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コラム

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社長の眼力 | その他

社長の眼力

 経営責任者の方々に共通する特徴に、強力な眼力(=めぢから)がある。どの方も例外なく、はじめて会ったときの一瞥には、「こいつは何者か、どのレベルの者か」と一瞬で射貫かれた思いがする。眼光紙背に徹す、ということばがあるが、書物ならぬ人として背中まで見抜かれる恐怖に震えざるを得ない。  なぜそうなるのか。一つは、即時の判断を日々強制されているからだろう。社長の仕事はつねに最終判断である。適時適格な判断に至る情報の取捨選択には「短時間の本質理解」を重ねていかなければ、間に合わない。当然ながら、相対する意味のある人物かどうかも一瞥で見抜かなければならないのだ。  もう一つは、人を、経営資源と見ているからだろう。資源としての価値だけが大事であって、そこには、人に対する感情は必要ない。だから、資源としての力量、可能性、課題点を見定めることだけに集中して人を見る。いや、「見る」でも「観る」でもなく、「診る」なのだ。かくてレーザー光線のセンサーのごとく、冷たく強い眼光で瞬時スキャニングするのである。  勇気をふるって、その眼光にたじろぐことなく対峙ができたとしても、ぞくりとする場面がかならず訪れる。話をしていたのがふと口を閉ざし、冷徹な目を当方に向けたまま、にやりと嗤ったときだ。それは会談の終わりを告げる合図であり、目の奥の光の揺らぎだけが、会談の成否を告げているのだった。  社長以上にただならぬ眼光に出会ったことが一度だけある。筒井康隆さんと話したときだ。断筆時代にインタビューを受けてもらったとき、話しながらこちらを見据える彼の眼は、あきらかに、当方の頭蓋を突き抜けはるかに遠い彼方を見ていたのだった。言葉を発しながらも、それは目の前の人物に向けてではない、彼の眼にはあきらかにだれも映っていない。不気味だったけれども、そこには自律的な思考の躍動があった。  もしかすると社長たちも、目の前の人物評定を早々に終えた後は、孤独な経営責任者だけが見据える彼方を展望して、問いをきっかけに誰にともなくその想いややるべきことを話していたのかもしれない。ひとしきりして我に返り、目の前の人物の存在に気づく。その状況がおかしくて、思わずにやりとしたのかもしれない。だとすれば、その会談は当の社長には有用だったはずだ。仮によい「資源」ではない相手だったとしても、聞かれ話し続けるなかで、自分の考えを深め進める機会だったからだ。  これが、エグゼクティブコーチングのスリリングな醍醐味なのである。

「空気」の功罪 | その他

「空気」の功罪

 自分にとって当たり前のことが、実はまったく当たり前ではないということがある。  「何であなたがた日本人は、君が代を、前奏なしで斉唱できるのですか。」  私がまだ学生だった頃、同じゼミにいたアジア系の留学生からそのような質問を受けたとき、私は全くもって答えることができなかった。それまで私は特に疑問に思うこともなく、無意識に、前奏なしの国歌斉唱を何十年も実践し続けてきていたのである。  元旦になれば、示し合わせたわけでもないのに、ぞろぞろと地元の氏神様の神社に向かって人が集まりはじめ、太い長蛇の列ができる。これはいったい何なんだろうか。初めてこの光景を目にした外国人の方は驚き、何か底知れぬ恐怖のようなものを覚えるらしい。  これらは、暗黙のルールや習慣というべきものだろうか。ご存知の方もいるかもしれないが、文化人類学者E.T.ホール氏が言った「ハイコンテクスト文化」というべき状態が形作られているわけである。やや閉鎖的な集団の中で、長年をかけて、一種独特な「空気」のようなものが出来上がる。このような「空気」は、集団とメンバーにとってつねにあるのが当たり前で、ふだん意識もされないが、圧倒的に重要で必要不可欠なものだ。まさに「空気」のようなものだ。  集団やそのメンバーを突き動かす真の主体とは、実は集団や個々人そのものではなく、むしろそれらを包み込み、促す、この「空気」なのではなかろうか。このような「空気」に従った行動は、ときには凄まじいエネルギーに転化する。まるでモンスーンのように。  例えば、日本三大奇祭の一つ「諏訪の御柱祭り」では、山中から神社の御柱用に樅の大木を切り出し何㎞も引きずって諏訪神社に奉納するが、一人の人間がどれだけ頑張っても、大木は動かない。当たり前だが、関わっている人間が一斉に息を合わせ、力を合わせなければ、大木は動かない。では大勢の曳き手が、どのようにして一斉に力を発揮して、大木を動かすことができるのだろうか。ある曳き手は、次のような実に不思議な言葉を残している。  「御柱が動いたときに、動かせば、動く。」  字面を見たら全く以て非論理的な言い方である。しかし理解できる方にはできるだろう。周囲の力の入れ方、息遣い、微妙な動きなどを総合的に勘案して、各自が力を込めるタイミングを見計らい、一気に力を込める。まさに「空気」を読んで動き・動かすのである。  いま祭りの例を挙げたが、会社組織も似たようなものだろう。多くの場合、会社の「空気」は、日常に紛れ、「読み合い」の中に息を潜めている。しかし僅かな微風も、或る時、一気に合流すればモンスーンにもなりえるだろう。これが変革や成果に結びつくなら、「空気」とはむしろ望ましいものだろう。しかし多くの大祭がそうであるように、ときには個々のメンバーの痛ましい犠牲を生み出しもする。組織そのものを自壊に導くこともあるだろう。  自分にとって、われわれにとって、当たり前のことは、本当に当たり前のことなのだろうか。自問自答することは、単に「空気」に流されないために、われわれが心得ておかなければならないことだ。

背筋が伸びる本 | 人材開発

背筋が伸びる本

 姿勢を良くする健康本の話ではない。思わず姿勢をただしてしまうような読書体験を与えてくれる著者について書く。本を読んでいると、その著者の知性や感性、生き方や思想に感銘を受けることは多いが、読むたびに、五歳児チコちゃんのごとく「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」と一喝されるのが中井久夫さんだ。  みすず書房の「中井久夫集」全11冊では、経年で発表された順の代表的な著述が読める。ウィルス研究から精神病理学に転じ、統合失調症の臨床場面への貢献やPTSDの先進的研究で知られる中井さんだが、それ以上に、科学から文学までを射程にした多彩な著作に溢れる「知」と「意」と「感性」が強烈。精神医学による社会貢献意志はもちろん、人間存在の深淵と芸術性を両睨みしホリスティックに人とはなんなのか追及する一貫した姿勢が、どのページにも横溢している。  精神病理学の分野では、サリバンのセルフシステム論を日本に紹介し発展させ、有名な寛解過程論などすぐれた業績は多い。その背景には、生命とは世界の中の「流れ」であり世界と人は不即不離だという思想観があることが文章からうかがえ、専門性を超えた示唆と刺激に満ちている。以前読んだいくつかの著作では、量子力学からウィトゲンシュタインまでを引用するところがすごかった。  中井久夫集の第一巻は、最初期、30~40歳のころの著作集だがそのなかの「サラリーマン労働」(1971年)はのちの名著「分裂病と人類」につながる出発点とされ、日本のサラリーマンのうつ病について先駆的見解が語られている。またこの時期にすでに「ウィトゲンシュタインと“治療”」(1976年)で、哲学の革命者ウィトゲンシュタインの思想の精神医学への影響やさらには統合失調症治療への応用可能性を指摘する。その先鋭な問題意識に改めて圧倒される。  経年に読んでいくと、その底流には、徹底してニュートラルで正確な記述が一貫していて、ともすれば偏見や半可通な見方も出来しがちな精神疾患を語る際の、細心にして論理的な気配りがよくわかる。直接会った時にもそのことを痛感したものだった。  もう30年も前に、中井久夫さんにインタビューをしたことがある。聞きたかったことは、会社という仕組み自体がもつ人々の精神疾患へ影響性、つまり「組織精神病理」といった観点を提示してほしかったのだが、そんな当方の安易でセンセーショナルな狙いには、一切乗ってこなかった。問いに答える代わりに、そのような問いの前提となる人間精神の在り様を「地層」のアナロジーをもって噛んで含めるように教えてくれた。結果、当方のうすっぺらな問題意識におのずと気づかされ、まさに「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」と声には出さずに一喝されたのだった。

ツケを払わないリーダー | その他

ツケを払わないリーダー

 「ほんとに情けなくて」と、知人がなげいて話したのはこんなことだった。  上司が部下の若者を、蕎麦でも食っていかないか、と誘った。その上司にしては滅多にないことなので、たまにはご馳走になろうかな、とついていった。すると連れていかれたのは駅前の立ち食いソバ屋。券売機で自分の分だけ買うと、並んで食べ、数分で別れた。「ホント、あれが上司って信じらないっすよ、ケチもいい加減にしろって感じっすよ」とその若者から翌日憤懣をぶちまけられたのだという。  ここまでのことはなかなかないが、上司が部下におごるという「常識」はもはや通用しないのかもしれない。終業後の付き合い自体が部下にうっとうしがられ、上司としてもさほど高くない管理職報酬から自腹をきってまでおごるのも業腹だ。なにより、ワークライフバランスとは仕事と仕事以外の切り分けであり、仕事以外で部下に対してそんな支出をする必要性はない。しかし一方で、これはリーダーシップの劣化かもしれないのではないか。  昔、一緒に食事をしたりたまに呑んだりするときに、必ずおごってくれる上司がいた。さすがに恐縮して、あるとき固辞し、たまには払わせてくれと頼んだのだが、彼は「これでいいんだから、素直におごられていろ。昔のツケの支払いなのだから」と言った。  彼も若かったころ上司におごられていて、その上司からは、「私がおごった分は、私に返さずに君に部下ができたときに彼らにおごることで返せばいい。そういうことになっているんだ、組織ってものは」と諭されたというのだ。だから、ツケの支払い。昇格し部下を持った時に、そのように借りを返しているということなのだ。これも一種の、リーダーシップカスケード(=リーダーの連鎖的育成)だろう。  冒頭の立ち食いソバの上司もきっと若いころには、上司におごられただろうに、管理職になってから自分は一切しない。なぜか。それはきっと、人を束ねて仕事をしているという自覚が希薄なのではないか。職務分掌に書かれた役割を果たすだけであって、人を動かす立場であることの自覚も覚悟も薄いのではないか。  まぁ、おごる上司が必ず人間力があるというわけでもないし、今日的にはむしろ倹約家でコンプラ的にも褒められるふるまいなのかもしれない。ただ、綿々と続くリーダーシップの連鎖が途切れることは残念に思う。  「その上司も上司だけど、その若い部下も実に情けない」と冒頭の話をした知人は続けた。だって、「たった330円なんですよ! それをおごってくれないなんて!」と気色ばって憤懣をぶちまけてるけど、それをいうなら、そんな金額でそこまで怒るのあまりにみみっちいから、と。

試合前、休む勇気 | その他

試合前、休む勇気

 近所に、往年の世界チャンピオンが経営するボクシングジムがある。興行ポスターが所狭しと貼り付けられた階段を下り、ガラスドアを開けて中に入ると、思いのほか明るい照明の下に公式サイズのリングが備えてある。傍らのサンドバッグの行列を通り抜けると、所属プロボクサーの写真や数々の賞状に交じって、一枚の模造紙が貼ってあるのに気づく。そこには、あまり上手とはいえない大きな文字で、「試合前、休む勇気」と書いてある。 プロボクサーは、試合が近づくと、体重を規定の数値まで落とさなければならない。厳しい練習と共に過酷な減量に挑む。ただでもつらい期間なのに、試合が近づくにつれて恐怖がつのる。相手はオレより強いかも知れない。連続パンチを浴びて、ノックアウトされるかも知れない。歯が折れたり、網膜が剥がれたりするかも知れない。何よりも、みじめな負け方をしたら、潮が引くようにファンが遠ざかってしまうかもしれない。 こんな恐怖を払しょくするために、試合直前に必要以上の量の練習をしてしまうボクサーは多いのだそうだ。ぎりぎりまでの減量に猛練習を重ね合せると、必要最低限の体力まで落としてしまう。こうなると、試合当日にはフラフラになって、思うように技を使えないまま相手に試合をコントロールされてしまう。だから、試合前には休まなければならない。怖いけれども、しっかり休む。休むことが試合当日のパフォーマンスを引き出す。 プロのスポーツ選手とは比べられないけれど、私たちの仕事も、多かれ少なかれ結果で判断される時代が来た。期首の目標設定では可能な限り定量的な目標を掲げ、その達成度で成果を測定する。いくら時間を使おうと、夜遅くまで悩み続けようと、良い結果を残さなければ評価されない。 だからと言って、休みなく仕事さえすれば結果が出るというものでもない。15分間必死で考えて出てこないアイデアは、2時間かけても出てこないだろう。時間をかければかけるほど、核心のアイデアに余計な飾りがついて、かえって解り難いものになってしまうかも知れない。結果に執着する人ほど、時間をかけずにはいられないのだろうが、成果が出ないことへの不安を払しょくするための時間ならば、効果は逆に出てしまうだろう。 実際、オフィスワーカーの休憩時間と生産性に大きな繋がりがあることについては、数々の研究がそれを証明している。米国にJames A. Levineという医学の教授がいて、この人によれば、ヒトの身体はもともと動き回るようにできているから、長時間じっとして考えたり机上の作業をしたりすることは、自然の摂理に逆らうことになるそうだ。デスクワークを適度に中断してまったく別のことをするのが、生産性に繋がるらしい。この研究者の言葉を借りれば、15分に1回は休息をとって身体を動かさなければ、集中は続かないという。たった15分だ。 そして、休息を犠牲にし続けた末には、心身の健康を害するという結果が待っている。酷い場合には長期間仕事を休んだり、積み重ねた経験を諦めてまったく別の職種に転職したりしなければならないことさえある。これでは明日の結果を出すどころか、ビジネスマンとしてのキャリア全体を損なうことになりかねない。 忙しい時こそ、少し立ち止まって考えよう。無理をしていないか、無駄な時間を使っていないか。仕事の計画を立て、限られた時間に集中して仕事をし、アウトプットを出しているか。やるべき時と休むべき時をきちんと判断し、自分なりのルーティンを作っているか。ちゃんと休むことがパフォーマンスに繋がるはずだ。「勇気をもってしっかり休もう。」元世界チャンピオンのこのアドバイスは、心に刻んでおくべき至言だ。

モルトケの法則 | その他

モルトケの法則

先日、知り合いの経営者と新規事業を立ち上げる時に、その組織をどう構築するのが良いか、という興味深い話になりました。その経営者は、まず新規事業担当者を自ら任命し、任命された担当者に部下を社内から選ばせるのですが、その際に必ずモルトケの法則を紹介して考えさせるとのことでした。 このモルトケは旧ドイツ帝国の英雄であり、鉄血宰相ビスマルクの下で参謀総長を勤め上げ、隣国のフランス、オーストリア、デンマークとの戦いにことごとく勝利を収め、ヨーロッパ諸国から恐れられた人物です。 そして、モルトケは部下登用の考え方についての法則を示した事で有名です。その法則とは、組織のトップとしてどのような部下を任命すべきかについての法則です。部下の「能力」と「意欲」という要素とその高低で、4つの分類をしてその優先順位により登用すべきと唱えたのです。 【1位】能力は高い、意欲の低い部下 →命令に従順であり、確実に業務を遂行する。 【2位】能力は低い、意欲の低い部下 →業務上扱いやすい。 【3位】能力は高い、意欲の高い部下 →上司と対立する可能性があり扱いにくい。 【4位】能力は低い、意欲の高い部下 →意欲だけが空回りしてしまう可能性あり。 この法則によると、社員の意欲は低い方が良いのかと見えます。普通の考え方では3位の、能力も意欲も高い人が1位ではないのかと思いますが、モルトケは上記の理由により、1番目のタイプの部下がもっとも組織に必要であるとしました。結果、モルトケはこの法則によってドイツ軍を組織し数々の勝利を勝ち取ったのです。   会社内でも良くある話しですが、最下位の【4位】能力は低いが意欲は高い部下とは、つまり、やる気だけが取り柄な人です。 一般的に、意欲やバイタリティ溢れる人は、高く評価されがちです。でも、こういうタイプがなぜダメかと言うと、意欲の高さが能力の低さをカムフラージュしてしまうからです。 しかも、周囲の人も、その人を頑張っていると評価をしてしまい、実力とは関係なしに何となく評価されがちなのです。 仕事ができない人でも努力をしていると評価したい気持ちに陥りがちです。だって「彼は頑張っているから」です。しかし、本来の成果をキチンと見極めずに、頑張っているからというだけで、評価し登用してしまう事に問題があるのです。 やる気があることは決して悪いものではないと思いますが、やる気と仕事に対する能力に相関はありません。 組織のトップがやる気やバイタリティに騙され、間違った登用をすれば組織は衰退してしまうということです。 現代は、モルトケの時代より組織・人事の状況や、人材のスキルの保有度、能力、行動の傾向、パーソナリティ、価値観やリーダーシップを把握できるツールが揃っています。 このツールを駆使して、また人事データや社員に対する意識調査の結果により、組織・人材の状況についての客観的な把握と多様な切り口による分析をすることによって、合理的な施策展開をしていくこと必要と考えます。 なぜなら、企業の経営計画の達成と成長は、経営に必要とされるスキルを保有する人材が必要なだけ配置され、かつ継続的に生み出す仕組みであること、そして人材が期待される行動や意識をもって活躍・成長し続けることによって実現できるからです。                                                    以上

恥ずかしいを乗り越えさせる | その他

恥ずかしいを乗り越えさせる

 ”聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥”、 “恥の上塗り”など、日本には恥に関する故事ことわざが多くある。よく日本人はシャイな人が多い、とか日本は恥の文化だ、などといわれているが、”恥ずかしい”は日本人だけのものではない。西洋でも“Better to ask the way than to go astray. “(道に迷うより、道を聞いた方が良い)ということわざがあることからわかるように、万国共通、人に聞くのは多かれ少なかれ恥ずかしいことなのだ。  人に聞くという行為を恥ずかしいと思うのは、聞いた相手に「なんだ、こんなことも知らないのか」と思われてしまうのではないか?という気持ちが働いていると考えられる。自分の欠点や誤りを自覚して体裁が悪く感じるのである。だが、聞かれた人のほとんどはそんなことは思っていない、多くの場合、自分の思い込みに過ぎないのである。  人に意見を“述べる”ときも同様だ。集合研修などで、講師が受講者に発表してもらおうと挙手を求めることがある。ときには何人かパラパラと手が上がることはあるだろうが、大抵は、一斉に視線を手元のテキストに落とし、講師と目線を合わせないようにして、モジモジし始めたりするものである。せっかくの研修の場である、自分の考えを述べ、皆からフィードバックをもらった方が絶対にためになるのは誰でもわかっている。学ぶために研修に参加しているにも関わらず、恥ずかしいと思う気持ちが強いと、行動が制限されてしまうのである。  この”恥ずかしい”を乗り越えさせるには、”恥ずかしい”のハードルを下げるしかない。学生の時に部活で大勢の人の集まる場で、大声で自己紹介をさせられたり、一発芸や歌を歌わせられたりしたものだが、これはもう強烈に恥ずかしい体験だった。なぜ、こんなことをやらなければならないのか全く理解できなかったが、繰り返しやっているうちに、だんだんと恥ずかしいと思う気持ちが弱くなっていくのを感じたものだ。このようなやり方をどう捉えるかはいろいろな意見があるだろうが、確実に言えるのは、”恥ずかしい”というのは慣れればどうということはない、ということだ。  大勢の前で自分の意見を述べたり、プレゼンテーションしたりするのを恥ずかしい、と思う気持ちは多かれ少なかれ誰にでもある。そこで手を上げられるかどうかで、その後の成長には大きな差が生まれるのであれば、そういう時こそ手を挙げられる人物になって欲しい。そのためには、常日頃から、そういった機会を与え続けることが重要だ。最初は、しどろもどろになったり、どもってしまったりすることもあるだろうが。その経験こそが恥ずかしさを乗り越える力となるのだ。最近の若手社員はシャイだ、とか積極性が足りない、とか嘆くのは自分がそういった機会を与えることができていないのだ、ということを認識すべきである。

市場価値向上プログラム | 人材開発

市場価値向上プログラム

 自分は労働市場でどう評価されるか。今のパフォーマンスや今までのキャリアは、社外ではどれくらい価値があり、いくらの値がつくのか。そのことは、転職の際に初めてわかることであって、自社にいる限りは知り得ない。そうした企業人の市場価値を在職中に測り、その向上を促進するプログラムをつくったことがある。  市場価値が転職の際に問われるとすれば、そこには、いくらで売れるかを決めるいくつかの評価基準があるはずである。まずはその専門家の知見を参考にするために、「人材流通」業のプロたち―ヘッドハンター、サーチファーム、人材紹介業の方々に集まってもらい、サンプル人材のレジュメだけをみて、その市場価値を検討するミーティングを重ねた。  人材を「商品」として扱うだけに、彼らの見方はシビアでかつ共通性がある。ただそれは職人的な暗黙知でそれを言語化するためのセッションだった。そこで、明示化された観点を整理するとともに、それが読み取りやすいレジュメ書式を開発する。その観点ごとにグレーディングの基準を定めるという風に市場価値診断の枠組みを作っていった。そこで分かったことは、レジュメだけで市場価値の有無が相当程度判断できるということだった。  なぜか。レジュメによって職歴そのものが評価できるということ以上に、自身の職歴を「どう書いているか」がその人の能力や成長可能性、成果発揮可能性を示すのである。自身の経験をどう書くか、とは、どう自己認識しているか、と同義だからだ。つまり、自分の経験を客観視し、評価する、その姿勢や認識力がレジュメの文章には浮き彫りになる。  商品としてその人材が売れるためには、たとえば、30歳を超えたらマネジメント経験がなければならないし、35歳を超えたらマネジメントスタイルができていなければならないというのが労働市場の常識の一つである。マネジメントスタイルができているか否か、とは、自身のマネジメントの強み弱みや優先順位付けの付け方等のクセがわかっているか否かで判断できる。  それは通常、インタビューで聞き判断することだが、たとえばレジュメ書式に「成功した経験」に関する記載項目をうまく工夫して用意すれば、その記述から十分に読み取ることができる。「何を」成功としてとらえているか、「なぜ」成功したと認識しているか、、、、つまりは、経験やキャリアをどう意味づけているかが見えるし、自己認識力のレベルもまた見える。  自己認識力とは、管理職にもっとも必要な能力であり、それはまた成長できるためのベース能力でもある。それが、在籍する企業固有でない変幻自在のキャリアを作り上げる。ゆえに転職で問われる能力とは、汎用的に発揮、貢献できそうな能力(=エンプロイアビリティ)はもちろんだか、より大事なのはどのような環境であっても、成長し成果発揮し新しいキャリアを築けていけそうな能力(=キャリアコンピテンシー)である。市場価値向上プログラムは、この能力の向上もまた意図するものとなったのだった。

怪我の功名? | その他

怪我の功名?

昨年末にちょっとした怪我をして、しばらく自宅から外出できなかった。年に1,2度、風邪を引いて休むことはあるが、今までの職業人生で、1週間以上連続してオフィスに出なかった記憶はなく、おそらくは、今回が、未出社の最長期間という事になる。傷口を縫合した後数日は、流石に終日、ひたすら寝ていたが、怪我の場合、病気と異なり、体力自体は割と早く回復して来るようで、日を追うごとに、布団の中でじっとしていることは難しくなって来る。かといって、傷口がしっかり閉じていないうちに、外出すれば事態を悪化させることになると医者から言われ、年内の予定は、基本的にキャンセルせざるを得なかった。 そこで昨年最後の10日間は、在宅で、怪我の治癒を進めつつも、体力の回復に合わせて、徐々に、自宅で仕事を再開し、メールや電話を使っての社内のメンバーとやり取りや、いくつかのミーティングにもリモートで参加した。今まで当社でも部分的に在宅勤務は認めて来たし、ウェブ会議システムを使ったリモートミーティングも行っているので、今回が、初めてのリモートワークの機会という訳ではないが、約10日間もの間、継続して、職場のメンバーとはまったく顔を合わさぬまま、仕事をしたのは初めてであり、結果として疑似的ではあるが、リモートワークをそれなりに実体験する機会となった。 この経験を通じて感じる事ができたのは、「これは行けそうだ」、というリモートワークに対する確かな手ごたえだ。すでに、世の中にはリモートワーカーだけで構成されている企業もあるようで、そうした先進的企業からすれば、「何をいまさら・・」と思われるかも知れないが、私が関与しているクライアントの中で、リモートワークを本格的に実践している企業はごく限られているし、TV会議やウェブ会議でさえも、そもそもそうした設備がなかったり、あったとしても積極的に開催されていない企業も少なくないのが実態である。 多くの企業が、リモートワークの有効性や必要性を認識しつつも、必ずしも積極的な実施に至っていない背景には、セキュリティ上の不安やオフィス外で働く社員のマネジメントの難しさ等があると言われているが、既にテクノロジーの進歩がセキュリティ上の問題の多くを解決しつつあるし、実際、部下がオフィスに居さえすれば、マネジメントできるという話でもないのだから、それらは、本質的なリモートワーク浸透の障害とは言えない。むしろ、リモートワークが浸透しない本当の理由は、「仕事はオフィスに集まって、顔を突き合わせてやらないとうまくいかないものだ」という固定観念に縛られている事なのではないかと 思っている。 また、「慣れ」の問題もあるだろう。10日間、疑似的なリモートワークを続けることによって、正直、最初はリアルに会ってコミュニケーションしたほうが早くて確実と思っていた部分もあったが、継続的にリモートでコミュニケーションしているうちに、徐々に慣れて来るもので、業務の品質や生産性に深刻な問題があるとは、振り返って、感じる事はなかった。 働き方改革が進行する中、就業時間を短縮しつつ、アウトプットは維持・増大、という難しい課題に我々は直面しているが、やはり、その有効な解の一つに、リモートワークは数えられるのではないか。一日24時間の中で、オフィスと自宅を往復する通勤時間が不要になる分だけでも相当なメリットがあるはずだ。一気に切り替えるのではなく、週1~2回から始めることも可能だろう。世界経済も今年は厳しくなるという見通しの中、いずれにせよ、我々は、自らの脳の中を検証し、固定観念を見つけては壊し、一つ一つ新しい働き方を実践していかねばならないのだ。

目標と投下 | その他

目標と投下

 多くの企業で目標管理について基本的な間違えがあると感じる。それは“目標”と“投下”という点である。  社員個人の目標は、各人のミッションに合わせていくつかの目標を設定することになる。例えば“個人の売上目標5億円”と同時に“部内の営業成績管理の精度を向上する”“部下の育成強化(部下の目標達成を100以上)”などのように複数の目標を設定することが多い。3つの目標すべてが100%の達成であれば、合計100の評価になるように、目標に“ウエイト”を設定するのが一般的である。上記の例であれば最初の目標が最も重要であるから60、2番目と3番目はそれぞれ20とし、合計を100とするのだ。  非管理職社員はこの目標達成のために、時間という資源を投下する。全く超過勤務がないことを想定した月150時間投下を前提とした目標と月30時間の超過勤務をする場合(月180時間)の場合では目標は異なるはずである。投下量が150と180では20%も異なるが、目標が同じであるのはおかしいからだ。合理的に考えれば前者はウエイトの合計が100に対して後者は120でなければならない。多くの企業では目標管理の考え方の中に投下量と目標の関係が不明確になっている。  さらに目標管理と超過勤務管理が全く連動していないことも重要な点である。超過勤務0を前提とした目標である社員が超過勤務なしで100%達成した場合と、0を前提としつつも毎月20時間の超過勤務をして目標100%達成した場合で評価が同じであるのは問題だ。目標業績が同じでも、超過勤務をした社員のほうが、収入が多いことになる。もっと言えば時間生産性が低い社員のほうが、収入が多いことにある。  加えて次のような問題も発生する。仮に月給30万円の社員(賞与4か月とした場合年収480万円)の場合、20時間の超過勤務をした社員は毎月の約5万円の超過勤務手当、年収で約60万円多く受け取ることになる。この社員はもともと超過勤務0ベース、目標を100%達成したとする。同じ目標で超過勤務を0ベースで、目標を120%達成した好業績の社員を想定しよう。この社員は評価がよいので賞与が多くなるだろう。一回の賞与は標準で60万円である。評価がよいので、70万円から80万円くらいは分配されるだろう。好業績の見返りとして年間20万~40万円のプラスとなる。  しかし前者の社員の超過勤務手当の増加分に届かない。結果としては超過金勤務をして通常の業績の社員と超勤務0で好業績社員の年収が逆転してしまう。目標管理における超過勤務業績による分配が過小な企業が多いため、思ったような“メリハリ”がつかないのである。  近年生産性向上の議論が多くの企業で課題となっている。そのため目標と投下についての議論も顕著に多くなってきた。より生産性を上げるためには、目標管理を改造して、目標と投下、目標管理と超過勤務管理の見直しが必要だということだ。 以上

概念化力を高める | 人材開発

概念化力を高める

 社会人としての基礎スキルの思考面の力といえば、「課題発見力」「計画力」「創造力」(=経済産業省社会人基礎力の「考え抜く力」)などといわれ、ベーススキル研修として、ロジカルシンキングや課題解決スキル、あるいは段取り力、プロジェクトマネジメントスキルといったテーマがよく取り上げられる。これらは、確かに大事は要素能力ではあるが、ビジネスマン、とくに管理職者にとって、もっとも大事な能力は「概念化力」である。  概念化力とは、状況の本質をとらえ、端的に表現する能力。それはビジネスシーンのあらゆる局面での基盤スキルであり、大半の「困った管理職」はその欠如に起因する。たとえば、大局観のない自部署の方針、目的を逸脱した対症的判断、要を得ない経営報告などなど、経営者を怒らせる管理職者たちはまず第一に概念化力に課題があるのだ。  報告を聞いていていらだち「要は何なんだ、一言で言え!」という怒号や、現状課題や実績から積み上げられた計画に対して「いったいどうしたいんだ、コンセプトがない!」という叱責は、実に日常的によく聞かれることではないか。この能力は、目的志向での職務遂行や的確なコミュニケーションにも直結する、つまりパフォーマンスを左右し、また、経験から学ぶための思考方法(=経験の本質をとらえ、他に展開できる)でもあるから、管理職に限らず、社会において仕事をする際のベーススキルでもある。  さて、そのようなキースキルである概念化力を、どう高めるか。残念ながら、概念化力向上トレーニングといった便利なものがないように、その育成方法は明確ではない。ただ2つの実務的なスキルが強く関係しているので、その向上は概念化力のブラッシュアップにつながる。  ひとつは、文章力だ。採用選考に文章を書かせる試験があるように、文章をみれば、いくつかのアセスメントディメンションでの評定ができる。それは、文章から信条や姿勢や問題意識を読み取れるからではなく、文章には純粋に思考力のレベルが顕れてしまうからだ。文章、とくにビジネス文書を書く能力とは、「本質抽出能力」と「論理展開能力」であり、だから能力評価にも使えるし、文章力を高めることでそれら能力向上のトレーニングができる。  例えば、我々のような仕事であれば、複数の経営幹部のインタビュー記録が大量にあって、それをもとにその会社の課題をまとめ200字以内の報告書に書き上げよ、といった演習をくりかえす。ここでは、情報を精査し、得られた内容を構造化し、関係や因果や相似を見極め、いくつかの課題にまとめ、分かりやすい順番で文章化する、そのプロセスが問われることになるから、このトレーニングによって「要約」というスキルを理解し向上させることができる。  要約力は、文章の内容(=コンテンツ)にかかわる能力だが、文章には内容とともに表現力も問われる。わかりやすく伝えることのベースは、論理展開力であってそれはロジカルライティング研修などで学べるが、もう一段上の表現上のワザがレトリック(=修辞)だ。レトリックは、読み手の印象を操作する法なので、ビジネス文章ではあまり使われないが、提案文書ではここぞという記述で有効だったりする。  レトリックの一つに比喩がある。直喩、隠喩(=メタファー)、換喩(=メトノミ―)など手法はさまざまだが、要は、伝えるべきモノゴトを別のものに置き換えて言うことによって、読み手の気づきや実感を喚起するテクニックだ。この置き換えが適切で成功するためには、置き換えるモノゴトとの共通性が妥当でなければならない。つまり、それぞれのモノゴトの本質をつかむ――概念化力が問われるのである。ゆえに、レトリックの訓練(=例えば相似によって横に跳ぶ演習)もまた、概念化力向上につながる。  もうひとつの、概念化力と関係する実務スキルは、デザイン力である。とりあえずは、パワーポイントの資料を美しく作れるようになるためのトレーニングから始めるのだっていい。「書類として美しくない」イコール「コンセプチャルでない」なのである。デザインとは、構成化と意匠化のワザであり、語源を「de-signare」というように、「脱-しるし(=signare)化」し、意味をカタチにすることなのだから。

低すぎる価値 | その他

低すぎる価値

 企業の人事制度の設計をしていると、しばしば“管理職の価値”が低すぎると感じることがある。本部長、部長、課長などの管理職社員は、企業の方針や計画達成の欠かすことのできない重要な人材である。自分に与えられた人やお金などの資源を有効に活用して、競合会社と戦い、社内の各部署と調整し、方針目標を達成するというとてつもなく難しい仕事だ。特に最近は経営環境の変化が激しい。そうなると管理職の仕事はさらに難しさを増す。環境が変化すると、組織の価値、業務モデル、人の配置、指導方法など常に見直しが必要だ。マネジメントは同じことの繰り返しではなく変化を要求されることになる。近年の管理職の仕事は非常に難易度が高いのだ。  また管理職は組織の中では孤独である。目標達成のために部下をコントロールしなくてはならない。経営目標の重要な一端を担っているため、経営的な視点、スタンスで仕事に臨まなくてはならない。部下を指揮命令する“使う側”である。部下も会社の方針や目標をよく理解して、積極的に協業してくれるのであれば苦労はないが、日々様々な場面で“使う側”と“使われる側”とのギャップに悩まされ、そして自分の組織の中では決してその苦労を共有できない。  さらに管理職はリスキーである。方針目標達成を重視すればするほど、部下に対して厳しさを要求することになる。思うように成果の出ない部下に対して、命令、指導することになるが、少しでも行き過ぎと部下が感じたら、アウトになってしまう。法律、ハラスメントなどの十分な知識と、極めて強い自制心がなければ、身分を失うことになる。  一般の社員に比較してこれだけ難しく、孤独で、リスキーな仕事をしているのが管理職である。多くの企業では部長、課長などの役職に就くと“管理職手当”を支給する。これは管理職としての職掌の重さに報いるためである。部長で5万~10万くらい、課長で3万~5万くらいが一般的である。安すぎではないだろうか。一般の社員の倍とは言わないが、もっと大きな差があってよい。現在大手企業の課長の年収が800万円だとしたら。価値的には1200~1500万円くらいでよいかもしれない。日本の企業の人事制度の中で、管理職はひどく安く値付けされているが、今後は管理職の給与を重点的に大幅に増加させる必要があると感じるのだ。 以上