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期間とレベル | その他

期間とレベル

 多くの人事制度改革のコンサルティングを行ってきましたが、制度の検討期間が長くなればなるほど、改革のレベルは低下する傾向にあるのではないかと感じます。企業によって人事制度を改革する背景や目的は異なりますが、外部のコンサルティング会社を入れてまで、制度を改革しようとするのですから、今までの制度より相当優れたものでなければなりません。優れているというのは、経営目標や計画を達成するための有効な部品としての優秀性と言うことです。そのため新しい人事制度は、経営への貢献という観点で合理的に設計されなければなりません。日本企業では成果主義的要素は入りつつも、現在でも年功序列的制度です。また等級・グレード制度なども経営に連動し手いるとは言い難く、単に簡単な人物イメージの表記にとどまっています。また業績貢献が低い社員の雇用を大事にしており、さらに給与レベルも高かったりします。現状はあまり合理的な制度設計に運用になっていないため、様々な問題が発生しているのです。現在の人事制度の見直しは、年功序列、終身雇用色は薄くし、経営との連動性を重視する事となり、多くは改訂ではなく改革というほうが妥当でしょう。  改革とは、制度そのものの内容の改革はもちろんですが、最も重要なのは、経営者、管理職、人事部門が持っている今までの緩い人事管理感覚からの脱却といえるでしょう。制度設計当初は、経営課題から人事制度を検討する意識が強いため、合理的で構造的な設計になります。しかし当初設計した内容から、検討する時間の経過とともに変化していく企業が散見されます。検討期間が長くなれば、現実の人事からのギャップを心配したり、長年慣れ親しんできた人事管理感覚から脱却できづらくなってきます。通常人事制度の設計は3ヶ月から6ヶ月程度の期間をかけることが多いですが、この期間が途中で延びる場合や当初から6ヶ月以上の場合の多くは、改革レベルが当初掲げていたものよりも、だいぶ後退してしまう傾向が強くあります。自分が経営者の時に、自分が人事の担当の時に改革することを躊躇しているのかもしれません。特に年功序列、終身雇用を継続してきた企業では、先輩後輩や同期という意識が存在しています。具体的な顔を思うと、今までのようなあまり差のない、ある意味曖昧で緩い人事管理のほうが、社員全体からの印象は悪くないのです。実際は人件費が高騰し経営を圧迫していたり、人事管理によって業績が上がらないという事態になっているのですが、現状から変えることに一歩が踏み出せなくなるのです。  業績が一気に低下するような状況では、人事制度は合理的なものに直ちに改革しなければ企業が存続できません。しかし業績が大きく低迷していないときに人事制度改革を行う企業では、短期間であるべき制度に改革できる企業と、長い検討期間を経て結果として行うべき改革が実現できない企業に分かれるようです。  人事部門は、制度の改革によって、短期的な効果とともに長期的な成長基盤の提供ということであることを再確認しなければなりません。また人事制度改革は、最も大きなコストである人件費のコントロールと、経営目標、計画達成のための原動力でなければならないことも、再認識が必要でしょう。決して先輩後輩や同期の顔がちらつき、改革が手ぬるくなることがないようにしなければ人事部門の存在そのものが問われてしまいます。現時点で波風を立てないことが、将来の経営に大きなないマイナスになることを強く認識し、直面しなければなりません。逆の言い方をすれば経営者、人事部門は毅然とした姿勢で、自信を持ち、短期間で大胆に合理的な制度への改革を断行するべきということであり、そういう経営者や人事部門担当者は後の経営や社員から賞賛と感謝がされるのではないでしょうか。

間違いだらけのMBO | その他

間違いだらけのMBO

 目標管理(MBO)は多くの企業で、業績の管理の手法として導入されています。このMBOは最初に誰がどのようにして広めたかわかりませんが、あまりにも非現実的で初歩的な誤認識が目につきます。この間違えたMBOについては、あまりにも語ることが多くありますが、その代表的な誤認識について議論したいと思います。  まず目標管理の対象者ですが、多くの企業で社員全員を対象にしています。目標管理の対象者は、適切な目標を設定でき、それが測定可能で、また自分の権限でコントロールができる人であることが絶対的条件です。この原則を守らないと、多くの企業で出てくるいつも聞く問題が発生するのです。“目標が適切に設定できない”などはその代表的なものです。企業によっては目標を適切に設定しようと躍起になる企業もあります。まず無駄だと思います。上記の3つの条件が成立する社員はポストに就いている管理職社員がほとんどでしょう。一般の社員はチームで仕事をしていることが多く、またローテーションでたまたまその職務を担当していたりします。日本の企業では等級・グレード制度が厳格に運用されていないので、等級による目標の差なども明確にすることは不可能です。簡単に言えば目標管理はポストに就いている管理職に限定するほうがよほどわかりやすいのです。分解できない構造であるのに、無理に目標を一般社員にまで分解することが間違いなのです。  目標管理の書籍などを見てびっくりすることがあります。たまに目標は社員自らが立てるべきであると書いてあるものがあります。これは経営管理上全くナンセンスです。根拠としては、会社の方針を理解して積極的に自分の目標を設定することによって社員の自覚意識が高まるなどとも書いてあったりします。会社の経営方針と経営計画が主要な組織に個別の方針や目標として分割されるのであって、社員が勝手に経営方針を咀嚼して自分の目標を立てるなどは時間の無駄でしょう。積極的に会社や部門の計画や目標に関与する姿勢は極めて重要だと思いますが、それは目標管理の中で達成するものではありません。  さらに続けます。目標は経営にとって重要な達成したい事項ですので、その属性が定量なのか定性なのかに過度にこだわる必要は全くありません。なんとなく定量は正しいが定性は正しくないようなイメージや、定量こそ目標で定性はそのサブ的なものであるような解釈をしている企業がありますが、目標は目標であって数で測定できるか否かで大きな区別をする必然性は何もないのです。またいくつかの目標に“難易度”を設定することがあります。これがまたいい加減な指標です。難易度は等級・グレードをまたぐような目標の場合に、上位や下位等級との平均給与差などを使用して決定するのが理論的です。一般的には難易度の解釈も曖昧なことが多く、さらには“係数”の考え方も根拠が不明の企業も散見されます。  他にも多くの論点はありますが、現在の日本企業の目標管理は問題が多すぎです。もっとシンプルにわかりやすく説明可能な形態に直ちに改造するべきです。

矛盾する方針 | その他

矛盾する方針

 企業が新たに人事制度を設計し導入する場合に、その制度のレベルは関与者の知識、スキル、マインドに大きく依存します。多くの企業では、人事制度の導入を計画する場合に人事部が中心となって設計します。また主要組織のキーマンや経営陣などを中心として、“人事制度検討委員会”などを設置して、人事部門が策定した制度を審議します。新たな人事制度の方向性やある程度の骨格を決定するのは、委員会のメンバーと実際には設計する人事部門メンバーとなります。経営者が方向性と大まかな制約事項を提示して、人事部門が自社に適合した経営に効果のある制度を設計し、それを経営者が承認するというのが望ましい進み方です。  しかしこれがうまく機能しない企業が少なくありません。そもそも経営者の方針や制約がよく理解できなかったりします。また経営者の方向性を咀嚼して人事部門が設計しても設計そのものが合理的でないことも散見されます。そうなると説得力のある説明できないのです。さらには設計の途中や設計終了後に経営者と話をすると、ここでも大きな問題が起こることがあります。経営者は自らが発した方針が制度になることによって初めて現実の社員への影響を目の当たりにするのです。そうすると矛先が鈍る人も多く出てくるのです。  ある企業で“担当している職務によって処遇する制度にする”という方針に対して、人事部門は複数段階の職務レベルを設定して、それぞれ適切と思われる給与を設計しました。職務によってということは、担当職務が上がれば給与は上がるでしょうし、担当職務が明らかに下がれば給与はダウンすると解釈しました。給与制度的には職務レベルによってはっきりと差のある給与制度となります。これを経営者に持っていったところ、毎年の昇給や数年ごとの昇格は行いたいという強い要望が出たのです。職務レベルを軸とした処遇と定期昇給や定期的な昇格などは理論的には相入れないのですが、どうもその経営者の認識が明確でないのです。こういう人事に疎い経営者に対して最近の人事制度理論をすぐに理解させることは非常に困難を伴います。経営者も昔の人事制度で慣れ親しみ、かつ昔の制度でよい思いをしてきた人なのです。こうなると人事制度設計も内部承認を得るまで大きな苦労が待っています。結果としては経営者の曖昧なイメージを何度も形にして説明しますが、そもそも矛盾した方針を出しているのですから、設計しても無理があります。設計に無理があることに経営者は次第に気が付いて行くのですが、これには時間がかかるのです。挙句の果てに、個人別の給与の変更案をみると一気に心が萎える人がいることも、多く目にしてきました。  企業にとって重要な人事制度を策定するのであれば、まずは経営者含めて社内の関与する人たちの人事知識を一定レベルまで上げなければ、議論すら噛み合わないのです。いくつかの企業で、制度設計する前に人事の基本的な言葉や理論の研修を社長含めて関与者に行ってから設計をすることがありました。これは非常に効果的でした。ただし社長含めてこのような事前研修に出ること自体に消極的な企業も少なくありません。このような研修ができない企業は、議論が長くなることを覚悟したほうがよいかもしれません。経営者の“人事管理”に関する知識、スキルが足りていないのが現状ではないでしょうか。

振り出しに戻る | その他

振り出しに戻る

 管理職から外れたら専門職に移るという人事制度をよく見ますが、本当に合理的なのか大いに疑問です。  優秀な事業部長を育てるには、複数の部長の経験が必要でしょう。同じように優秀な部長を育てるためには、異なる機能の課長経験が必要となります。優秀な課長として育成するためには、いくつかの異なる部署の経験をすることが望ましいでしょう。異なる環境や異なる機能でのマネジメント経験をさせることで、マネジメントとしての幅が広がり懐が深くなるのです。そのため優秀な管理職はローテーションが必須となるのです。逆に専門職は特定の領域の社内専門家です。企業によってその専門の領域は異なりますが、特定の領域を深掘りしていくことになるので、基本的にはローテーションという考えは必要ないのです。とにかく特定領域を徹底して詳しくなるようにするのです。要は管理職と専門職は全く育て方が異なるということです。  しかし多くの企業の人事制度はあまり合理的に管理職、専門職の設計がなされていないのが現状でしょう。例えば管理職の等級が事業部長、部長、課長クラスに対応してM1、M2、M3とあったとします。それに対応して専門職の等級もP1,P2,P3のように設定したりするのです。これ自体には問題は全くないのですが、M1で管理職から外れた社員を同格のP1に転換させるような人事制度が圧倒的に多いのです。管理職と専門職は行き来が自由のような設計も多く見られます。管理職を外れたのであれば、管理職のもとで何らかの実務を行うことになります。この実務のレベルは同格の専門職と同じとは考えられません。専門職としてもその経験を積んでいない分、同格ではなく一つか二つ下ではないでしょうか。しかし実際にはあまり処遇を下げたくないという感覚から同格の専門職にしたりするのです。  これは専門職の地位を著しく侵害しています。本当の意味での専門職は長年特定の専門領域の職務に就き豊富な経験と高いノウハウを持っているのであり、管理職だった社員が横滑りしてきて同格ということはあり得ないでしょう。そういう意味で現在の専門職は2つの人材が混在しているのです。管理職から外れた人材と専門家として評価されてきた人材が同じ等級・グレードに存在しているとも言えます。そうなると専門職は管理職から外れた社員の処遇の場として認識され、“管理職として処遇できない社員の職種”、“管理職より下”のような位置付けとなり、本当の意味での専門職は根付きません。  まず管理職と専門職はその育成方法の違いと形成する能力の違いから相互の互換性は高くないことを再認識しなければなりません。自由に行き来できるというのは、全くナンセンスなのです。また管理職のどの等級からでも、管理職から外れた場合には専門職の一番下へ格付けるような方法が合理的でしょう。管理職としての能力ではなく専門職としての能力で評価すれば多くの場合にはM1〜M3の社員が専門職に行く場合には、皆P3に格付けるということです。管理職から外れたら、分岐したスタートポイントに戻るのです。“振り出しに戻る”ということです。 以上

夢のない分布 | その他

夢のない分布

 社員の評価が適正でない企業では、最終的な手段として“分布規制”を行います。これは社員の能力や業績の評価結果を決められた分布通りにするという発想です。その多くは“正規分布”的発想で、SABCDの5段階であればSが5%、Aが15%、Bが40%のようにあらかじめ“形”を決めておくのです。こうすることにより、甘辛の調整をするという発想です。 この考え方にはいくつか重要な論点があります。多くの企業では社員の評価は“絶対評価”で行い、その結果を相対評価するという建付けになっています。背後には評価者は甘く付ける傾向にあるということでしょう。一次評価した絶対評価を信用しないということなのです。こうすることによって社員からみた評価制度は意味がわからないものとなります。もう一つ重要であるのはそもそも“正規分布”は正しいのかということです。企業内の人材が一定の評価基準で評価した結果正規分布になることなど、どの理論に基づいているのでしょうか。少なくとも私は十分な論拠のある正規分布適正論を見たことはありません。働くアリだけを集めると、一定比率働かないアリが発生するといったことが、この評価の分布議論で、納得性のある話のように流布されています。面白いですがそれだけです。体感的には優秀な人材が多く在籍している企業もその逆もあると思いますので、なぜ正規分布かが理論的にも体感的にもわからないのです。そんなに相対評価したければ、社員に順位を付ける制度のほうがわかりやすいのではないかと思います。等級別の自分の相対順位で自分の位置づけを認識するイメージです。  この正規分布の考え方は、別な言い方をするとあまりにも夢がありません。人事管理の本質的意味合いを否定しているかの如く感じることさえあります。どの企業でも“優秀な人材の育成”と銘打っていますが、優秀な人材は一定比率しか認めないという矛盾したものとなっているのです。人事管理の視点では優秀な人材の比率が高まることで、より高い生産性、より高い業績を生み出すために行っているのであり、一人でも多くより活躍し、より高い処遇になることが目的です。正規分布はその人事管理の目的を否定している考え方に見えるのです、  実際には分布規制をしている会社は、そんな悪意を持っていません。甘い評価が横行するのを何とか食い止めるために行っているのでしょう。経営や人事部門の苦悩がこのような手法に表れているのです。いずれにしても評価そのもの、人事制度そのものをより高い効果を出すという視点からは、副作用の非常に強い対処療法でしかありません。  真に優秀な人材が多く発生して困ることはありません。逆に優秀な社員が多く出現するほうがよいに決まっています。社員を適正に評価できる仕組みやマインドを再構築して、“正規分布的発想”をなくし、攻撃的で夢のある人事管理に変貌しなければなりません。いつまでも正規分布が妥当かを議論したり、正規分布の比率の議論はあまりにも本質から逸脱しているように思えます。 以上

自分の取扱説明書 | その他

自分の取扱説明書

雇用延長や役職定年を前にした人たちのモチベーション向上は難しい。権限と報酬を失うことによる意欲低下を凌駕するような動機付けがそう簡単にできるとは思えない。そうしたキャリア研修の御要請もあるけれども、限定的な効果でよければ、と但し書き付きで、やらせていただくようにしている。 かつての部下が上司となり、同じような仕事を大幅ダウンした報酬でやる限り、100%気持ちよく前向きに働け、ということに無理がある。使われる立場と割り切るから、少なくとも自分が気持ちよく働けるように使ってほしい。たとえば、そうした自分たちの使い方を提案するといった研修で、限定的な動機付けをしたりする。 以前、たいへんうまくいったけど、失敗した、という研修をやったことがある。役職定年直前の方々に対する2日間の研修で、自分たちで自分たちの貢献領域を考え会社に提案する、というものだった。まず、自分の知識やスキル、経験、人脈などを“リソース”として棚卸して、グループの中で各人のリソースをお互いに評価し、その使えるものをグループのリソースとする。 それを使ってグループで起業する計画を立て発表し、その出来栄えを競い合う、までが研修の前半。ゲームではあるが、大いに盛り上がりつつ発想が広がったところで、今度は、再度自分のリソースを検証して、自社の中でどんな貢献ができるかを企画し、会社への提案書を作成するという趣向である。真剣で熱のこもった、また、自身の経験を活かした貢献案がアウトプットされ、受講生の満足度も高いものとなった。 しかし失敗した、というのは、彼らの提案を会社として受け止めなかったからである。案を実際にやるかどうかの採否はともかく、会社として、一旦はきちんと検討するとすべきだったのに、研修の場限りのアウトプットという扱いだと、人事部事務局が研修の最後に宣言。とたん、一瞬にして、炎上。モチベーションは下がり、反発だけが残る結果になったのだった。 会社の対応スタンスさえはっきりさせておけば、「自分たちの新しい使いみちを、自分たちで考える」のは、効果的で元気の出る方策である。間違いなく、活発な議論になる。場合によっては、実際にシニア人材の職域開発につながることもある。あるいは、もっと単純に、自分たちをうまく使う方法を自分たちで整理させるだけでも十分、意義ある研修になる。 たとえば、自分は、こんな経験をしているから、この種の問題であれば応えられる。社内社外のこのことについて詳しい。この技術は教えられる。この部門には言うことをきかせられる。この点をほめると喜ぶ。ここに触れられるとキレる。。。といった自分の使い方を言語化しまとめるのである。 年下の上司や会社にとっては、扱いかたが一様でなく、難しいシニア人材であるからこそ、彼ら自身に「取扱説明書」をつくってもらえば間違いがない。本人の満足度も高く、会社としてアウトプットが現場で使える。限定的ながらも一石二鳥の研修として、推奨したい。

残業代不支給 | その他

残業代不支給

 かつて“ホワイトカラーエグゼンプション”という、ホワイトカラー業務従事者の時間管理を対象外にするという議論がありました。そして最近急速に残業代の支給に対する緩和の議論が行われようとしています。特に時間投下と成果の直接的な関係が証明できないホワイトカラー業務については、本来的に考え方を整理するべき時期に来ていると思います。企画や設計を行うようなホワイトカラー業務は、個人の生産性が大幅に異なります。同じ業務を行ったとしても、同一時間を投下した結果、極めて短時間に非常に高い成果を出す人もいますし、時間いっぱい使用して高い品質の成果を出す人もいるでしょう。品質が高くなく時間内に終了する人もいます。また品質以前の問題として時間内に終わらない人もいます。現在ではこれらの人に対して明らかに問題のある処遇管理をしています。時間内に高い成果を出す人には、残った時間で別な業務を与えられます。時間いっぱい使用した人には成果の高低はあれど短期的な処遇は同じです。時間内に終了しなかった人には超過した分の超過勤務手当が支給されます。さらには品質が高くない、時間内に終了しない社員には、上司の業務や時間管理に関する指導が行われたりしますので、このような目に見えない管理コストも発生します。確かに中長期的には高い成果を出す人は、速く昇格するなどの恩恵はあるでしょうが、短期的な処遇という観点では、時間内に終了しないほうが、処遇が高いことになります。  実際に何かの企画をする業務などは、業務時間外にさまざまな発想をすることが多いのかも知れません。有名な話ですが自動車が開発された時にはタイヤはただ円形の枠にゴムを巻きつけたものだったそうです。そのため振動が直接乗車する人に伝わり、乗り心地が悪かったそうです。この乗り心地の改善にさまざまな検討をしましたが、なかなか名案が浮かびません。そんなある日に考えながら公園を散歩していると、どこからかボールが飛んできて頭に当たりました。ゴムボールは中に空気が入っているので痛くありません。その時にタイヤに空気を入れて衝撃を和らげるというアイディアが生まれたという有名な話があります。要は何かの企画や設計などを真剣に考えれば考えるほど、日常の中でもそれを考えてしまうことのほうが普通で、就業時間の時だけ考えて、時間外は一切業務のことは考えない程度の思い入れでは、優れた企画や設計は出ないいのです。そもそもホワイトカラー業務は時間との相関関係など存在しないことを改めて認識しなければなりません。  このようなホワイトカラー業務に時間を主軸とした管理という歪んだ考え方をはめ込むこと自体にそもそも無理があるのでしょう。ホワイトカラーの残業代を不支給にするという考え方は、時間管理を行っている前提の話ですので全くの反対です。しかしホワイトカラーの時間管理を無くすという考え方は自然であり、わかりやすく公平であると思います。これは年収の高さなどは全く関係がありません。残業代を払うはらわないという議論ではなく、時間管理という考え方がなじむか否かという事が重要だということです。

部長がヘンです | その他

部長がヘンです

管理職だけで1,100人もいる企業で、管理職ブラッシュアップ研修をしたことがある。 1グループ約50人で3日間の研修を20数回行うという大型施策だったが、全管理職への一斉研修は初めてということであり、本研修に先立つプレ研修でマインドセットを行うことにした。それも200人ずつ2週間連日で一気に行う企画だった。教育のテーマは「人を育てるリーダー」だったので、プレ研修はそれに先立つ触発を狙い、いろいろな事例を見たうえで、「自身のリーダーシップ論」を書くという事前課題の告知をする場と設定した。 リーダーシップの事例というと企業人でも著名な方々のエピソードが使われることが多いが、それではあまり刺激がない。ここでは、あえて無名の、しかも他社の管理職者を取り上げることにした。4社の4人の管理職者に対して、VTRインタビューを行い、彼らの人を育てるリーダーシップの持論を、個別具体的に語ってもらった。それを各5分ほどの映像に編集して投影しながら、講師が問題提起をするという趣向である。 人選と交渉を入念に行ったこともあり、4者4様、実に興味深い“日常の理論”を堪能することができた。このプレセッションは受講者の反響もよく、期待通りの刺激たりえたことが事後のアンケートにもおどろくほど饒舌に書かれていた。4人ともに触発的な話だったが、そのなかで、「部下管理は子育てと同じだ」との持論を持つエンターテイメント企業の開発部長(男性)の話が、ひときわ面白かった。 彼は、部下たちとのコミュニケーションの、自分なりの行動原理を語った。たとえば、部下に話があるときに、自室に呼ぶことはしない。必ず、部下の席に行って、そこで話す。その際には、立って座る部下を見下ろしながら話すとか、部下を立たせて話すとかではなく、近くのゴミ箱にでも腰を掛けて同じ目線で話をする。あるいは、仕事を与えたら、ある程度自分でできるようになるまで、決して具体的指示は与えない。ここぞというところで介入するといった、さまざまな“ワザ”をその理由とともに楽しそうに話してくれたのだった。 2週間のセッションが終わって、アンケートの好評さからも手ごたえはあったが、組合を通じて、現場の“異変”が人事部に伝えられた。それは、上司がプレ研修に出てから自分達に接する態度が変わったというものだった。なかでも、「部長が突然席まできて、ゴミ箱に腰かけて話かけてくるんですけど。。。」といった報告が複数あった。いったいどんな研修をやったのか、と組合は聞いてきたのだった。 これは、副次的な効果である。研修などをやるくらいで行動を変えるのは難しいといわれる。それでも、「なるほど」と自分が胎落ちするようなやり方であれば、素直に真似てみるということから、行動変容は始まるのだろう。しかし、やってみようという気にさせた原因は、その方法の納得感が高かったからだけではないのでないか。振り返ると映像のなかで持論を語る4人はそろって、いかにも楽しそうだった。そのことこそが、刺激だったのではないか。 人を育てることは、楽しい。そのノンバーバルなメッセージが映像から伝わったからこそ、共感を呼び行動を喚起したのだと思う。

誰を昇格させるか | その他

誰を昇格させるか

昇格審査に関するご相談が増えている。 勝ち組を目指すための人材力強化の機運のなかで、やはり、まず第一の課題は次世代リーダー育成。それには、きちんとした計画的で合理的な昇格が必要ということだが、その背景には、「なぜ、彼が管理職なんだ!?」といった昇格の失敗経験も少なくない。名プレーヤーは必ずしも名マネジャーではない、といった話もよく聞かれる。 昇格の判断は、2段階で行われる。第1段階は、人事考課による昇格候補者の選定。評価項目は、資格等級ごとに決められた能力や行動の要件だから、その基準を満たしていれば、その等級は“卒業”ということになる。通常は、能力評価結果がその材料だ。業績評価結果も考慮されることもあるが、業績評価は本来、賞与に反映され単年度で報われるべきものだから、その材料にはしない方が合理的だ。 ここまでは、評価の制度と運用に問題なければOKだが、難しいのが次の第2段階。上位資格の役割を担えるかどうかの判断、いわば、“入学”の審査である。とくに管理職昇格で悩ましいのがここのところで、卒業要件満たした人のなかから、部門長推薦⇒筆記試験(&適性テスト、論文)⇒役員面接、といったよくあるプロセスでは、どうもうまくない。見極めなければいけないのは、マネジメントができるかどうか。しかし、その役割にないのだから、やったことがないからわからない。これを、筆記試験や役員面接で見極められるのか、という問題である。 そういった未経験状況における能力発揮可能性を測る方法として使われるのが、アセスメントセンター方式というアセスメントである。シミュレーション環境を用意して、その中で各人の意思決定や行動を評価するというもの。2日間の研修形式でじっくり見極めるか、センター方式のアセスメントツールを個別や組み合わせて使うなどで一定精度の診断ができる。 かくて、人事考課とアセスメントセンター方式によって、在籍資格の要件を満たし、かつ、管理職としてやれる可能性レベルがみれるから、昇格者選定の客観的材料ができるということになる。しかしこれは、スキルだけの話である。加えて、自社のコア人材たるマインドをどうみるか。それを診る意味で、役員面接や論文が機能するというわけである。 近年増えてきたのは、そこに、バリュー評価を考慮することだ。企業理念にもとづく行動こそが大事だから、どんなに能力やスキルが優れていても、バリュー評価に問題があれば、昇格させない、といった運用ルールの会社も少なくない。ちなみに、バリュー評価を賞与反映するようなケースもあり、自社のコア人材の要件は、能力やパフォーマンスだけではないというスタンスは根強い。 能力的にできそうかどうかが問われるけれども、能力発揮可能性だけあっても、姿勢や意欲・意思の面で問題あれば昇格には及ばないというわけである。大事なことは、一方で客観的にスキルを評価・測定したうえで、加えて自社固有の価値観や必要な姿勢を共有・体現している人材を見極めるということだ。役員や部門長が「あいつは“人物として”管理職をやらせても大丈夫だ。俺の眼に狂いはない」と、後者だけで選ぶことでは、昇格の失敗の根絶は難しい。

もっとユニバーサルデザインを | その他

もっとユニバーサルデザインを

教育研修の世界では、米国海兵隊の訓練方法がよく取沙汰される。 映画「フルメタル・ジャケット」の異常に圧迫的な訓練光景イメージの裏側で、ロイヤリティやスキルを高める考え抜かれた方法があるからで、例えば、個人特性に応じたチームの編成の仕方を学ぶ研修で教えるメソドロジーを、米国海兵隊に借りたりする。 これは、戦争という極限状態のなかで生まれた組織論だからこそ、その実践性が高いということだが、テクノロジーの革新という点では、さらに戦争の“貢献”はよく知られている。いろいろな分野に応用されるIT技術や電子工学の高度利用はもちろんのこと、インターネットもたしか軍の内部コミュニケーションシステムとして生まれたと聞く。世の中からなくなってほしい戦争ではあるが、それが技術革新の契機であったことも事実だ。 同様にクリティカルな状況打破を目指す、もう一つの技術革新の契機が、ユニバーサルデザインの追及である。つまり、障がいのある方々の生活を支援する技術。かつて、Coup d’Etat(クーデター)ならぬCoup d’Tech(クーデテック)という、多くのIT会社が参画した運動があった。「障がい者の生活を革命せよ」と “技術へ一撃”いれて、新機能や新しい道具を生み出そうという動きであり、その後、実際にたくさんの支援機器や支援環境システムが生まれている。 ウォッシュレットやTVのリモコンの例を持ち出すまでもなく、また、「バリアフリー」ではなく「ユニバーサルデザイン」という言葉になったことにも象徴されるように、障がい者支援を契機に生まれた便利な道具を我々全員が享受している。戦争ではない、こうした技術革新こそ、Coup de Tecの思想の実践こそ、もっともっと進むべきだろう。 障がいある方々のために、ICTや先端技術を使った生活や仕事の道具はずいぶんとできてきているが、まだまだ十分でない。必要な人なら誰しもが、ホーキンズ博士並みの車いすが使えるようなローコスト化技術は生まれないものか。また、日常生活の不都合をなくすための道具はある程度あるものの、生活を楽しむ道具は、まったく足りないのではないか。 たとえば、失われた五感の補完や増幅、もっと言えば新しい感覚の創出に基づく、障がい者の方々にとってのエンターテイメントの世界といったものが、技術の粋を結集して切り開かれるべきではないか。それらは、高齢化社会のQOL(Quality of Life)を高めるだろうし、また、結果エンタテイメントの世界を拡充することになるだろう。 道具や環境整備だけが、技術革新ではない。ユニバーサルデザインとしての、組織論や組織管理技術、人材マネジメント技術もあるのではないか。たとえば、さまざまな障がいをもつ人々や超高齢者をメンバーとして前提した組織のマネジメントの技術。それはきっと、海兵隊のメソッドよりもう一段高度化されたダイバーシティ・マネジメントの方法となるはずである。

無音を制する | その他

無音を制する

 アルゼンチンタンゴの全盛期の代表的な指揮者として有名なファン・ダリエンソは、“無音”の天才でした。ダリエンソの演奏は曲の途中で突然無音になります。あたかも次の音やメロディーを強調するかのように突然無音になるのです。この“無音”の効果が余すことなく発揮されている代表作は、“ラ・クンパルシータ“とう名曲です。曲名は知らなくとも、この曲を聞いたことがない人はいないくらいのタンゴの名曲です。この曲の中でも“無音”の効果は絶大なものがあります。音を強調するに大きな音を出すのではないという手法に改めて驚かされます。  会議やプレゼンテーションをする中で、強調して話したい、話さなくてはならない状況があります。このような場合には自然と声を大きく話すことになる傾向にあります。確かに心情的にも自然に声が大きくなってしますのは当然と言えば当然です。しかし強調したい部分をより効果的に伝えるには、“間”をとることも非常に効果的です。“間”を取るとは、「この場でお話ししたいことは、(ちょっとした間)○○ということです」のように、強調したい部分の前に“無音”の時間を作るということです。通常話をしているときは一定のスピードで話をしていますので、いわゆる緩急があまりありません。効果的な話をするにはこの緩急を意識するとよいということです。その究極が“間”であり、これは“無音”ともいうことができます。  プレゼンテーションにせよ会議にせよ、話すことで何かをより効果的に伝えるには、さまざまな準備や工夫が必要です。話すという行為は、話し言葉が順番に耳に入ってくるだけですので、そもそも全体の構造が分かりづらいのです。そのためプレゼンテーション資料などを用意して、図やグラフなどを使用しながら話すことは、この話すという行為を強力にサポートしてくれます。図やグラフや目次や話のポイントなどが目に入ることによって、話し言葉だけでは伝えきれない、伝えられないものが伝えられるからです。そういう意味では本質的に話だけで相手に何かを伝えることは、相当な制約があるということです。  しかし聞き手は、図やグラフやパワーポイントの資料を見に来ているのではなく、これらの補助物は使用しながらも、その人の“話”を聴きに来ています。したがって資料の説明を頭から読むようにやられると全く面白くありません。やはり“話”そのものの面白さと技術が根底にあり、資料などはそのサポートにすぎないのです。  うまく話す、面白く話すという手法やポイントはたくさんあると思いますが、多用して非常に効果的で使いやすいのは、この“無音”の技術です。話にメリハリが出て、また構造的にもわかりやすく、また誰でもが使える技術です。限られた時間で効果的に伝えなくてはならないプレゼンや会議などで、意識的に使用すると、その効果が実感できます。“無音を制する”人は話がうまい人であると評価されるのではないかと思います。

富士越え龍の凄み | その他

富士越え龍の凄み

 葛飾北斎は、73歳になったときに我が人生を振り返り、「70歳までに描いたものの中には、見るべきものは何も無い」と言ったと伝えられています。北斎がかの富嶽百景を作成したのが50歳を超えたころだと言われていますから、世界に名だたるこの傑作さえ、本人にとっては「見るべきもの」ですらなかったということです。また、「この歳になって鳥や獣、虫や魚などの本当の姿がどうやら見えてきた。80歳になればもっと進歩し、90歳にはいっそう奥まで写すことができるだろう。そして100歳には思い通りに描き、110歳には瞬時にまるで生きているような姿を描くことができるだろう。」と言ったそうです。  北斎は、実際には1849年に89歳で亡くなっています。亡くなるときには、「あと5年あれば」と言って、やり残した仕事への無念を表現したそうです。江戸時代の庶民の平均的な死亡年齢がだいたい60歳くらいだとされていますから、89歳というのは長寿の中の長寿です。しかもこの世を去る直前まで仕事をして、さらに5年あればと悔恨の言葉を残して去った天才には、頭が下がる思いです。  65歳を超えて70歳まで働くことがおそらく普通の状態になるだろう世の中です。体力はかなり落ちてきたが、歯を食いしばって、不平不満を言わずにがんばろう、というような「気力の人」は数多くいると思います。反対に、どこといって悪いところはなく、いたって健康ではあるが、どうも頑張りがきかなくなったという意気地の無い話もよく耳にします。北斎の凄いところは、どんな年齢においても、今よりもっと良くなろうと挑戦するところだと思います。常に何らかのビジョンを持っていて、何歳までにここまで、その次の何歳までにここまで、というような目論見を抱いています。こうした気の持ちようが、元気な仕事の源であるという気がします。  考えてみれば、今の世の中、新しいことにどんどん挑戦していかないと、すぐに先が見えてきてしまいます。高齢者は長年の経験を生かして大いに社会に貢献できる、などと言いますが、経験を切り崩すだけで世の中の価値に置き換えられる部分は思ったより少ないかも知れません。切り崩すのではなく、経験を新しい価値の創造につなげるくらいの気迫を持って仕事に臨まなければならないでしょう。なにせ体力のほうが追いつかないのですから。  時間があれば、インターネットか何かで調べて、「富士越えの龍」という絵を見ていただきたい。この作品は、葛飾北斎の絶筆に近いものと言われています。身をよじるようにして天に昇ろうとする龍の姿は、老いてなお、さらに上へ、さらに上へと苦しみもがく北斎が、自らの姿を描いたもののように思えます。一種の凄みすら感じます。画狂老人と自らを称した天才の最高傑作です。