間違っているのではない。目的を実現できる構造になっていないことにある。 重要なのはこの「機能していない」状態が、誰かの怠慢や悪意によって生まれているわけではないという点だ。制度を設計した人事も、目標を設定した上司も、評価を下した管理者も、それぞれ誠実に仕事をしている。問題は、その誠実な仕事が「つながっていない」ことにある。だから表面上は「制度が整っている」ように見えるのに、現場では不満が積み上がっていく。 評価制度は「制度」ではなく「構造」である 評価制度をルールの集合として捉える限り、この問題は解けない。評価制度は本来、もっと立体的なものだ。  評価制度 = 構造 × 関係 × データ この三つが接続されて初めて、評価は機能する。 ひとつ比喩を使いたい。 評価制度は「カーナビ」に似ている。構造は地図だ。どこに何があるかを示す設計そのものである。関係は運転者の意思や状況であり、どのルートを選ぶかに影響する。データは現在地や交通情報であり、意思決定の前提となる情報だ。 この比喩で重要なのは、三つのうちどれか一つが欠けても「目的地に辿り着けない」という点である。地図が精緻でも、現在地がずれていれば意味がない。現在地が正確でも、運転者が「なぜここへ向かうのか」を理解していなければ、途中で引き返す。評価制度も同じだ。構造(制度設計)だけ整えても、関係(評価者と被評価者の対話)とデータ(判断の根拠となる情報)が接続されていなければ、「使える制度」にはならない。 問題は、多くの企業がこの三つを分断したまま運用しているという点にある。制度は立派に整備されていても、評価者と被評価者の関係は形式的な面談に収まり、意思決定に使えるデータも乏しい。結果として「ルールとしての評価」は動いているのに、「機能としての評価」は止まっているという状態が生まれる。 納得されない理由は「意味が接続されていない」からだ 評価制度に対する不満は、「評価が間違っている」から生まれるのではない。評価の意味が、自分の中で接続されていないことが本質だ。 現場でよく見られる場面を挙げたい。あるメンバーが今期、高い目標を掲げ、それをほぼ達成した。自己評価はA。しかし上司からの評価はBだった。面談で上司は丁寧に説明した。「目標は達成したが、期待していた行動面での成長が見えなかった」と。説明は論理的だった。しかしそのメンバーは、面談後にこう感じた。「行動面の期待なんて、期初に聞いていない」と。 問題は評価の正しさではない。期初に何を期待されているかが伝わっておらず、評価という「結果」だけが届いた点にある。評価という点と、期待という点が、一本の線としてつながっていなかった。これが「意味の翻訳不全」だ。 評価とは本来、点数を伝えるものではない。「自分は何を期待されているのか」「どこに向かっているのか」を伝える装置だ。それが機能していないとき、人は「正しい評価」に対しても納得できない。評価の「正しさ」と「納得感」は、別の回路で動いている。正しければ納得される、という前提自体が、そもそも成り立っていないのだ。 見落とされがちな「データ」の歪み もうひとつ、重要な論点がある。データだ。 多くの企業において、評価に用いられるデータは「自己評価」と「上司評価」という主観データにほぼ限定されている。主観データは重要だ。関係性や文脈を含む、生きた情報だからである。しかし、主観データだけで構成された評価は、必ず解釈の揺らぎを内包する。 同じ行動でも、評価者によって意味づけが変わる。同じ成果でも、上司との関係性によって受け取られ方が異なる。結果として評価は「正しいかどうか」ではなく「誰がどう見たか」に依存する構造になる。 これはカーナビの比喩で言えば、地図はあるのに現在地が人によって違って見えている状態だ。同じ場所にいるはずなのに、見えている景色が違う。この状態で「現在地はここだ」と言われても、腑に落ちない。評価に対する「なんとなく納得できない感覚」の多くは、このデータの歪みから来ている。 評価におけるデータは、主観だけで閉じてはならない。行動の記録、プロジェクトへの貢献、周囲からの観察——こうした情報が主観評価を支えることで、初めて評価は「誰が見ても一定の意味を持つもの」になる。この点はさらに踏み込む必要があるため、ここでは問題提起にとどめておく。 問題は「運用」ではなく「構造」にある 評価制度の不全は、評価基準の曖昧さや評価者のスキル不足といった個別要因では説明できない。それは、構造・関係・データが分断されたまま運用されているという、構造そのものの問題だ。 評価制度はよく「運用が重要だ」と言われる。確かに運用は大切だ。しかし正確にはこうだ。運用が重要なのではなく、「運用で補わざるを得ない構造」になっていることが問題なのだ。 構造が適切に設計されていれば、運用は自然と整う。逆に構造が歪んでいれば、どれだけ優秀な評価者がいても制度は崩れていく。「あの上司は評価が上手い」「あのマネージャーは部下の納得感を引き出せる」という話が出てくる時点で、その制度はすでに個人スキルへの依存を前提にしている。それは制度ではなく、属人的な運用だ。 「正しい評価」が不満を生むという逆説 評価制度の難しさはここにある。間違っているから不満が出るのではない。正しいのに不満が出る。これは制度の欠陥ではなく、構造の欠陥だ。 評価制度とは、単に人を評価する仕組みではない。組織の期待と個人の認識を接続する「翻訳装置」だ。この翻訳が成立していない限り、どれだけ制度を精緻にしても不満はなくならない。 人事の現場で長く仕事をしていると、「制度は整っているはずなのに、なぜうまくいかないのか」という声を繰り返し聞く。その問いに向き合うたびに感じるのは、問題が制度の「中」にあるのではなく、制度をどのレイヤーで捉えているかにある、ということだ。ルールとして捉える限り、評価制度の問題はルールの修正で解こうとする。しかし本来、評価は構造として捉えるべきものだ。そこに気づいたとき、はじめて設計は始まる。 では、何を見直すべきなのか 評価制度を見直す際、多くの企業がまず手をつけるのは「評価基準の見直し」や「評価者研修の強化」だ。それ自体は必要な取り組みだ。しかし、それだけでは不満の本質には届かない。 重要なのは、「評価制度を改善すること」ではなく、「評価をどのような構造として捉え直すか」だ。具体的には、三つの問いを持つことから始まる。 一つ目は、「評価はどの意思決定と結びついているか」だ。昇格・昇給・配置・育成——それぞれの意思決定に対して、評価はどう接続されているのか。ここが曖昧なまま制度を動かすと、評価結果が宙に浮いた状態になる。「評価Aなのになぜ昇格しないのか」という問いが出るのは、この接続が言語化されていないからだ。 二つ目は、「評価に使っている情報は十分か」だ。自己評価と上司評価だけで完結している企業は多い。しかしそれでは、主観の揺らぎを補正する手段がない。行動の記録、プロジェクトの成果、周囲からの観察——こうした情報が加わって初めて、評価は「根拠のある判断」になる。 三つ目は、「評価の意味が本人に届いているか」だ。評価面談は「結果を伝える場」になっていないか。本来は「期待を伝え、方向性を共有する場」であるはずだ。点数の説明に終始している限り、意味の翻訳は起きない。 この三つは、いずれも制度の改訂では解決できない。評価をどう設計し、どう運用し、どう対話するかという、構造全体の問いだ。そして、この三つが接続されたとき、評価制度は初めて「人材を動かす仕組み」として機能し始める。 評価制度の問題は、制度の中にはない。 どのレイヤーでそれを捉えているか——にある。 ==シリーズ「人事はなぜ機能しないのか」=== (1)評価制度はなぜ納得されないのか (2)優秀な人材ほど辞める会社の構造 (3)キャリア支援が機能しない本当の理由 (4)人事制度が形骸化する瞬間    

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歴史から学ぶ、人事の未来 ―生成AI時代に生き残る人事とは― 第2回|人事が立てるべき問いと担うべき役割

第1回では、武士が新たな道を模索した歴史を手がかりに、人事が直面する変化について考えました。生成AIの普及は、これまで人事を埋め尽くしてきた調整やルーティン作業を軽減しつつあります。そこで人事に広がっているのは、単なる効率化ではなく、役割の再定義による新しい舞台です。本稿では、この舞台に立った人事が立てるべき問いに関して、実践的な視点でお示ししていきます。 ________________________________________ 経営に資する問いを考える 「生成AIがオペレーションの大部分を担いつつある今、人事は何をすべきか」 まずはこの問いを、人事は視座を上げ、経営的な視点から考えることから始めます。 この視点から、求められる人事の重要な役割のひとつとして「人事的アプローチにより企業の競争優位を創り出す」ということが考えられるのではないでしょうか。 競争優位創出の前提として、人材戦略そのものは、経営戦略の一部として設計されるべきものであるため、経営者の責務です。 そこで人事は、経営者が立てた人材戦略を「ストーリーとして紡ぎ、競争優位に寄与する」ことが、担うべき役割と考えることが出来ます。 ________________________________________ 戦略と施策を紡ぐストーリー「人材ポートフォリオロードマップ」 人材戦略をストーリーとして紡ぐためには、人材をどのように定義し、どう動かすかという問いを立てる必要があります。 一般的に「人材ポートフォリオ」は、ある時点における人員構成を示すスナップショットとして示されていますが、それだけでは人材戦略に資するストーリーは見えてきません。 人事が経営に資するために必要なのは、時間軸を取り込み設計される「人材ポートフォリオロードマップ」の考え方です。 ここで人事が立てる問いの例としては、 「短期・中期・長期の時間軸で、人材をどう循環させ、事業を支えるのか」 「競争優位性の観点より、どの能力を内部育成で強化し、どの能力を外部調達で確保するべきか」などです。 この人材ポートフォリオロードマップは時間軸を伴い「採用・育成・配置・評価・報酬・代謝・文化醸成」を一体で設計する体系です。これらを統合して、人材ポートフォリオは経営戦略・人材戦略とストーリーとしてつながり、競争優位を支える基盤となるでしょう。 ________________________________________ 指標で問いを検証する 問いを立てた後には、その正しさを検証するための道具が必要です。 活用すべき指標は数多く存在しますが、一例として以下の指標と算式例があります。 1. 人的資本ROI:{収益-(コスト-人件費)} ÷ 人件費-1(投資効率) 2. 賃金生産性:付加価値 ÷ 総額人件費(人件費総額あたり効率) 3. 労働生産性:付加価値 ÷ 従業員数(人数あたり効率) 4. 単価生産性:付加価値 ÷ 人件費単価(給与水準あたり効率) これらは相互に関連し、企業が人材をどう活用し、どの程度の成果を得ているかを定量的に示します。 例えば、以下のような問いをイメージすると良いでしょう。 「各生産性の推移から、これまでの効率化施策はどのように効いているのか」 「賃上げは、賃金生産性の向上に中期的な視点でどのように影響しているのか」など ただし、指標は答えそのものではありません。問いを検証する道具としての位置づけであり、妥当性判断は人事が担います。そして示唆と提言をもって経営の意思決定につなげる役割へ動くことで、オペレーションを主とする人事からの脱却が見えてきます。 ________________________________________ おわりに 生成AIが人事にもたらしたのは、単なる効率化ではなく、人事の存在意義に対する根源的な問いとも考えられます。 問いを立て、ストーリーを描き、実行・検証し、経営へ提言する。 言うは易いですが、代替可能なオペレーション業務から解き放たれるよう自ら働きかけ、問いの循環にこだわる苦労を乗り越えていただくことを願っています。その先に、人事が真の意味で「経営の重要領域」となり、企業の持続的成長を支える原動力として、一層活躍する未来が訪れることを信じています。 ________________________________________ ※本稿は2回シリーズの第2回です。 「歴史から学ぶ、人事の未来 ―生成AI時代に生き残る人事とは―」コラム2回シリーズ 01.  第1回|維新により侍が立たされた岐路と、人事の現在地  02.  第2回|人事が立てるべき問いと担うべき役割 →今回

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歴史から学ぶ、人事の未来 ―生成AI時代に生き残る人事とは― 第1回|維新により侍が立たされた岐路と、人事の現在地

なぜ歴史を振り返るのか ご存知の通り、生成AIはすでに多くの現場で広がり始めています。 数年前は試験的な利用にとどまっていたものが、今では特にホワイトカラー職種の領域では大きな変革の兆しとなっています。 ただし、技術の浸透により業務の効率化は進みつつありますが、意思決定の仕方や役割の捉え方といった、深い行動様式の抜本的な変容は簡単ではないと思われます。理由は「リスクを取ってまで大きく変える段階ではない」と考える伝統的な日本企業の特性でもある、強い慣性が働くと考えられるからです。 この姿は歴史の一場面において、ある観点によっては重なります。 明治維新のころ、武士は刀という役割の象徴を手放し、新しい役割を模索せざるを得ませんでした。もちろん、明治維新と現代の技術普及は背景も構造も異なる現象です。維新は武士を含む体制内部が急速に制度を転換したものであり、生成AIの普及は人々の選択の積み重ねによる側面が大きいといえます。 それでも「変化に直面したときに人がどう分岐するのか」という観点では、両者に通じるものがあると考えることができます。 私たちは今、第4次産業革命の中核とされる生成AIがキャズムを越えて社会全体に広がろうとする変化の過程にあります。 歴史を振り返る意味は、変化の時代に現れる「人の行動」を知り、自身に引き寄せることにあると考えます。 ________________________________________ 維新に揺れる侍の選択 長きにわたり「治安の維持と戦の担い手」として社会の中心にいた武士は、明治政府の改革によってその基盤を根底から揺さぶられます。廃藩置県(1871年)による藩の解体、秩禄処分(1876年)による家禄の公債化、そして廃刀令(1876年)による帯刀禁止。わずか数年の間に、武士は誇りや役割の象徴を手放し、士族という新たな身分に再編されました。 その後の進路は多様でした。教育や官界で新しい役割を担った士族もいれば、新産業に挑戦した士族、開拓に従事して生活基盤を築いた士族もいました。一方で、新しい役割を見いだせず、生活が安定しなかった士族も少なくありません。つまり、同じ士族であっても、新たな役割を再定義して活躍した者がいれば、移行が難しかった者やリスキリングの努力が十分に実を結ばなかった者もいたと考えられます。 ________________________________________ 人事にとっての「刀」とは何か そこで、現代の人事にとっての刀は何か?と考えてみると、「人的資本経営に基づき、経営と現場をつなぐ象徴」と言いたいところですが、実情は残念ながら「膨大なオペレーション業務」になってしまうかもしれません。求人票の作成や面接調整、研修資料の作成や受講管理、勤怠・就業管理や規程運用、さらに経営層向けの会議資料作成や部門間の調整などに日々追われ、人事自身が選んで刀を振るってきたのではなく、組織から“オペレーション部門”として位置付けられ、意図せず刀を握らされてきた構造がそこにあります。確かにこうした業務は会社運営に欠かせないものですが、日常を埋め尽くすことで、人事が本来向き合うべき課題を後景に追いやってきました。そしてその状況に「仕方がない」とあきらめの声も多く聞きます。 しかし、ここにきて生成AIは、この刀をおろす契機を与えています。かつての士族が刀に代わる役割を模索したように、人事もまた“調整とルーティン”を超えて、本来の使命に立ち返る可能性が拓けています。 ________________________________________ 歴史が投げかける問い 明治の士族の歩みは、時代の変化にどう応えるかという普遍の問いを映し出しています。進路は人によって大きく異なりましたが、その差を生んだのは能力や境遇だけではなく、「変化をどう受け止め、どのような問いを立てたか」にもあったのではないでしょうか。多様な軌跡は、時代が人に迫る問いと、それにどう応えるかの違いを示しています。 現代の人事に対して歴史が映し出すのは、人事がこれからどのように役割を再定義し未来を描いていくか、と考えることも出来るでしょう。 ________________________________________ ※本稿は2回シリーズの第1回です。第2回では生成AI時代に、人事がどのように未来を切り拓くのかを展望していきます。 「歴史から学ぶ、人事の未来 ―生成AI時代に生き残る人事とは―」コラム2回シリーズ 01.  第1回|維新により侍が立たされた岐路と、人事の現在地  →今回 02.  第2回|人事が立てるべき問いと担うべき役割

成長しているのに、なぜ組織は疲れているのか<br />― 成長でも停滞でもない、組織の次の選択肢 | 人事コンサルティング

成長しているのに、なぜ組織は疲れているのか― 成長でも停滞でもない、組織の次の選択肢

売上は伸びている。利益も出ている。それでも、組織の空気はどこか重い。 コンサルタントの視点から現場を見ていると、この違和感を抱くことが多い。 目標は毎年更新され、評価制度も回っている。 けれど、数字が達成されるたびに歓声が上がるわけでもなく、「また一年が始まるのか」 という静かな疲労だけが積み重なっていく。 成長しているはずなのに、なぜ人はこんなにも疲れているのだろう。 背景には、私たちが長く共有してきた「成長し続けることが正しい」という価値観がある。 成長し続けることは良いこと。止まることは衰退。 そう信じる文化の中で、株主は成長を期待し、経営者はそれに応えようとする。 人事もまた、その前提のもとで制度を設計し、組織を回してきた。 誰かが間違っていたわけではない。 それぞれが、自分の立場で誠実だっただけだ。 ただ一つ、見落とされがちな視点がある。 自然界において、「成長し続けるもの」は例外なく不健全だという事実だ。 がん細胞は増殖を止めない。その結果、宿主は死ぬ。 健全な細胞は、成長期を終えると分化し、役割を変え、維持へと向かう。 成長し続けることは、世の摂理ではない。 それにもかかわらず、企業だけが「永遠に成長し続ける存在」であるかのように扱われている。 この無理が、組織をじわじわと疲弊させているのではないだろうか。 ここで考えたいのが、「維持」という言葉の意味だ。 成長しない=何も変えない、と思われがちだが、実際は逆である。 維持するためには、変え続けなければならない。 人は年を取り、役割は変わり、環境も変化する。 仮に事業規模や人数を保とうとしても、中身を更新しなければ、組織は自然に老いていく。 役割が固定されたままの人、形だけ更新される評価制度、惰性で続く会議やプロセス。 一つひとつは小さくても、組織の新陳代謝を確実に鈍らせていく。 成長しないことは、止まることではない。 会社も生き物だ。必要なのは、成長でも停滞でもなく「代謝」ではないだろうか。 代謝とは、拡大することではない。 何かを入れ替え、手放し、役割を変えながら、組織としての輪郭を保ち続けることだ。 人が入れ替わることもある。事業を縮めることもある。経営者がバトンを渡すこともあるかもしれない。 それは冷たい判断ではない。 無理を続けないための、ごく自然な営みである。 人事の役割も、ここで少し変わってくる。 「どう伸ばすか」だけでなく、「どう続けるか」「どう回復させるか」を設計すること。 成長前提の制度を回し続ける苦しさに、言葉を与えること。 そして、役割や期待を定期駅に更新し、組織の代謝が止まらないように支えることだ。 成長そのものを否定したいわけではない。 ただ、「成長し続けなければならない」という呪縛から、一度離れてみてもいいのではないか。そう問いかけたい。 成長しているのに疲れている。 もしそう感じているなら、それは個人の問題ではない。組織が、次の在り方を探し始めているサインだ。 あなたの組織はいま、「もっと大きくなること」と「健やかに回り続けること」。 どちらを本当に求められているだろうか。

「主体性」の神話が終わる | その他

「主体性」の神話が終わる

「君は、本当に主体性がないね。ちょっとは考えたらどうなんだ」。 言い方は別にして、同じようなことを、上司に言われた経験のある方は少なくないだろう。例えば、3日後にあるクライアントとのミーティングに合わせ、提案書を作っているとする。限られた時間や知識・情報などの制約のなかで、クライアントにとって魅力的だと思われるような提案書を作らなければならない。四苦八苦しながらなんとか組み上げられた成果物ではあったが、上司に了承を得るため提示したところ、取り組みのプロセスや姿勢も含め、「主体性が感じられない」という審判のもとに、丸々一蹴されることもある。このような場面に立ち入るたびに、多くの方は疑問を抱くだろう。「主体性って、何?」。 思えば、「主体性」という言葉は、近現代のビジネスシーンを最も呪縛してきた考え方の一つだったのではないだろうか。多くのビジネスパースンが、「主体性がない」と酷評され、チャンスを失ってきた。一方で、「主体性がある」とされた人物ほど評価され、よりよい処遇を得てきた。「主体性」はビジネスパースンの「いろは」の「い」であり、重要な評価軸となっている。 ビジネスにおいて、「主体性」「主体的」という言葉で語られようとしているのは、いったい何なのだろうか。まず、「意欲的」「自発的」「先取的(先取り・先回り)」であるということ。ここは動かない。しかしそれだけではない。「模倣的」ではなく「独自性」があること。これも重要である。冒頭のような上司の言葉は、まずはこのような二つの意味合いを併せ持っていると言える。「自発的に成果を出してきたし、なかなか目新しいことも含まれているね」、ということだ。これが「主体性」のよく知られたイメージであると、ひとまず言ってよいだろう。 しかし、ここで思考を停止するべきではないと思う。仮に部下が自発的に提案書を作り、上司に提示したとする。彼は褒められるだろうか。もし、取り扱っている内容が、組織や上司が求めている「テーマ」や「価値観」に沿わない場合、彼はむしろ叱られる。「忙しい時に、何をしてるんだ。誰がこれをやれと言った?」。細かい上司なら、こう付け加えるだろう。「主体性、主体性って、いつも言っているけれど、主体性って、こういうことじゃないんだよ。的外れでいいわけではない」と。やっていることが仮に積極的で自発的であっても、自分勝手で的外れなものではなく、組織や上司に求められていることを先取りしていなければ、主体的であるとは認められないのである。この場合、主体性とは、伝統的には、「気回り」とか「気配り」と言われている状態に限りなく近づく。 これは参考程度に言っておくが、もともと英語の「subject(主体)」の語源は、「sub+ject」であり、これは「下に置かれたもの」を意味するものである。「主体」とは、もともと「下に置かれたもの」、すなわち「従属」「服従」「隷属」を意味していた。ほとんど一般的な理解とは真逆の意味合いであり、「主体」にはこの両面が含意されている。このような両義的な意味合いは、「主体」という言葉が使われるたびに、その奥底でずっと引き継がれていると言ってよいだろう。先に述べたように、我々は「主体的である」ために、「自発的で独自的である」必要があるわけだが、一方で「適切でまともである」こと、さらには「求められていることに徹底して敏感であり従順である」ことが、暗黙のうちに要請されているのである。 いまや、「主体とは何か」、改めて言い直すべき段階に来た。「主体」とは、「社会や組織から期待されていることを、徹底的に従順に受け止めて、よく咀嚼をして、そんな起源はあたかもなかったかのように、自ら進んで、適切に先取りしてみせること」である。「自ら進んで組織の価値観に徹底的に従順に振舞う」ということを、社会学では「自発的服従」と呼んでいる。 仮に「主体性」ということの正体が、このような「自発的服従」であったとしても、これの何がまずいのか――。実際、「主体性」は、組織の維持・存続のため必要だと私も考える。問題なのは、これが過剰に称揚され、過大評価されることである。 なぜ、組織において、これほどまでに「主体性」が推奨されるのか。それは、メンバーが自発的に組織の価値観を率先して体現してくれると、管理コストが低くなる(めんどくさくなくなる)ためなのではないか。管理コストが低い人材は、組織にとってありがたい。たしかにそういう人材も必要だ。しかし組織のなかでそのような傾向が強まりすぎると、日に日にその傾斜の度合いは強まっていくだろう。組織にとって「主体性がある」とされる人物が評価され、また「主体性がある」ような人物を再生産しようとする。「主体性」とは、組織の目指す価値観が低コストで継承され、実践されるための装置であり、管理体制を安定的に維持するためのマジックワードなのである。そしてこのような安定的で合理的な管理体制の下では、イノベーションの芽は、「組織の価値観に沿わないもの」・「めんどくさいもの」として徹底して摘まれていく運命にある。「求められていることだけ先取りしてやればいい」のであって、「的外れな余計なことをするな」というわけだ。イノベーションとは、管理の裂け目にのみかろうじて発生する奇貨であるから、「主体性」のあるところに「イノベーション」の花が咲くことはない。 日本企業がイノベーションを不得手とし、そのためグローバルな競争に遅れを取ってしまっているのだとすれば、その背景には、「主体性」の神話を重視して、組織の価値観を自発的に先取りして体現してくれる、「低管理コスト人材(=主体的人材)」を重用し、そのような人材を再生産しようとし続けてきたためかもしれない。結論を言うと、「主体」とは、「従順」や「受け身」と共犯関係にあるものと言える。徹底した「従順」と「受け身」の果てにあるのが「主体性」である、と言うべきだ。従前の過大評価をやめ、長年続いたこの神話とは、そろそろ袂を分かつべきときが来ていると思っている。  

2026年4月改正に備える:男女間賃金差異の公表と「不合理な差」の点検 | 人事コンサルティング

2026年4月改正に備える:男女間賃金差異の公表と「不合理な差」の点検

2026年4月1日から、女性活躍推進法に基づく一般事業主行動計画では、常用労働者301人以上の企業は「男女間賃金差異」「女性管理職比率」を含む計4項目以上、101人以上の企業は同2項目を含む計3項目以上の情報公表が義務づけられます。 公表対象企業が拡大することで、「自社の男女間賃金差異や役職別の女性管理職比率はどの程度か」「その差は何によって生じているのか」といった点が、これまで以上に多くの企業にとって身近なテーマになりそうです。 公表義務の狙いは、単に情報を並べることではなく、背景を点検し、不合理な差を減らすための改善につなげることにあるはずです。そのため、「女性労働者に対する職業生活に関する機会の提供」や、「職業生活と家庭生活との両立に資する雇用環境の整備」といった項目もあわせて示す枠組みになっています。※1 なお、女性の活躍推進企業データベースで情報公開している企業は、平均で5項目を公表しており、公表割合が高い項目として「労働者に占める女性労働者の割合(56.2%)」「管理職に占める女性労働者の割合(55.3%)」「採用した労働者に占める女性労働者の割合(53.7%)」が挙げられています。(2024年3月31日時点)※2 さて、男女間賃金差異に目を向けてみると、縮小傾向とされつつ差は残っています。厚労省資料では、男性の所定内給与額を100とした場合、女性は「一般労働者」74.8、「一般労働者のうち正社員・正職員」77.5という値が示されています(令和5年度)。※3 ただし、男女間賃金差異は「数字だけ」で語ると、かえって誤解を生むこともありそうです。平均年齢や勤続年数の違い、職種・等級・役割の偏り、管理職比率、時間外労働の多寡など、複数の要因が重なって差として表れやすいためです。公表を機に「差がある/ない」で終わらせず、どこで差が生じているのかを分解して把握することが重要になります。 なお、賃金構造基本統計調査を用いた要因分析では、男女間賃金格差に影響する要素として、役職、勤続年数、学歴、労働時間、年齢、企業規模、産業の7つが挙げられています。 また、この7つの要素を調整してもなお差が残ることも示されています。※4 ここでいう「不合理な差」とは、たとえば、評価や昇格の基準は同じでも運用にばらつきがある、配置・育成の機会(重要案件、研修、ローテーションなど)に偏りが生じている、あるいは、管理職はフルタイム勤務が前提とされる慣例や、住宅手当・家族手当の支給要件が意図せず影響してしまう可能性がある——といったケースが考えられます。いずれも意図せず起こりやすく、数字だけでは捉えにくい点です。 今回の法改正は、企業にとって負担に感じられる場面もあるかもしれません。一方で、制度と運用のズレや、気づかない前提を見直す機会にもなります。数字の背景を丁寧に確かめ、不合理な差が見られる場合には必要な改善を少しずつ重ねていくことが、社員が納得して働ける環境づくりにつながっていきます。 最後に、最初の一歩としては、次の点から始めるのが取り組みやすいかもしれません。 ①等級・役職、年齢×等級等の男女別人数分布を整理し、構造を把握する。(正社員を対象とした場合)  ②それを手がかりに、昇格・登用の結果と運用(推薦・育成機会)の偏りを点検する。 以上   資料出所: ※1 女性活躍推進法改正リーフレット(001663919.pdf) 規模 改正前 改正後 301人以上 ①男女間賃金差異 ②女性労働者に対する職業生活に関する機会の提供(7項目の内、1項目以上) ③職業生活と家庭生活との両立に資する雇用環境の整備(7項目の内、1項目以上) ①同左 ②同左 ③同左 ④女性管理職比率(追加) 101人以上300人以下 ②③より1項目以上 ①男女間賃金差異(追加) ②③より1項目以上 ④女性管理職比率(追加)   ※2・3 厚生労働省 雇用環境・均等局「雇用の分野における女性活躍推進に関する検討会(第10回)御説明資料(報告書(素案)参考資料)」〔令和6年7月19日〕 ※4 内閣府 男女共同参画局「男女間の賃金格差の要因とその対応等」 (資料:計画実行・監視専門調査会 提出資料「ka7-2」)  「男女間賃金格差の要因とその対応」