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追悼・松岡正剛さん「企業のジョークをいつ話せるか」  | その他

追悼・松岡正剛さん「企業のジョークをいつ話せるか」 

 雑誌「遊」創刊号を見て、たちまち、その編集をした松岡正剛という存在に心身をわしづかみにされた。科学から芸術まで横超的な世界認識のワザ、その外連味と諧謔に満ちた手さばきがあまりにも魅惑的だったのだ。当時、大学で物理学を学びつつも出版業界で生きていきたいと思っていたから、必ずこの人と仕事をしたいと心に決めた。「遊」では、量子力学と花鳥風月と触覚的な誌面デザインが一気通貫していたことも嬉しかった。  結局、出版社には入れてもらえず、松岡さんの、縦横無尽に文化を切り分け組み上げ世界モデルを提示する仕事ぶりを横目でみつつ、書かかれた文章をただただ消化する日々。企業人事部をクライアントとするコミュニケーション・コンサルティング会社にいたときに、企業組織論専門誌を、いわばソートリーダーシップの道具として発行することができ、早速、この雑誌の取材を口実にして松岡さんに初めて会うことができた。  当時、松岡さんは、数人のスタッフと猫たちと職住一致の集団生活をしていた。「雑談ならいつでも歓迎」という言葉を真に受けて、そこに上がり込んでは、ずいぶんといろんな話を聞かせてもらった。松岡さんは、「方法」に着目するアプローチを旨としていたが、あるとき、「たとえばね、目の前の人がどんな意図をもって会いに来て話をしているか、すぐにわかる方法があるんだ」と言った。  それを教えてくれ、というと、「んー、高いんだよこれは」とにやりとしつつ、「それはね、会ってから相手が話したことを、時間を逆にして再生してみるんだよ。すると、本心がたちまち浮き彫りになる」と言うと、いきなり、その日その時までに私が話した言葉を、逆順で口にし始めたのだった。「あなたはいまこう言ったが、その前はこう言った。その前にはこう言い……」と延々と続けてみせた。録音テープのような記憶力にも驚いたが、聞くと、こうしたオリジナルの方法論をいくつも編み出したことに驚嘆。常にそんな刺激を堪能できた。  松岡さんは「日本の組織」全16巻を手掛けていたから、企業組織の問題意識も持たれているはず、とわが企業組織論専門誌への連載を依頼した。テーマは、「企業の安楽死仮説」。出色のテーマだと意気込んでぶつけたのだが、反応はイマイチ。いろいろ議論をして、企業に限らず様々な組織、たとえば官僚組織、宗教教団、スポーツチーム、劇団、暴力団等々の主宰者にインタビューし、そこから企業組織の問題を逆照射させる目論見の連載に決定。そのホストを松岡さんにお願することになった。  この連載は、残念ながら4回で中断する羽目になった。この雑誌を出していた会社が経営破綻し、実際に「安楽死」をせざるを得なくなったからである。連載に先立って、松岡さんに書いてもらった原稿がすばらしかった。松岡さんのどの書籍にも採録されていないが、企業という存在の様々な貌が、平易ではあるが濃縮された文章で書かれている。ウィトゲンシュタインの論理哲学論考のようにスタイリッシュ。  タイトルは「企業のジョークをいつ話せるか」。そこでは、企業組織を観るために設定した8つの視点がひとつひとつ語られている。いわく、 表徴としての企業  前衛としての組織  テキストとしての企業  限界としての組織  メタファーとしての企業  解釈過程としての組織  心理としての企業  ジェンダーとしての組織  といまここに書いてみただけで、経済学や経営学の教科書的な組織論や、ビジネス誌にある企業変革法といったハウツー的処方箋のくだらなさを凌駕する消息が伝わるだろう。いわば「企業を批評する」というどこにもなかった評論の世界が提起されたのだった。  改めてこの批評を読んでみると、その指摘は20数年後の今の日本企業にもそのまま当てはまる。つまり、ことさらにイノベーションやダイバーシティやジェンダーが喧伝されながらも、日本企業の「組織と人間」の問題は一向に変わっていない。「表徴としての企業」のなかで、世界的にも注目された日本的経営という表徴の“曲解”が語られたが、いまは、人的資本経営という表徴が徘徊している。また「心理としての企業」の中で、マズローの自己実現を、社員たちには迷惑極まりない組織のイディアと指摘した松岡さんは、今はやりのエンゲージメントをどう見るか。  興味津々の、現代の「企業批評」は、永遠に書かれることがなくなってしまった。

「歩く」ことと「踊る」こと | その他

「歩く」ことと「踊る」こと

 昔の私の上司だった人は、「目的」という言葉が異常に大好きな上司で、何かにつけて「その仕事の目的は何?」と繰り返し聞いてくる上司だった。その問いかけは、しばしば若い私を悩ませ、困らせたが、それはいま考えると、私の思考が未成熟だったせいもあるが、上司のほとんどパワハラとも取れる詰問調のアプローチによって、思考停止に追い込まれていたからでもあった。そしてさらに言えば、上司の言っている「目的」という言葉の意味合いが、言っている状況によって、ときには微妙に、またときには大きく異なっているように感じられたからでもあった。要するに、「目的」の言葉をもって言わんとしているところが、私にはよくわからなかったからだ。実は上司自身さえもよく分かっていなかったのではなかろうか。  「仕事の目的」ということに関連して、あるときこの上司は、私に対して次のように言っていた。「仕事の目的というのは、いま課せられている作業の先に何があるのか、なぜこれをやるのか、考えてやることなんだよ」。それに続けて「なぜやるのか考えたときに、できるだけ視座を高く、視野を広く考えることが大事だ。自分の仕事を片付けるという感覚ではなく、ステークホルダーの全体を考えて、できるだけ多くの周囲に応えられるようにするんだよ」。非常にまっとうなご意見である。ところが一方で、別のタイミングでは、同じ上司が次のようにも語っていた。「仕事をやっていて、自分自身が成長実感を得られるかどうか、充実していると思えるかどうかが肝心だよな。結局はこの境地を目指すことが、仕事の究極の目的だ。そうでなければつまらないだろ?」。これもまた至極まっとうなご意見である。  しかしこの二つの意見は、同じ「目的」という言葉を使いながら、ほとんど矛盾しているようにさえ聞こえる。目的において周囲の方々を重視するという話と、自分の充実感を重視するという話は、簡単に両立できることではない。方向性が全く異なっているからだ。それにも関わらず、言っている上司自身がまったく気付いていない様子を見ると、おそらくその上司自身も、自分の意見を客観視し俯瞰して捉えることはできていなかったのではなかろうか。そして実は多くの上司たちが語る「目的」というものの内実も、また似たり寄ったりなのである。その時点その時点ではそれなりの説得力を持つものの、俯瞰して振り返ってみた時には、「果たして何が言いたかったのだろうか…」ということになる。  さて事態を少し整理してみよう。「目的」というものには、どうも大きく二つのあり方があるらしい。一つは、「いまやっていることを手段として、何か別の、より重要なものを達成しようとすること」。もう一つは、「いまやっていることそのものを極めて、自身の充実感をもたらすこと」。これはフランスの詩人ポール・ヴァレリーにならって言えば、「歩く」ことと「踊ること」の違い、ということに少し重なる。  多くの場合、「歩く」ことは、「どこかに行く」ため「歩く」のである。それに対し、「踊る」ことに、ほかに行くべき場所はない。「踊ること」そのものが価値があり、目指すべき目的なのだ。仕事において厄介なのは、この二つのあり方が、ほとんど同時に求められているように思われることだ。「周囲に役立つ仕事をしよう」というメッセージがあるかと思えば、「自分の充実感が決め手だ」というメッセージもあり、まとめて平たく言えば「歩きながら踊る?踊りながら歩く?何ですかそれは?」ということになるのだ。賢い部下であれば、その「矛盾」を見逃すことはないだろう。  かつて、日本の代表的な哲学者のひとりである和辻哲郎は、「人間の学としての倫理学」という著書の中で、「人間個人には最初から社会的な性格が内包されており、他者との関りを通じて、個人のレベルから徐々に共同性や社会性のレベルへと移行し成長するものであり、またそうあるべきだ」という主旨のことを述べている。つねに内から外へと目を開くべきであり、「外に目的を見出すべきだ」ということになる。いわば「歩く」仕事姿勢である。一方で、かの有名なアメリカの心理学者アブラハム・マズローは、「人間の欲求には5段階あり、生理・安全・社会・承認・自己実現という成長段階を辿る」という主旨のことを述べている。最終段階である「自己実現」とは、「外に目的を設定しない」あり方であり、「自身の内面において価値ありとするものを重視し、それがなされることそのものを目的とする」姿勢である。いわば「踊る」仕事姿勢である。社会性や共同性を重視する和辻と、個人の内面性を重視するマズローの姿勢の違いは、日本と欧米の文化的脈絡に照らして興味深いものがあるが、さて「矛盾」めいたこの状態をどう取り扱い、紐解くか、ということが喫緊の課題となる。  いまひとまず言えることは、「個人レベルを超えてより社会性をレベルアップさせることが目的だ」、という「歩く」仕事姿勢も、「社会的な関係性を超えて個人の充実感や内面を磨くことが目的だ」、という「踊る」仕事姿勢も、どちらも極端なかたちを取れば現場では軽率だと見なされかねない、ということである。「この仕事の目的は何?」と問われた場合に、「いや、自分探しですよ」(マズロー)と語ったら、やっぱり何だかおかしいのではないか、と思われるだろうし、「日本や世界人類のためにやっています」(和辻)と言ったら、やっている仕事に照らして、やっぱり何だかおかしいと思われるだろう。かと言って、中途半端を目指すのもおかしいだろう。それは、「目指す」ということですらないだろう。  このような八方塞がりのような状況下で、「仕事の目的」をどのように捉え、位置づけるのがよいだろうか。それは仕事をしている皆さん一人ひとりに考えていただきたいことだ。それは仕事の意欲に関わり、成果に関わることだからだ。    

数字のない生産性向上 | その他

数字のない生産性向上

日本は主要各国に比較して社員の生産性が低い。先進28か国の中で26位という低さである。多くの社員が長時間働いているのだが付加価値が低いのだ。より利益が上がり、社員の処遇をよりよくするためには、この生産性向上が必須である。生産性が上がれば、会社も社員もより良い状態になるからだ。近年この“生産性向上”がブームであり、多くの企業で重要な経営課題として認識し、経営計画の目標に掲げている。  ある企業の部長以上を集めた経営会議でのことである。社長が次年度の経営計画を説明した。会社の経営方針、数値目標や各事業の重要課題など話をし、その最後に今年の全社共通の重要課題として“生産性の向上”の説明をしたという。内容は非常に簡潔で、生産性向上の重要性とそのための施策の概要であった。具体的な施策としては、残業時間の短縮、業務の見直しによる無駄の排除ということであった。ひととおり説明した後に質問を促したところ、ある部長がこう質問したそうである。「質問させていただきます。生産性向上が当社にとって重要だということがよくわかりました。お聞きしたいのは、当社の生産性はどれくらいでしょうか?また現在の生産性をどの程度向上させるのでしょうか。さらに当社は業界の中で生産性が低いのでしょうか?」 社長は質問を聞いたのちに、経営計画をとりまとめた経営企画部長とすこし話をし、こう答えたという。「そんな細かいことは気にしなくていい。生産性を向上させるのが今期の目標だ。とにかく部下を早く帰宅させることを徹底してくれ。」  この企業の例はすこし大げさかもしれないが、生産性向上を掲げている企業で、生産性の現状や目標を“数字”で掲げている企業はあまり見ない。現在の生産性の数字と目標とする数字が明確になっていないことが多すぎるのだ。さらには本来の生産性目標ではなく、単に目標残業時間など本来的でなく小さな目標に置き換えられていることすらある。  生産性といってもさまざまな指標がある。売上生産性、労働生産性、1人当たり利益、賃金生産性、労働装備率などである。より正確にはこれらの指標を、全社だけでなく事業別に把握する必要があるだろう。現在の生産性が過去の生産性と比較して高いのか低いのか、また他社と比較しての高低も知らなければならない。実態を知らないで生産性向上の具体的な施策を打つことはできない。生産性の数字を把握しないで、精神論や単に残業時間短縮などの時間管理的な視点での施策はうまくいかない。生産性改善と標榜し、生産性の数値を知らないというのはあまりにも滑稽だ。まずは数字からということである。 以上

組織を育てる ~妬み嫉みのその先へ~ | その他

組織を育てる ~妬み嫉みのその先へ~

 処遇にメリハリをつけて優秀な人材に報うための制度を作りたいという相談は多い。そして、そうは言ってもメリハリをつけると妬み嫉みでハレーションが起きるから、現実的にはほどほどにしなきゃね、と葛藤する姿もよく見る。  特に、成果による処遇の連動性を高める議論をしている時や、管理職育成対象者を選抜・育成するための等級の設計などを議論している時に、そんな制度は理想だけど、人間には感情があるからうちの会社では無理だね、と。  不必要なハレーションは利益を生み出さないし、生産性が下がるので無駄である。しかし、感情の揺れ動きがあることは決して悪いことばかりではない。妬み嫉みの背景には感情と、それを湧き上がらせるだけの凄まじいエネルギーがある。  嫉妬やそれが引き起こすハレーションは、感情のベクトルや表出のさせ方として正しくはないし、ビジネスマンの立ち振る舞いとしても粋ではないが、そこには確かにエネルギーがある。  本人の自覚はともかくとしても、心の奥底で自分も認められたい、出世したいと思うからこそ、人を妬み羨む嫉妬心が生まれる。一方、全く立身出世に意欲・関心がない者は、誰が評価されようと、選抜されようと、淡々と出勤して日々の仕事をこなすだけである。  後者の集団はハレーションを起こさないため、一見問題なく見えるが、現状維持をする以上のエネルギーを持たない。将来の組織力を向上させるための種が無いのだ。  エネルギーが無いところにエネルギーを持たせるより、好き勝手に発散されているエネルギーの方向をコントロールする方が簡単だ。  負のエネルギーこそ、心の奥底から湧き上がる感情を湧き上がらせる際に発生しているものであり、驚異的な力を持つ。ベクトルを正すことさえできれば、とてつもない戦力となる。  他人を揶揄し、不平不満を言い、足を引っ張ろうとする負のエネルギーを、自らの壁を乗り越えさせるための正のエネルギーに変換するマネジメントや育成ができないだろうか。それさえできれば組織力が格段に上がる。  妬み嫉みがくすぶる組織は腐った組織ではない。強い組織になるための種を持つ組織だ。種を腐らせるか、好き勝手に自生させるか、それとも支柱を添えて丁寧に育て花を咲かせるかは働きかけ次第だ。

単純化し過ぎ!「人財能力の向上→組織能力の向上」 | その他

単純化し過ぎ!「人財能力の向上→組織能力の向上」

 ビジネス環境が激しく変化する状況で、どのように組織能力を高めればよいのか?  変化が「速い」だけで「これまでの延長線上で、先が読める」のなら、既存人財でもなんとか対応できるが、今求められる「既存の方向性とは異なる新たな取り組み」については、既存人財での対応が難しいと判断して、採用に力を入れる組織が増えています。 これは、「新たな血を入れることで、組織能力を高めることに繋がるだろう」という仮説に基づいた施策です。  他方、既存人財をどのように活かしていけばよいのか?と悩んでおられる組織も少なくありません。今回は、既存人財の話について、2つの視点に基づいて考えてみましょう。   1つ目の視点は、「発揮能力=技能✕意欲」という、「人財開発」に基づく捉え方です。   ・「技能」に関しては、主に「アップスキリング」「リスキリング」に関する施策が挙げられます。   ・「意欲」に関しては、「世界観や自己認識」「対人関係」「組織風土」に関する施策が挙げられます。   2つ目の視点は、「個人=点、対人関係=線、組織の風土や仕組み=面あるいは立体」と見なすなど「組織開発」(※)に基づく捉え方です。  これは、個々人(点)が専門的な潜在能力を持っていたとしても、それが活かせる職場環境(面や立体)ではなかったり、組織の方向性と個人のキャリア志向(ベクトル)が合っていなかったりすれば、充分な能力発揮、組織貢献、価値の創出や提供が望めないという考え方です。  ただ単に、技能を伸ばすメニュー(「点」向けの施策)だけ充実させていても、組織開発の側面を意識した人財開発を実施しなければ、「潜在能力と発揮能力のギャップ」を埋めることは困難です。  存分に能力を発揮するには、「線」や「面・立体」を意識した取り組みを並行して実施することで、個々人(点)が仕事を通して、「意義」や「喜び」を感じられるようにすることが重要です。  また、「組織能力の向上に向けて」という側面から、「業務プロセスの仕組み化(標準化、定期的な1on1等)」や「他部門・他者との協働」も重要になってきます。  そして、種々の施策の効果が打ち消し合わないように、相乗効果の発揮に繋がるように、「施策全体をデザインし、マネージする」こと(同期させたり、効果的な順序で実施したり、軌道修正をかけたり、振り返りを入れたりすること)も忘れてはなりません。  「組織の能力を向上させるには、人財(点)の能力を向上させるべきだ」という考え方は、間違いではありませんが、今回ご紹介した内容を踏まえると、「単純化のし過ぎ」のように思います。  人財開発については、その場しのぎの対症療法を繰り返すことになってしまわないよう、アルバート・アインシュタインの「すべてのものは可能な限り単純化すべきだ。しかし、単純化しすぎてはいけない。」という言葉を思い出し、組織開発の視点を含め、戦略的に検討されることをお薦めします。  ※組織開発の定義としては、「組織を円滑に機能させるための意図的な働きかけ」や「暗黙のルールや、できれば向き合いたくなかったような抜き差しならない問題を扱う、痛みを伴うグループでの学習・変化」、あるいは、組織の健全性と効果性の両方に焦点を当てた「自己革新力を高めるために、組織を理解し、発展させ、変革していく、計画的で協働的な過程」などが知られています。 以上

ローパフォーマーをイノベーション人材にする | その他

ローパフォーマーをイノベーション人材にする

 高い業績を上げるハイパフォーマー、平均的な業績のアベレージパフォーマー、そして低業績者であるローパフォーマー。好むと好まざるとにかかわらず、社員の成果を見てみると、ある程度のばらつきが出てくる。  成果主義的な考え方では、いかにハイパフォーマーを増やし、ローパフォーマーを減らしていくかが重要視される。  ローパフォーマーは、業績評価が低い者を指す。多くの場合、そのものさしは既存事業を基準としている。しかし、「新しいサービスのアイデアを出した数」や「フットワーク軽くいろいろな顧客の声をヒアリングした数」などの別のものさしだったら、ローパフォーマーはもしかしたらハイパフォーマーになりうるのかもしれない。ハイパフォーマーとローパフォーマーはものさしによって決まるのだ。  イノベーションのジレンマ※という言葉がある。前の世代のリーダーは、次世代の破壊的イノベーションには対応できないことを意味する。技術革新や社会環境の変化によって、顧客にとっての価値基準が変わってしまえば、当然のことながらそれに合わせて事業の価値も一変する。  歴史を振り返ると、例えば音楽のメディアとしては、レコードがCDに取って変わられ、そして現在は音楽配信サービスが隆盛だ。また、映像の領域ではフィルムカメラはデジタルカメラに代替されてしまったが、その後さらにスマートフォンが破壊的イノベーションを引き起こし、いまやカメラそのものの需要を脅かしている。このような例は枚挙にいとまがない。  既存事業の運営において優れた実績を上げた人材だけでは、このような変化に直面するなかで新しい対処法を編み出すことは難しいのではないだろうか。  もちろん社員の成果を正しく把握し、組織の業績を管理していくことは重要だ。しかし、たった1つのものさしで低い数値を出した社員にローパフォーマーというレッテルを貼り、その社員の別の能力に目を向けないことになるようであれば、組織の可能性を狭めてしまう。  では、いかにしてローパフォーマーはイノベーション人材になり得るか。  仮に新規事業のプロジェクトを立ち上げるとした場合に、各部署のエースだけを集めてチーム編成するのではなく、例えばアセスメントを実施し、社員の保有能力を従来の評価とは異なる新しいものさしで客観的に再評価し、そのうえで選出されたメンバーによってチーム編成してみてはどうだろうか。これまでローパフォーマーとされてきた人材が活躍できる可能性は大いに考えられる。  また、今すぐに新規事業を立ち上げる予定がなくとも、社員個々人が持つ多様な特性に目を向けたアセスメントを実施し、積極的なジョブローテーションを取り入れるなど、新たな活躍の機会を探ることはできる。そのような取り組みから、組織に予想もしない新たな可能性をもたらす者が出てくるかもしれない。  社会はますます複雑になり、変化が激しく将来を正確に見通すのは難しい。そのような事業環境下において、破壊的イノベーションのリスクにさらされてからでは遅い。平常時ほど危機感を持ち、社員の多様性を高めて組織の可能性を最大限に引き出す道を模索し続けることが必要だ。 以上 ※『イノベーションのジレンマ 増補改訂版』 著者:クレイトン M.・クリステンセン、寄稿者:玉田俊平太、翻訳者:伊豆原弓、2000年、翔泳社

「すいません」の悪循環を断ち切るために | その他

「すいません」の悪循環を断ち切るために

 昨今の世の中ではコロナ禍の影響でお客様へのプレゼテーションもWEB会議で実施することが多くなった。そのため立ち方や発声、ポインターの使い方といったお馴染みのプレゼンスキルを意識して使用する機会は減っている。では、プレゼンの訓練はもう不要なのだろうか?  私が先日受けたプレゼン研修にて「プレゼンを成功させる秘訣は、自信をもって話すということだ」と聞き、大学時代に国際会議でアルバイトをしていた経験を思いだした。日本人の発表者が「私の英語とスピーチ能力が拙いせいでわかりにくくてすいませんが…」とスピーチを切り出したところ、真剣に聞こうとしていた諸外国の方々が徐々に聞く耳を持たなくなったことを今でも鮮明に覚えている。  日本人は挨拶の代わり、感謝をする時、様々なケースで何かと「すいません」というフレーズを多用する。特にプレゼンの場では多くの人が人前で話す訓練をしてこなかったため、原稿にかじりつき、自信がなさそうに話を始める。そのような場合にも必ず「すいません」と一度は口にしているように思われる。かくいう私も新入社員の際に「すいません」という口癖が出来上がってしまい、上司に指摘をされた経験を持っている。自信がなさそうに見えて一緒に仕事をしていて不安を感じたそうだ。  プレゼンへの自信のなさは、訓練不足に加えて、日本のコミュニケーションに関する文化的背景も影響している。「沈黙は金」「言わぬが花」といった格言に表される通り、自分の考えを相手に明確に表現せず、直接的な表現を避け、オブラートに包む事を良しとする。これらの理由により諸外国の方々にはプレゼンやコミュニケーションを行う際どうしても自信がないように映るのではないだろうか。  コロナ禍でテレワークが進み、共に働く人の顔すら見ることが少なくなった今、人の表情や雰囲気などで相手の考えや感情を察する事がより難しくなり、コミュニケーションのあり方も大きく変わってきている。そのため、自分の意見を相手に明白に伝え、理解してもらう能力の必要性が従来より高まっていると私は考える。  このような状況下だからこそ企業は適切なプレゼン研修を今一度行うべきではないだろうか。

イノベーション人材とは誰か その2 | その他

イノベーション人材とは誰か その2

 イノベーションのためには   ① イノベーションの種(タネ)となる斬新でユニークな発想で創造的アイディアを生み出す人材   ② それが排除されず生かされる環境をつくる、そのように職場をマネジメントする人材 の2種類の人材がいる。その後者、管理職者たるイノベーション人材について前回、書いた。(→『イノベーション人材とは誰か その1』)  では、前者、そもそものイノベーションの種(タネ)を生み出す人材とはどういう人材なのか。優れたアイディアマンや誰も思いつかない突飛な発想に優れるというだけではイノベーション人材にはあたらない。新しいアイディアはイノベーションの種(タネ)にすぎない。事業や組織の変革につながる芽へと発芽させることができて初めて「ビジネスイノベーション」の可能性が兆すからだ。ビジネスイノベーションの端緒を作りだせる人材には、柔軟で斬新な発想力とは別の、ビジネスセンスをもって種を見極め発芽にむけてアクセルを踏み果敢にドライブする能力が必要である。    別の能力とは、起業家的能力だろう。「新結合」という言い方で経済発展に不可欠なイノベーションを初めて提唱したシュンペーターは、その担い手を企業者とし、経営管理者と区別した。この文脈で彼のいう企業者とは、起業家に他ならない。その要件は、   ① 物事を見極める独特の視点    ② 不確定でも抵抗があっても一人率先して取り組む実験精神    ③ 周囲を巻き込み従わせる影響力 と解釈できる。それがビジネスイノベーションの原動力だとすれば、こうした資質と能力を有する人たちが(芽を生み出す)イノベーション人材と言ってよい。  人材要件からいってあきらかに、統制的なマネジメントや階層別の一律教育から、イノベーション人材は生まれない。ゆえに、前回書いたイノベーション(喚起)人材としてのマネジャーが要請され、教育施策としては、資質ある人材を選別し、能力を高め、試行実践を繰り返すような特別なプログラムが組まれるべきだろう。  教育プログラムのポイントは、   第一に、自ら新しいアイディアを生み出すのではなく、すでにある兆候や発想の可能性を洞察し見極めること。   第二に、実験と仮説検証を繰り返しそれを経営検討に値する「芽」に仕上げること。   第三に、その試行を自ら周囲に働きかけ交渉し巻き込んでやり遂げること。 こうしたプロセスそのものを、たとえばアクションラーニングとしてしつらえ、起業の芽の強制的な発芽促進装置とする、といった趣向が考えられる。  さて、その育成装置に放り込む人材をどう選ぶか。誰が、鍛えがいのある候補人材たりうるかを、どう見極めるか。人材要件を要素分解して、その能力や資質を持つ人材をアセスメントするのが順当な方法だが、もっとも重要な候補者の条件は、「自分のビジョンを持っているかどうか」である。その人に問うビジョンとは、所属する組織や会社のビジョンでもなく、自身のキャリアのビジョンでもない。自身の仕事のビジョン、つまりは自分の仕事でなにをなしたいかという強い願望である。自分がどうしたいかという強い想いであり、主体性自律性のエンジンである。  そもそも、イノベーションに通底する「創り出す」という行為は、任務とか命令といった受け身では駆動しえない。自身の持っているビジョン(=想いや願望)が、その目的の意味に共振・共感して初めて、寝食忘れてコトに対峙し考え抜き試し続け、結果、「なにものかを創りだす」ことができるからである。

イノベーション人材とは誰か その1 | その他

イノベーション人材とは誰か その1

 製品開発力で知られるある大企業の社長が、管理職全員を集めた集会でこう言ったという逸話がある。  「全社をあげてさらにイノベーションに取り組まなければならない。しかし、君たちからイノベーションが生まれることは一切期待していない。君たちの役割は、部下たちのなかに萌したイノベーションの芽を見逃さないことだけであり、決してそれを潰さないようにすることだ」。  イノベーションの種(タネ)は個人の新奇な発想である。それはおそらく、過去の経験則や慣習や常識に縛られずに、あるいはそれらを疑い、個々人の願望や想いや信念に執着した意思をもって着想される。新しいアイディアの苗床は、同質ではなく異質、統制ではなく逸脱、組織的でなく個人的を要件とするのだとすれば、マネジメントこそが、イノベーションの萌芽を阻害するのだというコトワリをこの社長は、経験的に痛感しているのだろう。    この話から気づかされることは、イノベーションのためには2種類の人材が要るということだ。   ①斬新でユニークな発想で創造的アイディアを生み出す人材   ②それが排除されず生かされる環境をつくる、そのように職場をマネジメントする人材 種(タネ)を生み出す人材はもちろん必要だが、生み出しうる職場をつくるマネジャーもまた必要である。「管理職者はイノベーション予備軍たる部下の邪魔をするな」という社長の言葉の真意は、イノベーションの種を見逃さず、守り、発芽を促進してくれということであり、さらには、新しいアイディアや過去の手法の問い直しが自律的積極的に生まれるような「創発的な場」づくりを管理職者に期待しているに違いない。  つまり、邪魔をしなければいいといった消極策ではすまない、きわめて難易度の高いリーダーシップスタイルの転換が突きつけられているのだ。まずは、異質性や変化、新しい発想をよしとする職場風土への改革という意味では、コッター流の「変革リーダーシップ」が求められる。一方で、日常のピープルマネジメントとしては対人的な創発の喚起・触発ができなければならない。それはたとえば、共感し、問いかけ、肯定し、支援するといった「カタリスト(触媒)型リーダーシップ」なのかもしれない。さらには、部下たちが相互に刺激しあいアイディアが増幅するようなグループダイナミクスを促進する「ファシリテーション型リーダーシップ」も必要かもしれない。  目標達成と人材育成という管理職役割の発揮は、当然ながら厳しく求められつつだから、「管理職者としてのイノベーション(喚起)人材」たりうるのはマネジャー個々人の頑張りだけでは難しい。彼らを支える土壌―イノベーション喚起のインフラたりうる組織構造や評価の仕組み、必要なスキル教育、共通の価値観浸透、が併せ整備されなければならないだろう。  なによりも大事な土壌が、マネジャーたちをこの困難な役割に臨む気にさせる経営意思の明確な発信。それは、情報創造組織論の嚆矢・野中郁次郎さんのいう「センシタイジングな問い(コンセプト)」が経営トップから出されることである。イノベーションは目的ではなく手段である。到底解決できそうもないけれども、ぜひ挑戦したいと全員が思える目的(=課題)が先になければならない。それは「HOW」ではなく、「WHAT」や「WHY」、つまりは我々の事業や製品や提供価値の「そもそも」についての根源的な問いから生まれる。それが人々の心を感光(=センシタイジング)させ、イノベーションへの意思が自分ゴトとなる。  社長は、「わが社にはイノベーションが必要である」と誰でもが言えるようなことを言うのではなく、なにより、自社の存在理由の将来への問い、つまりは自社のイノベーションの目的について、自身の想いと覚悟を語らなければならないのである。

階層型組織で失敗を奨励されても… | その他

階層型組織で失敗を奨励されても…

 「今の私の夢は…新しい機能や優れたデザインの製品を考えて、真面目で緻密な作業をするという日本企業にそれを製造してもらうこと。そして、私の考案した製品が世の中に広まることです。」  2年くらい前、東南アジアのトップクラスの理工系大学に所属する学生は、このように語り、周囲の学生も、「それは良いね!」と賛同していました。あなたは、この状況をどう感じられるでしょうか?  イノベーション(創新普及)が重要と言われるようになって久しいですが、外国の方からすると、「日本企業≒誠実で信頼できる外注先、下請け業者」という印象を持つ人が一定の割合で存在するようになっていると捉え、私は残念に思いました。  いろいろな切り口から検討できる話ですが、このコラムでは、次の視点で考えてみましょう。  ・「立派な外注先」に適した組織構造・組織風土のままで、「イノベーションの推進」がうまくいかないと悩んでいないでしょうか?「失敗を奨励する組織構造・組織風土」になっていますか?  さて、ここまでの話を踏まえ、国内に目を転じると…例えば、「テレワーク導入を急ぎすぎて【失敗しないため】には?」などと、「失敗を避けましょう」という意図の表現を数多く目にします。  そして…「繰り返し起こる同じ失敗」は無くすべきですが、「新たな可能性を探求した結果としての失敗」は奨励するなど、「失敗を区別して扱う」ことに慣れていない組織が多いとも感じています。  イノベーションの推進を得意とする組織では、例えば、「小さなグループでいろいろな実験を行ってみて、【失敗=学びの機会】を踏まえて改善を図るという学習サイクルを高速で回すことによって、その時点における最適解を確立し、組織全体に展開していく」というやり方を採用しています。  「規則を検証せず、マニュアルに盲目的に従って職務をこなす」、「上司が言うことには絶対に従う」、「不確実性を減らし、予測可能性を増すために、何事にも稟議書や上司の承認を求める」ということが重要な組織、すなわち「間違ってはいけない」という文化の根付いた「着実に実行する組織」には、階層型の構造が適しますが、イノベーションの推進には適さないのではないでしょうか。  また、プロジェクト・マネジャーは、プロジェクトのマネジメントという機能を果たす人というだけで、常に正しいわけでも、すべての領域でメンバーよりも優れているとも限りません。「マネジャーの言うことは絶対に正しい」と思考停止していては、現場での協創は起こらず、事前の計画以下の価値創出しか見込めないため、イノベーションの推進には繋がりづらくなってしまいます。  この頃は、「Yさんは、プロジェクトAではマネジャーだけれど、プロジェクトBではメンバー」といった場面も増えてきています。目的に応じて、組織における役割が柔軟に変更されるようになってきているため、常にYさんが上位職者という認識は実状に合いません。(再雇用等により、かつての部下が上司になる例なども増えています。)  誠実な作業者集団にとどまらず、イノベーション推進組織になるのであれば、「お互いに、挑戦的な失敗を奨励したり、創造的な摩擦を新たなアイディアに昇華させようとしたり…」ということを重視することにして、もう「上司と部下」を卒業してはいかがでしょうか?  イノベーションの推進に力を入れるのであれば、「上下関係を基盤とするマネジメント」ではなく、「多様性のマネジメント」、すなわち、テクノロジーの活用により容易となることが見込まれる「異才に個別対応するマネジメント」にシフトしていくのが有効ではないでしょうか?  改めて、自組織の方向性と、構造や風土が合致しているかどうか、確認なさってみてください。 以上

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ターニングポイント

 東京都が都内の企業を対象に行ったリモートワークについての調査によると、2020年6月時点の導入率は57.8%と昨年の25.1%から大幅に上昇しており、大企業だけでなく中小企業においてもリモートワークの導入が進んでいることを示している。リモートワークの導入については、以前から政策や自治体のアクションプランにおいて、大きなテーマとして取り上げられてきていたが、新型コロナウイルスの感染拡大という予想もしていなかった外圧によって、ついに企業も本格的な導入に踏み切ることになった。  人口減少・少子高齢化に伴う労働力の減少、雇用構造の変化、また、テクノロジーの革新など、現在、企業を取り巻く環境が劇的に変化していくなかで、働き方や組織の制度もこれ合わせて変化していくのは当然のことだ。例えば、リモートワークの導入を進める企業においては職務・成果型の人事評価制度への移行を進める企業が増えている。従来の能力・行動評価が中心の評価では、上司が部下の職務行動やそのプロセスを観察することができず、職務・成果物自体、あるいは成果指標の達成度で評価しなければならないため、従来の職能型の人事評価制度では対応が困難であるためだ。  働き手は、リモートワークの導入が進むことによって、通勤や移動時間が削減できたり、自身や家族との時間を確保できるようになって、ワークライフバランスを実現しやすくなることや、自身の空間で作業に集中できるといった利点がある一方で、これまで以上に仕事の目的を的確にとらえ、自分自身で業務を計画・遂行する、強い自主性が必要となる。人材育成のスタイルも、これまで企業が主体となって提供していた人材育成プログラムから、自らが学習プログラムを選択し、専門性を追求するものとなっていくだろう。個人が成功するためには、自身が明確にキャリアをデザインし、計画的に知識・スキルを習得していくことが重要になるのである。  雇用の面では、これまでのメンバーシップ型雇用から、ジョブ型雇用へのシフトも進んでいくことで、今後は、高度な技術やスキルを有した人材が、副業や兼業により、複数の企業でその能力を発揮するようになったり、フリーランス人材との業務委託が進み、不足する労働力に対応していくことになるだろう。特定の企業に"就社"するのではなく、文字どおり、職に就く"就職"が実現するようになるのである。  このような企業や職場といった場所や時間にとらわれない働き方は、働き手の利便性や、満足度を向上することだけが目的ではない。働き方の自由度が増す、ということは企業人事の取れる手段の自由度も増すということであり、企業にとっては、経営戦略の実現のために必要な労働力を確保するための手段となる。今までのような、日本型○○というような画一的な組織構造、制度、働き方を維持するだけでは、この変化に対応する術を自ら放棄することになる。これからの企業人事は、過去に例のない大変革を強いられることになるだろう。その劇的な環境変化の中においても、企業が存続し続け、さらには安定した成長を実現していくためには、これらの働き方を実現するための準備、組織づくりを迅速に進めていくことが最重要課題だ。従来の制度から新しい制度への変革、今まさにそのターニングポイントを迎えているのである。

ガチンコの人事改革 | その他

ガチンコの人事改革

コロナ感染の行方に関わらず、不透明さが増す経済環境の中で、どの企業も収益向上の方向性を模索している。その一つに「デジタル化」がある。コロナで在宅勤務中にハンコが押せず業務フローが滞ってしまった話や、ウェブ上で申請された特別給付金のデータを自治体が再度、PCに入力している報道などを聞くにつけ、わが国において、「デジタル化」の推進により、生産性向上の余地は、それなりにあるだろうが、「デジタル化」と同様に、多くの日本企業が取り組み始めているのが「人的資源の最適化」だと考えている。 これは、「必要かつ十分な人材の調達と配置を行う事」と言い換えてもよい。例えば、多くの一定規模以上の企業において、どの業務にも適さないミスマッチ人材が相当数、存在していると言われている。この背景には、我が国には、会社との間で暗黙の長期契約が結ばれている「正社員」が、「非正規社員」と比べて高処遇、かつ雇用が確保されているという労働市場の構造があり、この構造が「人材の流動性」を阻害し、社内にミスマッチ人材の滞留をもたらしている。業績に貢献していないミスマッチ人材の問題を認識しつつも、それを日本的メンバーシップ型雇用の宿命と諦め、許容してしまっている現実に、この問題の根深さがあるとも言える。 長きにわたり構築されてきたこの構造にメスをいれるべく、政府による、正規、非正規社員の格差是正の法的整備が進められているが、この流れに合わせて、各企業も、ミスマッチ人材の削減を、従前のように棚上げする事なく、正面から取り組む事ができるかどうかが、今後の「人的資源の最適化」の成否を大きく左右することになるだろう。 「人的資源の最適化」へのもう一つの課題領域として、特定の職種において、恒常的な人手不足状態という事がある。最近の労働市場の統計からも見てもその一端が伺える。今年9月の職種別有効求人倍率は、開発技術者が、1.64倍と高倍率であるのに対し、一般事務職は、わずか0.22倍だった。人材サービス会社による別の統計では、IT・通信技術者などの職種は、10倍を超える数字が示されている。欲しい人材が労働市場にまったく足りない一方で、他の職種では、相当数の余剰人材が存在しているという事は、そもそも、社会全体として、仕事と人材に大きなミスマッチがあるという事でもある。 こうした課題に対して、ただ、手を拱いていても、始まらない。既に、人事制度を変更し、従来の「総合職(メンバーシップ型雇用)」と並行して、柔軟な処遇を提供する「職種別採用(ジョブ型雇用)」を導入し、従来の雇用条件では調達できなかった欲しい人材を積極的に取り込む企業も増え始めている。従前どおりの新卒を中心とした総合職的人材採用にこだわり続けながら、必要な人材を確保するのは、今後、より一層、難しくなっていくだろう。 さらに、「人的資源の最適化」にむけて、積極的な人材育成投資を行い、現有人材のアップデートを行っていく事が必要だ。多くの企業で、バブル崩壊やリーマンショックなどの景気悪化時に、真っ先にコスト削減のターゲットになったのは、人材育成予算だったが、これからのタイミングでそれを行えば、今度は命取りになるかも知れない。総合職に階層別に総花的に行う集合研修だけでは、効率的とは言えない。生産性向上や事業変革を担う特定のターゲット人材に対して、OJTも交えて、個別性のある育成施策を行い、さらにその効果検証を行う等、多面的な施策を通じて、人材スペックを更新し、アウトプットのレベルアップを求めていかなければならないだろう。 これからの数年間で、以上のようなガチンコの人事改革を行えるか否かで、将来の企業収益力に大きなギャップが生まれてくることになるのではないか。