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2:6:2の法則 | その他

2:6:2の法則

人事評価では、「2:6:2の法則」によりハイパフォーマーやローパフォーマーを識別する法則があります。 社員を評価する場合、20%を「優秀な人(ハイパフォーマーHP)、60%を「普通の人(アベレージパフォーマ-AP)、20%を「目標の成果を出せない人(ローパフォーマーLP)」というセグメントのことです。 この中のLPとは、組織において業績の芳しくない人材、能力やスキルが不足している社員を『パフォーマンスの低い人』という意味でLPと呼びます。能力を最大限発揮して組織に大きく貢献するHPの対義語にあたる存在で、業績の悪化や伸び悩み、他の社員への悪影響などを生む原因となり、ぶら下がり社員などとも言われます。 組織にLPがいる場合、切り捨てるべきだという乱暴な意見もありますが、果たしてそうでしょうか。 「LPの20%を退職に追いやることで、残り80%の社員のモチベーションが低下する」 ということがあります。 それは、上位20%のHP社員も、中位60%のAP社員も、常に「下位に落ちるリスク」があり、「下位20%になったら、退職しないといけないかもしれない」となると、組織のために働く意欲は低下するだろうし、転職を検討するなど人材流出のリスクも出てきます。 個人的な理由や市場環境の悪化などで、思うように成果が挙がらないことは誰にでも起こりうることですが、「会社はこういう状況でも、長期的なスパンで育成を考えてくれている」とあらかじめ確約されていれば、組織のために働くモチベーションは高まるはず。 パフォーマンスが上がらないからと退職を勧告されれば、社員たちは、「会社はいざというときに社員を簡単に切ってしまう。自分も会社に尽くす必要はない。」だったら「仕事はそこそこにして、自分の趣味や余暇に時間を使ったほうがいい」という思考が働くようになるでしょう。 また仮に、上位2割の優秀なHPがいなくなった場合、残り8割に優劣の差が生じて再び2:6:2の割合にセグメントされると言われています。LPの2割がいなくなることで、組織の生産性は向上するというイメージをお持ちの方もいると思いますが、結局は再びLPが生まれ、生産性が低い下位ができるのです。組織化された会社ではよく見られる傾向です。 また、「HP2割」「AP6割」「LP2割」で構成されていた営業部を、「HPだけのチーム」「APだけのチーム」「LPだけのチーム」に再編成したところ、APとLPのチームから、HPチームをしのぐトップセールスを記録するメンバーが複数誕生したという例も聞きます。LPの成績も、時期や役割によって変わる可能性が大きいことを示しています。 チームを編成する場合、多くの部署が存在する組織などは、各部署の「AP」のみを選抜してプロジェクトを任せたり、各部署の「LP」のみで会議を実施するなどで、それぞれのセグメントで力を向上させる施策から実行に移すのも有効です。 人材育成においては、AP層はもちろんのこと、モチベーションが低下しているかも知れないLP層に、より高い関心を持ち、彼らが業績に貢献できる仕組みを整えることを意識しておくことが必要です。 それには、組織全体の人材の構成を、まずはきちんと分析し、適宜、組織に最適な人材育成に乗り出すことが重要なのです。 社員がLPになる原因はさまざまでしょう。「採用時に見誤った」で済ますのではなく、またパフォーマンスが低いというだけで、その存在や役割をマイナスにとらえるのではなく、社員一人一人と向き合い、それぞれの原因を探ることが大切です。 個人の能力の差だけでなく、仕事への姿勢や意欲、周囲との関係からなぜLPに留まっているかを本人と上司や人事部で認識しなくてはなりません。 そして、AP社員のレベルまで引き上げる研修・教育などを実施すべきであり、またHPが有するスキルや行動特性を意識させれば、組織全体の強化につなげていくことができます。 LPの能力や意欲を向上させることは、会社の利益につながることを忘れてはいけないのです。 以上

居残り勉強は非か? | その他

居残り勉強は非か?

 「若いころは、寝る間も惜しんで、仕事に打ち込んだ」「自宅には本や資料がないから、会社で居残り勉強の毎日だった」というのは、わりと良く聞く話だ。きちんと統計を取ったわけではないが、感覚的に40代以上の世代にそういう人が多いように感じる。 かつてはそのような勉強の仕方が奨励されていたり、そうしなければ1人前になれない、というような空気が確かにあった。  私自身も社会人になったばかりのころを振り返ってみると、会社のリソースを拝借してずいぶんと勉強させてもらったものだ。当時はOA化の掛け声のもとにPCが職場に導入されるようになってきたころで、入社したばかりの私の机の上には、これまで触ったこともないPCが置かれていた。実際の業務で使うのはワープロソフトぐらいであったが、これをうまく使えば面倒な仕事も楽々こなせるのではないか、と毎晩、会社に残って情報処理の学習をしつつ、業務での活用方法にとどまらず、どんな可能性があるのか、それこそ寝食を忘れて没頭していた時期があった。  だが、時代は変わり、今では自身の学習のためでも会社に残っていると、「業務もないのにダラダラ残っている」だとか、「会社のリソースを私物化している」とかで、服務規律、コンプライアンス違反に問われたりする。居残り勉強は是か非か?と問われれば、現在では間違いなく“非”なのだ。  さらに、現在のように、ビジネスの変化が激しい状況では、時間をかけて習得した知識・スキルが一瞬で陳腐化するリスクを考慮しなければならない。そして、今やっていることが活かせるシーンが今後も続くのか、ということを認識しておかなければならない。今まで以上に自身が学習すべきテーマを絞り込み、限られた時間の中で効率的に学習するというスキルが重要になるだろう。 自身を振り返ってみて、良いイメージのある経験が、やれルール違反だ、非効率だ、などといわれてしまうのには少々隔世の感があるが、今や会社に残って寝食を忘れてひとつのことに打ち込む、というような学び方は、要領の悪いダメ社員のレッテルを貼られてしまうのかもしれない。

2035年 | その他

2035年

 64歳の部長が部下の若手社員にWeb会議で話をしている。営業部の業績の説明と、この若手社員の担当するクライアントへの新たな指示をするためである。ちなみに若手と言っても52歳である。営業1部は全員で25名。定年再雇用社員は10名、正社員は15名である。正社員の年齢構成は60歳以上65歳未満が8名、50歳台が4名、40歳台が2名、30代はわずか1名で20代はいない。部長は若手社員に一通りの話をした後にこう続けた。”君はまだ若手の社員だが、あと10年くらいすると管理職になる可能性もある。そろそろ実務だけではなく、マネジメントも意識して業務に取り組んでくれ“  今から十数年後の2035年には、職場は上記のような状況になっているだろう。日本の大手企業の多くは、国内市場の縮小と少子高齢化、超流動的な労働市場により、驚くほどの高齢化が予測される。70歳ないしは75歳までの雇用義務化は避けられないだろう。75歳まで雇用しなければならないとすると、人事管理の考え方を一変させるくらいの激震だ。標準的なライフプランを想定した“年齢”を軸とする人事管理から、年齢に関係のない“実力”軸の管理へと急速に舵を切ることになる。また過去20年間新卒を中心とした若手社員の採用抑制の影響が圧倒的に大きくなる。会社のノウハウや文化を継承する中堅社員がいないということだ。  これに拍車をかけるのは労働市場であろう。より流動的になる労働市場により、他の会社より魅力に劣る企業からは驚くほど人材が流出する。20、30歳台の社員がほとんど離職する会社も出てくるだろう。また日本国内市場を基盤としている企業は、業績の低下に苦しみ続ける。ビジネスボリュームの低下と反比例して、生き残りをかけた熾烈な競争が激化し単価が下落する。社員の処遇をより良くすることが困難となる。今後企業を取り巻く環境は、平成の延長線上の環境ではなくなるのである。  少子高齢化、歪な人員構成、長期の継続的な業績低下が予測される中で、個別の企業が力強く成長するためには、サービス、商品、技術、ビジネスモデルの革新はもちろんであるが、人事管理も重要なキーとなる。環境が連続的変化でないと予測されている以上、人事管理も過去の延長線上の発想では機能しない。しかし近年の多くの企業の人事管理の改革は、受け身的な印象が強い。現在発生している問題への対処というスタンスであり、間違いなく起こる大きな変化を先取りしたものと言えない。  法律や常識という観点では、人事管理は過去を継承しなければならない。しかし今後の変化は過去の継承を重視するスタンスでは対応できるものではなさそうだ。今までの変化と全く異なる次元の変化が急速に到来しつつあることを改めて認識する必要があるのではないだろうか。 以上

生産性向上と高齢化社会 | 人材開発

生産性向上と高齢化社会

働き方改革が進む中、多数の日本企業が、労働時間の短縮や生産性向上に取り組んでいる。付加価値を生み出さない業務の見直し、ウェブ会議やビジネスチャット等のITツールの導入、さらには、残業時間の少ない社員を高評価する仕組みの検討、等々、どの企業も、様々な視点から生産性向上にむけて、必死に頭を悩ませているところだ。ただ、実のところ、そうした取り組みの多くは、今までも不況の折にも行ってきたものであり、今まで以上に、際立った効果を期待するのは難しいかも知れない。 もちろん、組織として、そうした構造的な生産性向上アプローチは続けていかねばならないのだが、それ以上に重要なことは、社員一人ひとりが、仕事や時間に対する意識を強烈に変えていく事だと思っている。同じアウトプットを出すにも、いかに必要な事だけを行い、いかにそれに対する時間投下を減らしていくかという事に、一人ひとりがどれだけ本気で取り組めるか。 「前回は半日かかったこの業務を、今回は3時間でやってしまおう」「いままで、20時まで残業してやっていた作業を、集中して17時までに終わらせて、定時に帰宅する」等、所定の時間内に必ずアウトプットを出す取り組みは、組織としての施策と言うより、個人の姿勢・マインドによるところが大きい。上長に言われるからやるのではなく、だらだらと時間をかけて仕事をするより、密度の濃い仕事を短時間で集中して行い、さっさと帰る事を良しとする観念や美学?のようなものを個人の信条として身に着けていく事ができないと、我が国は、世界中で繰り広げられている厳しい競争から取り残されてしまうかも知れない。 一方で、我が国では、「高齢化」という大きな社会的トレンドも進行している。 先日、急いでクライアントのオフィスに行く際、ICカードにチャージしようと駅の自動券売機に行くと、ひとりの高齢の男性が前にいて、右往左往していた。使い勝手もよくわからずに、あれやこれやとボタンを押してはやり直し、後ろに私を含め、多くの列ができてしまった。仕事の生産性から言えば、はやくチャージして切符を買い、クライアントに、予定の時刻に到着したいところだが、年老いて、機械の操作に慣れないのだから、仕方ない。ゆっくり操作方法を説明してから、急いでチャージをして、その日はなんとか事なきを得た。 また、別の日には、半休をとって母の診療同行したことがあった。 母も高齢で、いまや軽やかに歩く事もできないし、コミュニケーションの内容を理解するにも時間がかかる。病院への道中、ゆっくりした母の歩行に合わせて歩いたり、大きく明瞭な声で話しかけ、必要であれば、何度か同じ事を何度かくり返し話しなら、同行していたが、その日の午前中は、オフィスで複数のウェブミーティングをしたり、多数のメールや電話でのコミュニケーションをフルスロットルで行ってから、病院にやって来ただけに、流れる時間のスピードギャップが極めて大きく、高速運転からローギアへとチェンジをする事に相応のエネルギーを必要とすることを痛感した。 おそらく、これから高齢化が進行する我が国では、同じ場所に住みながらも、個人間で流れている時間のスピードのギャップが、ますます広がっていく事だろう。国際的な競争が激化する中で、我々は、仕事上ではより強烈に生産性コンシャスなマインドで臨まなければならない一方で、ゆったりとした時間が求められる高齢者ゾーンでは、彼らの生活に配慮し、やさしく寄り添っていかなければならない。状況に応じて時間への向き合い方に柔軟性が求められる訳で、我々は、脳の筋力を、益々、鍛えていかねばならならない時代に突入していく。

自己流の迫力 | その他

自己流の迫力

 独自の工夫でなんともユニークな人事施策を講じる会社に出会うことがある。  T工業は、外部講師を招いての小難しい研修はやらないのだと言う。各部門が、他部門の人々に知っておいて欲しい事項を4択のクイズにして、イントラのアンケート機能を使って皆に配る。これを受けた社員たちは期限までにこれに答える。翌週には出題者から正解が送られてくる。選択肢のうちひとつは冗談のようなのが入っているから、皆、面白がってこれに答えている。多くの人が間違える問題は、会社として弱みだ。だから、こういうのがあると、会議の後などに20分ほど時間を割いて、出題部門の部門長が小さな研修を行う。さて、そうこうするうちに、多忙を言い訳にクイズに答えない者が出てくる。すると、今度は課対抗クイズ大会だ。1年間に出された問題の中から選りすぐったものを用いて、早押しクイズの代表戦。優勝の課には金一封が出るから、誰かが勉強をさぼっていると非難集中だ。  S産業では、管理職が必ず1年でクビになる。正しく表わすならば、すべての管理職ポストは1年任期なのだ。役員会は新年度の2か月ほど前には次の方針・計画と組織を定め、最適な人員配置を考えて、内示する。今年の管理職のすべてが再任されるとは限らない。あくまで来年度の計画に最適な人が配置されるのだ。再任されず、他部門の管理職にも起用されなければ、ばっさり、実務層に格下げだ。だから、管理職の緊張感は並々のものではない。そんなことだと職場はよほどギスギスした雰囲気だろうと想像するが、そうでもない。実務層に退いても、次のチャンスがあるからだ。自分ならこんなチャネルを開拓する、自分ならこんな物流システムを作る、といった「提案」をする仕組みもある。能動的に経営計画に関与し、可能ならば自分が働くポストを自分で作る訳だ。  R商事の新卒新入社員研修は手が込んでいる。2週間缶詰の導入研修だ。会議室に模擬の営業所をしつらえ、模擬の受注端末を置く。隣の会議室から、顧客を装う営業社員が注文の電話をかけてくる。第一段階の演習では、優しくて紳士的なお客さんから電話がかかる。だから、予め読んだマニュアルどおりしっかりと対応できる。第二段階のお客さんは少し厳しい口調に変わる。構えを正して事に当たらねばならない。これが最終の第七段階ともなると、怒鳴りちらすようなお客さんで、言っていることもよく解らない(もちろん、営業社員の演技)。だが、どの新入社員も、これに怖じることなく、冷静に対応する。段階的に厳しくなるので、受け答えが確実に上手になるのだ。こうして、初任配属の新入社員でも自信をもって対応することができる。実務に配置されてからびっくりして退職するような者はひとりもいない。  こうしたユニークな方策を考え出す会社は、業種も規模も異なり、抱える問題もさまざまだ。だが、これらの会社が共通して持っているものがあると感じる。社員が、自分たちの言葉で問題を捉え、自分たちの工夫で解決策を練ろうとする姿勢と努力だ。こうして編み出される施策は、地味だけれど結構ヘビーデューティーで、時として迫力がある。抜けていること、漏れていることもいろいろあるだろう。思わぬリスクを抱えてしまうことだってある。しかしそれでも、問題を自らのこととして捉え、自ら解決しようとする姿勢は立派だ。そして、彼らは、滅多に尋ねない。「よその会社はどうしているのですか?」と。

パイロットフィッシュ | 人材アセスメント

パイロットフィッシュ

 職場で何か新しいことや面倒な取り組みをはじめる際に、なぜかいつも声がかかる人物がいた。中小企業の間接部門に所属していた彼は、取り立てて優秀な社員というイメージではなかったが、30代前半という若さもあったろう、どんなプロジェクトも気力と体力で突っ走っていくような男だった。  いろいろなプロジェクトに先陣を切って投入される彼であったが、なぜか、途中で他の社員にバトンタッチすることが多かった。本業が忙しくなって呼び戻されたり、どういうわけだか、プロジェクト終盤に差し掛かってくると失速し、勢いだけでは押し切れなくなるところがあった。とはいえ、あともう少しというところでプロジェクトを外される彼の気持ちを考えると、さぞ悔しかったに違いない。はたから見ていて気の毒に思うこともしばしばあった。  そんな彼のことを、仲間の間では(今にして思うと、大変失礼な言い方なのだが)”パイロットフィッシュ”と呼んでいた。  熱帯魚を飼育した経験のある方ならご存知と思うが、新しい水槽を立ち上る際に、新しい水を入れて直ぐに高価で繊細な熱帯魚を入れるようなことはしない。新しい水槽には、熱帯魚の排泄物やえさの食べ残しを分解するバクテリアが存在しないので、水質の変化に弱い繊細な魚を投入するとすぐに弱ったり死んでしまったりするのだ。 そこで登場するのがパイロットフィッシュだ。そういう名前の魚なのではなく、有益なバクテリアの繁殖を早めるために、まっさらな水槽に先陣を切って投入される魚のことを言う。無事にバクテリアが繁殖し、水質が安定すると、パイロットフィッシュの役割は終わりとなる。はじめは魚にとって過酷な環境なので、時には死んでしまうこともある。したがって、丈夫で安価な種類の魚がチョイスされるのだ。  職場で新しい取り組みを始めようとすると、誰しも苦労するものだ。誰もやりたがらない面倒なプロジェクトに次から次へと飛び込んでいく彼の姿が、アクアリウムのパイロットフィッシュと重なって見えたのだ。  先日、そんな彼と何年振りかに会う機会があった。聞けば今でも同じように、いろいろなプロジェクトを次から次へと渡り歩いているらしい。そこで、どうしても気になっていた、かつての疑問をぶつけてみた。あんなに何度も途中でプロジェクトを外されて、どうして腐らずにやっていられるのか、と聞くと、「何もないところからスタートして、造り上げていくっていう感覚がなんかいいんだよね。道筋ができると俺の中ではもう終わりっていうか、そこからなら誰でもできちゃうし」  なるほど、本当に彼は職場のパイロットフィッシュだったのである。 彼をプロジェクトにアサインしていた上司はその適性を的確にとらえていたのであった。 (ちなみに、パイロットフィッシュの語源は飛行機のテストパイロットから来ている。)

愉楽の本屋 | 人材開発

愉楽の本屋

 かつて本屋は、ワンダーランドだった。子供のころは近所の本屋に入り浸っては、並ぶ背表紙に垣間見えるまだ見ぬ世界にわくわくしたし、大学の行き帰りには神保町を経由して、新本古本両にらみで本の街に遊んだ。両手に買った本を入れた紙袋を下げて歩いていると、まったく同じ姿の植草甚一さんとすれ違ったりしたものだった。  そんな日々は遠い昔、いまやすっかりアマゾンの上顧客になったせいか、本屋で長い時間を過ごすこともない。そもそも、ワンダーランドたる書店がもはやなくなってしまった。青山ブックセンターやリブロポートといった個性的な書店空間はなくなり、中小書店は廃業し、生き延びている大型書店の棚からは、大物量の本があることの魅力以外は感じられない。  かつて日参していた神保町の書泉グランデも三省堂書店も、行くことはない。アマゾンで欲しい本が買えるからこそ、書店には、出会いや発見を求めたいけれども、ありふれた分類で並ぶ大量な本たちからは予期せぬ邂逅はなかなか起こらないのだ。書店には、書店としての情報編集があるべきで、それこそが書店のアイデンティティであるはずなのに。  そんななかでただ一店、いまも独自の佇まいが快適でわざわざ出向く書店がある。神保町の東京堂書店だ。どの棚をみても、見飽きず、発見があり、ついつい大量購入してしまう。他の書店との違いが一目瞭然なのは、新刊書籍の置かれる1階レジ前のひとシマ。このシマの4辺は、①広い意味の文学系、②広い意味の科学系、③広い意味の社会系、④広い意味の美学系の本が並ぶ。  「広い意味の」と言っているのは、置かれる書籍が実に多種多彩だからだ。たとえば美学系のなかには、絵画やアートはもちろん、写真、広告、デザインから映画、演劇、役者、TVさらには本屋の本などの新刊がならぶ。ちなみに先日「プリズナー№6完全読本」を即買いしたが、こんなマニアックな新刊は他の書店の新刊書コーナーでは見かけない。  どこの書店の新刊コーナーにもあるような売れ線の平積みなどが前面にあったりはしない代わりに、さまざまな分野の新刊が小分けの平積みだったり棚にたてられたり、その並びの妙が際立っている。いろんな顔の本たちが集い、競い合い、感応したり相互作用する光景のすばらしさ。そこには、本を売る仕事としての明確な意思、目配り、大げさに言えば書店員という職業を選んだ者の矜持が感じられる。  2階3階の分野別のフロアも含めて、書店という「場」をどのように区切り、どの本を置くか、どのような並びにするか、がきちんと仕組まれている。その編集のワザ=本の選択とその配置が、個々の本を並びという関係の中で屹立させ、思わず手に取り、買う気になってしまうのである。  かつて百貨店がその売り場づくりを競った時代に流行った言葉でいえば、ビジュアルマーチャンダイジングである。本は、題名、著者、形状、意匠、素材質感が混交したオブジェであり、展示の仕方次第でいかように魅力的な「場」を作り上げることができる。書店はなによりそのことを追求してほしい。服やバッグといったファッションアイテムは、売り場では決して、サイズ別とか素材別とか色別に並べたりしないように。

人を好きになるスキル | その他

人を好きになるスキル

 経営幹部育成のアセスメントとコーチングで定評ある人物がいる。アセスメントの結果明らかになった強みと弱みをベースに、強みを伸ばし、弱点を克服すべく、定期的なコーチングをしていくのだが、この人の凄さは、強みのまったくない、いわば箸にも棒にも掛からぬ人材であっても、明らかな成長を結果させることだ。  いったいいかなるワザを使うのか。聞くと、「要は、徹底した褒め殺しなんだよね」と笑って答える。さて、よくいわれる、褒めて伸ばすのポイントは、やみくもに褒めるのではなく、本人もよくできたと思っているあたりをきちんととらえて褒めることである。しかし、箸にも棒にも~~の人物であれば、できたと思えることがらを探すこと自体が難しい。そこをいかに褒め殺すのか。  いわば、褒める点がないのに褒めるということである。「それはねぇ、ふつうに褒めてもまったく届かないし、効果ない。ただね、褒めてくれる相手が、本当に自分のことを好きで褒めてくれるとなれば、がぜんやる気になるんだ」と彼はいう。褒められるはずもないのに、おためごかしでなく褒めてくれる、その本気さは、自分への好意に裏打ちされているからこそ伝わる。そこで素直に期待に応えようと頑張るということである。  「だからさ、まず、その人を好きになるんだよ」とその秘訣を語る。しかし、好き嫌いなんて生理的な感覚を、意思をもって制御できるんだろうか。ありていにいえば、コーチングのプロとして成果を出すために、その人を好きになる。しかも、本気で好きにならなければ、効果はないのだ。仕事のためとはいえ、「この人を好きになろう」と決めて好きになるなんて、器用なことができるのか。  と疑問を呈すると、「それができなきゃだめでしょ。そもそも部下を好きになるスキルこそ、管理職者がもつべき基本スキルなんだから」と彼は答える。では、好きになるにはどうするか。「そのためには、まず、その人をひとりの人間として認め、その人ならではの人となりに興味をもつことだ」と続けた。  なるほど、好きになるとは言葉の綾で、まず第一に、その人そのものを認める、というか畏敬の念を持つことが大事なのだ。能力とか出来不出来とか性格的問題とか以前に、ひとりの人間としての尊厳に敬意を払うことができれば、その態度はおのずと自分への好意としてうけとられるのだろう。  例えば、医療現場でよく語られる医者の基本姿勢というものがある。医者が投薬をするとき、なぜその薬が必要かを説明する。ともすれば、専門家の助ける人=医者と、素人の助けを求めている人=患者の関係のなかで、一方的なコミュニケーションになることが多い。しかしその際に、なにより患者自身の意思や納得感を尊重して、つまり畏敬の念をもって接することがいちばん大事で、それにより、投薬効果も高まるといわれている。  そういえば彼から、人を切り捨てるような言い方を聞いたことがない。悪口や批判はいうけれども、あたたかい。どんな人にも、人としての尊厳、平たく言えば、それぞれの来し方行く末に対して敬意を払い、かつ、その個別性をなにより面白がっているように見える。そう、その人を面白がる=興味を持つ、これが第二のポイントなのである。  「人に興味を持つ」というと、もうひとり思い出す人物がいる。もう20年以上前のころだが、優秀な管理職者だなぁと常々感心していた取引先の課長がいた。会社もその課長の管理能力を高く評価していて、どこの部署でも鼻つまみ者になる問題社員ばかりが彼の課員として次々送り込まれてきていた。そこでちゃんと「再生」させるのが見事だったが、いかにもたいへんな仕事だな、と思って、その苦労を聞いてみると、愉しそうにこう言った。  「いやすごく面白い。コイツは、ここを押すと、動く気になる、アイツには、この言葉が響く、とか、みんな違う。それぞれのスイッチを探し出していくのがたまらない醍醐味なんです」

成長幻想 | その他

成長幻想

 経済や社会の成長が必ずしも手放しでは喜べないことは、すでに誰もが知っている。その原動力となるテクノロジーの進化にも功罪ともにあることが指摘される。企業経営もやみくもな拡大指向ではない、「成長前提でないサステナビリティ」が表明されたりもする。 成長は、常に望ましいことであるというのは錯覚であって、もしかすると身の回りから地球規模に至るまで、成長とは単なる「変化」に過ぎないかもしれない。そしてその事情は、わたしたち人間についても同様なのではないか。 おぎゃあと生まれ、動物としては異例の長い保育期間を経て、20歳代でだいたい身体はできあがり、身体面では以降緩やかに衰えていくだけである。その一方で、心というか精神というか知性というか、つまり「人としての内面」は老年に至るまで成長を続けると言われる。近年は、高齢者になっても創造力だけは向上を続けるという希望観測めいた説まで聞かれるほどだ。  つまり、身体はある時で止まるが、加齢とともに、人ととしては成長する。さて、それは本当なのか。成長するとは、大人になるとは、要は、社会的存在としての自己を確立し社会のなかでできることが増えていくことである。自分のほしいままに振る舞う暴君=幼児が、親子関係のなかでアイデンティファイされ、家庭、学校のなかで前社会的な自己に気づき、社会に出て経験のなかで、社会内存在として自覚し行動し能力発揮できるようになる。  さまざまな欲望をコントロールしつつ、重要な欲望の充足のために努力し、社会のなかで、やりたいことの実現ややれることの拡大がなされる。プリミティブな言い方をすれば、昨日できなかったことが今日できるようになるのが、成長。というと、そのポジティブさは疑いようがないように思える。 しかし反面、成長とともに、昨日できたことが、今日できなくなることもあるのではないか。たとえば、なんにも縛られずに自由に自在に発想すること。とりとめのない想像の翼を無限に広げること。大人になると、そんなことをしてはいられないからだ。社会のなかの大人として生きていけるようになることとは、いろんなルールや枠組みや箍や常識や自己規制などなどにまみれることでもある。そこの葛藤から社会適応不全の病も出来する。  ある本に「成長とは、より頑なになっていくこと」とあった。よく見る頑固老人のみならず、心の自由を失っていくような成長のネガティブな一面を言い得ていると思う。ゆえに、人の成長も単なる変化に過ぎないとみる方が健全なのではないか。昨日の自分と今日の自分は違う、そのことこそが素晴らしいのである。

車が空を飛ぶ | その他

車が空を飛ぶ

子供のころに読んだ手塚治虫のマンガ「火の鳥-未来編-」にはエア・カーが登場する。 車が空を飛ぶなんて、何十年先の未来かとワクワクして読んだものだ。それが、AI技術により2023年 には販売開始できそうな段階まできている!? 8月24日に経済産業省は人が乗って空中を移動できる「空飛ぶ車」の実現に向けた官民協議会を設立すると発表した。電動で垂直に離着陸できることから航空機とドローン(小型無人機)の間に位置付けられ、次世代の移動手段として期待されているというのだ。経産省は高性能電池やモーターなど、この「空飛ぶ車」への開発支援として、2019年度予算概算要求に約45億円を盛り込む方針だ。 この「空飛ぶ車」にはAI技術がかかせないが、AIは人事の領域でも活用されている。 従来の勤怠管理システム以外にも採用業務や人材育成、評価システムなど、新しい取り組みがされつつあるし、最近では、HR× Technologyを意味するHR Techという言葉も誕生し、人事の幅広い領域にAIの最新技術を活かす動きが活発化している。 最近よく耳にするのは、採用一次受けやチャットボットによる自動返答だ。 通常、採用時には、最初に人事担当者がエントリーシートを見るわけだが、担当者ごとに評価軸がぶれてしまう可能性があり、基準が定まらない等の問題があった。しかし、AIであれば膨大な量のエントリーシートを同じ基準で評価することができ、より公平な採用ができるというメリットがある。 一方、チャットボットは社員から人事に関する問い合わせや、学生への回答に活用されており、人事担当者の手間を減らしている。AI技術を活用することで、少ない人員で効率よく業務を進行することができるのだ。 これまで人間が行っていた手間がかかる仕事をAIが代わりに行ってくれることによって、人間は車を飛ばすような創造的な仕事に力を入れていかなければならないだろう。 オックスフォード大学研究員のカール・ベネディクト・フライ氏は、「今後の労働市場では、高いCreativityとSocial skillが必要」になると言っている。Creativityとは、「新しいアイデアやものを作り上げる能力」のこと。なにか新しいアイデアを生み出すには、複数の一般的なアイデアを、今までにない方法で組み合わせることが必要になるということだ。 つまり、優れたアイデアを創造できるかどうかは、そのきっかけになる引き出しをいくつ自分の中に持ってことと、好きなことにどれだけ没頭できるかどうかだ。 手塚治虫もこう言っている「僕の体験から言えることは、好きなことで、絶対にあきないものをひとつ、続けて欲しいということ。物語はここからはじまるのだ。」

マイクロ・ラーニングと経営職・管理職の育成 | 人材開発

マイクロ・ラーニングと経営職・管理職の育成

「業務密着型学習」が増えている。 人材育成体系の構築と運用に取り組む人々にとって、「仕事をしている最中に、必要な情報にアクセスして、学んだものをその場ですぐに用いるという『業務の中で学ぶ』スタイルについて検討すること」は、避けられなくなってきている。 今のところ、業務密着型学習を進めるに際して中心的な役割を担うもののひとつは、マイクロ・ラーニングと呼ばれる、数分程度(モバイル端末では、多くのものが1~3分程度)で視聴できる、データ・サイズの小さな知識や情報を活用した教育・学習方法である。 忘却曲線を意識して、繰り返し学習による「知識の定着」を狙う使い方や、「働き方改革の推進」と相まって「集合研修時間の低減に役立ちそうだ」などとして、注目度が高まっているのが実情だ。 確かに、マイクロ・ラーニングをうまく活用できれば、業務の中で学ぶことが可能になるため、人材育成体系の構築や運用にどのように織り込めばよいのか検討することが、組織能力の向上を図るうえで、重要性を増してきていると思う。 ただし、「万能薬であるかのように、何でもかんでもマイクロ・ラーニングにすればよい」と飛びつくのは、間違いだ!ということを指摘しておきたい。 ここでは、「ハード・スキル」(認知能力)と「ソフト・スキル」(非認知能力※)という切り口を取り上げてみよう。 マイクロ・ラーニングは、「注意を集中させて、情報を処理して、記憶すべき事柄を何度も唱えたり、思い出したり、視覚的に思い浮かべたり…」などといった、「認知能力」の発揮(作業記憶や前頭葉前部皮質などの活動)と相性が良い。認知能力とは、IQで測られるような、理解・判断・論理などの知的機能のことである。 特に、技術的な技能、例えば「新しいソフトウェアの使い方を学ぶ」ようなハード・スキル(形式化された知識を使いこなす技能)を身につける場合には、マイクロ・ラーニングの効果が期待できる。 他方、例えば「自分で何でも処理してしまうのではなく、他者を通して組織業績をあげることのできる管理職や経営職を育成する」には、対象者の(社会情動的スキル、あるいは、非認知能力と呼ばれることもある)ソフト・スキルの向上を狙った、組織をあげての体系的な取り組みが大切である。 管理職や経営職のソフト・スキルを高めるには、「他者の気持ちを感じ取ったり自分の氣持ちを表現したりしながら、建設的な関係を確立して維持する」「責任ある意思決定を行う」などといった「ソフト・スキルを発揮する体験」を実際に積まなければならない。 すなわち、ソフト・スキルを高めるには、「誤りを訂正しながら、状況や関係性に応じた行動を徐々に身につける」などといった「漸進的な学習」(大脳基底核も巻き込んだ活動)が求められるのだ。 このように、「認知」的な能力を発揮することで短期間のうちに身につけやすい「ハード・スキル」と、種々の体験を通して、状況や関係性に応じた「行動」を身につけていく「ソフト・スキル」では、そもそも、学び方や所要時間が生物学的な見地からも異なる。 また、何かを習得する際に同じことを過剰に繰り返して練習すると、状況とセットで記憶してしまい、「状況が変わると思い出せない、応用できない」といった弊害(文脈干渉効果)が生じるという観点からも、「ソフト・スキルの習得にはランダムな順序で様々な練習を行うことが望ましい」ということに配慮したい。(個人的には、没入感のある仮想現実/拡張現実/複合現実シミュレーションを活用して、身体で真似て習得する方法にも興味を覚えている。) マイクロ・ラーニングに飛びつきたい気持ちはわかるが、自社に適した活用の仕方や、経営職・管理職の育成方法について、改めて検討していただきたいと思う。 ※「非認知能力は、先天的知能とはほとんど相関がみられない」と言われている。例:"A Meta-Analysis of the Convergent Validity of Self-Control Measures", Angela Lee Duckworth and Margaret L. Kern, Journal of Research in Personality, 2011 Jun 1; 45(3): 259–268. 以上

変われる能力 | その他

変われる能力

 昔、ユビキタス(ubiquitous)という言葉が流行ったことがあった。いつでも、どこでも、誰でもコンピュータネットワークを使える社会を展望する用語だったが、いまや、もうスマートフォンによりそれは実現できていて、こんな言葉はことさらに使われることもなくなった。  インターネットをインフラとし、AIなどの先端技術は想像を絶する速さで作業を変えサービスを変え、働き方を変えていこうとしている。経営者の方々は、現在視点ではなく未来視点をもって、中長期の戦略を描こうと日々腐心されているが、10年後20年後の将来ですら、その経営環境を見極めることは難しい。  未来の自社の必要人材像とあるべき組織像を描き、今から、人材育成や新たな就業のしくみづくりに着手したいけれども、10年後20年後の人材要件=どんな専門性をもち、どんな能力をもち、何にモチベートされるのか。そのあるべき論はなかなか作り得ないのだ。それほど、第四次産業革命と呼ばれる今直面する環境は、先が読めない。 ただ、人材要件として、ひとつだけ確かなことがある。不安定で不確実で、複雑であいまいな状況の中で、対応できる能力。つまり、変化に対応し、新たな環境に適応する能力が求められるということだ。その能力とは、要は、「変われる能力」ではないか。何よりまず、自分が変わることができなければ、新しい発想や大胆な判断も生まれないし、環境適応とは適応できるように自分が変わることだからだ。 では、変われる能力とは、どのような能力か。 それには、まず人が変われない理由から考えてみるのがいい。常識や固定概念や過去のやり方が新しい発想や方法の創出を阻害する。それらは、今まで有効だったし、繰り返しのなかで強化され、堅固に出来上がっている。思考や認識が、そうした出来上がった枠組み(=パラダイム)に縛られているから、その外や異質な世界を自在に感じ、自身の考えを変え行動を変えることができないのだ。 であれば、第一に、パラダイムを完成させなければいいのではないか。ものを見る軸や整理のしかたを、常に、未完成の状態にしておいて、新しい事態に臨む。パラダイムをゆらいだ状態にとどめ、決して、定めないという自然体で変化をうけいれるということだ。その事態や事象を整理すべく、都度、適切な軸やフレームを創出するという意味の創造力。やわらかいアタマが大事とはそういうことではないか。 人の身体の免疫システムには「自己不完結性」という特徴があると、生命科学者の清水博さんに聞いたことがある。外敵が侵入してきたにとき、初めてその外敵に応じた適切な免疫システムが「生成する」。どんな外敵が侵入してくるかは、事前には分からないので、防御体制はできあがっていない(=完結していない)状態にある。だからこそ、都度、どんな外敵にも適応することができるのだ。 つまり、「今ある自分を変える」のではなく、環境との関係の中で、「都度、新しい自分になれる」こと。変われる能力とは、独自の、独立した「自分という完結」に決して至らないでいられる力といってもよい。いわば、自身を完成させないでいられる能力。大人としての成熟なんて、目指してはいけないのである。