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目標と投下 | その他

目標と投下

 多くの企業で目標管理について基本的な間違えがあると感じる。それは“目標”と“投下”という点である。  社員個人の目標は、各人のミッションに合わせていくつかの目標を設定することになる。例えば“個人の売上目標5億円”と同時に“部内の営業成績管理の精度を向上する”“部下の育成強化(部下の目標達成を100以上)”などのように複数の目標を設定することが多い。3つの目標すべてが100%の達成であれば、合計100の評価になるように、目標に“ウエイト”を設定するのが一般的である。上記の例であれば最初の目標が最も重要であるから60、2番目と3番目はそれぞれ20とし、合計を100とするのだ。  非管理職社員はこの目標達成のために、時間という資源を投下する。全く超過勤務がないことを想定した月150時間投下を前提とした目標と月30時間の超過勤務をする場合(月180時間)の場合では目標は異なるはずである。投下量が150と180では20%も異なるが、目標が同じであるのはおかしいからだ。合理的に考えれば前者はウエイトの合計が100に対して後者は120でなければならない。多くの企業では目標管理の考え方の中に投下量と目標の関係が不明確になっている。  さらに目標管理と超過勤務管理が全く連動していないことも重要な点である。超過勤務0を前提とした目標である社員が超過勤務なしで100%達成した場合と、0を前提としつつも毎月20時間の超過勤務をして目標100%達成した場合で評価が同じであるのは問題だ。目標業績が同じでも、超過勤務をした社員のほうが、収入が多いことになる。もっと言えば時間生産性が低い社員のほうが、収入が多いことにある。  加えて次のような問題も発生する。仮に月給30万円の社員(賞与4か月とした場合年収480万円)の場合、20時間の超過勤務をした社員は毎月の約5万円の超過勤務手当、年収で約60万円多く受け取ることになる。この社員はもともと超過勤務0ベース、目標を100%達成したとする。同じ目標で超過勤務を0ベースで、目標を120%達成した好業績の社員を想定しよう。この社員は評価がよいので賞与が多くなるだろう。一回の賞与は標準で60万円である。評価がよいので、70万円から80万円くらいは分配されるだろう。好業績の見返りとして年間20万~40万円のプラスとなる。  しかし前者の社員の超過勤務手当の増加分に届かない。結果としては超過金勤務をして通常の業績の社員と超勤務0で好業績社員の年収が逆転してしまう。目標管理における超過勤務業績による分配が過小な企業が多いため、思ったような“メリハリ”がつかないのである。  近年生産性向上の議論が多くの企業で課題となっている。そのため目標と投下についての議論も顕著に多くなってきた。より生産性を上げるためには、目標管理を改造して、目標と投下、目標管理と超過勤務管理の見直しが必要だということだ。 以上

怪我の功名? | その他

怪我の功名?

昨年末にちょっとした怪我をして、しばらく自宅から外出できなかった。年に1,2度、風邪を引いて休むことはあるが、今までの職業人生で、1週間以上連続してオフィスに出なかった記憶はなく、おそらくは、今回が、未出社の最長期間という事になる。傷口を縫合した後数日は、流石に終日、ひたすら寝ていたが、怪我の場合、病気と異なり、体力自体は割と早く回復して来るようで、日を追うごとに、布団の中でじっとしていることは難しくなって来る。かといって、傷口がしっかり閉じていないうちに、外出すれば事態を悪化させることになると医者から言われ、年内の予定は、基本的にキャンセルせざるを得なかった。 そこで昨年最後の10日間は、在宅で、怪我の治癒を進めつつも、体力の回復に合わせて、徐々に、自宅で仕事を再開し、メールや電話を使っての社内のメンバーとやり取りや、いくつかのミーティングにもリモートで参加した。今まで当社でも部分的に在宅勤務は認めて来たし、ウェブ会議システムを使ったリモートミーティングも行っているので、今回が、初めてのリモートワークの機会という訳ではないが、約10日間もの間、継続して、職場のメンバーとはまったく顔を合わさぬまま、仕事をしたのは初めてであり、結果として疑似的ではあるが、リモートワークをそれなりに実体験する機会となった。 この経験を通じて感じる事ができたのは、「これは行けそうだ」、というリモートワークに対する確かな手ごたえだ。すでに、世の中にはリモートワーカーだけで構成されている企業もあるようで、そうした先進的企業からすれば、「何をいまさら・・」と思われるかも知れないが、私が関与しているクライアントの中で、リモートワークを本格的に実践している企業はごく限られているし、TV会議やウェブ会議でさえも、そもそもそうした設備がなかったり、あったとしても積極的に開催されていない企業も少なくないのが実態である。 多くの企業が、リモートワークの有効性や必要性を認識しつつも、必ずしも積極的な実施に至っていない背景には、セキュリティ上の不安やオフィス外で働く社員のマネジメントの難しさ等があると言われているが、既にテクノロジーの進歩がセキュリティ上の問題の多くを解決しつつあるし、実際、部下がオフィスに居さえすれば、マネジメントできるという話でもないのだから、それらは、本質的なリモートワーク浸透の障害とは言えない。むしろ、リモートワークが浸透しない本当の理由は、「仕事はオフィスに集まって、顔を突き合わせてやらないとうまくいかないものだ」という固定観念に縛られている事なのではないかと 思っている。 また、「慣れ」の問題もあるだろう。10日間、疑似的なリモートワークを続けることによって、正直、最初はリアルに会ってコミュニケーションしたほうが早くて確実と思っていた部分もあったが、継続的にリモートでコミュニケーションしているうちに、徐々に慣れて来るもので、業務の品質や生産性に深刻な問題があるとは、振り返って、感じる事はなかった。 働き方改革が進行する中、就業時間を短縮しつつ、アウトプットは維持・増大、という難しい課題に我々は直面しているが、やはり、その有効な解の一つに、リモートワークは数えられるのではないか。一日24時間の中で、オフィスと自宅を往復する通勤時間が不要になる分だけでも相当なメリットがあるはずだ。一気に切り替えるのではなく、週1~2回から始めることも可能だろう。世界経済も今年は厳しくなるという見通しの中、いずれにせよ、我々は、自らの脳の中を検証し、固定観念を見つけては壊し、一つ一つ新しい働き方を実践していかねばならないのだ。

Willingly Follow | その他

Willingly Follow

 リーダーシップスキルといえば、例えば、「広い視野もって先を展望でき、新たにビジョニングでき、自分の言葉でその意味を語れて、人々を動機づけられる能力(=変革リーダー)」、あるいは、「人々の思いを傾聴し、主体性を喚起でき、実行を支援しつつ、チームを活性化しベクトルを揃えられる能力(=サーバントリーダー)」など様々に言われる。  そうしたスキルを磨くトレーニングは想定できるものの、結局のところリーダーとして一番大事ものは「人間力」であって、こればかりはなかなか育成できない(=リーダーシップ資質論)という声も根強い。確かに、現実の組織のなかで、明らかにリーダーシップのある人物の共通項としての人間力はわかりやすい。さて、そのような「人間力」は育成できないものなのか。 そもそも、優れたリーダーたる人間力って何なのだろう。胆力、懐の深さ、人として魅力的、光輪めく眩しさ、溢れるエネルギー、不屈の闘志、有能なれど無邪気、揺るがぬ正義感、信念、不断の情熱と意志、、、、そんな風に人間力要件を上げていったらとてもリーダーなんかになれそうもない。もっとハードルを下げて言えば「この人になら付いて行こう」と思うかどうか、ということではないか。  そうしたリーダーシップにおける人間力をうまく言語化しているのは、有名なクーゼス&ポズナーのリーダーシップ定義だ。いわく、「うしろを振り返ると喜んでついてくるフォロワーがいるか」。大事なのは、そのフォロワーは仕方なくついていくのではなく、「喜んでついていく(=Willingly Follow)」、という点。権威や強制や諦観によらず、自ら進んで主体的にリーダーに従うということだ。  クーゼスとポズナーは数千人のエグゼクティブに「ついていきたいリーダー」の要件を聞き、20項目にまとめた。それをチェックリストとして、5大陸10万人超の人々が7項目を選んだ長期間かつ広範囲な調査結果がよく知られている。その結果、30年間にわたって以下の4項目が常に上位4位だった。   ・正直である ・先見の明がある ・仕事ができる ・やる気にさせる  うち、「正直」はほぼ常に第一位だった。これはなかなか腑に落ちる結果である。これらをじっと眺めれば、「何より正直で表裏なく言葉通りに行動し、仕事に対して情熱をもち、人を導く知識とスキルをもち、どこに向かうのかを知っている」といったリーダー像が浮かび、要は、「信頼できるかどうか」がカギなのだとわかる。  あまりにも当たり前だが、信頼できないリーダーには誰もついていきたくないし、リーダーが信頼されていなければどんなメッセージも信頼されないのだ。この事情は、社長であれ身近な上司であれ、誰しもがしばしば体感する原理である。  信頼される行動とはなにか。これなら、この4項目からも推察できるし、他山の石的な観点もふくめ経験の中でいろいろと要素分解できるだろう。それを自覚し行動の癖付けを徹底することによって、人間力のベースと思しき信頼性の向上は可能なはずである。

スティーブ・ジョブズをコントロール!? | その他

スティーブ・ジョブズをコントロール!?

スティーブ・ジョブズ氏と言えば、Apple社創設者の一人であり、経営者のカリスマ的存在として有名です。コンピューター、スマホ、音楽、アニメ映画と4つの産業で革命を起こし、まさに「世界を変えた男」と呼ぶにふさわしい偉人ですが、その性格はメチャクチャで、自己主張は激しく、ワガママで、常に部下に要求する仕事の質のレベルがものすごく高い、いわゆる鬼上司であったことでも有名です。そんなジョブズの求める仕事の高いハードルをかいくぐるために当時の部下たちが用いたというファントムデコイという心理学テクニックが面白い。 このファントムデコイはイギリスのアンドリュー・コールマンの提唱する心理テクニックで、ファントムが幻影、デコイは心理的囮を表します。ファントムという言葉はコンピューターRPG(Role-playing game)でよく見ますし、デコイという言葉はFPS(First Person Shooting)ゲームとかでよく使われる兵器の名前です。ゲーム上でミサイルや魚雷等をかわすときに使う囮兵器のことです。 普通、この囮兵器は本物?と錯覚させるために精工に似せて作りますが、ここでいうファントムデコイはあえて本物よりも数段劣化させて作るのです。 どういうことか?実際にジョブズが部下たちからコントロールされたときの話があります。 ジョブズは冒頭の通り、常に部下に高いレベルのアウトプットを要求します。それはときには無理だろうと思われるくらいしんどいハードルを課して、部下たちが出した最初の結果を必ずといってよいほど受け入れませんでした。「まだまだできるはずだ。もっと死ぬ気で働け、週90時間働け!」とブラック企業のトップのように叱咤激励を繰り返し、部下たちを限界まで挑ませたのです。ジョブズも「僕のいちばんの貢献は、本当にいいもの以外には常に口を出し続けたことだ」と言っているように。 そこで部下たちは、自分たちも「これはダメだな」と分かっているようなクオリティの低い商品をわざと先に見せることにしたのです。ジョブズの高い要求に答えられていないレベルのアウトプットを本命のアウトプットより先に見せておき、本命のプレゼンの前にジョブズをわざとがっかりさせておいたのです。 当然ジョブズは激怒します。「なんだよ!このくそ商品は!他にないのか?」そこで部下たちは次の商品を出します。でも出来はまだまだです。ジョブズは再度激怒します。「おいおい、まだこんなんかよ!もっとましなプランはないのか?」 そしていくつかの囮商品を見せてジョブズをさらに激怒させた上で、最後の最後に自分たちの中で最高の出来のものを提示したのです。すると、「あぁこれだよ!」ジョブズは初めて歓喜しました。 あのiPod誕生の瞬間です。 ジョブズの部下たちは、ジョブズをよく観察し理解しているからこそ、ファントムデコイを撃てたのでしょう。彼は今何を欲しているのか、何が苦手で、何が得意なのか、思考的優先順位は何なのか、それを知った上で囮プレゼンやフォローをしてきているのです。言い換えれば「ジョブズをお客様」と考えたのです。 自分たちのお客様であれば、お客様が何を求めているのか、なぜそれを求めるのか、また手に入れられるように最善の努力やサポートをしようとするはずです。このように上司を「自分たちのお客様」だと思って気配りや目配りをしていけば、必ず関係性は向上し仕事の遂行力も上がっていくでしょう。 上司のキャラをしっかりと把握して、言動や行動を工夫しながらコントロールしてみることで、前向きな方向へかじ切りできるのです。そうすることが、仕事を楽しく、快適なものにしていくことにつながるのだから。 以 上

弱連結のすすめ | その他

弱連結のすすめ

 アウトプレースメント(=再就職支援)サービスの現場には、興味深いノウハウがいくつかある。日本の場合、多くは大手企業をやめて再就職先を探すのだから、たいてい行先は以前よりも小さな会社となり、ともすれば元気をなくしがちな就職活動の促進や報酬ギャップに悩んで逡巡する「決定」の促進のために有効なさまざまな策が求められる。  たとえば、求職者同士でグループをつくって求職活動中定期的に集り、成功例や失敗例を共有して、相互の励ましやアドバイスで集団として前向きなエネルギーの再生産をはかる「グループカウンセリング」。これは、グループダイナミクスによる活動意欲の維持向上のワザである。また、自己分析として「願望」の棚卸を徹底的に行い、「自分のやりたいこと」を改めてこの機会に描きだすことは、納得した意思決定の背中を押す効用がある。 こうしたプラグマティックな手法のなかで、人脈の棚卸しというものがある。転職活動に使うために社外やプライベートで待っている個人のさまざま人的ネットワークを振りかえり洗い出すものだが、大事なことは、ここで見えてきたキーマンに対して「転職先の紹介」を頼んではいけないということだ。突然何年ぶりかで接触しても、そんなうまい話があるはずがない。なにより、そんな重たい依頼をしたら当の相手がしんどくて、きっと会うことも逡巡するだろう。 ポイントは、紹介のハードルを下げること。たとえば、「今後の行先と考える業界の仕事の実態はどんな人に聞けばいいか」といった相談を持ち掛ける。もし聞けるような人を知っていれば、その人を紹介してくれないかと頼む。そこで紹介されたその人に求めるのも転職先の紹介ではなくて、あくまでももっと手前の情報収集にとどめる。このような形で、人から人へたどっていく中で、有用な情報を得たり、新たな気づきを得たり、運よく転職につながるような直接的な機会に出会うことが結果したりする。 ネットワーク論でいうところの「弱連結」をたどるというのが、ミソなのだ。 人的ネットワークには、Strong Tie(強連結)とWeak Tie(弱連結)がある。強い結びつきとは、相手を良く知っていて、思いを同じくし、具体的に支援しあい行動を共にする相手である。その意味では、同質的で閉じた関係性。それに対して、弱い結びつきとは、例えば社外の人でどこかのパーティで会っただけのつきあいとか知人の知人とか、オープンで自身とのつながりは薄い関係である。その分、ふだんの強連結の相手(例えば社内の同僚)にはない、異質性や未知の情報が交通する関係性である。ゆえに、「弱連結」はイノベーションにつながるとされ、「弱連結の強味」がネットワ―キングにおけるパラドックスとしてよく知られる。    であれば、社内においても弱連結ネットワークを作っておくのがよいのではないか。直接の業務上の関係(=強連結)ではない、ゆるいけれども顔の見える多様な関係。それは、いまや日常的に求められる新しい仕事の仕方(=イノベーション)を喚起するかもしれないし、社内での転職(=キャリアチェンジ)の契機になるかもしれないから。

マイクロマネジメント | その他

マイクロマネジメント

 部下に業務を指示したが、どうもうまく進められていない、求める品質に達していない。結局、上司が自分で引き取ってやってしまう。というのは割とよくある話だ。上司の言い訳としては、「自分でやったほうが早い」、「品質が低くてこれでは納品できない」など、いろいろあるだろうが、要は、部下にその業務遂行能力がないと思い込んでいる、部下のことを信頼していない、ということである。  上司が部下を信頼できなくなると、こんなことを始めることがある。毎朝、その日の業務について、部下と打ち合わせを行い、今日やらなければいけないことひとつひとつについて、手順を細部まで確認する。打ち合わせの締めには、部下がちゃんと理解したか心配なので、再度、手順を復唱させたりする。さらには、適宜、作業の進捗状況を報告させ、そこで問題があれば、対応方法を細かに指示する。1日が終われば、何がどこまで終わったか、予定通りにいかなかったのは何が原因か、などこれまた細かに確認し、では、明日どうするか、といった具合だ。  このような管理手法を「マイクロマネジメント」という。上司からすると、部下に対して細かに指示しており、業務を適切にマネジメントしているような気になるのだが、部下からすると堪ったものではない。自分の意見や感情は封殺され、言われたままに仕事をしなければならない。その結果、指示されたことがちゃんとできても、それは上司のおかげ、もし失敗しても、それもまた上司のせいとなり、部下は主体的に行動することがなくなり、仕事に対する責任感も持たなくなってしまう。これは一種の「過干渉」だ。過干渉は子育ての世界では、親が一方的に自分の価値観を子供に押し付け、子の欲求を抑圧することだ。その結果、主体性の欠如、他責思考といった傾向がみられるようになる。過干渉は、精神的な虐待と位置付けられているほど、罪深いものなのである。  Googleの元人事トップ、ラズロ・ボック氏は、著書「ワーク・ルールズ!」の中で「リーダーが犯す過ちは管理しすぎることだ」と述べている。また、アジア開発銀行のオリヴィエ・セラット氏のこんな言葉を引用している。「マイクロマネジメントはミスマネジメントだ・・・人々がマイクロマネジメントに走るのは、組織のパフォーマンスに関する不安を緩和するためだ、つまり、他人の行動を絶えず監督し管理していると気が楽になるのだ―」  ちなみに、冒頭のエピソードは、いずれも私が新米マネージャーの頃の失敗談だ。初めて部下ができ、とにかく、部下をしっかり育てなければ、と気負っていたこともあり、いろいろな取り組みをしたものだ。きっかけは部下の些細な失敗であった。その失敗に過剰に反応し、自信を失った私はマイクロマネジメントに陥ってしまったのである。つまりは、マイクロマネジメントとは、部下のことを信頼していないだけではなく、上司自身の自信のなさの表れなのである。

組織編成の果実 | その他

組織編成の果実

 組織編成の基本は職能別編成だ。経理部に経理マンを集めてひたすら経理事務に当たらせ、営業部に営業マンを集めてひたすら営業訪問に走らせる。同じ部門に居て来る日も来る日も同種の仕事をするのだから、自然に熟達し、部門としての生産性が上がる。つまり、少ない人数で多くの仕事をこなすことができるようになるということだ。組織編成の第一義的目的は、職能を集中させて会社の生産性を最大にすることだ。 もちろん、多くの大企業で見られるように、組織を事業別に編成したり、地域別に編成したりすることがある。しかし、それぞれの事業部の中にはきっと小さな管理部門と、生産部門と営業部門が設置されているだろう。事業部が健全な利益を上げていくためには、事業部として生産性を最大化しなければならないのだから、やはり事業部末端には職能別組織が編成されているはずである。  とはいうものの、同じ仕事をする人員がただ漫然と集まって仕事をしているだけでは、最大の生産性は得られまい。ここに、部門の長たる管理職の出番がある。部員たちが、毎日の仕事から学んだ「コツ」や「ノウハウ」を相互に交換すれば、より効率的に仕事をできるようになる。こうしたコツやノウハウを集大成してわかりやすいマニュアルにまとめ、説明会を実施すれば、さらに効率よく仕事ができるようになるだろう。便利に使えるツールを準備したり、経験の浅い者を徹底的に訓練したりすることで、一層高い生産性が得られるかもしれない。管理職は、ありとあらゆる工夫を積み重ね、これでもか、これでもかと担当部門の効率性を高めていくのだ。  さて、仕事の中には、時に、標準からはずれるものが発生する。すべての事態を漏れなくマニュアル化することなんてできない。標準からこぼれてきた仕事は、別途、管理者が特定の部下に細かい指示を与え、出来栄えをチェックし、修正指示を与え、褒めたりすかしたりしながら片づけていく。 業務指示によって部下に任せられる仕事ならまだよいが、どうにも任せられない複雑困難な仕事は、自分でやる。そのような仕事を機敏に見つけて迅速にこなしていくことで、部下は皆安心して決まった仕事に集中することができる。こうして生産性はさらに上がるのだ。  ところが、仕事というものは、変わる。会社を取り巻く環境が変われば、やるべき仕事が変わる。さきほど話に出たこぼれ仕事が、あとからあとから増えてくる。だから、管理職は、そういうこぼれ仕事と毎日戦いながら、変化する環境に常に目を凝らし、次に何が降ってくるのか、どの仕事がいらなくなるのか、新たに何をどう標準化すればよいのか、だれをどうトレーニングすればよいのか、絶え間のない奮励努力を続けていかなければならない。すべては、少ない人数で多くの仕事をこなしていくためだ。  予算編成は管理職の重たい仕事のひとつだろう。部下の残業時間の管理も欠かせない。時期がくれば20人もいる部下の一人ひとりを、ルールにのっとって評価しなければならない。息つく暇も無い会議に忙殺される。だけれども、管理職のこうした仕事は、巨大な氷山の、海面の表に出た一角に過ぎないのではないか。海の中には、絶えざる標準化と、訓練と、業務指示と、イレギュラー対応という大きな塊が存在する。職能別組織編成が生産性最大化の道具であるということを前提にするなら、管理職の仕事はこのような姿に見えるのだ。  管理職研修が重要だ、というけれど、管理職のこのような役割を、もういちど一人ひとりに問いかけるような研修が、たまには必要なのかもしれない。「わかりやすいマニュアルの作り方研修」など、企画してみてはどうだろう。

トランプ流マネジメントをどう実践するか | その他

トランプ流マネジメントをどう実践するか

 現アメリカ大統領のドナルド・トランプ氏は、ある意味卓越したマネージャーなのではないか。我々もまた、そのマネジメント手腕を真似て、絶大な効果をもたらすことができるのではないか。それが、このコラムで述べたいことである、とひとまず言っておく。 今年7月14日、トランプ大統領は民主党の革新系女性議員に対し、「もといた国に帰って壊れた国を直すのを手伝ったらどうか」と述べている(朝日新聞WEB版2019年7月24日)。  どう考えても波紋を呼ぶような発言であり、実際波紋を呼んだ。過去の発言の中には、もっとおぞましいものもあり、ここに掲載してはならないものもある。比較的大人しいものでは、下記のような発言がある。 「私は巨大な壁を、我々の南の国境に建設して、メキシコにその壁の費用を払わせる。」 「すべてのイスラム教徒のアメリカ入国を拒否すべきだ。」 「ヒラリー・クリントンが夫を満足させられていないなら、なぜ彼女は(自分が)アメリカを満足させられると思っているのか?」  このようなやや乱暴な発言だけでなく、ときには矛盾しているような発言も少なくない。北朝鮮の金正恩委員長を評する発言として、2017年11月には「リトル・ロケットマン」「病んだ子犬」と揶揄し、罵声を浴びせていたのに対し、2018年6月の最初の米朝首脳会談の際には、「とても頭がよく、才能がある」と発言している。いかに状況が変わったとは言え、これだけ真逆の発言は、ふつうはありえないし、できない。  経済学者野口悠紀雄氏のように、トランプ大統領の発言や政策を「支離滅裂」と捉えることは、決して難しいことではないだろう。問題は、この「支離滅裂さ」「理不尽さ」が、実は彼の卓越した戦略の一環なのではないだろうか、ということだ。  トランプ大統領の言動の特徴は、「不明瞭な判断基準に基づく、明瞭な判断」という点に尽きる。判断の元になる基準や理由・根拠が流動的で分かりづらく、予測困難であり、ただ判断結果だけは断固として示され、ときには実行される、という状態である。専制君主のようでもあるが、メリットには非常に敏感で、やはり超トップダウン型の企業家像の方が近い。 私はトランプ大統領の言動に、ひと昔前の体育会系気質の悪しき残滓を思い浮かべてしまう。監督、コーチ、先輩により発信される、理不尽な「制裁」や「褒賞」の数々を思い出すのである。声が枯れるまで叫んでも、「声が小さい」と言われ、何十回もやり直しを強制される。かと思えば、急に馴れ馴れしく肩に腕を回してきて、「今日はなかなかよかったじゃねえか。次の試合からはレギュラーだな」と、大して思い当たることもないのに、唐突に褒賞を絡めてきたりする。そこには良し悪しを判断する基準や理由はなく、ただ結果としてのフィードバックだけがある。どうすれば基準に適うのか、本人も説明ができない。基準や理由を聞かれるようなことがあっても、「自分でよく考えてみるんだな」などという謎の回答が返ってくるのみである。  では何のためにこのような「支離滅裂」「理不尽」が行われるのか。答えは明白である。相手を自分の意のままにコントロールするためである。基準や理由を示さないまま、「制裁」や「褒賞」を行う状態が続くと、受け手の判断基準もまた失われていく。万一「理不尽である」という非難を行おうものなら、これまで以上の「制裁」が待ち受けている。そうなると、どうすることが良く、どうすることが悪いのか、自分ではもはや判断できなくなっていく。監督・コーチ・先輩の示す結果判断だけに、盲目的に従わざるを得ない状態となっていく。  その背景にあるのは何か。それは「ヤバい奴に逆らってはならない」「めんどくさい奴に関わらない方がいい」という、畏怖や日和見主義であると言えるかもしれない。 畏怖を背景とした洗脳やマインドコントロールは、ある種の組織・団体の常套手段でもあるが、「人を動かす」というマネジメントの手段としては、絶大な効果を発揮するものでもある。絶対服従と言えるような上下関係が形成されやすいのである。  ただし、マネジメントの目的が、単に一時的に「人を動かす」だけでなく、組織とメンバーの継続と成長を実現することにあるのだとすれば、話は変わってくるだろう。各自の判断基準を崩壊させ、ただ上に従うだけの精神の醸成は、一時的に絶大な成果をもたらすことはあっても、個々の思考力・判断力はむしろ退化するのだし、成長には結びつかないからだ。  トランプ大統領は、マネージャーとして超一流かもしれない。しかしかなり近視のマネージャーであるような気がする。

「とりあえず、底上げ研修」? | その他

「とりあえず、底上げ研修」?

「とりあえず、底上げ研修かな」と聴くと、「とりあえず、ビール」という表現を思い出す。 「特に深く考えたわけではないけれど…」とか、「研修は、今年の一連のイベントの内の1つ」というニュアンスを感じ、人材開発コンサルティングの場面で、違和感を覚えるのだ。 この違和感を共有しないまま、あれこれ打ち手を考えても、クライアントからは「いやぁ、今はそこまでやるつもりはありません」との反応しか得られず、こちらの建設的な貢献意欲も急落してしまう。 これは、クライアント組織にとっても、コンサルタントにとってもハッピーではない。 そこで今回は、3つの視点から「底上げ目的の集合研修」について考えていることを整理してみようと思う。 最初は、「人材開発の視点」だ。 人材開発を検討する場合、3つの側面から整理することがある。 それは、「既存の弱みを克服する」こと、「既存の強みを伸ばす」こと、そして、「新規能力を獲得する」ことである。 こういった整理の仕方で捉えると、底上げ研修というのは、「弱みの克服」と「新規能力の獲得」に相当する。 しかし実態としては、「新規能力の獲得」は、ライン部門主導で行うことが多いため、人事部門主導の底上げ研修は「弱みの克服」が主目的であると言ってよいだろう。 次は、「現状維持と変化適応の視点」だ。 従来型の人事では、「人員管理(採用や配置等)と事後評価(昇降格や昇降給等)」など、組織の安定運営(=現状維持、「守り」)の意識が強い。 そして、「一定水準の品質を担保するため」には「弱みの克服」が重要だと見なして、底上げ研修を実施してきている(※)。 一方、企業経営への貢献が求められる戦略人事では、「組織業績と組織能力の向上への貢献」が重要である。 そのため、「攻め」の一手として「市場競争力を高める」ために、「自組織ならではの強みを伸ばす」取り組みが求められる。 また、ビジネス環境の変化に柔軟に迅速に適応するために、「新規能力の獲得」に取り組むのである。 最後は、「ビジネス展開の視点」だ。 ビジネス、特にテクノロジーを活かしたビジネスの多くは「標準化→自動化→個別化」という3段階で進展する。 組織と人材について、ビジネス展開の段階に合わせて考えると… 人材が効果的に「育つ」ように、「環境(組織の在り方、仕事内容、人間関係等)と個人のマッチング」を最適化し、その後、「標準化」の一環として「底上げ研修」を実施する。 その後、効果的に「育てる」ために、個々人に合致するノウハウの提供、スキル習得を支援することを通して、「個別化」の段階まで進めるのが望ましい。 さて、今回は3つの視点から見てきたが、私は、底上げ研修自体に反対なのではない。 「組織の創業目的を実現するために、経営資源としての組織・人材を効果的に活用する方法を考えよう!」という戦略人事の考え方に基づき、「人材開発・組織開発の施策群のひとつとして実施する底上げ研修」であれば、有効な場合も少なくないと思っている。 なお、「組織業績を高めるには顧客満足を高める必要があり、顧客満足を高めるには社員のやりがいや誇りを引き出す必要があり、社員のやりがいや誇りを引き出すためには社員をイキイキさせる仕組みが必要である」ということが、近年明らかになってきている。 「底上げ研修」だけに取り組んでいては、「自分らしさを殺し、言われた作業をこなすだけの歯車のような社員」すなわち「やりがいや誇りを感じない社員」を量産しかねない!という危機感を共有したうえで、今回取り上げた3つの視点を意識しながら、組織業績と組織能力の向上に繋げるよう、建設的な人材開発に取り組もうではありませんか! ※「品質担保のため」(弱みの克服)と称して、強みを伸ばさず、「均質化」ばかり進めていては、市場競争力の向上に繋がらないうえに、優秀な人材ほど成長機会を求めて離職してしまうため、問題である。 以上

総合職が多すぎる | その他

総合職が多すぎる

 多くの日本企業にみられる共通した問題がある。それは“総合職が多すぎる”ということだ。  そもそも“総合職”は企業の方針や文化、コアノウハウの担い手である。キャリアのゴールとしては、企業経営を担っていくことを期待されている。企業経営を担っていくためには、企業活動に関する広範な知識や見識が必要である。営業部門だけで育った社員は、営業はよくわかっても、製造や管理部門がよくわからない。単機能で育った社員は企業経営が担えないのだ。総合職として、経営を担うためには様々な事業や機能を経験することが望ましい。すべての事業や機能は経験できないが、代表的なものをいくつか経験することが必須である。  このように総合職として経営を担う人材に育成するためには、一つの仕事を長く担当することは望ましくなく、経験を積ませることが重要だ。しかし多くの企業の現実は、このような経営幹部の育成段階としての総合職という運用になっていない。総合職として入社しても、経営幹部になるための研修は少なく、また効果的計画的なローテーションも行わない。新卒の企業説明会では、総合職は会社の幹部ということをあたりまえのように話すが、入社をするとそのような扱いはしていないことが多いということだ。  管理職が総合職社員の一つのキャリアゴールとするならば、総合職は管理職を生み出すための人材プールということになる。仮に必要な管理職ポストが500ポストとするならば、その1.5倍程度の総合職社員がいれば十分である。1.5倍以上の総合職がいる企業では、入社以来単一の仕事をずっと担当し続けている社員が目立って多くなる。1.5倍を上回る社員は特定の仕事、特定の地域で仕事をしている社員であるため、本来は総合職ではないのである。  優秀な経営幹部を育成していくためには、計画的な経験、継続した教育が必要である。この高いコストを伴うローテーションや教育を実際に本気で行わない限り、優秀な経営幹部は生まれない。経営幹部が育たないと嘆く企業の代表的なパターンは、総合職が多すぎて実際に経験、教育が不足しているというものだ。これは経営が求めている人材を人数構造的に生み出せていない制度と運用に問題があると言わざるを得ない。  社員の大半が総合職であるということが、合理的に考えておかしいということである。 以上

目標の二重管理 | その他

目標の二重管理

 目標管理のなかで「目標難易度」というものがある。難易度高であれば、1.2とか難易度低ならば0.8とかの係数が決められていて、達成度に乗じるという仕組みである。といっても、目標そのものに達成が難しい目標と易しい目標があるという意味ではない。その目標を「担う人物にとっての難易度」である。  ここでよくある誤解は、「担う人物にとっての難易度」を、その人の経験や能力に対しての妥当性の度合ととらえること。つまり、ベテランなら妥当な目標だが新任者が同じ目標を担うなら難易度1.2だとつい考えてしまう。これは間違いで、その人が属する等級に即して妥当な目標か、とみるのが正しい難易度判断である。  要員バランス等のせいで、上位等級レベルの目標や逆に下位等級レベルの目標を担わなければならないときに、前者は難易度1.2の目標、後者は難易度0.8の目標ということになる。あくまでも在籍等級だけが基準になるので、ベテランだろうが駆け出しだろうが、同等級であれば、同じレベルの目標を担い、難易度は1.0である。  さて、となると「それじゃあ、組織目標が達成できないじゃないか」と困惑するマネジャーもでてくる。組織目標が200で構成員が2人の組織があるとする。2人は同等級だとすると、それぞれの目標は同じ100。ただし、Aさんはベテラン、Bさんは異動してきたばかりのニューメンバー。目標管理としてはそれで正しいが、組織マネジメントとしては困ったことになる。  Bさんは、どうがんばっても80しかできない。Aさんは余裕で目標達成。とすると組織としては、180で目標未達となってしまうからだ。さてどうするか。このマネジャーは考えた。目標管理のルールはわかるものの、現場としては組織目標達成をしなければならない。そうか、二重の目標管理をやってしまおう、と。つまり、人事管理上の目標と組織管理上の目標をわけてしまったのだった。  Aさんの目標は120、Bさんの目標は80と設定して、組織マネジメントを行う。  Aさんに対しては、「君の目標は120。これを必達してくれ。ただ目標達成すれば業績評価は100%ではなく120%とする」と言う。  Bさんに対しては、「君の目標は80。これを必達してくれ。ただ君の等級としては低い目標なので、達成しても業績評価は80%だ。早く力をつけて100の目標を担えるようになってくれ」と言う。  外形的には、人事管理における目標管理として正しくないかもしれない。しかし目標管理それ自体は目的ではなく手段である。なんのための手段かといえば、組織目標達成と成果配分と人材育成。「二重管理の意味」が、上司部下の間でしっかりと握れていれば、これら目的は達成できるのだからこの逸脱は許容できるのではないか。  何より評価制度は、管理職者が意思をもって工夫し活用すべきマネジメントの道具であるのだから。

恥ずかしいを乗り越えさせる | その他

恥ずかしいを乗り越えさせる

 ”聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥”、 “恥の上塗り”など、日本には恥に関する故事ことわざが多くある。よく日本人はシャイな人が多い、とか日本は恥の文化だ、などといわれているが、”恥ずかしい”は日本人だけのものではない。西洋でも“Better to ask the way than to go astray. “(道に迷うより、道を聞いた方が良い)ということわざがあることからわかるように、万国共通、人に聞くのは多かれ少なかれ恥ずかしいことなのだ。  人に聞くという行為を恥ずかしいと思うのは、聞いた相手に「なんだ、こんなことも知らないのか」と思われてしまうのではないか?という気持ちが働いていると考えられる。自分の欠点や誤りを自覚して体裁が悪く感じるのである。だが、聞かれた人のほとんどはそんなことは思っていない、多くの場合、自分の思い込みに過ぎないのである。  人に意見を“述べる”ときも同様だ。集合研修などで、講師が受講者に発表してもらおうと挙手を求めることがある。ときには何人かパラパラと手が上がることはあるだろうが、大抵は、一斉に視線を手元のテキストに落とし、講師と目線を合わせないようにして、モジモジし始めたりするものである。せっかくの研修の場である、自分の考えを述べ、皆からフィードバックをもらった方が絶対にためになるのは誰でもわかっている。学ぶために研修に参加しているにも関わらず、恥ずかしいと思う気持ちが強いと、行動が制限されてしまうのである。  この”恥ずかしい”を乗り越えさせるには、”恥ずかしい”のハードルを下げるしかない。学生の時に部活で大勢の人の集まる場で、大声で自己紹介をさせられたり、一発芸や歌を歌わせられたりしたものだが、これはもう強烈に恥ずかしい体験だった。なぜ、こんなことをやらなければならないのか全く理解できなかったが、繰り返しやっているうちに、だんだんと恥ずかしいと思う気持ちが弱くなっていくのを感じたものだ。このようなやり方をどう捉えるかはいろいろな意見があるだろうが、確実に言えるのは、”恥ずかしい”というのは慣れればどうということはない、ということだ。  大勢の前で自分の意見を述べたり、プレゼンテーションしたりするのを恥ずかしい、と思う気持ちは多かれ少なかれ誰にでもある。そこで手を上げられるかどうかで、その後の成長には大きな差が生まれるのであれば、そういう時こそ手を挙げられる人物になって欲しい。そのためには、常日頃から、そういった機会を与え続けることが重要だ。最初は、しどろもどろになったり、どもってしまったりすることもあるだろうが。その経験こそが恥ずかしさを乗り越える力となるのだ。最近の若手社員はシャイだ、とか積極性が足りない、とか嘆くのは自分がそういった機会を与えることができていないのだ、ということを認識すべきである。