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人材開発

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学びのポイント | 人材開発

学びのポイント

 ある企業で技術職として採用された新人のOJTでの話だ。  OJTトレーナーが今週一週間の業務経験からのどのような学びが得られたか、特に重要と思うものは?と聞いたところ「書類を届けるため初めてひとりでA社へ往訪しました。その経験からA社へ行くときは○○駅から歩いて行った方が早いという学びがありました」とのこと。技術職なのにその視点はさすがにおかしいだろう、それに初めてひとりで客先を訪問するという経験からはもっと他に学ぶべきポイントがあっただろうになぜそこなのか、さすがに空いた口が塞がらなかったそうだ。  これは経験からどのような教訓を引き出すか学ぶべきポイントがずれている極端な例だが、往々にして、経験が少ない者ほどそういう傾向がある。物事をとらえるときに思考のバリエーションが少なく近視眼的になりがちなのである。また、新人に限らず、問題の原因を深堀するのが苦手、議論の場でポイントのずれた発言をしてしまうといった人がいるがこれも同じような課題を抱えている可能性が高い。共通する解決策は物事をとらえるときの視点、視野、視座を意識させることである。  視点とは見るべきところのことであり、一度特定の箇所に注目してしまうと他のところに目が行きにくい。この新人のケースであれば、往訪する際にどのような準備をしたか、客先ではどのような会話があったのか、といった他の視点があることを気づかせることだ。  視野は、単に書類をお届けするということだけに限らず、相手企業と当社はどのような関係か、この書類を届けた後の仕事の流れはどうなっているか、など範囲を広げて考えることである。  視座は物事を見る立ち位置のことで、自分以外の立場に立って考えることだ。書類を持たせた先輩社員の立場、書類を受け取った担当者の立場などに立って考えるのである。  物事の視点、視野、視座を変えることで物事の本質が見えやすくなり、学ぶべきポイントが浮かび上がってくる。勘所は自分自身で自分の頭で考えることである。他者から言われたことは情報としてインプットはされるが、学びにはなりにくい。自分で考えてこその学びなのであり、そこに導いていくのが先輩社員の腕のみせどころとなるわけだ。  さて、OJTトレーナーを唖然とさせたこの新人、現在は中堅社員となり自身もOJTトレーナーとして新人の育成にあたっている。当時の話をしたところ、「いやー、あれは往訪時間ギリギリになってしまったので先輩に聞いたら○○駅から歩いた方が早いと言われまして、それからは都内で効率よく移動するためには往訪先の最寄駅の情報だけじゃなく、地図上での位置も把握しておかないといけないなと思い、都内の鉄道・地下鉄の駅・路線の位置関係を覚えたのですが、今でも結構役に立ってますよ。」とのこと。本人に聞いてみれば思いのほか自分なりに考えていたようではあった。

経験者採用に即戦力を期待しない | 人材開発

経験者採用に即戦力を期待しない

 昔は35歳を過ぎると転職は無理と言われたものだった。しかし今や35歳以上の転職は全転職者の過半数を占める(2019年「労働力調査」)。倒産などの外的理由だけではなく、よりよい条件を求めての転職が増えているという。経験を積んだ専門性の高い業務や役職者といったベテラン勢が、さらなる活躍を求めて転職するキャリア採用・経験者採用が増えていると思われる。  経験者採用が増える一方で、「凄い経歴の方が採用できたが、数カ月で辞めてしまった」というミスマッチ・早期離職の話もよく聞く。筆者自身、30歳を過ぎてから3回転職をしたが、1社は半年で退職した。苦い経験だった。どうすればミスマッチ・早期離職を防ぎ、経験者採用の活躍を促せるだろうか。  ミスマッチを防ぐために、入社前の情報開示や何の仕事を担当してもらうのかのすり合わせの重要性はよく語られている。しかし、事前に伝えることには限界があるので、むしろ入社後の対応の方が決定的だろう。入社後の対応のポイントとして、私は「即戦力を期待しないこと」「ビジョンをすり合わせること」の重要性を挙げたい。  経験や知識が重視される経験者採用において即戦力を期待しないのはおかしいと思われるだろうか。実際、私も「入社後3カ月のハネムーン期間に、目立つ成果が出せると良いね」というアドバイスを受けたことがある。  しかし、本来、経験や知識があるということと、それを業務で発揮できるというのは別の話だ。新しい会社のシステムの使い勝手や、使えるリソースなどの制約は入ってみないと分からない。経営者から「これまでの経験を生かしてぜひわが社を変革してほしい」と口説かれても、現場のメンバーからは冷ややかな視線。意思決定の流儀などの「仕事の仕方」も学ばないといけない。能力発揮以前に乗り越えるべきことが多々存在するのだ。  であれば、いっそ入社後しばらくは、「成果は出さなくてよし」と宣言して、能力発揮のための環境整備と適応に専念する期間としてはどうだろうか。これが「即戦力を期待しないこと」の意味だ。  その代わりに、この期間にはこまめに上長とミーティングを持ち、ビジョンをすり合わせることに時間を使うべきだ。会社の現場を知った上で、改めて自分は何ができるのか、会社は何を期待するのかを話し合う。今の業績を上げることだけでなく、中長期的な会社の成長のために共に考える。転職者からすれば、そのように自分の経験や知見を聞いてもらえることは、入社してよかったという思いにもつながる。  役職者として転職し活躍されている方に話を伺うと、3年、5年というスパンで成し遂げたいことの計画を描いている。また上司と中長期的なビジョンを話し合っている。いずれも「即」ではないのだ。経験者採用に「即戦力」という呪いをかけるのは、もうやめよう。

ハラスメント研修の常識を疑う | 人材開発

ハラスメント研修の常識を疑う

 ハラスメント研修でこんなことを聞いたことはないでしょうか? ・ハラスメントでは「グレーゾーン」の判断が難しい ・ハラスメントは職場のコニュニケーションをよくすれば防止できる  もちろんその通りですし、筆者も研修の場で同じように申し上げることもあります。しかし、職場でハラスメント問題の実務を数多く扱った経験から考えると、「グレー」というのはちょっと違うんじゃないか?と思えます。また「コミュニケーションの問題」と言いますが、職場のトラブルのほとんどは人間関係の問題で、人間関係の問題は、全てコミュニケーション問題であるのです。 「グレーゾーン」「コミュニケーションの問題」という陳腐な決まり文句(クリシェ cliché)で思考停止してしまっては、職場での真の問題解決には至りません。もう少し深く考えてみる必要がありそうです。 ●グレーゾーン? 「彼/彼女のあの行為ってどうなの?」「うーん、グレーだよね〜」 「これっていかがなものかな...」と感じたらそれはやめてもらうべき行為です。ハラスメントに当たるのか当たらないのかの二者択一、白か黒かという判断基準は訴訟や裁判でのことでしょう。私たちの職場は法廷でも裁判所でもありません。皆が安心して力一杯働くことができる、そんな職場を作るためには、いかがなものかな?と思われる行為であったら、ハラスメントであるとかないとかよりも「今後はやめておきましょう」と判断すべきです。 「それこそまさに『グレー』なのでは?」と思われましたか?違います。職場で「いかがなものか?」「今後はやめておきましょう」という行為は、実は、アウト・ブラックなのです。ただ、処分を行わない、軽い注意に留めるという外観がグレーであるという印象を与えているに過ぎません。 グレーはグレー、ホワイトではないのです。 ●ハラスメントはコミュニケーションの問題? 「コミュニケーションが良くなればハラスメントはなくなります!」と研修講師がドヤ顔して言ったとしてもそれで問題が解決するわけではありません。 誰と誰の間で、どのようなコミュニケーションを、何のために行うのか。そして、そのコミュニケーションの背景にどのようなマインドを持ったらいいのかを、腹落ちするレベルで理解することが必要です。  もちろん、ハラスメントにならないための、NG言動や行為を知る必要はあります。「敬語を使いましょう」「あだ名はやめましょう」「男性にも女性にも皆お互いに『さん』づけで呼び合いましょう」「下の名前で呼ぶのはやめましょう」そんな「べし・べからず集」を参考にすることは無駄ではありませんが、本質的ではありません。では何が本質なのか?  それは自分の価値観や意見と違う相手やその行動に対して「敬意」を持つことです。その相手の「人としての存在を認める」ということです。これは筆者が14年間働いた任天堂で当時の社長であった故岩田聡氏から学んだことです。敬意を持つということは、ご自身の考え方や価値観を変える/改めるということでもなければ、相手に譲歩する、妥協する、ということでもありません。自分と違う価値観や意見を持つ人たちの存在を認めるということ。自分と違う価値観や意見を持つからこそ、自分にはできないこともできてしまう能力がその人にはある。そんな能力を集めて、一緒に働くことこそが組織/会社で働くことの意味であって醍醐味であるのだと。それが岩田さんの教えでした。  ハラスメント研修から発展して、職場でのコミュニケーションを深く考えてみることは、とても有意義だと思います。

業務指示の極意 | 人材開発

業務指示の極意

 部下に業務を分担しアウトプットを出させる。期待通りの品質の成果を適正な時間で出させるためには、的確な業務指示が必要である。そのポイントは、単に、正しい業務の進め方や技法を教えるということではない。いちばん大事なことは、「業務の目的」を伝えることだ。その業務は、なんのためにあるか、を理解させる。目の前の小さな業務が、組織として何につながるか。ひいては、会社にとってどんな意味があるか、をわからせる。  目的(=purpose)とは、「意味」や「意義」である。その具体的な成果指標が、目標(=objective)である。それらを伝えたうえで、あとは、有名なSL理論(=Situational Leadership)を思い出して、部下の経験や能力レベルに合わせて、概要指示から詳細指示の幅のなかで的確な説明を行えばいい。業務遂行では、不測の事態も起こるかもしれないが、「意味」が分かっていれば、ある程度の応用もできるし、何をやるべきか、何をやってはいけないかも想像がつくものである。  個別業務指示の集積であるOJTは、もっとも有効な人材育成手法である反面、その属人性が課題とされる。つまり、上司である管理職者によって、教える内容が異なるということだ。業務の方法や技術が人によって異なる点は、階層別の必要技能を組織として整理し可視化し共有することやOff-JTを組み合わせることで解消できる。 階層別研修のようなOff-JTではなく、もっと短サイクルでOJTを補完する研修、かつて小池和夫さんが造語した「ショート・インサーティッドOff-JT」によって、経験を裏付け、技能を体系化するといったやり方である。  問題なのは、目的、つまり意味付け自体が上司によって異なってしまうことのほうである。そうならないためには、企業目的から各組織目的への展開が、管理職者のなかで胎落ちしていなければならない。その意味でのリーダーシップの連鎖がなされるような、管理職層育成が恒常的になされていることが、的確な業務指示の前提になるのだ。  さらに、人材育成の最前線である業務指示には、実はもう一つの意味付けが不可欠である。業務を行う部下本人にとっての「意味」である。会社や経営にとっての意味や意義を意識できたとしても、最終的には、自分のためになるという動機付けがなければ、人は未知なるものに挑戦的に臨めない。自分にとっての意味を自覚したとき人は変わる。かならず、その業務をいま自分が経験することが次の成長へのステップであり、将来のキャリアにいかにつながるか、をわからせなければならないのである。  それがなされるためには、やはり、管理職者自身が自身の経験を踏まえたキャリアの意味付けができていなければならないし、自社が求める人材像や人材育成の方針と仕組みを理解していなければならない。結局のところ、業務指示に始まる人材育成では「会社にとって」と「自分にとって」のふたつの意味を語ることが方法論としての大原則であり、そのためにはまず、管理職者自身に対する意識付けが徹底される必要があるということだ。  ゆえに、初級管理職者に対する「業務指示/OJTスキル研修」とは、部下に対する業務指示の要諦である意味付けを方法として学ぶとともに、「意味を語りうるマネジャー」育成こそを、ヒドゥンアジェンダとしているのである。

学習する社会 | 人材開発

学習する社会

 先日、家に来た水道屋さんがレバー式の水道の蛇口を見て言った。「これは、変えたほうがいいですね、古いし、第一、危険ですから」。古い、は分かるが、危険とはなんだ? 聞いてみたら、我が家のレバーは、下に押すと水が出るからダメなのだ、という。「これは、阪神淡路大震災以前の仕様です。震災以降はすべての製品が仕様変更し、レバーを上げると水がでるようになってますから」。  なるほど。災害時に物が落ちてきて、水道の蛇口をあけてしまうから、下方開放のレバーでは、水びたしになってしまう。さらに、湯沸器が点いていれば、点火し、火事を引き起こすかもしれない、ということだ。調べてみたら、この一斉仕様変更は震災だけの理由ではないようだが、震災経験が影響していることは確からしい。震災というとてつもない事態を契機に、産業社会は学習し、地道な改善を行っていると知らされた。おそらくそこには、各器具メーカーの技術者たちの自発的で迅速な対応があったのだろう。  阪神淡路大震災はまた、ボランティア活動というものが自然発生的に一気に広がり、そうした活動が市民権を得た契機でもあった。1995年1月17日の震災発生以降、多くの人が、「居てもたってもいられない」思いに駆られ、できることを探し、考え、行動した。会社に勤めている人たちも、休暇をとったり、週末をつかったりして、それぞれの活動を行った。  当時私がいた会社でもこんなことがあった。震災直後、家でテレビのニュースを見ていたら、同僚の一人が被災地の真ん中でパソコン通信につないだPCを見ながら、周りの人たちと叫ぶように話している絵が映った。もう現地入りして、活動している。ううむ、さすがに素早い、と思って会社に行くと、今度は別の同僚がケンカ腰で電話をかけている。  何のツテもない某大手コンピュータ会社にいきなり電話をして、パソコン100台が必要なので、無償で供出せよ、と談判しているのだった。彼も現地でボランティア活動をしていて、そこで使いたいので、「企業として当然のことだ、100台直ちに送れ。もちろん、一切の経費負担で」とほとんど脅迫的に迫っていた。そしてその会社は、100台の供出をのんだ。ううむ、決断したそのコンピュータ会社もさることながら、さすが、わが社の同僚であるな、と感じ入ったものである。  と、こんなようなことが、たくさんの会社のなかで起こっていた。当時、ある経済団体から委託され、たくさんの会員企業の会社員たち向けの情報誌(いわば、“日本株式会社の社内報”)を出していたので、その読者たちにアンケートをとったところ、さまざまな会社員たちが、それぞれに自分たちで、あるいは自社を巻き込んで行った行動報告や、これからやると決めている計画が大量に寄せられ、その大きなうねりを知った。  こうした会社員のたくさんの行動を経て、その後、多くの会社で「ボランティア休暇」が制度化された。また、一方では、ともすればやみくもであったり迷惑だったりもするボランティア活動が批判的反省的に議論され、ボランティアのあるべき行動のルールが定まっていき、ボランティア活動というものに一定のカタチができたのだった。  ゆえにこの年はボランティア元年とも呼ばれる。震災という不測の大惨事を契機に、産業社会の枠を超えて市民社会としての学習がされたといってよいだろう。  震災の2年前に出版された岩波新書「ボランティア」で、著者の金子郁容さんは、ボランティア活動が市場や経済とはべつのもう一つの情報ネットワーク社会を誕生させるのでは、と書いた。ボランタリーな意思に発する活動だからこそ、非市場的な新しい相互関係がそこに生まれるという仮説もまた、震災後の「何か役立ちたい」というたくさんの意志の自然発生的な噴出とその活動の試行錯誤により、一気に検証されたのだった。  学習する社会は、いつだって、こうしたひとりひとりのWILL(=何とかしたいという強い意志)の表明に始まるのに違いない。そしてきっと、「学習」という行為もまた。

惨劇のプレゼン | 人材開発

惨劇のプレゼン

 社会に出てからやってきた仕事は、分野は異なるものの、いずれも顧客に企画提案して受注を獲得するというタイプだった。ゆえに、数えきれないほどのプレゼンテーションの場に身を置いてきた。何回かは、会心の成功を収めたことはあるものの、その何倍もの失敗があり、なかでも惨憺たる状況として今も忘れられないいくつかの事件がある。  まずは、あまりにもばかばかしいミスである社名の間違い。社長以下役員が揃うプレゼンの場で、配られた分厚い提案書の表紙を見たとたんに社長が席を立ち役員を引き連れ、なにも言わずに部屋を出ていったのだった。一瞬呆然としつつ、瞬時に悟り顔面蒼白の企画担当者。その後の顧客側担当者を含む提案チームがどのような惨劇となったかはいうまでもない。  あるビール会社の社長に向けたプレゼンでは、プレゼンターがきわめつけの失言をした。出たばかりの、同社肝いりの新製品を「~~~といったキワモノを出されて、、、」と口にすると、間髪をいれず社長は席をけって仁王立ちになると「失敬な! 出ていけ」と怒鳴ったのだった。当然その商談はなくなったが、直後に社長室に駆けつけ責任者として謝罪すると社長は、ふだんと変わらぬ調子で「立場上ああせざるを得ないだろ」とにやりと笑った。ああこの社長と仕事がしたい、と必死の思いで次の提案機会をなんとか得て、翌年は契約を得ることができたという後日談も忘れ難い。  とても現実とは思えない出来事もあった。成功者として名高い創業社長の二代目、代替わりしたばかりのまだ30歳代の若社長に向けての提案だった。プレゼンターが実直かつ口下手な男であったことも災いし、冗長な説明を聞かされている社長は、つまらなそうにぺらぺらと手元の提案書を先のほうまでめくっている。その光景にさらに焦り、説明自体がしどろもどろになっていく中で、なぜか社長は、提案書のステープルを外し、バラし始めたのだった。  と、そのバラされた提案書の一枚を熱心に折り始める。プレゼンターの悲壮な声がむなしく響く。しばらくして出来上がった紙飛行機を、社長はまったく無表情のままで、我々に向かって静かに投じたのである。かくて、ゆらりゆらりとプレゼン会場を蛇行して飛ぶ紙飛行機の光景は、当時の同僚たちの間でいまも語り継がれるシュールな伝説となった。  といった様々な惨劇がプレゼンテーションという儀式には生まれる。しかし、いちばんつらいのは、こうした、分かりやすい外形的なダメージではない。最大級の惨状は、内容的に切り捨てられることである。ともすればわかりにくくてその場にいる人たち全員は気づかないこともあるが、当人同士では勝負がついている。つまり、提案者が負けている。  例えばこんなことがあった。 企画提案というものは、一言でいえば、ニーズやゴールを実現するソリューションの妥当性と差別性を主張するものだが、そのポイントの一つは、前提となるニーズやゴールの設定。そこは「仮説」であるが、その仮説をどう組むかが勝負どころになる。的確な仮説とそのためのソリューションが合理的に整合し、かつ魅力的であることが勝てる提案の条件ということだ。  プレゼン後7人の評定者からそれぞれに質問があり、大過なく進んでいたなかで、それまで興味なさげにしていた責任者と思しき人物は、ただ一点、仮説そのものの妥当性に疑義を表明したのだった。ときに、ソリューションの魅力や差別性を強調したいがために、ニーズやゴールのレベルを少しだけ高く仮説することがある。この提案もそうで、そこだけを彼は突いてきたのだった。  じーっとこちらを見つめ、馬鹿にした嗤いを口元に浮かべた彼は「仮説が違えば、あとは瓦解しちゃうよねぇ」と言った。

次期役員育成の方法 | 人材開発

次期役員育成の方法

 役員の選抜方法の見直しや役員の育成のしかたが人事施策として多くの会社で議論されるようになったのは、つい最近、この3~4年くらいのことではないか。それまで役員育成というテーマは、人事部門の担当外であって、制度化されない経営マター、人事管理上のブラックボックスだったからである。  「本当は、まず役員教育から始めないといけないのだけどね、、、」といった言葉は、それができないもどかしさをにじませた人事担当の方々から、しばしば聞かされたものである。役員昇格基準も明確でなく、経営陣の衆目の一致する「役員にふさわしい」人材が上級管理職の中から任命されるのがふつうであり、ともすれば、管理職としての「あがり」処遇の気配がある場合もあった。  結果、「職能の頂点」としての力量はあるが、「経営者」としてはものたりない、営業や技術といった職種一筋で役員になった経営陣では経営会議が成立しない、つまり経営リテラシーが足りない。とくに、経営環境変化の中で、戦略の立案と実行こそが経営リーダーの役割であるのに、その任が果たせない。こうした反省と危機感が、近年の役員育成施策見直しトレンドの背景にある。  役員の見極めと育成といえば、候補者を見極める手法をどうするか、必要な経営リテラシーや経営力をどう育成するか、を方法論化することだが、最も重要なのは、その前提=自社のあるべき役員の要件とはなにか、を可視化することである。  そもそも役員要件は明確ではない。人事制度で規定する人材定義には役員は含まれないし、別に役員の人材基準が言語化されていることも少ないから、そこを明確化しなければ、見極めのための基準も、育成施策により埋めるべきギャップを図る基準もありえない。要件として定めていなくても、事業特性や企業風土、経営方針を踏まえて、どの会社にもきっと経営陣の暗黙知として共有された基準があるはずで、それを言語化すればいい。  具体的には社長以下経営陣の方々から、インタビューやセッションを通じて、「あるべき役員の要件」をスキルや行動や経験や姿勢等々の視点で仮設し抽出し整理し、新たに設計することである。その際にいちばん大事なことは、その要件は、「現状視点」ではなく「未来視点」であることだ。今後10年間の経営をリードするリーダーの要件は、いままでの要件とは異なるはずだからである。  ちょうど5年前、ある会社で要請された役員育成施策は、そうしたリアルな事情がきわめてはっきりしていた。その会社は、ある業界で長年トップの座であったが、数年前に2位に転落し現在にいたる。その状況を脱しなければならない状況下の役員育成。つまり、業界1位を維持し続ける経営と、1位の座を奪還する経営では、そのリーダーの要件は異なるから、それに合わせて役員の選抜育成施策を一新せねばならないということだった。  問われているのは「今まで」ではなく、「これからの」要件である。次期役員の選定は、過去の成功体験やいま確信している自身の見解から「あいつは、次の役員の器だ」と自信をもって語る現状の役員たちの判断だけに任せるわけにはいかないのである。

次世代リーダー | 人材開発

次世代リーダー

 “次世代リーダー”という言葉を意識している企業には、様々な背景があるのだろう。 以前の経営環境が大きく変化して、新しい発想や管理手法で経営をリードしなくてはならない企業などでは“次世代”という言葉はよく理解できる。技術の進化により以前のビジネスモデルが通用しなくなるような業界などでよく見られる。近年ではネットの発達によって、流通や広告などのビジネスモデルが大きく変化したが、これを牽引している人材の多くは旧環境の人材ではない。旧モデル化の人材と新モデル化の人材の別な層があるために、新たな層の中でリーダー育成が必要となり、それを急ぐために次世代リーダーの選抜と育成が必要となるのだ。  上記のような“真性”の次世代リーダーは、市場や業界の大きな変革期における重要で適正な経営課題である。しかし最近の“次世代リーダー”の議論はこのような真性のものだけでなく、不純、不適正なものが混じっているように感じることがある。それは、現在の管理職社員が十分なパフォーマンスを出しておらず、役員候補もいないために、その下の層に期待するというものである。要は今の管理職社員では不十分であり、主力の管理職としても、ましてや経営者として期待しないと言っているようなものである。このようなタイプの企業は、社員の年齢構成が歪であることが共通してみられる現象だ。中長期にわたる人材管理がうまく機能していないことが、“次世代リーダー”という言葉に置き換えられているともいえる。  企業の安定した継続性は、人事的に言えば必要人材を持続的に提供することといえる。正社員一人採用すると大卒であれば38年間(プラス再雇用5年間)の拘束がある。特に企業のコアスキルや文化を継承する総合職社員などは短期の業績で採用の増減など行ってはならない。また業績によって育成施策も影響してはならない。こうなると必要な人材を持続的に提供できないからである。短期的な業績コントロールと中長期の経営の持続性を混同しているともいえる。  業績の良い特に大量の新卒採用を行い、悪くなるとストップする。業績の良い時には教育をするが、悪い時にはしない。このような施策は企業の持続性がないばかりか、社員に対して雇用責任を果たしていないとも解釈されてしまう。長年間育成施策を講じてこなかった今の大量の中高年社員からは優秀な経営者や管理職が多くは出現しないと予測し“次世代”に期待をすることが、強い違和感をもたせるのである。  悪くとらえると中長期の雇用責任を特定の世代に果たしていない上に、これからも継続的な育成を行わないと解釈もできる。本来は常に企業の文化やコアスキルを継承し、優秀な人材を多く出現させることが重要であるが、今いないから特別な施策で育成するという感覚が、人事マネジメント的には短期的視点に偏っているように感じる。  “次世代リーダー”育成を否定しているのではないが、これは環境の激変などを除いては、継続的恒常的施策であり、単に通常の教育研修の一部であるという認識が必要ではないだろうか。

スキルの実装 | 人材開発

スキルの実装

 企業の研修・トレーニングの中には教育効果が十分ではないものが多いのではないかと疑っている。研修・トレーニングは企業の方針や経営計画達成に必要な知識、スキル、マインドを実装させるために行う。企業がコストをかけて行うものであるので、当然経営として何らかの成果にプラスの効果があるものでなくてはならない。実施後に教育した知識、スキル、マインドのレベルが向上し、それが業務に生かされ、成果の向上とならなくてはならない。そうなると研修・トレーニングの項目や内容が真に重要な経営ニーズであり、かつ社員に不足していることが前提だ。要は教育ニーズが経営の求めるニーズであり、またそれが不足していることが明確であって、はじめて効果が出るのだ。そうなると経営が求める人材像からキーとなる知識、スキル、マインドを把握することと同時に社員のレベルを正確に測定する必要がある。  ニーズが特定されると、それを身に付けさせるための研修・トレーニングを企画、実施することになる。実際に行われている研修・トレーニングは総じて時間、コストの投下が少なすぎると感じる。営利企業が時間とコストをかけて実施するのであるから、できるだけ効率的効果的に行いたいという背景があり、そのため業務をせず研修・トレーニングを長期間受けさせることが困難であるので、どうしても短期間になってしまいがちである。  極めて重要であるのは、研修・トレーニングが目的的かということである。具体的な知識、スキル、マインドの向上なくして、経営方針、計画達成が困難であれば、必要な教育への投下は当然である。またその教育方法も参加する社員の大半が確実に向上するものでなくてはならない。適度な投下と効果的な手法があって初めて効果が見込めるのだ。  例えば“部門計画立案”、“論理的思考”、“プレゼンテーション”などの具体的な研修・トレーニングで、参加者の多くに実装することを保証するためには、一つ一つの項目に対する時間投下は相当なものであろう。プレゼンテーションスキルの向上を実務で役立たせるレベルで教育しようとすると、少なくとも何度も何度もプレゼンのシミュレーションを行い、個別に指導し、職場に持ち帰り実務で使い、更にフォローアップし、必要であれば再度教育するくらいしなければ、スキルの実装にならない。“訓練”が必要なのだ。そうなると研修・トレーニングの考え方もだいぶ変わるだろう。すでに目標のレベルに達した社員には教育投資はいらなくなる。十分なレベルに達していない社員には継続して教育が必要であり、社員ごとに教育投下が異なることになる。  プレゼンスキルが対象者全員に対する一日か二日の集合研修で、経営に影響を与えるくらいの効果が出るのであろうか。多くの研修は投下に対する効果を自信を持って言えないため、中途半端になっていないだろうか。そのため参加者全員のスキルアップを保証するための必要投下を説得する力がなく、結果短期間で形式的、啓発的なものになっているようにも感じる。  企業に必要な知識、スキル、マインドを身に付けさせるための計画やその教育方法はもっと、分析的であり目的的でなくてはならないし、どうも全員一律に集合研修という発想も当てはまらない。やらないよりマシである教育ではなく、確実に経営貢献する施策でなければならない。業績が低下するとやめてしまう教育は本当に必要だったのか。教育の存在意義が問われ続けており、それを証明しなくてはならないタイミングなのである。

階層別研修の復権 | 人材開発

階層別研修の復権

 ときに、「社長塾」といった選抜育成施策がある。その多くは、次期経営人材の育成を目指し、管理職層からの選抜メンバーを社長自らが鍛えるといったしつらえだ。その背景には、現状の管理職スキルレベルに対する社長の不満と危機感があり、その事態を招いたであろう従来の管理職教育や人事部任せの階層別研修への不信がうかがえる。  教育研修がかつて作られたしくみのままで行事的な運用をされてきたとすれば、その社長の想いも当然だが、だからといって、選抜育成施策だけが解決策ではないだろう。「社長塾」そのものは有効で成功例も多いが、中長期的な管理職育成の仕組みとして階層別教育がベースとして機能していなければ、短期的対症療法的施策にとどまらざるを得ない。いま目につく限りの予備軍たちをなんとか経営人材に育てたとしても、そのあとが続かないからだ。  やるべきことは、経営人材予備軍を一定数輩出すべく階層別研修を刷新することではないか。それには、二つのポイントがある。まず、最初に行うことは、「あるべき論にもとづく一律教育」からの脱却である。昇格後研修(=新任管理職研修など)は、あるべき知識・スキルのインプットだが、当該階層の既任者に対しては、現状のスキル課題に応じた育成施策を組むことこそが実践につながる教育である。  たとえば、課長たちのスキル課題には、共通するものと個別的なものがある。そうした課題の状況を可視化し、「育成が必要な対象者」に、「必要なスキル教育」を、「適正な方法」でおこなうということである。必要なスキル教育とは、「コーチングが注目されているから、今年の課長研修はコーチングスキルを」などといった行事的運用ではなく、「課長の課題は、部下育成、とくに業務指示スキルと権限委譲」と把握しての研修設計である。適正な方法とは、共通するスキル課題なら集合研修だし、特定対象者ならコーチング、あるいは評価運用に組み込むか、といった使い分けである。  現状課題対応だから、既任者研修は、テーマも方法も一律ではなくかつ年次で変わっていく。つまり、期首に階層ごとにスキルギャップ(=必要なスキルに対する現従事者のスキル過不足)を測定し、状況を可視化し、期中の教育施策をくむことが階層別教育にまず埋め込むべきしくみとなる。  もう一つのポイントは、昇格前教育の連鎖として階層別研修を設計することである。たとえば既任課長研修であれば、スキルギャップ把握のために基準とするスキル要件を、いま発揮すべき課長スキルではなく、近い将来担う部長の必要なスキルとする。あるいは、一定年数を経た課長既任者には、部長で必要なスキルを先行教育するといった具合に、上位階層の要件をもって、教育施策をする。それを階層連鎖的に設計するのである。  管理職手前の階層では、管理職先行教育をしながら、その適性も見極めるといった施策は増えている。たとえば、通常は管理職昇格審査でなされるセンター方式アセスメントを管理職前等級への昇格後に行って、「管理職としてのスキル課題」を本人、上司ともに把握し、以降、業務遂行のなかで、管理職としての先行ブラッシュアップを自己啓発し指導されるような施策が、管理職昇格者の質と量の向上に資することはあきらかだろう。  こうした「昇格レディネス」の醸成を旨として、全階層の教育施策に組まれることが、経営人材予備軍輩出につながるベースとなるはずである。

後期高齢者のコンピテンシー | 人材開発

後期高齢者のコンピテンシー

 ある会社の「快挙」について書きたい。  先端技術領域を舞台に俊敏でフットワークよい事業展開で好業績を続けているその会社は、創業2代目社長が率いている。高い専門性を保持し、少数精鋭で迅速なビジネス展開を行ううえでは、自社独自の人事制度であるべきとの想いから、みずから制度設計の陣頭に立ち3年をかけて慎重な新制度導入を行ってきた。その要となるコンピテンシーの設計と検証には、全マネジャーを巻き込んで多大な時間をかけ、何度も試行し、このほど完成を見た。  そのようにつくられたから、自社固有のスペシャリティとマネジメントレベルを測るこのモノサシは、マネジャーたちが部下を測定し処遇し育成する道具としてしっかり定着していて、機会あって彼らとの宴席に連なった際に、呑みながらのくだけた会話のなかでもごくごく自然に「コンピテンシーベースの育成」が話される情景を目の当たりにしたものだった。  社内と事業パートナーに向けた今期の方針発表の場で、社長はこんなことを報告した。この会社は、専門性が極めて高い先端技術の最前線でビジネスするから、分化された領域にあわせたくさんの顧問を有している。顧問としてそれぞれの方と長い付き合いではあるが、その中の2人をこのほど社員として登用した、というのだ。一人は、72歳。もう一人は、84歳。3年契約ということなので、後者は87歳までの雇用である。  多くの企業が、60歳以降65歳までのシニア人材再雇用の方針と仕組みづくりに右往左往しているなかで、いきなり超シニアの雇用である。「労働法の範囲を超えているので、どんな契約にするか分からなくて、、、、とりあえず、パソコンとiPhoneと名刺を渡しました」と社長は笑った。  かなりの高齢者を採用する英断もさることながら、刮目するのは、冒頭にあげたような、社員のコンピテンシーを厳しく問い処遇し育成することに執念を燃やすこの会社が、この年齢の人物を採用したという事実。つまり、このお二人のコンピテンシーは、組織の構成員として必要なレベルだと判断したということだ。それが、高度に専門的で特殊な領域こその知見やスキルや人脈だから、年齢を超えて活用できるということかもしれないが、だとしてもここには、高齢=能力劣化=組織貢献不能、といった「常識」をひっくり返す痛快さがある。  そういえば以前、外資系のコンサルティング会社にいたときに、70歳代後半の営業マンを雇用していたことがある。経験した会社と立場で培われたせいか上品な営業スタイルが魅力的で、成約力も優れ、高いパフォーマンスをあげていた。年齢によらず劣化しないコンピテンシー、さらには、高年齢だからこそ高まるコンピテンシーもあるかもしれない。その追究もまた、各社各様の課題となっている雇用延長=シニア活用に必要なのではないか。  この会社には、ぜひ、雇用契約を更改していただき、90歳を超える社員の雇用への挑戦も見せてもらいたいと思う。

選抜育成の光と影 | 人材開発

選抜育成の光と影

 選抜されなかった人材のモチベーションダウンが心配だ。選抜育成プログラムをやるかどうかの逡巡として、かつてはよくこうした声を聞いた。一方的に選抜され、閉鎖的に運用されれば、そうした事態も確かにありうるだろうが、自発性をベースとしたノミネーションプロセスを念入りに組み、プログラムの主旨と受講機会を周知し、恒常的な教育施策としてしつらえれば、その危惧はあたらない。かくて多くの会社で、管理職や管理職前の層からの選抜者教育がなされるようになった。  選抜するということ自体はもはや問題にはならない。しかし、選抜者への育成方法にはまだまだ問題がある。たとえば、こうした育成プログラムは、やりよういかんによって、まったく正反対の結果になることがあるからだ。受講した優秀な人材が、さらに自己成長し会社のなかで成果を出していきたいと動機づけられたか、研修の徒労感と会社への諦観すらある冷めた心理状態となったか、という違い。つまり、受講後、エンゲイジされるか、されないか、という全く逆の結果である。  それを分けるのは、研修コンテンツの良し悪しだけではない。選抜プログラムにかける経営の意思や想い、つまり、人材育成の本気度が受講生や従業員たちに伝わるかどうかに大きく影響される。  選抜育成プログラムは6か月間で月一回づつの連続研修といった形式が多い。たいていは、経営リテラシーの先行教育で、毎回の学習を経て、最終日に経営陣に対してプレゼンテーションを行う。次期リーダー予備軍として育成しながら見極めるべく、研修だけではなくアセスメント的アプローチも加え、何らかの成績管理をする。各研修の事前事後に課題を課すなど負荷をかけるのも常套的だ。さて、こうしたプログラムをどう運用するか。  ある会社では、受講生をグループに分けグループごとに2人づつ役員をメンターとしてつけた。彼らは、時々は研修をオブザーブし、場合によっては担当グループのディスカッションに介入したり、全体に対してコメントしたりした。加えて、担当グループのメンバー個々人の事後課題評価を行う。つまり、採点してフィードバックコメントを書く。受講生の側からいえば、講師以外に2人のメンター役員のコメントを受け取る。最終のプレゼンのための施策立案の相談にものり、最終日は社長以下役員全員が各発表に対してコメントし、また役員同士で議論がおこり、長い時間を費やした。  ある会社では、初日に社長のメッセージがあるはずが、来れずに2回目の研修で、来れなかった弁解とともに挨拶された。その後、人事部主催者と担当講師により粛々と研修が進んだが、欠席者の多さが問題になり、事後課題の提出が遅れがちだった。最終日のプレゼンテーションには、社長以下全役員が参加したが、社長だけが短いコメントをするだけで、予定より早く終了した。優れた提案に対しては、プロジェクト化して推進することになっており、優秀施策案が1つ選ばれた。当該の受講生は研修以降熱心にプロジェクト遂行に臨んだが、盛り上がらずに立ち消えになった。  この2社の研修プログラム自体はよく似ていて、受講生の負荷も同様に高いものだった。業務繁忙のため、どちらも研修は土曜日に行われた。経営陣の参画度合いだけが異なっていたのである。  両極端な例をあげた。前者の場合、経営陣の負荷は半端なく高かったから、ここまでの参画はなかなかできない。通常は、この両者間の距離のどこかに、「経営陣参画度合」があるのだろう。ただ、どの程度までかかわるかという姿勢は、そのまま、次期リーダー育成への経営者の本気度を示してしまうと覚悟すべきだろう。