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コラム

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ライタープロフィール

吉岡 宏敏
吉岡 宏敏(よしおか ひろとし)

東京教育大学理学部応用物理学科卒業。ベンチャー企業経営、ウィルソンラーニング・ワールドワイド株式会社コーポレイト・コミュニケーション事業部長等を経験後、株式会社ライトマネジメントジャパンに入社。人材フローマネジメントとキャリアマネジメントの観点から、日本企業の組織人材開発施策の企画・実行支援に数多く携わる。ライトマネジメントジャパン代表取締役社長を経て、現職。

居ることの問題 | その他

居ることの問題

 従業員の常習的な欠勤のことをアブセンティズム(absenteeism)という。何らかの体調不調により、仕事を休んでしまう「病気欠勤」をさすが、病気を理由にした長期欠勤をくりかえすことによる生産性の低下を問題視する際に使われるようになった。さらに近年は、アブセンティズムならぬプレゼンティズム(presenteeism)という言葉が使われることがある。休むことよりも、“居ること”のほうが問題だということである。  何らかの不調があっても出社して仕事を続ける「疾病就業」がプレゼンティズムのもともとの意味だ。たとえば、頭痛や風邪などの軽い変調や花粉症などの慢性的な変調、うつ病などのメンタル失調により、仕事の能率が落ちてしまうことの問題ということである。ただその限りなら、病気欠勤(アブセンティズム)よりも従業員本人の生産性の観点からは、少しでも職務遂行が進む分まだいいだろう。問題は、組織に与える影響にある。  インフルエンザの疑いがあればまず出社を控えるのは当然だが、普通の風邪であっても、無理して会社に行くことで、他のメンバーが感染してしまうかもしれない。そうなれば結果として組織のパフォーマンスが落ちてしまうことになりかねない。発熱でボーっとした状態で鼻水流しながら、重要な案件の議論に参加することがチームとしての間違った判断をもたらすかもしれない。欠勤して早期に直せばよかったのに、無理して出社を続けることで悪化し、結果的に長期にわたって休まざるを得ない状態になるかもしれない。だとすれば、欠勤により本人の仕事が滞ること以上の影響を、その人は組織に与えていることになる。  こうした健康と生産性のマネジメントからの問題提起がプレゼンティズムという言葉に込められた一つの主張だった。長期欠勤ほど目立たないからこそ、経営者はプレゼンティズムの見えざるとリスクに気がつきにくい、ということへの警鐘である。  さらに加えて、周囲への影響という観点では、プレゼンティズムにはもうひとつの問題提起が潜んでいるのではないか。それは、周りのメンバーに対する心理的な影響。組織として、多くの人々とともに働く喜び、そのモチベーションへの影響である。  心身の不調により意欲や能率が低下していながら長く就業し続けるメンバーは、同僚にとって困った存在になることがある。目標の達成や課題解決に向けたチームとしての活動が阻害されてしまう場合があるからだ。他のメンバーが不調な仲間をサポートする必要に迫られたり、それを重荷に感じるメンバーが生じることによって、チームワークがぎくしゃくする。仕事に臨むには不十分な状態なのに組織の一員としてそこに居る。短期間ならともかく、それが常態化していたりする。その姿勢が、周囲のモチベーションを損なう。不調な仲間が、仕事を、万全な状態ではなくてもできるものだと考えているように感じ、おおげさにいえば、仕事に対する冒涜にも見えるからだ。  仕事をするということは、その対価を得て生活するための手段ではある。しかし人によっては、それ以上に仕事自体が目的である。仕事自体の醍醐味ややりがいや意義や意味が感じられるから、モチベーションをもって働く。そして、一人ではできないより大きな仕事を行うために、人々と組織として事にあたる――それが会社だ、と思っている人たちにとっては、不調な社員が“居ること”で感じる違和感や心地悪さは大きい。自身の仕事観そのものが揺さぶられるからである。  不調であっても出社すべきだと思うことも、仕事は万全な状態でバリバリやるべきものだと思うことも、就労価値観の違いなのだから、それも組織のダイバーシティだ、ととらえるべきなのかもしれない。しかし、そこで失うものの大きさこそ、最大の見えざるリスクではないか。  もちろん、病気という不調によるのなら、プレゼンティズムも仕方がない面もある。であれば、個々人に対して健康管理という組織人としての行動規範を厳しく問うべきなのかもしれないし、不調な社員が自分の不調を自覚し、「がんばって仕事をする」のではなく、改善策を講じる行動をとるように促すマネジメント、つまり安全衛生管理のマネジメントの徹底の問題でもあるだろう。  より大きな問題は、病気でもないのに意欲も能力もない困った社員=問題社員が多くの会社に存在することである。いわく、恒常的なローパフォーマー、コミュニケーション不全、フリーライダー、モンスター社員などなど。こうした社員が“居ること”の問題こそ、生産性の観点ではなく、仕事に生きがいを感じている多くの従業員のモチベーションを守るという観点から問われるべきだろう。

人質の解放 | その他

人質の解放

数年前、銀行員向け週刊誌の連載で「人質の解放」という記事を書いた。伝統的日本企業の1.後払い型賃金カーブと2.熟練の企業固有性という二つの特徴は、従業員にとって「辞めると不利になる条件」で、人質のようなものだ。バブル崩壊後の人員削減ブームを経たうえで求められる柔軟な人事管理のために、人質は解放されなければならない、という主旨だったが、この記事は掲載されなかった。この原稿入稿後にイラクで日本人が人質にとられる事件がおこり、内容は関係ないものの人質メタファ自体がふさわしくないと、急遽原稿を差し替えることにしたからだ。 経済学に、企業とは、様々な人々が投資しリターンを得る「場」だ、とする議論がある。そのキーコンセプトは、ホステージ=人質だそうだ。たとえば、下請けと元請けの関係。元請から厳しい取引条件を出されても、下請けが乗り換えないのは、特定の商品にあうような設備投資をすでにしてしまっているからである。こうした「人質」が、関係を安定させる。企業組織でいえば、各メンバーがそこに人質をとられているから、組織が安定的な形態となる。 従業員にとっては、ひとつは、後払い型の報酬体系による「見えざる投資」であり、もうひとつは、「その企業の熟練形成に投資してしまっている」という意味の人質である。それにより従業員は辞めにくいから、組織を安定させる。 一方で人質の存在は、人員の代謝を阻害する。実際に会社を辞めた中高年者は、給与ギャップの大きさに直面し、また多くの人にとっては、自身の経験・スキルの市場性の低さが再就職を難しくする。 長期雇用の黙契が破棄され、ヒューマンリソースフローのマネジメントが要請されているなかで、人質の存在は大きな問題であるということである。その後、再びリーマンショックによる人員削減も経たが、こうした事情はあまり変わってはいないのではないか。 成果主義型や市場連動型の賃金制度改訂の流れのもと、年功的運用はまだまだ多いものの、「見えざる投資」という人質性は少し低くなってきてはいる。しかし、一方の熟練の企業固有性が低まり、企業の従業員の市場価値が高められてきているようには思えない。 熟練というと現業職のようだが、むしろ問題は、管理職能力の市場性のなさだった。ゼネラリスト育成のOJTで養成される管理職能力の中身は、もしかすると、さまざまな部門風土、派閥、人間関係、企業固有の意思決定の「クセ」や暗黙のルールの知識や使い方の熟練かもしれない。とすれば、中高年管理職の能力は、今いる会社の文脈を離れては十分には発揮できない。 企業の対応策として、ひとつの共通した傾向は、「エンプロイアビリティ(=雇用されうる能力)」の育成である。専門知識や専門技術自体の市場性も、事業環境の変化によって保証されない。むしろ、職務遂行能力や管理職スキルの原理を知り、個別の手法を身につけることが、個々人が持ち運べるスキルとして汎用性がある。階層別研修において、ロジカルシンキングや業務指示スキルといったスキルモジュールが必修や選択のプログラムとして組まれることが一般的になってきている。 エンプロイアビリティとは、言い方を変えれば「辞められる能力」だ。しかし、会社がそのような施策を用意しても、本人の職業意識が“企業固有”であれば効果はない。 市場性を高めるために何より大事なことは、本人の成長意識であり、与えられた役割における自分の意思と能力を常に問いなおすことだろう。職務遂行というよりも職務をつくりだせる力、意思あるから人がついてくる力、仕事に対峙し成長しようとする力、それらを自覚的に磨くことが職業人としての市場価値を高める。つまり、自律的にキャリア形成できるということこそが市場性につながる。 実は、企業固有スキルに市場性がないのではない。管理職能力というとあいまいで、転職の面接のときに説明しにくいけれども、長い経験のなかで培ったスキルが別の職場で役に立たないはずがない。自身の能力に無自覚のまま、自らのキャリア形成を会社にゆだねる態度に、市場価値がないのである。 ちなみに、人質事件を考慮して、書き換えた原稿の新しいタイトルは、「会社で有能、外では無能?」だった。

自分の言葉で語る | その他

自分の言葉で語る

多国籍企業で働いていたときに、「リーダーシップ・カスケード」という言葉を知った。組織のなかを、カスケード=CASCADE(幾筋もの滝)のようにリーダーシップを連鎖させていくことを意味し、各国のリーダーが集まるキックオフ・ミーティングの席上では、ビジョンや方針の話のなかで、“カスケードする”という言葉が何度も聞かれた。単なるWATERFALL やTORRENT(瀑流)ではなく、CASCADE(幾筋もの滝)というのが、言いえて妙だった。ビジュアルイメージでいえば、華厳の滝ではなくて、竜頭の滝である。 リーダシップを連鎖させるとは、情報を伝えていくことではない。会社の方針や目標達成のミッションを、自組織の問題として分解し伝達することは大事だが、それだけでは十分ではない。組織の構成員を動かすためには、会社の方針自体よりも、それを背景とする個々のリーダーの意思と姿勢がはっきりと伝えられなければならない。 つまり、自分の言葉で語ることだ。 「私は、どう考え」、「私は、どうしたいか」、「私が、どうやっていくか」をどれだけ明示できるか、である。その多国籍企業のキックオフミーティングでは、各国のリーダーにそのことを体得させる仕掛けがたくさんのセッションとして用意されていた。多様な文化や価値観を前提するからこそ、このシンプルな原理に腐心するのだと納得できる。 リーダーシップのあるなしを判断するための問いとして、「うしろを振り返ると、喜んでついてくるフォロワーがいるか」というものがある。この基準によれば、フォロワーは、仕方なくではなく、みずから喜んでついていくのでなければならないので、ハードルはかなり高い。 リーダーシップの有無やレベルは、リーダーの言動を見聞きしたフォロワーが決めるものだとすれば、リーダーに問われるのは、管理的なスキルだけではない。ハードルを越えるために重要なのは、人々が安心してついていける信頼感や、ついていきたいと思わせるような、人々をわくわくさせる言動だろう。 自分の言葉で語るのは、その第一歩である。 「私が描く」自組織の魅力的な絵(=ビジョン)が構成員に提示できれば理想だが、そこまでできなくても、「私が〜〜」という観点で会社の方針をブレークダウンすることから、リーダーシップの発揮は始まる。 このことは、あらゆる階層に当てはまるのではないか。 管理職になっていなくても、リーダーシップの発揮はあるし、その経験が管理職への成長のプロセスでもある。リーダーシップの育成には、管理職前の社員に対して、「君は、どうしたいのか」を追求する。さらには、後輩に対する業務指示や業務連絡の際には、常に「私は」、「私が」という表現を意識させることもひとつの方法だろう。要は、主体的な意思こそが、人を動かすという事情を体感させていくことだ。 それはまた、中期的に各階層のリーダーを輩出し続ける連鎖、という意味でのリーダーシップ・カスケードにもつながるはずである。

ストレスワクチン | モチベーションサーベイ

ストレスワクチン

多くの組織で問題になっているメンタルヘルスの予防的施策として、ストレスワクチンという処方がある。 メンタル不調を結果するような状況に至る前に、ワクチンを打ってストレスの抗体を作り、個々人のストレス耐性を高めておく手法だ。「ワクチンを打つ」とは、Off-JTのワークショップとフォロープロセスのことで、まずは組織診断によりその会社固有のストレス因子を検出し、それを使ってストレスフルな状況の予行演習を体験する。主に、入社間もない社員に対し行われる予防施策である。 企業内ストレスにさらされる状況はある程度決まっている。一般的には、入社直後や配属直後、異動後や転勤後、管理職への昇格したときがそうであり、加えて各社の業務や組織の特性と風土や慣習によって、ストレス状況の類型化ができる。部門による人間関係の特性や組織の意思決定のクセが、その会社固有のストレス因子かもしれない。それを“抗原”として、想定される状況下で、自分がどのように対処すべきかを先行して考えることで、ストレスを受け止める力を身につけさせるということである。 言うまでもなく、生産性を追及する組織である限りストレスは必須だから、組織のストレスをなくしていくのではなく、個人のストレス耐性が課題になる。「メンタル失調になりそうな候補者を検出できないか」という採用担当の方々からの要請も少なくないように、“個々人の資質問題”に偏りがちなアプローチに対して、ストレスの抗原−抗体反応の仮説は魅力的ではないか。 この仮説が正しければ、EAPや産業保険医体制の整備、あるいは管理職へのメンタルヘルス研修などで、不調者の予兆を個別的に早期発見、早期対応するくらいしかメンタルヘルス対策がないなかで、組織的な予防施策として展開できるからである。 「必ず直面するストレス状況を、事前にイメージさせ、受け止められるようにする」とは、その時どうすればよいかをシミュレーションさせることだけが大事なのではない。何より、その状況の背景の意味を考えさせ、理解させること。個人の業務や役割の意味とその背景にある会社のミッション、そうした業務が自分にとって、自分の将来にとってどのような意義を持つのかを、深く考えさせることこそが重要だ。つまり、将来のストレス状況にポジティブな意味づけを予め前提させる。ストレスとモチベーションが表裏の関係あること自体を体感させるのが、こうした施策の最大のポイントだろう。 さらに、ストレスワクチンの効用はもうひとつある。組織の暗黙知が明示化することである。抗原を検出するための事前のストレス診断により、暗黙のルールや集団行動のクセのインパクトがわかる。例えば、ある部門はきわめて家族的な人間関係に特性があるかもしれない。新入社員がこうしたことを事前に知ることで、効率的に仕事に集中できるはずだ。 かつて、辞めてほしくない社員に対して、アメリカの会社は“ゴールデン・ハンドカフ(金銭による手錠)”をかけるが、日本の会社は“エモーショナル・ハンドカフ”をかけると言われたことがある。日本企業の雇用関係は、長期雇用の黙契がなくなり、成果と報酬の契約的関係になりつつあるとはいえ、暗黙のルールや人間関係の圧力は存在する。ストレスワクチンは、それに対するプラグマティックな挑戦でもあるのではないか。

コミュニケーションに「こころ」はいらない | その他

コミュニケーションに「こころ」はいらない

縁あって、平田オリザさんの話を聞いた。 平田さんは、劇団を主宰するとともに、現代演劇の理論化とそれを活用したコミュニケーション教育で知られる。16歳のとき自転車で世界一周したことは有名だが、近年は、大学の教員も歴任し、管直人政権下では内閣官房参与の任にあった。 そのなかで、大阪大学で共同研究している「ロボット演劇」の話があった。ロボットが劇を演じ、人が観客として鑑賞する。そのお披露目では、ロボットの演技で、観客は涙を流したという。感情も意思もないロボットも、演じることで人を感動させられたということだ。 ロボット演劇が成立するとしたら、演技つまり“コミュニケーションの型”が的確でさえあれば、自身の感情や思い、価値観とは無関係に、人を動かすことができるということではないか。これは、企業組織のなかのコミュニケーションを考える際にも示唆的である。 以前、ある仕事で複数の企業の管理職者たちに、「リーダーシップの持論」をインタビューしたことがある。主旨は、部下育成に優れるリーダーとおぼしき方々を選定し、「人を育てるリーダーとは何か、どう行動しているか」を聞いて、類型化することだった。どの方の話も自身の実践の中で培われた方法論で興味深いものだったが、ある女性管理職の方の言葉が印象的だった。 彼女は、管理職を「どう効果的に演じるか」について語り、また、部下にも「あなたの役割を演じるんだ、とまず考えなさい。あなた自身と役割は別のものだから」と指導していると言った。 そのとき「管理職を効果的に演じる」といわれてみて、リーダー達がそれぞれに実践している行動を改めて振り返ると、確かに、みな芝居がかっていた。それが、リーダーシップ・コミュニケーションという型(=演技)ということだ。 さらに彼女のスタンスは、管理職でなくても、若い社員であっても業務の役割があり、組織の一員という役割もあるのだから割り切れ、ということである。そして、役を演じろと。 ロボット演劇の話は、コミュニケーションに「こころ」はいらないという極端な仮説である。コミュニケーションとはそういうものだ、とは短絡できないが、ただ、コミュニケーションに「こころ」は必須ではないという指摘は、大事なことだろう。「こころ」とは、あるがままの自分とか、本当の自分の思いであり、それを考えるあまり、組織のなかで不具合や葛藤が起こってくることもある。 若年層に頻出しているメンタル失調やそれに伴う離職者が多いことには、こうした不具合も原因しているのではないか。自分を見つめなおしたり、あるがままの自分であるべき、といった内省は、会社で働く上で必要がない。会社の一員としての「役」を、いかに意識的に演じるか、という姿勢があればいい。 平田さんの演劇教育は、企業研修にも応用可能である。タフな社員を育成するために、新入社員の時から、「役」を演じる面白さ、楽しさを教える施策として、展開してみようと思う。 以上 参照 コミュニケーションに「こころ」は必要 という立場でコラムの執筆があります。 (リンク先はこちらです↓) https://www.transtructure.com/column/20100809/

麻薬的残業の正体 | その他

麻薬的残業の正体

「なかなか残業が減らせない」という声が、多くの人事担当の方々から聞かれる。業務効率の向上はもちろん、過重労働の軽減やワークライフバランスを考慮した働き方の要請からも長時間労働をなくしていかねばならないが、その実現は簡単ではない。 その理由には、「当社の仕事は“特殊”だから」という、“共通”したものや、「お客さんに合わせざるを得ないから」、「なによりもまず業績回復」といった組織の状況があげられるが、従業員の側にある要因の指摘としてしばしば聞かれるのが、目先の仕事に没頭してしまう自発的かつ習慣的残業。好きで残業しているとしか思えない、いわば、「麻薬的残業」である。 ITエンジニアやクリエイティブワークといった顧客とともにモノを作り上げていくタイプの仕事に多い、「時間をつぎ込むだけ品質が上げられる」との想いで、際限なく残業を続ける人々の存在である。彼らは、強制されてではなく自ら進んでやっているように見えるし、かつてのWorkaholic世代であった上司からみれば「まあ仕方がない」とも思える。ライフの充実のために残業するな、と命じても、家に早く帰ってもやることがないとまで言われれば、それはそれである種のワーククライフバランスか、と納得したりする。 麻薬的残業の麻薬性は、目の前の仕事の面白さや分かりやすい顧客満足の手ごたえにある。たとえば多様なプロジェクトワークのなかで顧客との同志的な感覚や達成の高揚感を感じる。顧客満足の向上は、自分の価値の向上にも思える。結果、日々の仕事に耽溺し、多大な時間を投下するということになる。 この限りでは、たしかに理解はできる。やりがいを感じて働いている分、よしとしたい、と言えなくもない。問題はこの働き方がメリハリなく習慣化していることである。仕事の緊急度や求められるアウトプット品質のレベルにかかわらず常にだらだらと残業を続けることをやめられない。その常習性が問題だ。 そこには、不安からの逃避という心理があるのではないのか。仕事の分かりやすい面白さにのめり込むことで、本来の仕事のあり方や自身のキャリアやビジョンの不安から、意識的にか無意識的にか目を閉ざしているのかもしれない。そのことが、将来の仕事やキャリアのための自己投資の時間確保を阻害し、成長への不安をまた醸成するという悪循環。 だとすれば、これは個人の側だけの問題ではなく、やはり組織の問題だろう。麻薬的残業の足元にある不安は、組織の将来の不安に起因するはずだからだ。 背景にある組織の不安仮説としては、自社のビジネスモデルへの不安、そこにもとずく人材像の不安、あるいは組織の在り方の不安。つまり、会社の事業の将来が見えない、仕事の将来が見えないということが、自分自身のキャリアや成長目標を見えなくしている。どんな能力開発に投資すべきかが分からない。そうしたビジョンやメッセージが伝わってこない組織が、自分の価値を見失わせ、目先の仕事に逃避する。 いわば「ビジョンなき繁忙」が生み出すメリハリのない麻薬的残業。タイムマネジメントの実践には、この観点も忘れてはならないだろう。