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経営マインド | その他

経営マインド

次期経営層の育成が急務と言われている。 会社が急速な事業拡大中で、現場の経営を任せられる人材が必要で、また新たな強みを創出できるような事業創造型人材の育成の課題を持っている会社が多いからだ。 経営マインドを持って、経営者の立場に立ち、経営理念の下で全体を判断しながら任務を遂行することをできる人材が求められているということだ。 現場の管理職はというと、「経営マインドは今の立場で考えなくたっていい。将来的に経営者になった時に考えればいいじゃないか。今はプレイングマネージャーとして現場を引っ張っていくことで精一杯なのだから」、と考えている人も多い。 しかし、会社の業績が一組織、一管理職にかかってくる今日では、管理職としての責任を担い始めた時から、経営マインドを持って仕事に対処し、部下をリードしなければビジネス戦に負けてしまうし、自分の成長も望めない。 管理職としての自分の立場にこだわると、組織の利益を上げることやミスを無くすことだけに心を奪われがちである。これではとても管理職として仕事の取組みとは言えない。 組織は会社全体の利益に寄与するものであり、そのためのリーダーという立場で考えれば日々の仕事が会社の経営理念や課題にどう関与しているかが分かってくる。 なかには黒子に徹するような仕事もあるが、そんな時に会社の中での自分の位置づけがキチンとできてないと、何ためにやっているのか、役に立っているのか、となってくる。 会社の利益を考えない管理職はいないだろう。ところが自組織の責任範囲にこだわっていると、この利益への感覚が狭くなり、自分の考えだけで安易な方法で仕事を進めてしまう。 黒子の仕事でも、管理職として常に利益の創出を考えた取り組みをしているとそれは必ず将来生きてくるだろう。 日本のビジネス界は、常に企業としての理念が問われる。企業としての存在意義と理念がないと、現代のような消費者主導といわれる社会では立ち行かない。本来こうした企業理念は経営のトップが持つものであるが、管理職がこうした経営理念を常に大切にし、経営マインドを身につければ、日常の仕事を進めていく中で、強い精神的な支柱となるはずである。

福澤諭吉とメラビアン | その他

福澤諭吉とメラビアン

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という話の出どころは? これは昔、ある新聞社の記者採用試験で出された問題だそうです。 多くの方が、福澤諭吉の著作『學問のすゝめ』と回答してしまったらしいのですが…確認すると、「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズ “ト謂ヘリ”」とあり、「引用」であることがわかります。 諸説あるようですが、「アメリカ独立宣言からの翻案」いう説が有力とのことで…採用側としては「記者を志す者は、原著論文や自ら体験して得た『一次情報』を重視して欲しい(情報源の確認を怠らないで欲しい)」という意図で作成した問題だったとのことです。 今は、誰もが容易に情報を得ることができる時代です。 だからこそ私たちには、重要な意思決定の基盤となる情報、関係者への影響が大きな情報に関しては、可能な限り「信頼できる情報か?」を確認するといった、「情報リテラシー」が求められます。 ところが実際には、影響力の大きな立場にいる人物の情報リテラシーが低いために、素直で従順な関係者が、「与えられた誤った情報に基づいて、判断したり行動したりしてしまっている」といった状況も少なくありません。 そして…残念なことですが、人財開発の場面でも、「講師が、誤った情報に基づいて研修を提供」してしまっている場合もあるというのが実態です。 何でも鵜呑みにせず、大事なことは「確認」しましょう。 ここでは、研修で伝えられる誤った情報の事例として、「メラビアンの法則」(Mehrabian's Rule;発音によっては「マーレビアンの法則」、あるいは、「55-38-7のルール」や「3Vの法則」)と呼ばれる内容についてご紹介しておきましょう。 これは、「対人コミュニケーションにおける、メッセージ伝達に果たす役割」の内訳として、見た目や表情、ジェスチャーなどの「視覚(Visual)情報が55%」を占め、声の大きさや口調、スピードなどの「聴覚(Vocal)情報が38%」を占め、話そのものの内容である「言語(Verbal)情報は7%」しか占めていないという内容として知られ、「話の中身よりも、見た目がずっと重要」であるとか「話の中身よりも、伝え方がはるかに重要」といった主張の根拠に用いられる場合があります。 しかし、少し「確認」すれば、「メラビアンの法則」として知られているものの内容が、「『言語情報(ひとまとまりの話でも文でもなく、単語)』と『聴覚情報(声色など)』と『視覚情報(表情など)』の間に【矛盾がある状況】では、私たちは、どの情報を優先して用いて、話者の感情や態度を判断するか?」という「特殊な場面におけるコミュニケーションについての研究成果」であることがわかります。 理解のしやすさを優先して、あえて極端に表現するなら…例えば、「話者が、こちらを睨みつけながらツバを吐き、ぶっきらぼうに、『ごめん』と言った」場合に、「私たちは言語・聴覚・視覚情報のうち、どれに基づいて、話者の感情を判定するだろうか?」といった内容を確認する研究だったわけです。 明らかに、「コミュニケーション全般に適用することはできない内容」であって、「メラビアンの法則」と呼ばれるものが、「元々の研究内容が誤解されて広まったものであること」がわかります。 今回の2つの話を踏まえて、繰り返します…経営職や管理職、大学教授やコンサルタントなどのみならず、私たちひとりひとりが情報リテラシーを高めることが求められる時代です。 「入力(input)と出力(output)だけ」(情報の横流し)に終始するのではなく、少なくとも大事な事柄に関しては、「『真贋を確認』したうえで、『咀嚼や加工といった思考プロセス(processing)』を加える」という形で、情報を活用していらっしゃいますか?

人事のリープフロッグ(蛙飛び) | その他

人事のリープフロッグ(蛙飛び)

アフリカのほとんどの国では、固定電話の普及率が10%未満であるのに対し、携帯電話の普及率は、既に80%を超えていると言う。固定電話は電話回線を張り巡らすための莫大な投資が必要だが、携帯電話は基地局だけ整備すれば済むため、先進国よりも急速なスピードで普及した。また、我が国は、世界に先立ち、2004年に電子マネー技術を携帯端末に搭載したモバイル決済サービスが開始されたが、その普及率は、現在でも、未だ3割弱であるのに対し、従来の銀行決裁システムが十分確立されていなかった中国では、急速にモバイル決済が広がり、その普及率は80%に達していると言う。 このように、新興国が先進国から遅れて新しい技術に追いつく際に、通常の段階的な進化を踏むことなく、途中の段階をすべて飛び越して一気に最先端の技術に到達してしまうことは、「リープフロッグ(蛙飛び)」と呼ばれている。現金決済より、モバイル決済の方が、釣銭のやり取りの手間もなく、正確で手間もかからないことは理解できても、従来通り、現金で買い物をすることに慣れているし、特段、不自由さも感じないため、モバイル決済を積極的に利用する動機がない、というのが大半の日本人の感覚という事だろう。いわば、既に盤石な現金決済の社会インフラがあるが故に、将来にむけた進歩に二の足を踏んでいるところがあるとも言える皮肉な現象である。 企業業績が比較的堅調に推移する中、政府の推進する働き方改革の影響もあり、数多くの企業が、今、人事改革に取り組んでいる。だが、長年培ってきた人事的慣習やインフラに引きずられる事なく、将来の企業の成長を見据え、最新のテクノロジーを素直に受け入れ、ゼロベースのあるべき姿を目ざしているところは、一体、どれだけあるだろうか。 現行の経営や人事のフレームワークを前提に、小手先だけの見直しでなんとか済ませようと考えている企業も少なくないように感じる。現実をみれば、これだけ情報システム技術が普及している中、大企業であっても、未だ、人事評価シートを手書き、ないし、エクセルベースで行っている企業もかなりある。目標管理制度を導入しているといっても、目標設定は現場任せで、組織的な整合性の検証はされないまま、低い品質で、ただ惰性的な運用を続けている企業もある。人事評価は管理職の重要なミッションであるはずなのに、その評価品質レベルを高めていく事には、相応の手間が掛かる事と現場からの反発を受ける事から及び腰になり、従前のやり方をほどほどに見直すだけで、本当に、これからの時代を生きぬいていけるのだろうか。 こうした悩ましい課題は、人事分野に閉じたものではなく、マネジメントサイクルや経営管理スタイルと統合された経営全体レベルの変革領域となるで、人事担当役員や人事部長だけの判断で解決できるものではなく、経営トップの理解と決断が必要なため、その分、改革の腰が重くなっているところはあるのだろう。 今、人事領域においても、様々なテクノロジーの導入により、全く新しいインフラが構築されようとしている。政府の起こした風に乗る形で始まった今回の人事改革の波の中で、目先の改善程度で済ませてしまうのか、それとも、長年築き上げてきた人事プロセスを思い切って否定して、腰を据えた経営改革、人事改革に取り組むのか、日本企業は大きな岐路に立たされている。逆に言えば、いままで人事面での整備が遅れていた企業でも、今までに苦労して築き上げてきたインフラがない分、しがらみなく自由に改革を行い、一気にリープフロッグ化して、人事面から企業競争力を高めることが可能な時代であるとも言える。

群盲象を評す | その他

群盲象を評す

学んだことを実践するために、明日から具体的にどのような行動をするか計画を立てる。 大抵の研修の締めくくりでは、このようなアクションプランを設定させるが、残念なことに、このアクションプランは実行されないことが多々ある。 決して安くはない費用をかけ、参加者の時間を割いて研修を実施しても、これでは効果は乏しく非常にもったいない話である。研修の内容はもちろん重要だが、参加者が研修で学んだことを実際に行動に移せるようデザインすることが重要だろう。 アクションプランを実行できなかった人に聞いてみると、いろいろな理由(言い訳)がでてくる。業務が忙しくて実行に移す時間がない、現場の協力が得られなかった、忘れてしまった、とか、そもそもの計画の立て方がまずいというのよくある話だが、もっと困るのはそもそもの問題の認識が誤っているというケースだ。 こんな話がある。盲人が数人、象の体の一部分だけを触ってその感想について論じ合い、ある者は、耳を触って「これは大きな葉っぱだ」と言い、ある者は足を触って「これは木の幹だ」と言う。尻尾に触った者は「これは太いロープだ」と言い、またある者は牙に触って、「これは槍だ」と言う。 全員、同じものを触っているのに、自分が触っている一部分だけをもって、それが何であるか、を断定しているのである。 これは、「群盲象を評す」というインドの古い寓話だが、物事の1側面だけを見てすべてを理解した気になってしまうことの例えとして使われる。現在では視覚障害者に対する差別的な表現として避けられる表現ではあるが、意味するところは重要である。 事業環境の変化の激しい現在のビジネス環境において、問題の本質を誤ってとらえてしまえば、その対応もまた誤ってしまう。邪魔な象をどかすのと、葉っぱをどかすのとでは、するべきことは全く違う。葉っぱをどかそうとホウキを持ってきても、到底、象をどかすことはできないのである。 アクションプランを検討する際も、前提となる問題の本質を捉えることが重要だ。そのためには、研修の最後で単にアクションプランを宣言するだけでなく、そのアクションプランの妥当性を参加者同士で徹底的に検証する必要があるだろう。そうすることで、お互いが抱えている問題の本質を理解し、アクションプランを実行、サポートし合える環境ができる。 先の寓話ではないが、部分しか見ることのできないものであっても、皆で情報や知識を共有すれば、「これ、もしかして象じゃね?」と物事の本質に迫ることができるのである。

盲点をなくす | その他

盲点をなくす

「冬に熱中症!?」 日本海側の北陸地方で生まれ育った私にとって、「冬は、雪が多くて湿った季節」でしたが、太平洋側の東京で暮らすようになると、「冬は、からっ風の吹く乾いた季節」となりました。 そして、つい最近まで「熱中症は夏のもの」と思い込んでいましたが、冬の乾燥した環境では、本人の自覚なく「隠れ脱水」となり、脱水症状を起こして「冬に熱中症」になることがあると知りました。 夏のように汗をかけば、水分を補給しようとするのでしょうが、汗をかきにくい冬、寒くて身体を冷やしたくない冬には、意識的な水分補給を行わず、熱中症になる方がいらっしゃるとのことです。 冬の熱中症…私には意外な「盲点」でした。 「視野には入っているのに、見えていない盲点」には、目の構造からやむを得ず生じた「物理的(生理的)な盲点」と、「気づかない」という「心理的な盲点」の2種類がありますが、「冬の熱中症」は「心理的な盲点」の例ですね。 「物理的な盲点」として見えない部分は、移動したり、見る角度を変えたりすることによって「盲点を移動」させれば、観察することが可能となります。 一方、「心理的な盲点」は、「見えていないことに気づいていない」こと、「自分が充分に理解できていないことを『自覚できていない』ために、対応策や改善策について、考えてみようともしない」ことが問題となる場合があります。 そこで…例えば、「他部門の担当者の理解が充分に得られず、自分(たち)が提案した新規事業がボツになってしまいそうな状況」であっても、相手に怒りを覚えたり、周囲に八つ当たりしたりするのではなく、相手が「どんな視点に立って、何を大切だと考えて、その提案内容を受け止めているのか?」について知ろうとして、対話を持ちかけるなどといった形で、「盲点を無くそうとする姿勢」(他の視点を積極的に得ようとする姿勢、視点を変更してみようとする姿勢)が、良い結果を生むために有効となります。 問題の発生を未然に防ぐためにも、発生した問題を解決するためにも、自分(たち)の、あるいは、従来の視点だけに立脚して、いきなり相手に怒りをぶつけたり、立場の力で従わせたりするのではなく、「何か相手なりの考えがあるに違いないけれど、それは何だろうか」と「相手の視点を理解しようとする姿勢」を持てているかどうか=「自分の盲点を無くそうと、物事を多角的に捉える姿勢」を持てているかどうかは、「さまざまな考えや立場の人々を巻き込んで成果をあげる」ことが期待される経営職・管理職の人々にとって、極めて重要な要件です。 また、問題というネガティブなモノを無くすためだけでなく、「盲点だったモノから新たな着想を得て、イノベーション(創新普及)に繋げる」というポジティブな目的のためにも、「盲点」を無くすことは有用です。 そして、「盲点」を無くすため、(置換や統合を含む)「視点変更」を促すためには、自ら異なる環境に身を置いてみたり、実験(許容可能なリスクを伴うテスト)をしてみたり、他者(利害関係者、メンター、コーチ、想定顧客、素人など)に同じ状況を見てもらったり、異見を持つ人と相互作用(対話や協働)してみたりすることが必要です。 同じ会社、同じ趣味の人とだけ付き合ったり、自分の周りを「Yesばかり言う人物」で固めたりするのは、「盲点を生む姿勢」です。 逆に、日常生活で、意識的に「異質」なモノと触れようとするのは、盲点を無くすためだけに止まらず、新たな刺激や友人を得たり、発想を柔軟にしたり、感性を磨いたりするのにも役立つ、豊かな生き方・働き方を実現しやすい姿勢なのかもしれません。 あなたは「心理的な盲点」と、どのように付き合っていこうと思われますか?

「タイプ分け」は、育成に向かない | その他

「タイプ分け」は、育成に向かない

 「血液型は何ですか?」と尋ね、相手のXさんが「B型です」と答えたとしましょう。 翌日、あなたは同じXさん相手に「今日の血液型は何ですか?」と尋ねるでしょうか? まず間違いなく、そんな質問はしませんね。なぜなら、私たちには「(骨髄を移植したり特定の疾患にかかったりしない限り)血液型は一生変わらない」という前提があるからです。 この血液型の例に倣うかのごとく、私たちは一旦何らかの「タイプ分け」を行うと、「Xさんは、○○型だからねぇ」などと、相手を「色眼鏡で見る」ようになりがちです。 また、このような「タイプ分け」は、同じ時期の同じ人物であっても、例えば、仕事の時とプライベートの時には採用する言動・態度のパターンが異なっていても当然だという「人の多面性」に目をつむらせてしまうことを忘れがちです。 私の研修提供経験を振り返ってみても、多くの人にとっての「タイプ分け」は、先入観を強化する「決めつけ」態度をもたらし、目の前の相手の新たな長所や些細な変化に気づくように「観察する姿勢」や、反応に合わせて「コミュニケーションの仕方を柔軟に変更する姿勢」を損なわせるものだと言ってよいと思います。 「静的なタイプ分け」が役に立つのは、中長期に渡って変わらずに特定の機能の発揮が期待されるチームの編成や人材の最適配置などの「組み合わせ」等を検討する場面であって、人材育成などの「変化の促進」(成長支援)の場面ではありません。 確かに「タイプ分け」の考え方は、面白いですし、単純で便利に感じます。しかし、「人や組織は望ましい姿に変わることができる」という考え方を前提として持つことが大切な、人材育成関係者(特に、部下を持つ上司、メンター、コーチなど)には、基本的には、不適切な考え方であると私は捉えています。(タイプ分けの根底にあるのは、「人や組織は、少なくとも当分の間は変わらない」という前提ですから。) 人材育成というプロセスが、「相手を信じ、相手の新たな可能性を見出す」という側面を含み、「一度伝えただけで理解するなどと思わず、できるようになるまで失敗を許容すること、辛抱することが大切」という側面を含むのであれば、「タイプ分け」という安易な手法に基づくコミュニケーション研修の繰り返しなどはやめた方がよいのではないでしょうか。 また、今後のビジネスにおいて、アマゾンの「0.1人のセグメンテーション」(個人単位での商品推薦よりもきめ細かく、種々の行動・検索履歴なども含めたビッグデータ分析に基づき、リアルタイムで商品を薦めるのが0.1人セグメンテーション)に見られるような「超顧客主義」の方向性が強まっていくのであれば、「静的なタイプ分け」よりも「動的パターン認識」を踏まえたコミュニケーションの習得に関心を持つ人や組織が増え、リアルタイムで収集された各種データを分析するテクノロジーを用いた人材育成も当たり前になっていくのかもしれないと、私は思っています。 アルバート・アインシュタインの言葉、「すべてのものは可能な限り単純化すべきだ。しかし、単純化しすぎてはいけない。」(Everything should be made as simple as possible, but not simpler.)を思い出し、性急に「単純化し過ぎるという過ち」を犯さない姿勢、「適切な複雑さ」を容認するという姿勢が、人材育成の場にも求められるのではないでしょうか?

百本ノック | その他

百本ノック

 成果・業績を重視した人事制度へ改定を行う企業が多くある。新たに人事制度を改定する企業では、制度の基本的なコンセプトの中に、“成果・業績の重視”、“貢献した社員により多くの配分”といった成果・業績・実力を重視した文言が圧倒的に多い。そのためには、企業が必要な人材を明確にすることと、成果、業績、実力によって大きな配分の差が発生できる処遇の仕組みが構築されなければならない。さらに社員の成果、業績、実力を正確に“測定する”ことが必須となるのである。  人事制度設計時では、この“パフォーマンスに応じた配分差”を今までよりも大きくすることが重要であると認識されており、そのための仕組みを詳細に設計することになる。設計時点で評価制度に求められる絶対的な要件は“測定”の機能であるのだ。パフォーマンスの適切な測定があるからこそ、新しい人事制度は機能するのである。この適正な測定を実現するためには、評価の制度の整備も重要であることは間違いないが、より重要であるのは、実際に評価する管理職の評価スキルである。長期雇用を前提とした日本企業では、パフォーマンスをストレートに反映した評価を行うことに、管理職は積極的ではない。マイルドな評価を行うことで、本心は組織の平穏や安定を指向しているのだ。成果、実力に対する適正な評価を行うことに価値を置いていないともいえるのである。  新しい人事制度がうまく機能するためには、実際に評価する経営者、管理職の評価スキル・マインドを格段に向上、大きな変革をしなければならない。そのためには、役員や組織の評価を厳格に行うことが必要であることは言うまでもないが、それを前提としても管理職の経営・人事管理のスキル・マインドの改革が必須であろう。  もう少し限定的に言えば、役員、管理職の人事制度、特に評価のスキル・マインドを変容させなければならない。そのためにはいくつか有効な手法はあるが、伝統的には“評価者研修”を行うことが有効と思われている。しかし一般的に行われている評価者研修は本当に有効なのであろうか。口が悪い人は“偽薬”というように、評価のレベルを上げるための研修であるのに、研修をしても実際には効果は限定的で持続性がない。治療方法としてほとんど有効性は認められないのである。実際に一般的に行われている評価者研修は、評価制度の説明や、評価者のマインド、悪い評価の例、評価のフィードバックの方法などが中心である。新たな制度では成果や実力を“測定する”ことが絶対的条件として求められているが、果ては“評価は育成である”といった本質と違うストーリで展開するものまであるのだ。これは“測定”は厳しくてやりづらいので、“育成”という言葉を使えば、まだマイルドだという感覚であるが、本質がずれている。  “測定”を徹底するのであれば、役員、管理職は、実際の部下を新しい人事制度に沿って徹底して“測定”するスキルやマインドを身につけなくてはならない。自分が行った評価が“測定”という観点で正しいのかを、何度も実施検証を繰り返すことが必要なのかもしれない。評価者研修は、新たな評価表で自分の部下を評価し、新制度の趣旨に合っているか、企業の経営者や管理職から“適正”であると評価される品質の高い評価ができることに注力するべきである。ひたすら評価を行い、ひたすら評価の品質を問う、百本ノックのような研修が有効なのかもしれない。 以上

ゆるくてドライな関係 | その他

ゆるくてドライな関係

最近、企業が、社員の副業・兼業を解禁したという記事をよく目にするようになった。 政府も、働き方改革の一環として「副業・兼業」の解禁に関する研究会を今月中に経済産業省内に設置する方向だ。副業・兼業の解禁は、今、我が国が直面している働き方の改革の主要なテーマのひとつといえる。 副業・兼業の禁止は、終身雇用制とともに、我が国の多くの企業において長年続けられてきた慣習である。その理由として、企業固有の知識・ノウハウの社外流出リスク、本業のパフォーマンスがおろそかになるリスク、さらには、犯罪やトラブルの発生により、本業の会社のリピュテーションが低下するリスク等を回避したいという事がある。企業側は、こうしたリスクを避けるため、定年まで雇用を保証する見返りに、副業・兼業などせず、本業に専心して取り組んでください、といったバーター的取引が今まで、労使の間で成り立ち、機能してきた。 だが今や、経営環境は大きく変化し、それがうまく機能する状況ではなくなってきている。まずは、終身雇用制が実質的に崩壊している事がある。企業にとって、入社した社員を、安定した賃金を払って定年まで雇用していくことが難しくなってきた。社員が一つの会社に忠誠を誓い、人生を託す代わりに、企業が生涯の生活を保障することが出来ない状況の中では、社員と会社の関係も、もう少し“緩い関係”のほうが、双方にとって都合がよくなってきた。業績低迷期は、どうぞ副業・兼業のほうで、頑張って稼いでくださいという思いや、中高年の世代においては、在籍しながら、セカンドキャリアを模索してもらう期間や準備期間を提供しますよ、という意味合いもある。先の見えない状況下で、今までのようなベタベタな関係よりも、もう少しドライで、緩い関係を志向することが、企業、社員、双方にとって都合がよくなってきたというわけだ。 もうひとつは、我が国の大多数の企業が、不透明な経営環境下で、これが成長戦略だと明確に言えない悩ましい状況に陥っていることにある。従来の延長線上に、今後の成長の道筋が見えてこない中で、従来の優等生的社員だけではなく、多様で新しい発想を持った、いわばエッジの効いた人材を確保・登用しなければ、将来は見えてこないという危機感が企業にはある。そのためには、副業・兼業を認め、そうした幅広い経験の中から自由な発想や本業の新たな成長エンジンとなりうる人材を輩出したいという期待がある。 かつては、一対一であった国と企業の関係が、グローバル化が進む中で変容し、企業に特定の国のレッテルを張ることが難しくなってきたのと同様、企業と社員も、今後、より「あいまいな関係」になっていくだろう。グローバル企業の拠点が、より税金の安い国やより調達コストが低い国などへ流れていくように、企業と社員の関係が「緩く」なると、両者の間でも、よりよい緊張感が生まれてくるはずだ。 企業側に本業としての魅力がなくなっていけば、社員は、その企業を本業としてみなさなくなっていく事になるので、企業は、絶えず、社員にとって魅力的な事業や職場でありつづける努力が求められるだろうし、社員は、副業・兼業を認められた以上、本業で相応のパフォーマンスを上げられない限り、雇用の維持や処遇の改善は期待されないという覚悟がより求められることになっていくだろう。  現在の社会・経済の流れをみる限り、今後、我が国の企業にとって、副業・兼業の解禁は、やはり、必然的なものと言わざるを得ない。 この人事的慣習が上手に破壊され、企業と社員の相互依存的なベタベタな関係が払しょくされ、適度な緊張感のある関係の中で、我が国の企業がより高いパフォーマンスを生み出す状況を作っていくことが、今、求められている。

会議の風景 | その他

会議の風景

 会議は複数の参加者によって意思決定、情報共有、意思統一などを目的に実施する。組織的に業務を遂行するために、非常に重要な“アクティビティ”である。この会議がうまく機能しなければ、会議の目的を達しないという問題とともに、多くの参加者の時間を無駄にするということになってしまう。そのため会議は、目的を明確にし、その目的達成のためのシナリオを練り、コンティンジェンシーへの対応も想定しておくべきであろう。うまく企画され、うまくコーディネートされている会議は非常に充実感がある。複数の参加者がこういった充実感を持つことが、会議の成功と言えるのだ。会議の成否は会議主催者やコーディネート役の力量にかかっている。よりよい意思決定、高いレベルでの情報共有、納得する意思意識の統一がなされるためには、相当な準備と会議の場でのコーディネートが必須である。日々多くの会議が実施されるが、“よい会議“はどの程度あるだろうか。集団の知的作業である会議がうまく機能することによって、組織的な活動が促進される。そのため”よい会議“が大半でなければならない。  この会議の”品質“に対して非常に鋭敏な感覚を持っている企業にたまに出くわすことがある。会議の目的、参加者、進行、資料などに対して厳格な指導をし、問題のある会議については、会議主催者、進行者に報告書を提出させることまでしている。組織の活性化、組織の生産性向上のための取組みとして大変面白いと感じる。このように厳格に管理していない企業では、実施される多くの会議が十分なレベルに達していない可能性が高いだろう。例えばこんな状況が散見される。  まず致命的であるのが、目的が不明、曖昧な会議である。決定するのか、事実認識を統一するのか、共通認識を持つための意見交換をするのかが不明であったり、甘かったりするために、会議の体をなさない。また目的・ゴールが明確でも進行のコントロールが甘いと、目的・ゴールを達成できないか低いレベルの結論になる。しかも参加者の満足度も高くないのだ。会議を進めるために資料などを用意するが、この資料が的を得たものでなかったり、資料の説明が“読み上げ”的であったりすると、とたんに参加意欲を低減させ、活発な議論にならない。そうなると参加者も、座っているだけの人も多く発生する、熱心に説明を聞いている風であるが、頭脳は動いていなさそうである。果ては“メモ魔”なども出てくる。会議の内容を詳細に紙やPCに記録するのだ。一見真面目に会議に参加しているように見えるが、共同の知的作業であることを放棄しているとも言える。  多くの日本企業ではコミュニケーションスキルに対する教育や指導がもっと必要であろう。会議などはその代表的なものであるが、会議の進行・コーディネートは高い意識で訓練しなければ身につかないスキルである。環境変化が激しくなりスピーディーな情報認識、意思決定がより強く求められている。また複雑なビジネスモデルを組織的に進めていかなくてはならない。さらにはグローバル化の進行や様々なタイプの関与者と会議をしなければならない。会議のスキルをさらに磨かねばならないはずであるが、現状ではそこまで重要視をされているとは言えない。社内の会議の風景を見て十分な品質と思えればいいのであるが、そうでなければ会議を行うごとに、組織力を劣化させてしまっているくらいの認識が必要ではないだろうか。 以上

PDCAサイクルを破壊するのは、管理職であり、役員だ!… | その他

PDCAサイクルを破壊するのは、管理職であり、役員だ!…

 「PDCAサイクルを回すとき、もっとも厄介な存在が管理職であり、役員だ!…。それを破壊する人すらいる」  と2011年、あるセミナーで話したところ、聴衆である会社員50~60人のうち、半分近くが笑っていた。  PDCAが、「計画(plan)→実行(do)→評価(check)→改善(act)」を意味するのは、多くの人がわかっている。当然のごとく、仕事をするうえでは、誰もが改良を重ね、成果を高めようとする。  しかし、会社や部署で組織としてPDCAを回そうとすると、難しくなる。そのとき、壁として立ちはだかるのが、管理職であり、役員だ。特にPDCAの「C」、つまり、「評価」のところで意見をはさんだりしてかき回す。 「いや、それはそんなに悪い状況ではない」 「そこは、見直すべきではない。むしろ、このまま、進んでいくべきだろう」 「むしろ、ここが改良すべきところだ」  管理職や役員にそんなつもりはないのかもしれないが、非管理職からすると、自分の意見をごり押ししているにしか映らない。しかも、その意見が事実に基づくものとは必ずしもいえない。管理職や役員が感覚的に(ときには思いつきで…)口にしているように見えることもあるだろう。    会社として、部署として大きな成果を狙うならば、PDCAを機会あるごとに回し続けなければいけない。PDCAをきちんと回し、成果を上げていくためには、ある意味での「自己否定」が必要になる。  管理職や役員は、自分の考えや判断に誤りがあったと認めることができるか、どうかー。「自分たちの仕事の進め方ややり方のここが誤りであり、こうあらためていく」といえなければいけない。  非管理職は、それを受け入れることができるかどうか。管理職や役員は考えや判断などに誤りがあったことを認めたのであり、自らを否定したのではない。その区別が本当にできているか、どうか。  PDCAサイクルが回らないならば、社長以下、末端の社員にいたるまで、そのような考えや心がまえに問題があるのではないだろうか。  徹底してクールに、突き放して事実をとらえ、わだかまりなく、皆が「自己否定」できるかどうかこそが大切なのだ。その「自己否定」は、実は「自己肯定」であり、決して「敗北」でも「譲歩」ではない。  しかし、ここまで深く考えることができる人はごく少数だろう。そこで、マネジメントが必要になる。  たとえば、管理職や役員が、常に「自己否定」をする仕掛けをつくることだ。 まずは、管理職や役員の人事異動の回数を大胆に増やしていくべきだろう。異動となる人数も増やし、状況いかんでは降格もするべきだ。社員数が300人以上ならば、それができるはずである。業績がよかろうと、リストラも常に行いたい。少なくとも年に数回は、希望退職を募るのが望ましい。  代わりの人材は、非管理職から抜擢してもよいではないか。外部から招いてもいい。ハンティングは、もっと頻繁に行うべきである。  結局、会社や部署が流動化し、「下剋上」の職場にならない限り、管理職や役員は「自己否定」などしない。マネジメントとしては、この人たちが自分を正しく振り返るように仕向けるのである。  PDCAを回さなければ、業績は上がらない。そのためには「自己否定」を繰り返すこと。そして、管理職や役員の根拠なき自信を徹底して打ち砕くこと。既得権の上にあぐらをかき、結果を出すことができない管理職や役員はいらない。  あらためて問いたい。 PDCAサイクルを破壊するのは、管理職であり、役員ではないだろうか…。

がんばります | その他

がんばります

 “がんばります”という言葉はどういう意味なのか疑問に思うことがしばしばだ。何かの仕事を誰かに依頼すると、“がんばります”という返事をもらうことが多い。これは快く了解したという意味でしょうからあまり疑問に感じない。しかし仕事に対して指摘する、ミスを指摘するなど、こちらが期待している水準に満たない場面で、“がんばります”と言われると、この言葉の意味がよくわからず、果ては発言者のこの仕事の取組み自体や、さらにそもそも仕事に対する姿勢にまでさかのぼり疑問を感じることすらある。  “がんばる”という意味を逆さにとると、いつもは通常のレベルで仕事をしていると聞こえる。“通常”のレベルと、“がんばる”のレベルの二つのレベルがあるのか。仕事の品質や生産性が高くなかったのは、通常レベルで仕事をしていたからなのだろうか、そうなると通常レベルでは品質生産性は高くないということなのか、などと勘ぐってしまうのだ。  そもそも仕事に対する指摘や指導をした時に問題としているのは、その仕事の成果である。成果を判定するにはアウトプットのレベルと時間などの投下資源の量である。成果が十分でないという指摘に対して、がんばる、がんばらないということには何ら意味はなく、興味もない。何の返答にもなっていないのだ。あえて言うならがんばらないで成果を出してほしい。  日本は欧米に比較すると生産性が低い。日本のビジネスマンは勤勉であるが、驚くほど長く働く。生産性が改善されれば、企業も社員も大いにメリットがある。社員一人の生産性が増加すれば、企業は利益が増えると同時に社員への配分も多くなるからだ。日本企業は生産性を強く意識しなければならないが、生産性を“数字”で管理している企業が実に少ないのが現状である。これでは生産性向上といっても、効果が測定できない。そのため生産性向上という壮大な課題は、往々にして残業時間削減という矮小な課題に転換されてしまうのである。  重要なのは成果を出すことである。これは高いアウトプットと、より効果的な資源投下をすることであり、数字で測定することが重要だ。残業時間削減のような狭い議論から脱却し、真に生産性向上に真正面からの取り組みが重要ということだ。生産性向上、成果を上げることは、もっと技術論として議論されなければならない。そのためには社員への能力開発を思い切ったレベルと範囲で行う必要がある。今までの能力開発で生産性は大幅に向上していない。このことは能力開発の量と範囲が間違っていたと考えることもできる。また生産性向上のための様々なシステムやツールももっと積極的に導入するべきであろう。  経営者や管理職社員は、成果、生産性の話に対して、“がんばります”という返事をする文化をなくす努力をしなければならない。何の返事もしていないのと同じであり、もっと言えば違う話にすり替わっているのだ。“がんばります”はできていないことに対する免罪符のように聞こえるのだ。“がんばります”という言葉を聞かないようにしたいものである。

寛容な「顧客」になろう | その他

寛容な「顧客」になろう

政府の働き方改革の主要テーマである長時間労働の是正は、今まで継続的に取り組まれてきた課題であるが、なかなか解決できないまま、現在に至っている。その背景には様々あるのだが、「過度な顧客第一主義」という観念が、我が国の意識の中に強くある事が、解決の障害の一つになっていると考えている。 「過度な顧客第一主義」という観念においては、お客様は神様であり、サービスの提供者よりも、とにかく受益者の利害を最優先させるべきであり、それは社会にとっても良い事という前提に立っている。ビジネスの目的は、顧客創造であり、顧客への価値提供を最大化しようとする事は当然なのだが、サービスの提供者の利害を犠牲にしてでも、それを優先するべきという考え方が根強い。 深夜や明け方でも利用できるように、店舗は24時間オープンにするべきだ。どんな商品も絶えず、在庫を切らしてはいけない・・・等、顧客の価値提供を最大化するために、我が国の企業は努力を続けてきた。実際には、明け方に利用する客数はごく少数だったとしても、顧客の利便性が高まるなら、社員の負荷が多少、増えても行うべきだ、あるいは、正月1日からでも買い物をしたいという顧客がいるなら、社員の家族との時間を犠牲にしてでも、元旦からオープンするのが世の中のためだ、等、なによりも顧客を優先しようというマインドが存在している。一方、我々日本人は、顧客としての立場になると、商品に少しでも傷があれば交換する、丁寧に包装されている事は当然である、等など、商品やサービスの品質に関しては、妥協を許さない傾向にある。 また、この事は、社内顧客に対しても同様で、社内におけるサービスの受益者は、利用する可能性が低い資料の作成を依頼したり、必ずしも同席する必要のない社員にもミーティングへの参加を求めたり、重要性の低い、細かなミスでもやり直しを命じたり・・等、必要以上のサービスを提供者側に求めていく風潮が少なからずあるように感じる。 我々は、社会の中で、労働者たるサービスの「提供者」の側面と、顧客たるサービスの「受益者」の側面の両方を担っていて、時と場合によって、我々は「提供者」であったり、「受益者」であったりするのだが、我が国においては、受益者の利益を最大化すれば、とにかく社会にとっても善であるという単純な発想になってしまっていて、提供者の利害の優先順位を下げてしまっている。我々は、顧客としては、至れり尽くせりのサービスを受けられて、とても居心地がよい国なのだが、労働者としては、逆に、至れり尽くせりのサービスを提供しなければならない、結構しんどい国という事になる。 欧米の諸外国では、サービスの受益者である「顧客」より、提供者である「社員」の視点をより尊重している。多少、営業時間が短かろうと、夏季休暇で4週間以上、店舗が休業しようと、諸外国の人々は、顧客として我々以上に、寛容で、忍耐強く振る舞うことができるようである。 今後、長時間労働の是正を進める上では、このサービスの提供者と受益者のスタンスの見直しに踏み込まざるを得ないだろう。つまり、我々が、サービスの提供者としての生活や立場をより尊重するという事は、逆に、受益者の立場たる顧客として、サービスの提供者に過度な期待や必要以上の要求をせず、今以上に寛容になっていくことを期待されているということでもあるのだ。