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ツケを払わないリーダー | その他

ツケを払わないリーダー

 「ほんとに情けなくて」と、知人がなげいて話したのはこんなことだった。  上司が部下の若者を、蕎麦でも食っていかないか、と誘った。その上司にしては滅多にないことなので、たまにはご馳走になろうかな、とついていった。すると連れていかれたのは駅前の立ち食いソバ屋。券売機で自分の分だけ買うと、並んで食べ、数分で別れた。「ホント、あれが上司って信じらないっすよ、ケチもいい加減にしろって感じっすよ」とその若者から翌日憤懣をぶちまけられたのだという。  ここまでのことはなかなかないが、上司が部下におごるという「常識」はもはや通用しないのかもしれない。終業後の付き合い自体が部下にうっとうしがられ、上司としてもさほど高くない管理職報酬から自腹をきってまでおごるのも業腹だ。なにより、ワークライフバランスとは仕事と仕事以外の切り分けであり、仕事以外で部下に対してそんな支出をする必要性はない。しかし一方で、これはリーダーシップの劣化かもしれないのではないか。  昔、一緒に食事をしたりたまに呑んだりするときに、必ずおごってくれる上司がいた。さすがに恐縮して、あるとき固辞し、たまには払わせてくれと頼んだのだが、彼は「これでいいんだから、素直におごられていろ。昔のツケの支払いなのだから」と言った。  彼も若かったころ上司におごられていて、その上司からは、「私がおごった分は、私に返さずに君に部下ができたときに彼らにおごることで返せばいい。そういうことになっているんだ、組織ってものは」と諭されたというのだ。だから、ツケの支払い。昇格し部下を持った時に、そのように借りを返しているということなのだ。これも一種の、リーダーシップカスケード(=リーダーの連鎖的育成)だろう。  冒頭の立ち食いソバの上司もきっと若いころには、上司におごられただろうに、管理職になってから自分は一切しない。なぜか。それはきっと、人を束ねて仕事をしているという自覚が希薄なのではないか。職務分掌に書かれた役割を果たすだけであって、人を動かす立場であることの自覚も覚悟も薄いのではないか。  まぁ、おごる上司が必ず人間力があるというわけでもないし、今日的にはむしろ倹約家でコンプラ的にも褒められるふるまいなのかもしれない。ただ、綿々と続くリーダーシップの連鎖が途切れることは残念に思う。  「その上司も上司だけど、その若い部下も実に情けない」と冒頭の話をした知人は続けた。だって、「たった330円なんですよ! それをおごってくれないなんて!」と気色ばって憤懣をぶちまけてるけど、それをいうなら、そんな金額でそこまで怒るのあまりにみみっちいから、と。

「空気」の功罪 | その他

「空気」の功罪

 自分にとって当たり前のことが、実はまったく当たり前ではないということがある。  「何であなたがた日本人は、君が代を、前奏なしで斉唱できるのですか。」  私がまだ学生だった頃、同じゼミにいたアジア系の留学生からそのような質問を受けたとき、私は全くもって答えることができなかった。それまで私は特に疑問に思うこともなく、無意識に、前奏なしの国歌斉唱を何十年も実践し続けてきていたのである。  元旦になれば、示し合わせたわけでもないのに、ぞろぞろと地元の氏神様の神社に向かって人が集まりはじめ、太い長蛇の列ができる。これはいったい何なんだろうか。初めてこの光景を目にした外国人の方は驚き、何か底知れぬ恐怖のようなものを覚えるらしい。  これらは、暗黙のルールや習慣というべきものだろうか。ご存知の方もいるかもしれないが、文化人類学者E.T.ホール氏が言った「ハイコンテクスト文化」というべき状態が形作られているわけである。やや閉鎖的な集団の中で、長年をかけて、一種独特な「空気」のようなものが出来上がる。このような「空気」は、集団とメンバーにとってつねにあるのが当たり前で、ふだん意識もされないが、圧倒的に重要で必要不可欠なものだ。まさに「空気」のようなものだ。  集団やそのメンバーを突き動かす真の主体とは、実は集団や個々人そのものではなく、むしろそれらを包み込み、促す、この「空気」なのではなかろうか。このような「空気」に従った行動は、ときには凄まじいエネルギーに転化する。まるでモンスーンのように。  例えば、日本三大奇祭の一つ「諏訪の御柱祭り」では、山中から神社の御柱用に樅の大木を切り出し何㎞も引きずって諏訪神社に奉納するが、一人の人間がどれだけ頑張っても、大木は動かない。当たり前だが、関わっている人間が一斉に息を合わせ、力を合わせなければ、大木は動かない。では大勢の曳き手が、どのようにして一斉に力を発揮して、大木を動かすことができるのだろうか。ある曳き手は、次のような実に不思議な言葉を残している。  「御柱が動いたときに、動かせば、動く。」  字面を見たら全く以て非論理的な言い方である。しかし理解できる方にはできるだろう。周囲の力の入れ方、息遣い、微妙な動きなどを総合的に勘案して、各自が力を込めるタイミングを見計らい、一気に力を込める。まさに「空気」を読んで動き・動かすのである。  いま祭りの例を挙げたが、会社組織も似たようなものだろう。多くの場合、会社の「空気」は、日常に紛れ、「読み合い」の中に息を潜めている。しかし僅かな微風も、或る時、一気に合流すればモンスーンにもなりえるだろう。これが変革や成果に結びつくなら、「空気」とはむしろ望ましいものだろう。しかし多くの大祭がそうであるように、ときには個々のメンバーの痛ましい犠牲を生み出しもする。組織そのものを自壊に導くこともあるだろう。  自分にとって、われわれにとって、当たり前のことは、本当に当たり前のことなのだろうか。自問自答することは、単に「空気」に流されないために、われわれが心得ておかなければならないことだ。

社長の眼力 | その他

社長の眼力

 経営責任者の方々に共通する特徴に、強力な眼力(=めぢから)がある。どの方も例外なく、はじめて会ったときの一瞥には、「こいつは何者か、どのレベルの者か」と一瞬で射貫かれた思いがする。眼光紙背に徹す、ということばがあるが、書物ならぬ人として背中まで見抜かれる恐怖に震えざるを得ない。  なぜそうなるのか。一つは、即時の判断を日々強制されているからだろう。社長の仕事はつねに最終判断である。適時適格な判断に至る情報の取捨選択には「短時間の本質理解」を重ねていかなければ、間に合わない。当然ながら、相対する意味のある人物かどうかも一瞥で見抜かなければならないのだ。  もう一つは、人を、経営資源と見ているからだろう。資源としての価値だけが大事であって、そこには、人に対する感情は必要ない。だから、資源としての力量、可能性、課題点を見定めることだけに集中して人を見る。いや、「見る」でも「観る」でもなく、「診る」なのだ。かくてレーザー光線のセンサーのごとく、冷たく強い眼光で瞬時スキャニングするのである。  勇気をふるって、その眼光にたじろぐことなく対峙ができたとしても、ぞくりとする場面がかならず訪れる。話をしていたのがふと口を閉ざし、冷徹な目を当方に向けたまま、にやりと嗤ったときだ。それは会談の終わりを告げる合図であり、目の奥の光の揺らぎだけが、会談の成否を告げているのだった。  社長以上にただならぬ眼光に出会ったことが一度だけある。筒井康隆さんと話したときだ。断筆時代にインタビューを受けてもらったとき、話しながらこちらを見据える彼の眼は、あきらかに、当方の頭蓋を突き抜けはるかに遠い彼方を見ていたのだった。言葉を発しながらも、それは目の前の人物に向けてではない、彼の眼にはあきらかにだれも映っていない。不気味だったけれども、そこには自律的な思考の躍動があった。  もしかすると社長たちも、目の前の人物評定を早々に終えた後は、孤独な経営責任者だけが見据える彼方を展望して、問いをきっかけに誰にともなくその想いややるべきことを話していたのかもしれない。ひとしきりして我に返り、目の前の人物の存在に気づく。その状況がおかしくて、思わずにやりとしたのかもしれない。だとすれば、その会談は当の社長には有用だったはずだ。仮によい「資源」ではない相手だったとしても、聞かれ話し続けるなかで、自分の考えを深め進める機会だったからだ。  これが、エグゼクティブコーチングのスリリングな醍醐味なのである。

ブルネロ・クチネリと働き方改革 | その他

ブルネロ・クチネリと働き方改革

上質なカシミヤニットを主力商品とするイタリアのラグジュアリーブランド、ブルネロ・クチネリ社をご存じだろうか。CEOのクチネリ氏は、子供の頃、工場に働きに出る父が上司から侮辱され涙する姿を見て、「労働者の尊厳を損なわない仕事の在り方」を追求することを決意し、その方針に従った経営を行っている。 「個人の生活や魂と肉体のバランスを保つため休息の時間を侵すことはあってはならない」として、社員の残業を禁止し、終業後のメールも許さない。製作を行う職人には、職人としてのプライドを保たせるため、通常社員より2割以上多く賃金を支払い、丁寧な仕事を心掛けさせる事で商品の品質を維持している。さらには、次世代の職人育成のための学校を建てたり、社員が楽しめる劇場や学ぶための図書館を建設する等、社員を人間として尊重することで、生産性や創造性が高まり、結果として企業も成長するという考えだ。 こうした彼の経営哲学は、『人間主義的資本主義』ないし『倫理的資本主義』と言われ、ブルネロ・クチネリ社の顧客の中には、このフィロソフィーを高く評価し、自分が購入する事で、そうした企業を応援し、結果として社会に貢献できると考える人も多くいるという。かつて、持ち物にはその人の品格が表れるとして、動物愛護の観点から毛皮の不買運動が広がった事があったが、逆に、経営哲学に賛同できる企業の商品を積極的に買い、身に着けることで、自らも社会に貢献し、メッセージを発信していく、という動きが社会に広がりつつあるようだ。つまりは、社員に対する企業の経営方針が、社会に評価され、業績アップに貢献している例と言える。 我が国では、現在、働き方改革が進行しているが、この改革の基本は、企業の論理が、社員の論理より優先されてきた状況を是正し、社会全体で、より人間的に働くことのできる世の中にしていこうという事だ。 しかし、多数の企業で、給与水準のアップや、有給休暇の取得保証といった施策が実行されはじめているものの、その直接的動機は、社会的な要請に応えていこうというよりは、法律改正への対応や、採用難の中で必要な労働力の確保といったものが、現実的なところなのかも知れない。 上述のブルネロ・クチネリ社のケースのように、我々自身が顧客の立場として、企業の社員に対する考え方により着目し、望ましい働き方を実践している企業の商品・サービスを積極的に購入していく意識が広がっていけば、(プレミアムを支払ってでも、そうした企業を購入する顧客マインドを持ち得れば、) それはこの改革を促進させる強力なエンジンとなると共に、より本質的な社会改革としての成功につながっていくはずだ。

あなたは、ボーナスを受け取る資格があるか | その他

あなたは、ボーナスを受け取る資格があるか

 今の時期、ボーナスが支給される。社員らは一喜一憂するが、いざ手にすると不満が出るものだ。「なぜ、この額なのだろう」「どうして、もっと増えないのだろうか」…。  私も会社員の頃、これに近い思いをもった。11年前に会社を離れ、フリーランスとして仕事をするようになってからは、つくづく甘い考えだと思う。 「ボーナスの支給額が少ない」と嘆く以前に、それに見合う働きや実績を残したのかどうかこそが、問われないといけない。 このあたりを徹底して突き詰めて考えている社員は相当に少ないのではないだろうか。数千人にひとりいるか否か、だろう。おそらく、受け取るのが当たり前と思っている人のほうがはるかに多いのではないか。 役員や人事部員などは、この時期、それぞれの社員に、少なくとも次のことを考えさせるように誘いたい。 「ボーナスを受け取る資格が、自分にはあるか」 「支給額の分を本当に稼いでいるか」 会議で意見を述べさせてもいいし、レポートを書くことを命じてもいい。こんなことを毎年、繰り返すだけでも、意識は少しずつ変わっていくはずだ。担当する仕事や成果、実績、さらに部署や会社の業績などについて敏感になるだろう。  そもそも、多くの会社はなぜ、「ボーナスを受け取る資格があるか」と社員に自問自答させていないのだろうか。いくつかの理由があるのだろうが、1つは社長や役員がいわゆるサラリーマン経営者であることが考えられる。取材で感じるのだが、サラリーマン経営者と創業経営者の経営へのこだわりは相当に違う。創業経営者は、厳しい人が多い。  さらにいえば、社員から逆恨みをされることを警戒する役員や人事部員などもいるのではないだろうか。多くの社員は、賞与を受け取ることを当然と思っている。その人たちに「ボーナスを受け取る資格があるか」と言おうものならば、総スカンになるかもしれない。 そんなことを思っているならば、きわめて好ましくない。賞与は、当たり前のごとく、支給されるものではない。 これまでの長い月日で、会社がビジネスモデルを懸命につくり、試行錯誤を重ね、改良を加えた結果、利益を出せるようになったのである。それは、会社員ひとりでは絶対につくれない。現時点で少々、稼いでいるかといって、たかが知れている。賞与を全社員に支給できるようになるのには、会社の血みどろの「歴史」が必要だったのだ。 この「歴史」のありがたみを、社員ひとりずつに感じさせるようにしたい。 社長や役員、人事部員などはどうか、社員を前に語ってもらいたい。今に至るまでにいかに苦しみ、それを乗り越えたか、と…。 私はフリーランスになり、痛感した。給料分を稼ぐことは、こんなに苦しいことであったのか、と。11年前のことを思い起こすと、「もう、あんな経験はしたくない」と言いたくなる。 経験論で言おう。稼ぐ仕組みも仕掛けもない中、つまりは、丸裸でスタートし、数十万円の給料分を稼ぎ続けるのは、平均的な会社員では難しいはずである。 まして、その数か月分になるボーナスは、大多数の会社員には到底、稼ぐことはできないものだと思う。そのボーナスを支給するのだから、社長や役員、人事部員は機械的に、ルーティンワークとして対応してはいけない。 むしろ、「会社が血みどろになり、つくりあげた仕掛けや仕組みのお陰」であることをあえて強調するべきなのだ。「ウザい」と思う社員もいるかもしれない。それでも、踏み込んで語ってほしい。社員の意識を変えていく、大きなきっかけになるはずである。 社員の意識は、企業の最強の資産なのだから…。

M部長 | その他

M部長

今回はある製造業のM部長について話をしてみたいと思います。この会社は精密機器の製造メーカーです。近年の環境の激変で厳しい経営を余儀なくされています。商品サービスの抜本的な再編、生産拠点の合理化、管理機能の徹底したスリム化など、考えられる経営施策を次々と実施してきました。しかし急激な環境変化は、実施する経経営施策でも追いつくことができません。人員削減なども含むかなり大胆な経営施策の実施を行っても、環境変化からみると後追い施策のようにみられてしまうほど変化のスピードが早かったといえます。 この会社とはすでに10年ほど関与させていただいております。この間社長役員もたびたび交代となりました。人事部長もこの間に3回交代し3年前よりM氏が就任しました。M部長就任当初も業績の低下傾向に歯止めがかからない環境であり、当時の新経営計画もどちらかというと縮小均衡の消極的な計画でした。M部長就任前にもすでに数回の人員削減を行い、給与カット、一時帰休など考えられる施策はほとんど実施してきた状況です。 M部長は入社後一貫して事業部に所属していました。事業部では主力の部の部長を長らく担当し安定した実績を挙げてきました。部長としての人物能力は高く評価され事業部には不可欠なキーマンと言われた人材です。会社は今の縮小均衡をさらに押し進めることと同時に、新たな成長領域を必死に模索しなくてはなりません。人件費をさらに圧縮すると同時に、業績低下に歯止めをかけるべく営業の強化、新たな製品開発への挑戦といったマイナスとプラスを同時に行わなくてはならない非常に難しい環境です。会社はこの難しい局面の人事部長の大任を人事経験のないM氏に託しました。 M部長はやさしそう誠実そうで端正な外見からうける印象と異なり、頑固でねばり強さが際だった人物です。一度決定した方針は徹底して実行します。厳しい会社の状況の中で率先して自らを厳しく律し、自分の納得する経営施策をうまく調整していきながら着実に実行しました。特に労働組合との協議については知恵も気も時間も十二分に使い厳しい中でのこの会社での新しい労使協調の意識を強力に醸成したといえます。 M部長の最後の仕事は非常に見事なものでした。会社は下げ止まらない業績の根本的な原因は、国内生産拠点を抱えているからであると判断しました。かなり以前より海外生産拠点はもっているものの、労働組合や地元の強い要請もあり国内生産拠点の見直しは小規模なものを複数回実施したにすぎません。労働組合も国内工場存続は組合の存在意義をかけた譲れない一線と認識していました、工場閉鎖は難しいため抜本的な改革は進まず、そのため高コスト体質を脱却できないということです。しかし長期低迷の経営から脱却するためには国内生産を中止し、コストの構想的見直しを行わなければならないことは誰しもがわかっていることでした。 工場閉鎖が進まない原因は、労働組合の強力な反対だけではありません。歴代の経営側のスタンスも一因がありあす。歴代の経営陣もこの最も難しく厳しい決断を自分の短い任期中におこなうことに積極的になれなかったということです。しかし新経営陣は躊躇なくこれ以上工場閉鎖を遅らせることはできないと決断しました。会社の歴史の中で最大の苦渋の決断であったと思います。しかし決断した後工場の閉鎖を実際にやり遂げなければなりません。トラブルなく、できるだけ円滑に、しかもできるだけコストを少なく短期間で。主たる問題は工場勤務者の雇用対策を中心とした人事問題です。M部長の最も過酷な使命でした。 まず工場閉鎖を社員や株主に理解してもらうために、今後の経営方針、経営計画、工場閉鎖のメリットデメリットを詳細に説明しなくてはなりません。会社として工場閉鎖は再建に必須な不退転の決断であることを浸透させるということです。その中で最も重要なのは今後の会社の方針やあり方、すなわち将来のビジョンということになります。同時に工場勤務者の雇用対策をしなくてはなりません。工場閉鎖ということですので基本的には工場勤務社員は全員必要がなくなるということです。この工場勤務の社員及び労働組合との協議折衝については、正攻法しかないと判断し、社長はじめとし役員に全面に出てM部長指揮のもと何度も何度も説明をしました。今まで数度の人員削減を行ってきましたが、M部長は、工場閉鎖に伴う退職条件を経営側も組合側も想定していなかったこの会社の中では破格の条件を提示することを提案しました。これは工場勤務社員全員が退職に応じてもらうこと、今までの会社に対する貢献への報償、最後の人員削減であること、労働市場が厳しくすぐに転職できることが困難であることなどがその理由です。このくらいの条件を提示しなければ経営責任を果たしたことにならないという意識と、労働組合や社員が想定以上の条件を提示することによって後の交渉を進みやすくするという戦術的な面もありました。経営陣はできるだけ少ないコストでという意識が強かったですが、M部長のはっきりとした真摯な説明によって原案通りの施策となりました。それでも工場閉鎖に至るまでは様々な問題が発生しました。ひとつずつ丁寧に解決していき最終的には無事に工場は閉鎖となりました。 仕事柄多くの人事部長と会いますがM部長は強力な印象が残っています。無口であり物静かに見えますが、方針や計画を決めたら迅速にねばり強く行動します。人事の細かな知識はありませんので逆に経営や事業という観点からの人事のあり方を先入観なしで判断できます。工場閉鎖の大仕事も外見的には淡々と実施しているように見えますが、相当の決意と努力と工夫がなければできないはずです。経営の大きな変革期での見事な人事部長でした。経営陣もM氏だからこそ人事部長にしたのでしょう。この大任が終結した3ヶ月後M氏の別部署への配転が決まりました。 人事部長としての活躍に敬意を表するとともに今後の活躍をお祈りしてコラムという形で書かせていただきました。 以上

自分の言葉で語る | その他

自分の言葉で語る

多国籍企業で働いていたときに、「リーダーシップ・カスケード」という言葉を知った。組織のなかを、カスケード=CASCADE(幾筋もの滝)のようにリーダーシップを連鎖させていくことを意味し、各国のリーダーが集まるキックオフ・ミーティングの席上では、ビジョンや方針の話のなかで、“カスケードする”という言葉が何度も聞かれた。単なるWATERFALL やTORRENT(瀑流)ではなく、CASCADE(幾筋もの滝)というのが、言いえて妙だった。ビジュアルイメージでいえば、華厳の滝ではなくて、竜頭の滝である。 リーダシップを連鎖させるとは、情報を伝えていくことではない。会社の方針や目標達成のミッションを、自組織の問題として分解し伝達することは大事だが、それだけでは十分ではない。組織の構成員を動かすためには、会社の方針自体よりも、それを背景とする個々のリーダーの意思と姿勢がはっきりと伝えられなければならない。 つまり、自分の言葉で語ることだ。 「私は、どう考え」、「私は、どうしたいか」、「私が、どうやっていくか」をどれだけ明示できるか、である。その多国籍企業のキックオフミーティングでは、各国のリーダーにそのことを体得させる仕掛けがたくさんのセッションとして用意されていた。多様な文化や価値観を前提するからこそ、このシンプルな原理に腐心するのだと納得できる。 リーダーシップのあるなしを判断するための問いとして、「うしろを振り返ると、喜んでついてくるフォロワーがいるか」というものがある。この基準によれば、フォロワーは、仕方なくではなく、みずから喜んでついていくのでなければならないので、ハードルはかなり高い。 リーダーシップの有無やレベルは、リーダーの言動を見聞きしたフォロワーが決めるものだとすれば、リーダーに問われるのは、管理的なスキルだけではない。ハードルを越えるために重要なのは、人々が安心してついていける信頼感や、ついていきたいと思わせるような、人々をわくわくさせる言動だろう。 自分の言葉で語るのは、その第一歩である。 「私が描く」自組織の魅力的な絵(=ビジョン)が構成員に提示できれば理想だが、そこまでできなくても、「私が〜〜」という観点で会社の方針をブレークダウンすることから、リーダーシップの発揮は始まる。 このことは、あらゆる階層に当てはまるのではないか。 管理職になっていなくても、リーダーシップの発揮はあるし、その経験が管理職への成長のプロセスでもある。リーダーシップの育成には、管理職前の社員に対して、「君は、どうしたいのか」を追求する。さらには、後輩に対する業務指示や業務連絡の際には、常に「私は」、「私が」という表現を意識させることもひとつの方法だろう。要は、主体的な意思こそが、人を動かすという事情を体感させていくことだ。 それはまた、中期的に各階層のリーダーを輩出し続ける連鎖、という意味でのリーダーシップ・カスケードにもつながるはずである。

コミュニケーションに「こころ」は必要 | その他

コミュニケーションに「こころ」は必要

当社のコラム内で論争をするつもりはありませんことを表明してから書き始めたいと思います。当社吉岡執筆の”コミュニケーションに「こころ」はいらない”というコラムがあります。 (リンク先はこちらです↓) https://www.transtructure.com/column/20100513/ このコラムは非常に衝撃的な内容で、いろいろなところから反響をいただいております。人と人とのコミュニケーションは役割を演じるのであり、一人の人間としての人格や性格は会社の中では本来的に必要ないということです。コミュニケーションは技術論であり、その実証としてロボットによる演劇で感動を与えられるというのです。 私は30歳くらいの頃より講演やセミナーで話す機会が多くなりました。30代前半の時は企業のリストラに関する内容が多く(当時はリストラの専門家があまりいなかったのでよく登板しました)、その後は人事関連やベンチャー企業経営などについて様々なテーマで話す機会をいただいています。通算して何回話をしたか数えていませんが、年間30〜40回程度話すと思いますのでそれなりの回数話しているはずです。わざわざ話を聞きに来ていただく方に対して出来るだけのパフォーマンスを出したいと思って行っていますが、講演セミナーがうまくいくために重要なポイントは2つあると思っています。一つは内容(コンテンツ)です。講演セミナーのテーマに即して、分かりやすく、インパクトのある、実例に基づいた内容でなければ聞き手は満足してくれません。 二つ目は、吉岡流に言うと「こころ」です。開演の5分前には常にこう思っています。“この講演で失敗したら今後講演は二度とやらない!”いつも何度もこう思いながら講演前の時間を過ごしています。(周りからはそう見えないようですが・・・)同じコンテンツを伝えるにしても、聴衆の期待にできる限り答えようとするスタンスや姿勢が満足感に大きく影響するのです。もっと言うとコンテンツよりも、この「こころ」のほうが極めて重要なのではないかと感じています。これは「演じる」レベルではないのではないかと思います。 実験したことがないので「こころ」があるのと「こころ」がないのは聞き手側の評価がどう変わるかはわかりません。プレゼンテーターとしての役割をうまく演じるという感覚以上の「こころ」の部分は必要ないのかと思うと肯定も否定もできません。社員も「演じる」ことで役割を達成できるという感覚も、肯定も否定もしませんが、やはり否定したいです。職業人としての自己の思いが、組織内でのキャリアを形成していくのであり、役割を演じることによって(その程度で)キャリアが開かれるとは思いたくないと言うのが本音です。吉岡コラムを読むと、自分のキャリアに関する感覚が古いのか役割の演じ方に甘さがあるのかと考えさせられます。 今度ロボットに講演させてみましょう。「こころ」が必要か否か。聴衆の反応が私が話すのとロボットと変わらなければ、2度と講演しないと宣言します。 以上

人質の解放 | その他

人質の解放

数年前、銀行員向け週刊誌の連載で「人質の解放」という記事を書いた。伝統的日本企業の1.後払い型賃金カーブと2.熟練の企業固有性という二つの特徴は、従業員にとって「辞めると不利になる条件」で、人質のようなものだ。バブル崩壊後の人員削減ブームを経たうえで求められる柔軟な人事管理のために、人質は解放されなければならない、という主旨だったが、この記事は掲載されなかった。この原稿入稿後にイラクで日本人が人質にとられる事件がおこり、内容は関係ないものの人質メタファ自体がふさわしくないと、急遽原稿を差し替えることにしたからだ。 経済学に、企業とは、様々な人々が投資しリターンを得る「場」だ、とする議論がある。そのキーコンセプトは、ホステージ=人質だそうだ。たとえば、下請けと元請けの関係。元請から厳しい取引条件を出されても、下請けが乗り換えないのは、特定の商品にあうような設備投資をすでにしてしまっているからである。こうした「人質」が、関係を安定させる。企業組織でいえば、各メンバーがそこに人質をとられているから、組織が安定的な形態となる。 従業員にとっては、ひとつは、後払い型の報酬体系による「見えざる投資」であり、もうひとつは、「その企業の熟練形成に投資してしまっている」という意味の人質である。それにより従業員は辞めにくいから、組織を安定させる。 一方で人質の存在は、人員の代謝を阻害する。実際に会社を辞めた中高年者は、給与ギャップの大きさに直面し、また多くの人にとっては、自身の経験・スキルの市場性の低さが再就職を難しくする。 長期雇用の黙契が破棄され、ヒューマンリソースフローのマネジメントが要請されているなかで、人質の存在は大きな問題であるということである。その後、再びリーマンショックによる人員削減も経たが、こうした事情はあまり変わってはいないのではないか。 成果主義型や市場連動型の賃金制度改訂の流れのもと、年功的運用はまだまだ多いものの、「見えざる投資」という人質性は少し低くなってきてはいる。しかし、一方の熟練の企業固有性が低まり、企業の従業員の市場価値が高められてきているようには思えない。 熟練というと現業職のようだが、むしろ問題は、管理職能力の市場性のなさだった。ゼネラリスト育成のOJTで養成される管理職能力の中身は、もしかすると、さまざまな部門風土、派閥、人間関係、企業固有の意思決定の「クセ」や暗黙のルールの知識や使い方の熟練かもしれない。とすれば、中高年管理職の能力は、今いる会社の文脈を離れては十分には発揮できない。 企業の対応策として、ひとつの共通した傾向は、「エンプロイアビリティ(=雇用されうる能力)」の育成である。専門知識や専門技術自体の市場性も、事業環境の変化によって保証されない。むしろ、職務遂行能力や管理職スキルの原理を知り、個別の手法を身につけることが、個々人が持ち運べるスキルとして汎用性がある。階層別研修において、ロジカルシンキングや業務指示スキルといったスキルモジュールが必修や選択のプログラムとして組まれることが一般的になってきている。 エンプロイアビリティとは、言い方を変えれば「辞められる能力」だ。しかし、会社がそのような施策を用意しても、本人の職業意識が“企業固有”であれば効果はない。 市場性を高めるために何より大事なことは、本人の成長意識であり、与えられた役割における自分の意思と能力を常に問いなおすことだろう。職務遂行というよりも職務をつくりだせる力、意思あるから人がついてくる力、仕事に対峙し成長しようとする力、それらを自覚的に磨くことが職業人としての市場価値を高める。つまり、自律的にキャリア形成できるということこそが市場性につながる。 実は、企業固有スキルに市場性がないのではない。管理職能力というとあいまいで、転職の面接のときに説明しにくいけれども、長い経験のなかで培ったスキルが別の職場で役に立たないはずがない。自身の能力に無自覚のまま、自らのキャリア形成を会社にゆだねる態度に、市場価値がないのである。 ちなみに、人質事件を考慮して、書き換えた原稿の新しいタイトルは、「会社で有能、外では無能?」だった。

人事の笑えない話 | その他

人事の笑えない話

人事管理の中でよく冗談とも言えない小話があります。その時々の人事の問題や本質は捉えつつも皮肉的自虐的不謹慎であるという感覚があり、あまりおおっぴらには話されない傾向にあります。まあ笑えないジョークというところでしょうか。私が遭遇した人事関係で笑えない話を少ししたいと思います。 1.”部長ならできる” 非常に古典的な笑い話です。バブル崩壊後のリストラ時によく使用された話です。当時は団塊の世代管理職が余剰していたことから、管理職の人員削減が多く行われました。企業内に管理職待遇の社員が多かったことから、管理職としての仕事をしているのではなく、実務を半分、管理職のサポート半分という仕事のスタイルをしていた人が多かったのでしょう。実務を中心にしているわけでないので、実務のノウハウも現場の社員にはかないません。また管理能力も高い訳ではありません。部長のサポートをしているということなのですが、部長も周りにサポートしてくれる管理職がいるものですから、自分一人の責任で管理をしていません。このようなキャリア的に中途半端な管理職の社員がリストラで会社を退職して、再就職のためにいろいろな面接に行きます。面接の担当者が”あなたは何ができますか?”と聞くと、”部長ならできます”と答えるそうです。実務に自信がないことから、周りのサポートを受けて部長というイスに座ることはできるということを言いたかったのだと思います。 “部長ならできる”という言葉はビジネスマンとしてのキャリアを考えさせられる象徴的な言葉としてちょっと流行った言葉でした。 2.“みんな徹夜でがんばったんだ” ある会社でサービス残業が多く、労働基準監督署から指導が入ったそうです。この会社は損益的に厳しく、超過勤務手当をまともに支払うと人件費倒産するのではないかという状況でした。しかし現場では非常に忙しく、多少の業務効率化などをしても、厳しい経営環境の中で、残業を大幅に少なくすることは難しかったそうです。労基所の指導はしごく全うなもので、社員の労働時間管理をすること、労働時間に対する超過勤務手当を支払うこと、長時間労働者の健康管理を徹底することの3点だったそうです。総務担当取締役は労基所の担当官に、このサービス残業問題は半年間待ってほしいと言ったそうです。当然監督官は直ちに適正な状態にしろと言います。このままでは人件費倒産することなども話をしましたが、結果監督官は、次月に個人別の時間管理表の提出をする事と時間管理表通りの超過勤務手当の支払いを行うことを命じました。 会社側は各職場で毎日出勤時間と退社時間の管理表をつけるように指示をしましたが、一定範囲の時間しか残業として認めないと付け加えたそうです。要は形だけの時間管理表を作成しろということです。次月に監督署に赴き時間管理表を提出しました。監督官は時間管理表をみた後に、この管理表は適正に出退勤時間をつけていないのではと言ったそうです。総務担当取締役は、“この時間管理表はちゃんとつけるように指導しています。人事は徹夜でがんばったんです”ちなみに人事部の社員は時間管理表上では残業時間がほとんどなかったそうです。これもコンプラか会社の損益かという事でよく使われた悲しい話です。 3.“部長代理なんていらない” とある企業で人員削減の相談を受けました。社員数3000名の企業で社歴の長い伝統ある企業です。人員削減の相談で社内では問題があるので、当社に来ていただくことになりました。2、3名の方が来社されると思っていましたが、7名の方がお越しになりました。名刺交換すると、人事部長、人事部部長、人事副部長、人事部長代理が2名、人事次長、人事課長の7名です。伺った話は非常に深刻で、3000名の社員のうち500名くらいが余剰であるとのことです。しかも管理職がかなり余剰しているそうです。人事制度を簡単にお聞きすると、特に部長のポストに比較して部長級の社員が異常に多いとのことでした。そもそも年功的な人事制度や運用の結果このような状況となったということで、短期的には人員削減を実施するとともに人事制度をもっとシンプルにしなければなりません。直言癖のあるコンサルタントが、“そもそも部長がいる上に副部長がいて部付部長がいて部長代理なんていらないですね。”人事管理としてのあるべき姿を話すスタンスからは部長代理はいらないと言わざるを得ません。先方は大人の会社で、当方の意図するころや直言を素直に聞いていただきました。中間的な役職が多い企業が多く、会議をするときも参加者によっては多少気にはなりますが、直言するしか当方の存在価値はありません。 4.“シニアバイスプレジデント” 名刺交換するとたまによくわからない肩書きに遭遇します。外資系の企業の名刺の肩書きでおもしろいものがよくあります。例えば先日ある外資系企業の方3名と名刺交換しました。1名はバイスプレジデントもう一人がシニアバイスプレジデント、もう一人がディレクターでした。3名の上下関係は何となくわかりましたが、意味がよくわからなかったのでストレートに聞いてみました。“御社の社長の肩書きは?バイスプレジデントは副社長ですか?何人いますか?シニアバイスプレジデントとは?社員全員で何人ですか?”失礼になってはいけないので実際にはもっと気を遣った聞き方をしていますが、答えは、社長はCEOでCOOもいるそうです。バイスプレジデントは10名いるとのこと、その中でシニア付きが3名だそうです。社員全員で30名の会社だそうです。肩書きはビジネスを行いやすくするためにある程度自由につければよいと思いますが、ずいぶんインフレな会社もあるのだなと、ある意味感心しました。世間とズレすぎで面白すぎです。 5.“有給は無いの?” たまに遭遇する取締役です。取締役になるときに十分な教育を受けていないのか、商法上の取締役の権限や役割、人事上の扱いがよくわかっていない方がたまにいます。社員の延長線上で役員になったという意識ですので、たまに面白いことを聞かれます。”役員には有給はないの?”“役員にも夏冬の賞与を払ってほしい”“休日に出勤したときの扱いは?”などなどです。ご本人が悪いわけではないと思います。取締役は社員と全く異なる存在です。十分な教育を。

なぜホワイトカラーの生産性は上がらないか | その他

なぜホワイトカラーの生産性は上がらないか

企業にとって業務を効率化し、生産性を向上させることは永遠の課題であり、これまでも多くの取り組みがなされてきました。ホワイトカラーの生産性向上については何十年も前から企業の重要な組織テーマとして各企業で様々な試みがなされてきています。その結果は果たしてどうだったでしょうか。 結果を知るとすっかり気落ちしてしまうのですが、実は日本企業におけるホワイトカラーの生産性は先進国の中で最下位なのです。一方でブルーカラーの生産性はその逆でトヨタ生産方式に代表されるように高い生産性を誇っています。実際のところ弊社で引き合いを受ける業務コンサルティングのテーマで最も多いものの一つが管理間接部門の適正人員算定であり、これはとりもなおさず管理間接部門の生産性の低さを経営者が問題視していることの証しでしょう。逆に生産現場における生産性向上についてコンサルティングを依頼されたことは私の経験ではありません。 同じ日本人が働いているのになぜブルーカラーの生産性は高く、ホワイトカラーの生産性は低いのでしょうか。多くのホワイトカラーは大学を卒業しており知力も高いはずなのに、こと業務の生産性に関してはなぜブルーカラーの人々に負けてしまうのでしょうか。これにはもちろん多くの原因が存在するのでしょうが、私が考える一番の原因はやはり年功序列を基軸とした人事システムにあるのではないかと思います。現時点で道行く会社員に「あなたの会社は成果主義に基づく人事制度が導入されていますか」と聞けば、おそらく9割の人からYESという返事が返ってくるでしょう。しかしこれが曲者で、日本企業に導入されている成果主義は同期社員の間に数年の昇格スピードの差をつけることで社員に同期に負けじとする気持ちを持たせ奮い立たせようとするものであり、外資企業に見られるような年下の上司が存在する真の意味での成果主義が導入されている日本企業は少数派なのです。従って多くの日本企業においては年功序列を基軸に成果主義の味付けがしてある人事システムが主流と言えます。 日本企業の人事システムが年功序列でしかも退職率が低い、さらに経済成長の鈍化で高度成長時代のように会社規模が拡大し結果的にポストが増えることもないとなれば当然管理職あるいは管理職への待機人材が余剰となります。周りを見廻せばポストが空くのを待っている先輩社員がたくさん待機している有様では、入社時にはいつかは会社の中で課長になり、部長になり、そして役員になることを夢見ていても、それが見果てぬ夢であることに気付くのに時間はかからないでしょう。その結果社員に生まれるのは、与えられた仕事を無理しないでゆっくりとこなせば良い、いくら頑張っても昇進は無理、問題を起こさないようにマイペースで仕事をこなせば良い、と言った守りの姿勢です。この守りの姿勢こそがホワイトカラーの生産性を落とす最大の原因だと思います。人が守りに入った時、仕事の効率、生産性を上げる、同時に業務の品質、有効性を高めようとする気概も失われます。これがホワイトカラーの生産性を低下させているのです。 こうした状況の時、会社が生産性を上げるべく外部コンサルタントを雇ってトップダウンアプローチでBPR(ビジネス・プロセス・リエンジニアリング)を推進しようとしたら一体何が起こるでしょう。守りに入っている社員はBPRの推進に決して抵抗はしないでしょうが、自ら積極的に業務変革に取り組むこともないでしょう。BPRで与えられた新しい仕事の進め方を当座は守っているでしょうが、やがて問題がありさらに改善すべき点にも気付くはずです。しかし守りに入っている社員は問題を改善しません。その代わり仕事のやり方をBPR以前の元のやり方に戻してしまうでしょう。かくしてBPR活動は失敗し、仕事の進め方もいつのまにか元に戻っていたと言うことになります。 守りに入っているホワイトカラーの社員を生産性向上の動きに持ってゆくには、彼らの意識変革が必要です。それは生産性を向上させ仕事が変わってゆくこと自体が面白いと思わせること、あるいは生産性向上により労働時間が短縮し残業や休日出勤が減少することでより多くの自分の時間が持てるようになり、結果的にワークライフバランスがとれた生活を送れるようになることを理解させることで実現します。要するに守りに入っているホワイトカラーの社員が自ら生産性向上の必要性と価値を理解して動かない限り、生産性向上活動は決して成功しないのです。 これを実現するには会社全体としての取り組みを継続的に粘り強く実施することが求められます。例えば生産性向上に向けた時間管理の仕組みを作り、毎週上司と部下間で業務の無駄がないか確認する、全社キャンペーンを実施する、社長メッセージを定期的に発信する、研修を行う、等のいろいろな施策を組み合わせ、しかも継続的に実施することになります。成果が挙がるにも相当の時間がかかると思いますが、あきらめることなく粘り強い取り組みが求められます。従来からのBPRのようなトップダウンアプローチではなく、本人の意識に訴えるボトムアップアプローチこそがホワイトカラーの生産性を高める有望な手法と言えるのではないでしょうか。

会社と社員の距離 | その他

会社と社員の距離

会社に対する社員の意識が変わったと言われるようになって久しい。高度成長期からバブルの時代まで、社員は終身雇用の枠組みの中で年功序列的な昇進・昇格が約束され、その見返りとして会社に対し忠誠を尽くすことが当然のことであった。会社は安定的な賃金を支給し、社宅を提供し、社内運動会や社員旅行に家族ぐるみで参加するのも当たり前のように行われてきた。その結果、社員は親しみを込めて勤務先を「うちの会社」と呼ぶようになり、これはとりもなおさず「会社と社員の距離」が極めて近かったことを意味する。 ちなみに私が子供の頃、私の父は地方金融機関に勤務しており、まさしく会社と極めて近い距離での生活を送っていた。周りが同じ会社に勤める人ばかりの社宅に住み、運動会、旅行、釣り大会、等々の行事に参加しても同じ会社の関係者ばかりと言った状態であった。しかし、これは決して特別な話ではなく、当時の多くの会社員とその家族が同様の生活を送っており、それに対し何らの違和感も持たなかったのである。 バブル崩壊後、多くの会社で終身雇用や年功序列の仕組みを維持することが困難となり、それまでの会社と社員の関係は変質を余儀なくされた。会社に忠誠を尽くしても、その見返りを会社が与えてくれないと社員が感じ始めたところから「会社と社員の距離」は徐々に遠くなり始めた。社員と上司、社員と社員の関係も、以前は同じ会社と言う運命共同体に勤める同志だったものが会社と雇用契約を結んだ個人同志との関係へと変貌して行った。年功序列的な賃金体系から成果主義的な賃金体系への移行は少数のハイパフォーマーを満足させることはできても、それ以外の多く社員の満足にはつながらなかった。 もちろん、この変化の原因としてはバブル崩壊後の事業環境の激変だけでなく、社会全体の人間関係の変質も大きく影響しているのであろう。会社の懇親会や忘年会と言った従来の価値観からすると大切な社内コミュニケーションの機会も最近の若い社員には敬遠する人が多いと聞く。以前なら先輩社員から多くの経験談や非公式な情報を入手するせっかくのチャンスとばかり、先輩に酒を注いで回るのが若手の常識的な行動だったが、現在の若い社員は世代の異なる先輩社員とは話が合わないと言ってこうした機会を避けたがる傾向にあるらしい。 話は逸れるが、先日、通勤電車に乗っていて面白いことに気付いた。その電車はドアの左右に横向きのシートがあり、ドアとドアの間の車両中央部に4人が向かい合って座れるボックス席が配置された通勤電車である。ドア左右の横向きシートは中央部のボックス席に比べて背もたれが低い上、乗り降りする人も多いので落ち着かないため、以前なら電車に乗って来た人は空席があればまず中央部のボックス席に座ろうとしたものである。しかし現在の若い人は違う。ボックス席に空席があってもそこには座ろうとせず、ドア左右の横向きシートに座ろうとするのである。若い人は体格が良いので足を伸ばせる席が良いのだと言う意見もあるが、私の見解は違う。つまり見知らぬ人と目と目が合ったり、場合によっては見知らぬ人との会話を余儀なくされる可能性があるボックス席を潜在的に回避しているのだと思う。前述の宴会を避ける若い社員の行動と同じで、自分と同じ世代、あるいは話が合う人以外とのコミュニケーションを避けたい意識が現れているのだろう。 少し前のことだがある調査会社が従業員500名以上の企業に勤める会社員に対し、社長や会社に感じる「気持ちの上での距離」に関する調査結果(注)を発表した。それによると社長は火星にいるくらい遠いと回答した社員が2割おり、会社との気持ちの上での距離については半数が「遠い」と回答したとのことである。問題なのは会社との距離が遠いと答えた社員の多くはモチベーションが上がっていないことである。逆に会社との距離を縮めるための施策として最も重要なのは「会社の理念や戦略を認識し、共感できる」こととの結果も出ている。 前述のとおり昨今の経済環境下においてはバブル期以前のように社員の働きに対してポジションや金銭で報いることは難しくなってきている。これをそのまま手をこまねいて見ているのでは「会社と社員の距離」は決して縮まらず、社員のモチベーションは上がらない。だが幸いなことに会社側から積極的なコミュニケーションを社員に働きかけ、社員が「会社の理念や戦略を認識し、共感できる」ようになれば「会社と社員の距離」を縮めることができるのである。また社員への金銭的な報いが難しくとも、会社側が社員のニーズを汲み取り、知恵を絞れば所謂「非金銭的報酬」として社員に報いることも十分可能であろう。金をかけずに「会社と社員の距離」を縮める方法はまだいくらでもあるのである。 (注)出典:社長や会社に感じる「気持ちの上での距離」に関する調査(JTBモチベーションズ)