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なぜホワイトカラーの生産性は上がらないか | その他

なぜホワイトカラーの生産性は上がらないか

企業にとって業務を効率化し、生産性を向上させることは永遠の課題であり、これまでも多くの取り組みがなされてきました。ホワイトカラーの生産性向上については何十年も前から企業の重要な組織テーマとして各企業で様々な試みがなされてきています。その結果は果たしてどうだったでしょうか。 結果を知るとすっかり気落ちしてしまうのですが、実は日本企業におけるホワイトカラーの生産性は先進国の中で最下位なのです。一方でブルーカラーの生産性はその逆でトヨタ生産方式に代表されるように高い生産性を誇っています。実際のところ弊社で引き合いを受ける業務コンサルティングのテーマで最も多いものの一つが管理間接部門の適正人員算定であり、これはとりもなおさず管理間接部門の生産性の低さを経営者が問題視していることの証しでしょう。逆に生産現場における生産性向上についてコンサルティングを依頼されたことは私の経験ではありません。 同じ日本人が働いているのになぜブルーカラーの生産性は高く、ホワイトカラーの生産性は低いのでしょうか。多くのホワイトカラーは大学を卒業しており知力も高いはずなのに、こと業務の生産性に関してはなぜブルーカラーの人々に負けてしまうのでしょうか。これにはもちろん多くの原因が存在するのでしょうが、私が考える一番の原因はやはり年功序列を基軸とした人事システムにあるのではないかと思います。現時点で道行く会社員に「あなたの会社は成果主義に基づく人事制度が導入されていますか」と聞けば、おそらく9割の人からYESという返事が返ってくるでしょう。しかしこれが曲者で、日本企業に導入されている成果主義は同期社員の間に数年の昇格スピードの差をつけることで社員に同期に負けじとする気持ちを持たせ奮い立たせようとするものであり、外資企業に見られるような年下の上司が存在する真の意味での成果主義が導入されている日本企業は少数派なのです。従って多くの日本企業においては年功序列を基軸に成果主義の味付けがしてある人事システムが主流と言えます。 日本企業の人事システムが年功序列でしかも退職率が低い、さらに経済成長の鈍化で高度成長時代のように会社規模が拡大し結果的にポストが増えることもないとなれば当然管理職あるいは管理職への待機人材が余剰となります。周りを見廻せばポストが空くのを待っている先輩社員がたくさん待機している有様では、入社時にはいつかは会社の中で課長になり、部長になり、そして役員になることを夢見ていても、それが見果てぬ夢であることに気付くのに時間はかからないでしょう。その結果社員に生まれるのは、与えられた仕事を無理しないでゆっくりとこなせば良い、いくら頑張っても昇進は無理、問題を起こさないようにマイペースで仕事をこなせば良い、と言った守りの姿勢です。この守りの姿勢こそがホワイトカラーの生産性を落とす最大の原因だと思います。人が守りに入った時、仕事の効率、生産性を上げる、同時に業務の品質、有効性を高めようとする気概も失われます。これがホワイトカラーの生産性を低下させているのです。 こうした状況の時、会社が生産性を上げるべく外部コンサルタントを雇ってトップダウンアプローチでBPR(ビジネス・プロセス・リエンジニアリング)を推進しようとしたら一体何が起こるでしょう。守りに入っている社員はBPRの推進に決して抵抗はしないでしょうが、自ら積極的に業務変革に取り組むこともないでしょう。BPRで与えられた新しい仕事の進め方を当座は守っているでしょうが、やがて問題がありさらに改善すべき点にも気付くはずです。しかし守りに入っている社員は問題を改善しません。その代わり仕事のやり方をBPR以前の元のやり方に戻してしまうでしょう。かくしてBPR活動は失敗し、仕事の進め方もいつのまにか元に戻っていたと言うことになります。 守りに入っているホワイトカラーの社員を生産性向上の動きに持ってゆくには、彼らの意識変革が必要です。それは生産性を向上させ仕事が変わってゆくこと自体が面白いと思わせること、あるいは生産性向上により労働時間が短縮し残業や休日出勤が減少することでより多くの自分の時間が持てるようになり、結果的にワークライフバランスがとれた生活を送れるようになることを理解させることで実現します。要するに守りに入っているホワイトカラーの社員が自ら生産性向上の必要性と価値を理解して動かない限り、生産性向上活動は決して成功しないのです。 これを実現するには会社全体としての取り組みを継続的に粘り強く実施することが求められます。例えば生産性向上に向けた時間管理の仕組みを作り、毎週上司と部下間で業務の無駄がないか確認する、全社キャンペーンを実施する、社長メッセージを定期的に発信する、研修を行う、等のいろいろな施策を組み合わせ、しかも継続的に実施することになります。成果が挙がるにも相当の時間がかかると思いますが、あきらめることなく粘り強い取り組みが求められます。従来からのBPRのようなトップダウンアプローチではなく、本人の意識に訴えるボトムアップアプローチこそがホワイトカラーの生産性を高める有望な手法と言えるのではないでしょうか。

会社と社員の距離 | その他

会社と社員の距離

会社に対する社員の意識が変わったと言われるようになって久しい。高度成長期からバブルの時代まで、社員は終身雇用の枠組みの中で年功序列的な昇進・昇格が約束され、その見返りとして会社に対し忠誠を尽くすことが当然のことであった。会社は安定的な賃金を支給し、社宅を提供し、社内運動会や社員旅行に家族ぐるみで参加するのも当たり前のように行われてきた。その結果、社員は親しみを込めて勤務先を「うちの会社」と呼ぶようになり、これはとりもなおさず「会社と社員の距離」が極めて近かったことを意味する。 ちなみに私が子供の頃、私の父は地方金融機関に勤務しており、まさしく会社と極めて近い距離での生活を送っていた。周りが同じ会社に勤める人ばかりの社宅に住み、運動会、旅行、釣り大会、等々の行事に参加しても同じ会社の関係者ばかりと言った状態であった。しかし、これは決して特別な話ではなく、当時の多くの会社員とその家族が同様の生活を送っており、それに対し何らの違和感も持たなかったのである。 バブル崩壊後、多くの会社で終身雇用や年功序列の仕組みを維持することが困難となり、それまでの会社と社員の関係は変質を余儀なくされた。会社に忠誠を尽くしても、その見返りを会社が与えてくれないと社員が感じ始めたところから「会社と社員の距離」は徐々に遠くなり始めた。社員と上司、社員と社員の関係も、以前は同じ会社と言う運命共同体に勤める同志だったものが会社と雇用契約を結んだ個人同志との関係へと変貌して行った。年功序列的な賃金体系から成果主義的な賃金体系への移行は少数のハイパフォーマーを満足させることはできても、それ以外の多く社員の満足にはつながらなかった。 もちろん、この変化の原因としてはバブル崩壊後の事業環境の激変だけでなく、社会全体の人間関係の変質も大きく影響しているのであろう。会社の懇親会や忘年会と言った従来の価値観からすると大切な社内コミュニケーションの機会も最近の若い社員には敬遠する人が多いと聞く。以前なら先輩社員から多くの経験談や非公式な情報を入手するせっかくのチャンスとばかり、先輩に酒を注いで回るのが若手の常識的な行動だったが、現在の若い社員は世代の異なる先輩社員とは話が合わないと言ってこうした機会を避けたがる傾向にあるらしい。 話は逸れるが、先日、通勤電車に乗っていて面白いことに気付いた。その電車はドアの左右に横向きのシートがあり、ドアとドアの間の車両中央部に4人が向かい合って座れるボックス席が配置された通勤電車である。ドア左右の横向きシートは中央部のボックス席に比べて背もたれが低い上、乗り降りする人も多いので落ち着かないため、以前なら電車に乗って来た人は空席があればまず中央部のボックス席に座ろうとしたものである。しかし現在の若い人は違う。ボックス席に空席があってもそこには座ろうとせず、ドア左右の横向きシートに座ろうとするのである。若い人は体格が良いので足を伸ばせる席が良いのだと言う意見もあるが、私の見解は違う。つまり見知らぬ人と目と目が合ったり、場合によっては見知らぬ人との会話を余儀なくされる可能性があるボックス席を潜在的に回避しているのだと思う。前述の宴会を避ける若い社員の行動と同じで、自分と同じ世代、あるいは話が合う人以外とのコミュニケーションを避けたい意識が現れているのだろう。 少し前のことだがある調査会社が従業員500名以上の企業に勤める会社員に対し、社長や会社に感じる「気持ちの上での距離」に関する調査結果(注)を発表した。それによると社長は火星にいるくらい遠いと回答した社員が2割おり、会社との気持ちの上での距離については半数が「遠い」と回答したとのことである。問題なのは会社との距離が遠いと答えた社員の多くはモチベーションが上がっていないことである。逆に会社との距離を縮めるための施策として最も重要なのは「会社の理念や戦略を認識し、共感できる」こととの結果も出ている。 前述のとおり昨今の経済環境下においてはバブル期以前のように社員の働きに対してポジションや金銭で報いることは難しくなってきている。これをそのまま手をこまねいて見ているのでは「会社と社員の距離」は決して縮まらず、社員のモチベーションは上がらない。だが幸いなことに会社側から積極的なコミュニケーションを社員に働きかけ、社員が「会社の理念や戦略を認識し、共感できる」ようになれば「会社と社員の距離」を縮めることができるのである。また社員への金銭的な報いが難しくとも、会社側が社員のニーズを汲み取り、知恵を絞れば所謂「非金銭的報酬」として社員に報いることも十分可能であろう。金をかけずに「会社と社員の距離」を縮める方法はまだいくらでもあるのである。 (注)出典:社長や会社に感じる「気持ちの上での距離」に関する調査(JTBモチベーションズ)

コミュニケーションに「こころ」はいらない | その他

コミュニケーションに「こころ」はいらない

縁あって、平田オリザさんの話を聞いた。 平田さんは、劇団を主宰するとともに、現代演劇の理論化とそれを活用したコミュニケーション教育で知られる。16歳のとき自転車で世界一周したことは有名だが、近年は、大学の教員も歴任し、管直人政権下では内閣官房参与の任にあった。 そのなかで、大阪大学で共同研究している「ロボット演劇」の話があった。ロボットが劇を演じ、人が観客として鑑賞する。そのお披露目では、ロボットの演技で、観客は涙を流したという。感情も意思もないロボットも、演じることで人を感動させられたということだ。 ロボット演劇が成立するとしたら、演技つまり“コミュニケーションの型”が的確でさえあれば、自身の感情や思い、価値観とは無関係に、人を動かすことができるということではないか。これは、企業組織のなかのコミュニケーションを考える際にも示唆的である。 以前、ある仕事で複数の企業の管理職者たちに、「リーダーシップの持論」をインタビューしたことがある。主旨は、部下育成に優れるリーダーとおぼしき方々を選定し、「人を育てるリーダーとは何か、どう行動しているか」を聞いて、類型化することだった。どの方の話も自身の実践の中で培われた方法論で興味深いものだったが、ある女性管理職の方の言葉が印象的だった。 彼女は、管理職を「どう効果的に演じるか」について語り、また、部下にも「あなたの役割を演じるんだ、とまず考えなさい。あなた自身と役割は別のものだから」と指導していると言った。 そのとき「管理職を効果的に演じる」といわれてみて、リーダー達がそれぞれに実践している行動を改めて振り返ると、確かに、みな芝居がかっていた。それが、リーダーシップ・コミュニケーションという型(=演技)ということだ。 さらに彼女のスタンスは、管理職でなくても、若い社員であっても業務の役割があり、組織の一員という役割もあるのだから割り切れ、ということである。そして、役を演じろと。 ロボット演劇の話は、コミュニケーションに「こころ」はいらないという極端な仮説である。コミュニケーションとはそういうものだ、とは短絡できないが、ただ、コミュニケーションに「こころ」は必須ではないという指摘は、大事なことだろう。「こころ」とは、あるがままの自分とか、本当の自分の思いであり、それを考えるあまり、組織のなかで不具合や葛藤が起こってくることもある。 若年層に頻出しているメンタル失調やそれに伴う離職者が多いことには、こうした不具合も原因しているのではないか。自分を見つめなおしたり、あるがままの自分であるべき、といった内省は、会社で働く上で必要がない。会社の一員としての「役」を、いかに意識的に演じるか、という姿勢があればいい。 平田さんの演劇教育は、企業研修にも応用可能である。タフな社員を育成するために、新入社員の時から、「役」を演じる面白さ、楽しさを教える施策として、展開してみようと思う。 以上 参照 コミュニケーションに「こころ」は必要 という立場でコラムの執筆があります。 (リンク先はこちらです↓) https://www.transtructure.com/column/20100809/

麻薬的残業の正体 | その他

麻薬的残業の正体

「なかなか残業が減らせない」という声が、多くの人事担当の方々から聞かれる。業務効率の向上はもちろん、過重労働の軽減やワークライフバランスを考慮した働き方の要請からも長時間労働をなくしていかねばならないが、その実現は簡単ではない。 その理由には、「当社の仕事は“特殊”だから」という、“共通”したものや、「お客さんに合わせざるを得ないから」、「なによりもまず業績回復」といった組織の状況があげられるが、従業員の側にある要因の指摘としてしばしば聞かれるのが、目先の仕事に没頭してしまう自発的かつ習慣的残業。好きで残業しているとしか思えない、いわば、「麻薬的残業」である。 ITエンジニアやクリエイティブワークといった顧客とともにモノを作り上げていくタイプの仕事に多い、「時間をつぎ込むだけ品質が上げられる」との想いで、際限なく残業を続ける人々の存在である。彼らは、強制されてではなく自ら進んでやっているように見えるし、かつてのWorkaholic世代であった上司からみれば「まあ仕方がない」とも思える。ライフの充実のために残業するな、と命じても、家に早く帰ってもやることがないとまで言われれば、それはそれである種のワーククライフバランスか、と納得したりする。 麻薬的残業の麻薬性は、目の前の仕事の面白さや分かりやすい顧客満足の手ごたえにある。たとえば多様なプロジェクトワークのなかで顧客との同志的な感覚や達成の高揚感を感じる。顧客満足の向上は、自分の価値の向上にも思える。結果、日々の仕事に耽溺し、多大な時間を投下するということになる。 この限りでは、たしかに理解はできる。やりがいを感じて働いている分、よしとしたい、と言えなくもない。問題はこの働き方がメリハリなく習慣化していることである。仕事の緊急度や求められるアウトプット品質のレベルにかかわらず常にだらだらと残業を続けることをやめられない。その常習性が問題だ。 そこには、不安からの逃避という心理があるのではないのか。仕事の分かりやすい面白さにのめり込むことで、本来の仕事のあり方や自身のキャリアやビジョンの不安から、意識的にか無意識的にか目を閉ざしているのかもしれない。そのことが、将来の仕事やキャリアのための自己投資の時間確保を阻害し、成長への不安をまた醸成するという悪循環。 だとすれば、これは個人の側だけの問題ではなく、やはり組織の問題だろう。麻薬的残業の足元にある不安は、組織の将来の不安に起因するはずだからだ。 背景にある組織の不安仮説としては、自社のビジネスモデルへの不安、そこにもとずく人材像の不安、あるいは組織の在り方の不安。つまり、会社の事業の将来が見えない、仕事の将来が見えないということが、自分自身のキャリアや成長目標を見えなくしている。どんな能力開発に投資すべきかが分からない。そうしたビジョンやメッセージが伝わってこない組織が、自分の価値を見失わせ、目先の仕事に逃避する。 いわば「ビジョンなき繁忙」が生み出すメリハリのない麻薬的残業。タイムマネジメントの実践には、この観点も忘れてはならないだろう。

故きを温ねて・・ | その他

故きを温ねて・・

新しい期を迎え、ただでも多忙なのに、部下の人事評価を書いて人事部に提出しなければならない大変な時期だ。人事評価などという仕事は面倒くさいものだと思っている管理職は多いだろう。いきおい、何とか「表を埋める」ことに終始することになる。評価される側にとっても、普段の仕事を評価されるとなると楽しいことばかりではないだろう。評価が公平でないなど不満の声を上げる向きも多い。多大なパワーをかけて行うこの人事評価という年中行事、もっと効果的なものにする手はないものだろうか。 先日、100年近く前にわが国の海軍省が運用していた古い人事制度の話を聞く機会があった。ずいぶん昔の、しかも軍という特殊な組織の中でも、私たちが日頃目にしているのと同じような人事評価制度が運用されていたことを知り、興味深く感じた。だが、それにも増して印象深かったのは、その評価制度が現代の我々の悩みにも存外答えてくれそうなものであったことだ。 まず、人事評価の目的を何に置いているか。海軍省では人事評価の主目的を、「適材を発見し、適所に配置すること」とし、同時に「適切な教育を実施すること」としていた。「進級と増俸の決定は人事評価の副次的な目的」であったという。この点、現代でも変わらぬ重要なポイントを衝いているではないか。社員の能力の不足を精力的に補い、偏り無く人材を配置し続けることは、会社の成長と生産性向上に欠くことのできない仕事だ。人事評価、特に能力評価はこのためにこそあるといえる。評価の目的をきちんと理解すれば、多忙な中でもきちんと時間を割いてじっくり向き合うべき仕事だと考え直すことができる。 また、被評価者の個別事情に配慮していることも見逃せない。決められた評価フォーマットの中には、被評価者の自己申告を記述するスペースがあり、上官は、被評価者本人の意思を十分に斟酌したうえで、本人のワークモチベーションに十分に配慮した適正な配置を進言するという仕組みになっていたようだ。 この評価制度は、また、人事評価の基礎として十分な観察と正確な記述を求めていた。「評価者は、常日頃からよく部下の言行、技能、能力を観察し、慎重に考察のうえ、正確な考課事実を集め記述すべきだ」とし、評価の記述に当たっては「忌憚無く的確精細に記述して本人の真価を表現するように努めるべきだ」としている。さらに、「婉曲すぎて真意を伝えにくい文章の修飾を避け、直裁に真相を表現するべきであり」、そのためには「慣用句や俗語を使っても構わない」としていた。 さらに、この評価制度は、「評価は評価時期にだけ行う仕事ではなく、評価期間の途中であっても賞賛や非難に値する行為があったときや能力や身体の状況に特筆すべき変化が起こったと認められた場合は、そのポイントだけを評価表に記述し臨時評価表を提出すること」を求めていた。これらのことは、勘や印象に基づく評価を避け、事実に基づいた正確な評価を行おうとする誠に的を射た施策であり、今日の多くの管理職にとって耳の痛いアドバイスである。 評価者から収集された評価表の記述は、「短冊」と称する個人別帳票に転記され、訓練実績、能力の伸長、本人の志向など一目瞭然にがわかるよう人事担当部局で大切にファイルされていたそうだ。いまでこそ人事データベースの整備が唱えられるが、有効利用している会社が多いとはいえないのではないか。 海軍省の人事評価の仕組みには、限られた人材の力を十分に発揮させ、組織のパフォーマンスを最大化しようとする工夫がたくさん詰まっていた。人事評価の本質は時代や組織を超えて普遍のものなのだろう。

合併前夜 | その他

合併前夜

 3つの企業が合併するための準備プロジェクトに関与したことがありました。同業界内での中堅の3社が、大手企業に対抗して規模メリットを追求して合併するというものです。正式な合併の調印をするまでに、合併の諸準備を行わなくてはなりません。各領域に個別委員会を編成し、全体を統括する合併準備委員会で決済をする臨時組織を編成しました。主要な個別の委員会は、合併後の経営計画を立案する経営企画委員会、営業統合を進める営業統合委員会、組織機構や人員配置を検討する組織委員会、諸規定や人事制度の整備をすすめる総務人事委員会、新会社の情報システムを統合する情報システム委員会などです。これらの委員会にコンサルタントを数名づつ配置し、統合準備のアドバイスを行うというものでした。私は大元の合併準備委員のメンバー、組織委員会と総務人事委員会の2つの委員会のコンサルティングの責任者として、部下数名づつ配置して統括する役割でした。  個別の委員会は委員長1名と副委員長2名の元、3社から数名の担当者が配属されます。また諸連絡調整のための委員会事務局を設置しました。これにコンサルタント数名が加わり委員会を運営します。委員会は3社の出身者によって多くのテーマについて協議して決定していくことになります。簡単に合意できるテーマもあれば、合意が極めて難航するものもあります。組織委員会では、あるべき組織機構については3社とも合意するものの、責任者の任用の決定方法についてはなかなか合意に至りません。出身会社の規模による役職ポストのバランスの調整が難しく、そのため本当は1名の部長で十分なところを、副部長2名を配置せざるを得ない妥協も選択せざるを得ません。組織人事委員会での難しい大きなテーマは2つありました。社名の決定と人事制度の統合です。社名に関してはA社が旧社名を連想させる名称にこだわります。他の2社は現在の3社の名前を全く連想させない新しい名称にすることを強烈に主張します。  3社を仮にA社B社C社とします。売上規模はA社を3とするとB社は2、C社は1.5の規模です。大手企業に対抗していくためには規模拡大によって、コスト削減や営業の統合にシェアの拡大を実現しなければなりません。時勢の流れでは3社合併は理にかなったものでした。今のままでは3社とも将来はじり貧と予想されますが、合併すれば新しい成長戦略が描けます。この合併はB社C社は積極的に推進したい意向です。しかしA社は合併後もA社オーナーが主導する立場を保持したいと考えています。A社としては他の2社を吸収したい意向もありましたが、企業規模や収益状況からA社による吸収合併は困難です。A社は合併をして主導権取りたいという思惑が根底にあります。そのため委員会の中ではA社vsB社C社という構図が多くみられました。その最たるものが、主要ポストへのA社社員の配置や社名、人事制度です。  様々なテーマは多くの困難や長い協議の結果、なんとか解決の方向が見いだせました。しかしこの3つのテーマについては結論のでない長い協議を繰り返すのみです。最終的には役職者任用は1年間は旧3者出身者を配置し能力適正を判断した後、1年後に1名とすることになりました。社名は現在の合併スキームからは新しい社名を公募することで一応の決着をみました。これは3社の社長に個別に状況を話をして何度も根回し調整の後にやっと結論に達しました。人事制度はもっとも困難でした。A社はさしたる理由もなく、A社の人事制度をそのまま準用することを主張します。日本的な人事制度で成果実力主義的とは言えない制度です。最も人事制度が整備されているのはB社でした。厳しい経営環境を想定した人事制度であり非常に考えられ工夫されたものでした。規模メリットによるコスト削減効果を実現するためにも、また旧3社のイメージを残さないで実力主義を実現し、社員の融合を促進するためにも、B社をベースとした人事制度への転換が誰の目からも合理的です。最終的には委員会内での多数決で決しました。  様々な苦労や困難を経て、やっと合併の最終合意書への調印の日を迎えようとしていました。コンサルティング部隊もやっとの思いで準備作業を進めてきましたので、主要なテーマが解決のめどが立ち、一仕事終わった達成感があります。しかし合意書への調印前日の深夜に電話が鳴ります。相手は組織委員会の責任者であるB社の専務取締役です。電話の内容は、調印前夜にA社のオーナー社長は合併を撤回したという衝撃的なものでした。様々な準備がなされ、いよいよ新会社の誕生という前夜に、合併条件にかねてから不満のA社社長が翻意したということです。3社合併は前夜に無くなったということです。その後A社社長に対して多くの関係者が説得しましたが、首を縦に振ることはありませんでした。  当然コンサルティングも突如終了します。組織・人事については、ある程度理想的な姿にできる準備が整っていただけに、あまりに突然の終了で唖然とした記憶があります。その後数年たち、A社は業績低迷で業界大手企業に吸収されます。B社C社は他の連衡先を探し数社からなる企業連合をつくります。しかしその企業連合も数年後には大手企業の攻勢に逆らえず吸収されることになります。B社専務とはその後も何回か会う機会がありました。その度にあの3社合併が成立していればこのような状況にならなかったと回想します。経営にとって時勢を読むことが重要だとつくづく感じる案件でした。

人事部長には先がない | その他

人事部長には先がない

 統計をとっているわけではありませんので、感覚的な話になりますことをまずは宣言させていただきます。結論は、人事部長経験者は役員になる可能性が低いのではないかということです。人事部長ポストは確かに重要なポストではありますが、人事を含めた管理部門の責任者に直結したポストかというと、経理や経営企画のほうが、分があるようです。多くの企業(特に株式公開している企業)では経理部長出身者が管理部門全体の責任者に昇進する可能性が高いように思えます。CFOという言葉は日本語では最高財務責任者ということになりますが、実際には管理本部長ということです。経理財務を制する者は他の管理分野の統括も包含していくことが普通な感覚です。たまにCHO(チーフ・ヒューマンリソース・オフィサー、最高人事責任者)などのような言葉もありますが、管理部門全体を掌握できるルートにいない人事関係者の寂しい思いが、このような中途半端な言葉を生んでいるのでしょう。  そもそも管理間接部門は企業経営の基盤を整備することが主たる任務です。主要な機能としては、経営企画、経理財務、人事、総務、法務、システムなどしょう。これらの機能の中で短期業績重視、株主経営重視、対金融機関重視という観点で、経理財務責任者が管理部門全体を掌握していくことが普通な流れと認識されているのです。経営の重要なリソースはヒト、モノ、カネ、情報と言われています。特に資源のない日本企業ではヒトの管理が企業の成長に絶大な影響を与えるはずです。しかし実際の人事管理のレベルはこの経営の期待に対して大きく遅れていると言わざるを得ません。実際には給与計算や評価の後処理、採用などの実務に追われて、本来のヒト資源の有効な管理を提供していないのです。経営計画を達成するには、人員配置、採用退職、評価給与のコントロールが絶対的な力を持つのであれば、人事機能の地位はもっと格段に向上するでしょう。  人事が十分に機能していないことは、経営にとっても重大だと思う企業も多くあります。そのため今まで古い変革のしない人事部で育った社員を人事の責任者にせず、営業や製造の第一線で活躍してきた社員を人事部長に任命するケースも散見されます。過去の人事管理のレベルを脱却して、新しい視点で経営が求める人事管理を構築したいというのが本音なのでしょう。このような人事も効果的に作用することはあります。特に大規模なリストラを断行する場合などは有効な手法ではあります。  今後人事機能が経営に対してより高い付加価値を提供し、人事機能の強化なくして企業の成長がないくらいの重要性の認識が持たれるほどのレベルに成長しなければ、人事部長に明日はないでしょう。厳しい環境における再成長のためのヒト資源の管理を合理的に提供できる人事機能を性急に求めています。このように人事が経営の本質的なニーズに近づけば、将来CFO(最高財務責任者、管理部門責任者)は人事部長から昇進することになるでしょう。CHOなどのような矮小な概念で今の人事の地位を守ろうとするのではなく、企業経営により貢献する機能として再出発しなければなりません。

発達不全 | その他

発達不全

 研修のなかで、参加者一人一人の行動を観察しアセスメントすることがある。そのときのポイントの一つは、グループで議論をしていて意見が対立したときに、別の観点を提示して、その停滞局面を打破し議論を前に進めるような発言をしているか、ということだ。  単に、同調したり、頑なに自説にこだわるのではなく、意見の違いを踏まえたうえでコミュニケーションの階梯を一段あげるような発言たりえてるか、に注目して観察をする。そこに、思考力やリーダーシップ、とくにコミュニケーションのスキルレベルを診ることができるからである。  グループディスカッション演習では、だいたいどのグループにもそうした役割を果たす人がいるものだが、ときに、そうした場面がまったく見られないことがある。そもそも意見の対立自体が起こらなくて、むしろ違いの表出を避けるかのようにグループの結論がまとまる。予定調和的な議論が展開され、正解というか優等生的な答がきちんとだされたといった印象。そんな会社が何社かあった。  それが事業特性から醸成されている社風なのかもしれないし、優秀な人たちならではの“研修だから”といった割り切った所作かもしれないけれども、そこには強い違和感を覚える。個々人は優秀でおそらく実務でも問題ないけれども、もしかするとこの集団は、「大人の仲間関係」ではないのではないか。つまり、違いを前提にして合意形成に至るというコミュニケーションレベルに至っていないのではないか。  成長過程で、集団におけるそうした振る舞いのベースが身に付くには、3段階の仲間意識の発達を経ると臨床心理学でいわれる。  子供は、小学生高学年くらいから、親の言うことよりも友達の言うことを重視するような仲間意識が現れる。その第一段階は、「ギャンググループ」と呼ばれ、そこでの一体感は、同一行動による。同じ格好や行動をするから、仲間だということである。つまりみんなでつるんで、悪さばかりしているからギャング。  第二段階は、「チャムグループ」。チャム(chum)とは、ぺちゃくちゃしゃべってばかりいることで、この年代の一体感は、言葉による確認になる。「昨日〇〇を見た」「私も見た見た」「あれかっこいいよね」「そうそう」と言葉でお互いが同じだと言い合う。ときに自分達だけの共通の言葉で、行動ではなく内面の類似性を確認する。これが中学生ぐらい。  高校生以上になると、本来の仲間という意味の「ピアグループ」となる。今までと違って、お互いの違いを認めたうえでの、仲間意識。チャムの段階だと、自分の言葉を否定されると自分を否定されたと受け取るけれども、そうではなくなる。つまり、議論ができるようになる。  大学生を対象にしたエンカウンターグループセラピーを実施しているカウンセラーに、「受験教育のなかで仲間関係を十分に経験せずに大学生になって、ギャングやチャムを楽しむ学生が増えている。より深刻な問題は大学生の病理現象の変化だ」と聞いたことがある。学生のノイローゼは、かつては“自分”に関するものだったが、いまはすべてが“対人関係”の悩み。「人と付き合えない」「女性と口がきけない」「沈黙が怖い」といった集団としての行動がうまくとれないといったものだ。  もしかすると、企業の中のコミュニケーションもチャムレベルにとどまっている場合もあるのかもしれない。そこでピアの議論などすると仲間関係がうまくいかない。だから大人の議論を避ける。もしかすると、メンタルイッシュ―もその発達不全に起因しているかもしれない。  大人のコミュニケーションとは、お互いが違うときに、少しずつ傷つけあって、第三の道を見出していくことだ。第三の道とは、交渉における合意点であるだけなく、今までにない考え方や方法でもある。だとしたらそれは、決められたことをきちんとやるのではなく、仕事のやり方の革新を生み出すために不可欠の、集団の振る舞いでもあるのではないか。  組織変革力が求められる状況下、それは社風やコミュニケーションのクセといって片づけられない、きわめて大きな問題なのかもしれない。

マネージャーの意思に始まる | その他

マネージャーの意思に始まる

 誰でもが同じように評価でき、評価される側も納得感のある評価制度を設計することは難しい。  しくみを精緻に作りこもうとして、ともすれば複雑な計算式による評価が、どうも実態と離れた運用となり「評価のための評価」となってしまうことがある。あるいは、抽象度の高い評価項目に対して、基準が分からず曖昧でつけにくいと、現場の管理職者から文句がでたりもする。  いま主流になってきている絶対評価は、基準に即した評価ということだから、基準がはっきりしなければ始まらない。目標管理であれば、目標の達成水準が大事だし、能力評価や行動評価でも何をもって標準的か、標準より高いレベルか、低いレベルかを判断するか評価者を悩ませる。しかし、その答えを評価制度を作った人事部に求めるのは筋違いだろう。  目標の達成水準とは、管理者自身が「この部下には、ここまではやってほしい」と思うレベルである。さらに、ここまでいけば120%だし、この状態なら不十分で80%だと心づもる。「この部下には」、つまり等級や熟練度や給与に相応なレベルということも勘案して、である。その、自分が意思する達成水準を、期首に部下本人とにぎることがMBO(目標管理)の基本だろう。  能力や行動の評価も同じことだ。「この部下には、こういう行動をとって欲しい」という意思を、評価項目に即して具体的に描き、伝えておく。あとは、期中の具体行動をもって評価し、みづからつけた評点についての基準と根拠の説明責任を果たす。説明責任が果たせなければならないのは、もちろん、部下本人の納得感のためでもあるが、それ以上に経営に対する説明と宣言でもある。  目標にしろ能力や行動にしろ、評価運用時の「基準」とは、マネジメントの意思そのものだからだ。自部門では、誰に、何を、どのレベルでやらせることによって、組織目標を達成するという意思の表明である。そこは管理職者自身が、やりたいように自由に、裁量性をもって行えばいいのである。ただし、説明責任を果たせることを絶対条件として。  その意思が独りよがりでないかを確認をするのが、二次評価者の役割だし、意思する「基準」が他と比べてレベルがあっているかどうかは、一次評価者同士の評価会議で、目標達成水準や評価根拠の妥当性を相互検証すればいい。たとえば、いかに抽象的な能力評価項目であっても、この等級でこういった行動なら、「3」じゃなくて「2」だな、といった評価会議での検証・共有が蓄積していくことで、自社のリアルな評価基準が浸透していくことになる。  だから評価制度は、管理職者が意思を持って運用しやすいしくみであることが最重要な要件である。そして、評価者たちがみな、裁量性と説明責任を意識した評価運用をする。評価会議等を通じたその組織的実践が、各社固有の評価品質を高めていくはずである。  各社の人事部の方々を集めて評価セミナーをやることがある。そこではいつも、MBOで目標を立てるのは、上司か部下のいづれかを聞いてみる。すると、たいていは部下が立てる社の方が多い。もちろん、最終決定は上司なのだろうけれども、やはり、部下の目標は上司が設定することを原理原則にして、目標設定というマネジメント意思の表明を突きつけるべきではないか。

LP再生 | その他

LP再生

 日本の企業にはローパフォーマー社員(以下LP社員)が多すぎます。企業業績に貢献が少ない、またはほとんどない社員が驚くほど多く在籍しているのです。LP社員がどの程度存在しているかは、勝手な推定では5%程度ではないかと思います。この5%という数字は非常にインパクトのある数字です。人件費の5%が過剰であるとも言えるのです。費用の中で極めて大きな比重を占める人件費のなんと5%も無駄なのです。  LP社員の問題は非常に根深く罪深いものです。入社してから月日がたつに従いLP社員は顕在化し始めます。新卒採用をしている企業は特にそうですが、採用時には企業の職務に向いていると想定して終身雇用契約をしています。しかし現実には向かない人もいます。また大卒から60歳までの38年間、ずっと高いモチベーション、コンディションを保つことも難しいです。なかには何らかの原因で長期にモチベーションが上がらない社員も発生するのです。  このLPの発生は本人が原因であることもありますが、企業側人事管理側にも問題があります。それは人事評価が甘くLP社員がLP社員であることをストレートに通知していないのです。そのためLP社員は入社後長期間、ほんとの意味で再生する指導を受けていないことが多く、結果50歳くらいで企業がリストラするときに初めて深刻なLPであることに気づかされるのです。  米国ではPIP(パフォーマンス・インプルーブメント・プログラム)という、社員のパフォーマンス改善プログラムが普及しています。様々な評価や専門のカウンセラーによるカウンセリング、教育の受講などをプログラム化して半年や一年間のような一定期間でパフォーマンスの向上を目指すのです。LP社員の場合には再生が主たる目的ですので、これで再生すれば本人も会社もハッピーです。しかし再生できないとなった場合には他社への転職を勧めることになります。  日本企業はLP社員に対して明確にLP社員であることを告げていません。仮にLP社員であることを告げても再生のチャンスやきっかけを与えていません。今後LP社員問題はさらに注目を浴びることになると思いますが、日本でのPIPは再生できないことを証明するための施策になってしまう可能性が否めません。LP社員にPIPを提供して、結果改善しなければ退職勧奨して再就職支援サービスを受け他社に転職させるという構図です。悪く言うと再就職支援サービスを受けさせるための証拠固めという感じでしょうか。  日本におけるLP問題の本質は、“再生”にあります。長期雇用を前提としている以上、社員の活用を最大限に行うためには、厳格な評価をし、再生のためのPIPを根付かせなくてはならないのです。今後PIPはより注目を浴びるでしょうが、再就職支援サービスの露払いのサービスに成り下がってはいけないのです。 以上

あらぬ疑い | その他

あらぬ疑い

 人事管理は経営管理の重要な領域であり、もっと高度に発達するべきでしょう。そのためには人事管理も他の分野と同じように、より高度に理論武装しなければなりません。今までの人事管理論は、“モチベーション”“やる気”などの言葉が多用されていました。どちらかと言うと定性的視点に立った分析が多く、また人事施策なども合理性に欠いた施策も多くあります。  企業の人事管理は経営管理としての有効性と説明責任がある以上、パフォーマンス、金額や人数などの定量的な視点での議論が不可欠です。今まではあまりに数字、定量といった視点が欠如していました。“人”を扱うのだから、数字的定量的な発想はしてはならないと思っている人が多いのです。数字、定量を人事管理の中に持ち込むことに、違和感を感じる人も少なくありません。  批判的な人の代表的な主張は、人事管理は“人”の管理であるから、人の気持ちを重視しなければならないという主張でしょう。もっと言えば“気持ち”“モチベーション”が重要だから、数字で議論してほしくないという感覚なのです。定量という言葉があるだけで、“気持ち”を大事にしていないと直結する人もいるくらいなのです。ですから定量的、合理性などを多用している私にストレートな意見を言う人もいます。“定量、合理性、理論のような視点は、人を大事にしていない”と。しかし私自身はこのような前近代的な批判はむしろ褒め言葉としか聞こえていません。  人事管理ですので、必要な人材、適正な人件費とともに、社員のパフォーマンスマネジメントとしてのモチベーションやロイヤリティーは重要であることは間違いありません。そういう意味では従来型の“気持ち”を重視した考え方に新たな定量的な視点を提供し、人事管理としての領域の全体像を提示しているという感覚です。  例えばバブル期大量採用をした企業では、昇格を甘くすれば管理職は余剰しますし、昇格を厳格にすれば管理職一つ手前の等級に多くの社員が滞留します。よく管理職手前の等級に長期に滞留する社員のモチベーションを上げるための研修をしたいという話があります。これはこの一団の社員に研修手段でモチベーションが向上できることを前提としています。しかし人員の構成が歪な企業では、高い等級の社員が低い等級の職務を行わざるを得ないので、いくら研修しても本質的な解決にはなりません。社員のモチベーションの問題の背景には、人員数や人員構成といった構造的な原因があることを明確に認識しなければなりません。そのためには全員管理職を目指させる制度を見直す必要もあるでしょうし、雇用調整なども視野に入れなければ解決しないのです。これは定量的、構造的視点で考えればごく自然の帰結です。  “人”を大事にするなら、逆に徹底して人事管理を定量化、見える化し、合理的な施策を施さなければなりません。よく“人を大事にしていない”というあらぬ疑いをかけられることが多いですが、人を大事にするからこそ、定量的視点が必須であると信じています。 以上

ネガティブフィードバック | その他

ネガティブフィードバック

 聞きなれない言葉だが、厳しい評価結果をきちんと伝えることの意味で、そのための面談スキルを教えたい、という御要請が増えている。  そうした面談のテクニックとしては、座る位置は対面でなく斜め、必ず先に席についていてイニシアティブをとる、ねぎらいやほめることから始めるとか、相手の心理フェイズの移行に即した心理学的コミュニケーションのワザとか、いくつかはあるものの、コトの本質は「勝負は、面談前についている」であって、日常のマネジメントがダメであれば、面談の場面だけでどんなスキルを発揮しても効果は望めない。  ネガティブフィードバックとは、LP(ローパフォーマ)に対して、まず前段で低い評価を伝え、処遇が悪くなることを伝え、理解させることである。そのうえで後段、今後の改善に向け、動機付け、アドバイスし、方針を合意することである。日常の指導が不十分であまりコミュニケーションもなく面談に臨んだら、まずは、この前段で紛糾する。つまり、イエローカード出されていないのに、いきなりレッドカード。本人うすうすわかっていたとしても、そこはマネジメント批判という武器を得て反撃に転じる。  多くのマネジャーは、ともすれば、HP(ハイパフォーマ)やAP(アベレージパフォーマ)とのコミュニケーションには時間をとっている反面、見切っているし気分も乗らないからかLPとはほとんどその時間をとっていない。本来は逆で、HPは放っておいてもやるのだから、LPとこそ時間をかけ指導しなければならない。LP指導にある程度の時間をかける効用は、第一に、「見られている、気に掛けられている」という本人認識、第二に問題行動に対するその時点での指摘=イエローカード提示、のふたつ。  こうした日常のマネジメントが留意されれば、心理学も駆使した面談テクニックを使うことで、悪い評価に「納得」はさせられないまでも「理解」はさせられる。自己評価が高いLPは、悪い評価はなにがあっても納得しない。しかし、日常のコミュンケ―ション(=相互確認)を踏まえて、上司がそのように評価することを理解することは、ギリギリできるのである。さらに、自分を気に掛ける日常の態度から、改善を望む上司のスタンスをわかっているから、後段の会話にまでいたることができることがたいへん大きな効用だ。  だから、ネガティブフィードバックスキル研修では、面談テクニックも教えるけれども、日常のLPへの指導、そのコミュニケーションスキルの獲得がポイントになる。大事な日常の指導にこそ、コミュニケーションのワザが効くからだ。そして、もうひとつ必ず扱う内容は、LPを作り出させないための心得だ。単なる業務遂行能力の多寡だけが、パフォーマンスを分けるものではない。LP予備軍には、行動特性や性格、あるいは人間関係面での“LPになりそうなアラームが出ている状態”というものがある。  そうしたアラームをきちんと掴んで、個々人のLP化をどう阻止するか、ということである。すでにいるLP対策もさることながら、LPを生み出さないことこそがマネジメントの要諦だろう。それが本来、マネジャーとして業務と人の両面をマネジメントすることの役割であり、醍醐味のはずである。