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コラム

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ライタープロフィール

高柳 公一
高柳 公一(たかやなぎ こういち)

一橋大学商学部卒業。米国ジョージワシントン大学経営大学院修了。プライスウォーターハウスコンサルタント社に入社し、国内外の大手企業に対して、人材開発、業務改善、IT戦略立案等のコンサルティングプロジェクトに関与。その後、トーマツコンサルティング株式会社にて、多くの組織・人事に関するコンサルティングを行った後、当社、取締役シニアパートナーを経て現職。人事分析、人事制度設計、他幅広い分野の人事コンサルティングに多数関与。

有効求人倍率と企業変革 | 雇用施策・その他

有効求人倍率と企業変革

全国の6月の有効求人倍率(季節調整値)は5月より0.09ポイント低下し、1.11倍となった。値をどう見るか。リーマンショック後の0.5倍を割る水準ほどではないものの、昨年まで続いてきた1.5倍以上の状況からみると、かなり低下した。先行き不透明な環境下で、企業が新たな採用を控えている事や、人事部門がコロナ感染拡大の中での働き方への対応や、雇用調整助成金の申請などで手一杯で、採用まで手が回らないという事もあるだろう。いずれにせよ、労働市場の需給バランスが大きく変化し、コロナ禍以前のように、総じて企業が、人材が思うように採用できない状況は一転した。 同指標の値から、雇用状況が悪化しているとは言えるが、一方で、今後の経済を見通す指標としての株価は、必ずしも悲観的には推移していない。日経平均やNYダウといった株価インデックスは、2~3月に底を打った後、回復に転じ、コロナ前の水準まで、ほぼ戻してきている。ナスダックに至っては、コロナ後に史上最高値を付けた。株価が堅調な理由として、単に世界的に金余りという事や、コロナ禍は短期的であり、中長期でのキャッシュフローに大きな影響はないとの見方と共に、コロナ禍により、企業変革が促進される事が好感とされているからとも言われている。災い転じて、デジタル・トランスフォーメーションや働き方改革が加速され、生産性が向上し、企業の収益率が高まる事が期待されているという事だ。 実際、米国の投資ファンドのカーライル社が、コロナ禍で社会構造が変わり、欧米に比べて遅れていた日本企業の変革への機運の高まりを受け、今後3~5年間で1兆円規模の投資をするとの新聞報道もあった。今後、コロナ禍がいつまで続くのかは不透明ではあるが、いずれにせよ、いつか終わる。感染拡大が収束するまで、採用についても何もせずにいると、その時点では、すでに勝負がついてしまっているかもしれない。 ちなみに、過去、最も景気のよかったといわれるバブル期の有効求人倍率は、1990年の1.43倍だったが、昨年前の数年間は、それを凌ぐ1.5~1.6倍を推移していた。つまり、最近は、労働人口が減少していく中で、必ずしも好景気でなかろうと、恒常的に人手不足が発生する状況になっている。バブルの頃とはゲームのルールが異なっているわけで、今や、先が見えないからと言って、近視眼的ないしは盲目的に、採用を抑制してしまうと、それが命取りになるかもしれないと言える。 今回のコロナ禍の発生は、日本にとどまらず、世界全体へむけた社会変革、企業変革へのウェークアップコールだとも言われている。企業として、人事として、この状況をどう捉え、どう行動するか、正直、大変悩ましい判断を求められているが、コロナ終息後も企業が生き抜くためには、人事の変革も、立ち止まる事なく行っていく必要がある。そのためにも、中長期な視点で見て、経営の人的資源の質的な転換をはかるため、有効求人倍率の低い今こそ、チャンスと捉えて、積極的に、将来にむけた必要人材を獲りにいってはどうだろうか。

パンデミック後の世界 | その他

パンデミック後の世界

 新型コロナウィルスの感染拡大が世界中に広がり、将来が見えない状況が続いている。誰もが不安を感じながら、これから世の中がどうなることかと思いめぐらせている。かつて、ピータードラッカーは、「未来のことは誰も分らない」し、「未来は、今日と異なることは間違いない」と言ったが、同時に、「未来は創ることができる」し、「既に起こった事の結果を予測することはできる」とも言った。確かに、自分自身の意志で、未来を切り開いていくことは、誰でもそれなりにやっているし、既に起きている事から、起こり得る結果を、ある程度、見通すことはできる。日本の少子高齢化が起こっている結果として、将来、労働力不足が予見できるのは、この類のことだろう。  では、新型コロナウィルスの世界的な感染拡大、いわゆるパンデミックと言われる現象の後に何が起こるのか、この問いに対しては、ドラッカーの残した言葉よりも、ローマの歴史家が残した「歴史は繰り返す」の方が、有効に機能するかもしれない。  世界の歴史を振り返ると、過去に何度も、パンデミックと言われる感染症の世界的流行が起きている。 たとえば、14世紀のペストによるパンデミック。蒙古のキプチャク・ハン国が黒海沿いにあったイタリア、ジェノバの植民都市を攻撃した際、陣営内でペストが発生、蒙古軍はペストで死んだ遺体を城壁の中へと投げ入れて退却したため、城塞内で感染が拡大し、ジェノバの人々は、交易拠点であるコンスタンティノープル、マルセイユ等、当時の交易拠点をたどりながら、ペストと共にジェノバに戻った。その結果、これら都市からヨーロッパ全体、さらには北アフリカ、中東に至るまでにペストが拡散した。このペストの大流行でヨーロッパの人口の半分が亡くなったとされている。その結果、農民人口が激減し、領主と農民のバランスが一気に崩れ、領主階級は没落、封建制度は崩壊し、ヨーロッパは絶対王政へと移行していった。  今から約100年前、世界中で猛威をふるったスペイン風邪も、もう一つのパンデミックである。太平洋の孤島から北極圏の住民まで、当時の世界人口の4人に1人以上、約5億人が感染したと言われ、死者数の正確な数字は不明で、5,000万人〜1億人が死亡したとも言われている。ただ、これだけの猛威を振るったスペイン風邪だが、経済に大きな打撃を与えなかった。また、第1次大戦の終結の遠因になったとも言われている。  以上過去の2つのパンデミックの歴史から、何を得るか。少なくとも言えるのは、「終わらないパンデミックはない」という事。早ければ、年末には新型コロナのワクチンが完成するという報道も流れているが、どんなに深刻な感染状況であっても、パンデミックはいずれ終息する。また、実態経済から聞こえて来る声とは異なり、思いの他、金融市場で株価が堅調なのは、中長期的なキャッシュフローには大きな影響なしと投資家が認識しているからなのかもしれない。  もう一つ言える事は、パンデミックが、「社会が大きく変化するきっかけ」となる事だ。パンデミックで世界は生まれ変わるというより、それまで、進行してきた事態が加速するという方があっているかも知れない。 何年も前から働き方改革が進行しつつあるが、今回のパンデミックを機に、働くことに付随する様々な固定観念が打ち壊され、オンライン会議をはじめとするリモートワークがデフォルト化し、人々の居住場所に対する概念も大きく変化していく事になるだろう。キャッシュレス経済もまたしかり。  社会の変化は、直線的には起きず、さまざまな周辺の要因の影響を受け、一定のより戻しを経たあと、しかるべき着地点に達するものだ。目先の感染者数の推移を追って右往左往するより、過去の歴史からヒントを得て、いずれパンデミックが終息した後の社会の変化を見据えた行動を心がけたい。

生涯現役というソリューション | 関連制度設計

生涯現役というソリューション

生涯現役というソリューション 栄養、医療等のイノベーションで、我々は、今よりも健康で長寿になると言われている。現在の日本の中学生は、2人に1人が107歳まで生きると言う予測もある。長寿自体は喜ばしい事だが、我々が長寿化することで、従来の社会システムのバランスが崩れ、今までは気にせずに済んだ悩ましい問題に向き合わざるを得なくなる。端的に言えば、我々が、今まで80歳まで生きることを前提に人生設計を組んでいたとして、実際は100歳まで生きる状況になった時、追加された20年間の経済的基盤をどう確保するかと言う事だ。 我々の一生を教育ステージ、就業ステージ、引退ステージの3ステージに区分すると、現在のそれぞれの期間は、おおよそ20年、40年、20年と考えられる。引退ステージの後にさらに20年追加されると、当然、この人生の3ステージ全体のバランスを改めて取っていかねばならない。人生80年と想定し、リタイア後の20年を年金とそれまで蓄えていた貯金を使ってやり繰りしながら80歳まで生きてきた時、「おめでとうございます。追加であと20年生きられます!」と言われたら、我々は一体、どうすればよいのだろうか?少子化の中で、政府に何かを期待できる時代ではない。もし、残り20年分の経済的準備ができていなければ、その後の人生は、かなり憂鬱なものとなってしまうかも知れない。もっとも、実際は、ある日突然、一気に平均寿命が延びるわけではなく、年齢が若くなるにしたがって、徐々に平均寿命も延びていくので、現実は、これほど極端ではないが、いずれにせよ、我々ほぼ全員が、いままで以上に長生きする前提で、これからの人生設計をしていかねばならない。 私が20代の頃、若いうちから、かなりハードに働いて、そこそこの額の貯金をため、定年を待たずに4~ 50代までにリタイアして、あとは時折、旅行でもしながら、悠々自適に暮らしたいと話す友人達が、周囲に少なからずいた。「君は一体いくつまで働くの?」飲み会の席などで、友人達からそんな質問を時折受けたことを覚えている。当時は、短期間に強烈に働いて、早々にリタイアする人生を目指す事は、将来の人生を考えるスタンスとして、それほど不適切なものではなく、実際に実現できるかどうかは別として、概ねポジティブに受け入れられていたように思う。 ただ、そうした計画を立て、中には実際に実現できた人々もいるだろうが、今になって、さらに20年分の生活が追加されるとなれば、どうだろう? 再度、収入を得るための活動を再開する必要が出てくるかも知れないし、何より100歳まで生きるのに、4~50歳で、リタイアしたら、引退後の人生の期間は、あまりに長く、時間を持て余してしまうに違いない。当時は、早期リタイアを目指す人生は肯定的であったかも知れないが、やがて来る長寿化時代を見据えると、今や、そうした人生設計はリスクが高く、あまり魅力的とも賢明な選択とも言えなくなってくる。 今後、医療の進歩等で、さらなる長寿化やアンチエイジングが進む事も考えられ、将来の自分の身体能力がどこでどのように変化していくのかも、過去の人々のケースを参考には出来なくなくなって来る。また、どの仕事がAIにとって代わっていくか、明確には予測ができない事などを考えると、これからの人生で、いつまで働こうか、どんな仕事をしていこうか、と算段することが極めて難しい現実に直面する。先を見越して計画を立てるには、自分自身も含めて、将来の環境や前提を安易に見定められない状況がそこにはある。 それならば、いっそ、潔く、生涯現役宣言をして、死ぬまで働く覚悟を持って、健康に留意しつつ生きていく方がよっぽど、気分がよいと思うのだがどうだろうか。 また、どの仕事が今後生き残るか、高い収入が得られるかと検討する事も大切だが、それも不確実性が高く、当てが外れる事も大いにあるだろう。であれば、何より、自分がやっていて楽しく感じられ、自分の特性が最大限、発揮できることで他者に貢献ができると思える仕事が何なのかを今からでも、真剣に自問し、見つけていく事が、何よりも重要なのかもしれない。そんな仕事を見つけられれば、仮に収入は多くなくとも、やりがいを感じ、大きなストレスなく、働いていけるし、より幸せを感じて過ごしていけるだろう。 この問題に対する答えは、どこかで誰かが用意してくれることはない。自分自身をよく理解し、自らその答えを見つけるしかない。今までは、そこまで深刻に考えなくても、ほど良いタイミングで寿命がやって来たが、これからは、社会を大きく変化していく環境の中で、老後を生きていかなければならないのだ。そんな未来を見据えて、我々は、早期リタイアを目指すマインドから、生涯を通じて、考え、学び、働き、そして、それを楽しむ・・そんなマインドセットに切り替えていく事になるのだろう。

転換の年へ | その他

転換の年へ

新しい年が始まった。過去数年間にわたり、「日本経済はオリンピックまでは何とかなるだろう」という期待通り、好景気とは言えずとも、深刻な景気悪化には陥る事はないまま、件の2020年になった。未来の事は誰にもわからないが、5G投資の本格化や、オリンピック後の建設需要も当面見込まれる事などから、今年の後半から深刻な景気悪化を予測する専門家は少なく、心配しなくてよいという声をよく聞く。深刻な経済不況にならなくて済むのはなによりなのだが、ただ、そんな感覚で本当によいのだろうかとも思う。 昨年の我が国の実質GDP成長率は、およそ0.9%程度と見込まれていて、ここ数年の水準から見て、決して悪い水準ではないが、同年の世界全体の成長率見込みの約3%、アメリカの約3%、EUの約2%と比べると、やっぱり、さえない成長率と言わざるを得ない。一昨年の日本のGDP(名目)は約5兆ドルで、世界第3位の規模だが、トップのアメリカの約21兆ドル、2位の中国の約14兆ドルから、ずいぶん大きく引き離されている。また、1995年には、日本は世界のGDPシェアの約18%を占めていたが、2018年には5%台にまで低下している。 昨年は、直近の過去と比べてそれほど悪くないというだけで、世界各国の成長スピードにはついて行けていない状態が長年続いているのだが、低成長経済にあまりに慣れてしまったのか、日本経済の相対的地位の低下に対する深刻な危機感はそれほど感じられない。日本は基本的に優秀な国家なので、今のまま頑張っていれば、いずれ、風向きも変わるだろう、くらいに思っている向きも少なくないのだろうか。世界が大きく変化している事を直視せず、従来の世界観が正しいと思い込んでいる事自体が、我々の大きな課題なのかも知れない。 昨年のベストセラー本、「ファクトフルネス」(ハンス・ロスリング、 オーラ・ロスリング 、アンナ・ロスリング・ロンランド 著 日経BP社)を読むと、そうした我々の思い込みがいかに数多くあるかを知らしめてくれる。例えば、「いくらかでも電気が使える人は、世界にどのくらいいるか」の三択(A 20%・B 50%・C 80%)や、「世界の平均寿命はおよそ何歳か」の三択(A50歳・B60歳・C70歳)という問いが本書の中にはある。いずれも答えはCだが、回答者の大半は正しい答えを選べなかったという。世界の貧困や健康の状況は、日々改善されつつあり、過去に学んだ事や認識した事実から大きく変化しているのだが、先進国の国民や知的労働に従事する人ほど、正解率は低かったそうだ。我々が思っている以上の規模とスピードで、世界は日々、変化しているのだ。そうした変化を直視して、認識をアップデートしないままでは、正しい意志決定や適切な行動を行うことはそもそも難しいだろう。 世界の変化に後れを取っている事態は、人事領域にも当てはまる。特に、女性の役員、管理職の登用の推進には、多くの企業で、総じて腰が重い。ILOによると、2018年の世界の管理職に占める女性の割合は約27%に対し、日本はわずか12%とG7諸国で最下位だった。多くの企業ではこの課題を認識しつつも、自社(の業界)は特別なので・・という事で、本気でこのテーマに取り組んでいる企業は少ない。本来、労働力人口の減少に直面する我が国こそ他国以上に、女性人材の積極登用は優先度の高い課題ともいえるのだが、過去から引きずる強烈な思い込みが障害になっているのかもしれない。 ただ、個人的には日本の潜在的能力を強く信じている。なかなか火がつかないところがあるが、オイルショックも、プラザ合意も、一たび、危機に身が置かれると本気で取り組み、一気に世界をけん引する馬力を持ち合わせていたはずだ。2020年はそんなパワーが発揮され、未来に明るい光が灯されるきっかけの年になってほしいと願う。

鬼が笑っても、来年の段取りを! | その他

鬼が笑っても、来年の段取りを!

今週から12月。忘年会等、年末ならではのイベントもあり、「できるだけ年内に成果や結論をだしておきたい」という日本人的な?心理もあって、今月は、慌ただしい日々を過ごす人は少なくないだろう。そんな最中に、来年の事をいうと鬼に笑うと言われそうだが、来年2020年(令和2年)が、いつもの年とは違う状況になりそうな事は、予め踏まえていたほうがよい。 来年は何といっても、7月から9月にかけて開催される東京オリンピック・パラリンピックを中心に様々な日程が展開していく年となる。祝日の日取りは今年と異なり、いままで10月だった「体育の日」が「スポーツの日」として、オリンピックの開会式に合わせて、「海の日」の翌日の7月24日(金)となり、オリンピックの閉会式は、8月10日(月)の「山の日」の前日、9日(日)に設定されている。その直後から、多くの会社が休暇を取るお盆休みの1週間があり、さらにその後、8月25日から9月6日まで、今度はパラリンピックが開催される。 また、新しい天皇が即位された事で、来年から天皇誕生日は12月から2月に移るため、ただでさえ日数が少ない2月に祝日がもう一つ増える。また、昨年の有給消化義務化の法改正もあり、ゴールデンウィークの飛び石を利用して、有休休暇を指定する動きも高まり、1週間を超す長期休暇とする企業も少なくないのではないか。ついでに言うと、9月には、月曜日と火曜日に敬老の日と秋分の日が続くので、土日と合わせると4連休となる。 まとまった休みが提供される環境ができる事は、ワークライフバランスの改善という観点から歓迎される事かも知れないが、一方で、休みをしっかり取る分、就業中はそれを埋め合わせるべく、業務に集中し生産性を高めて、個人や組織としてのアウトプットは、しっかり出して行かないと、競争力が保てないと考えるのは自然な事だろう。 ところが、東京を中心としたオリンピック・パラリンピックの競技会場周辺には、開催期間中、相当数の観客や関係者が集まる事になるので、いつもと同じような仕事環境を期待することは難しいかもしれない。来年のオリンピックの予想観客数は800万人、パラリンピックは300万人という試算もあり、さらにイベントに合わせて入国する訪日観光客の増加も見込むと、来年の7月~9月の東京は、ピーク時は、いつもの倍ぐらいの人口が存在する状況を想定していたほうがよいだろう。それなりに対策がなされるとはいえ、道路や交通機関の渋滞や混雑は相当なものになるだろうし、ホテル等の宿泊施設の空きはなく、かつ料金も高騰することになる、と覚悟しておいたほうがよさそうだ。 さらに、2002年の日韓共同開催のサッカーワールドカップの時もそうだったが、平日の昼間に日本のゲームが行われる際は、就業時間中にTV観戦を許したり、休暇扱いにした企業も少なくなかったことを考えると、一生に一度あるかどうかのビッグイベントで日本のチームや選手が大活躍していて心が落ち着かず、国民全体として、その間、仕事をしていても気が散って、生産性が高まらないという事態も想像しうる。 いっそ、こうした状況を見越して、リモートワークの積極的な推奨期間にしたり、在宅勤務に切り替えてしまったほうが、社員が移動することで疲弊するより、仕事の効率ははるかに上がるかも知れない。 いずれにせよ、来年の計画は、いつも以上に綿密に行っておくに越したことはないだろう。普通に考えれば、偶発的にやってきた変則的な年への対応ということになるが、東日本大震災の後、電力不足というやむを得ない状況を通じて、クールビズなど軽装・カジュアル化が結果として進んだ側面もあり、むしろ、そうした素直な?日本人の性格を利用して、来年はチャンスと考え、働き方に対する様々な課題解決や改革を推進する好機ととらえてもよいのかもしれない。

経営者に必要な資質 | その他

経営者に必要な資質

フォーブズジャパンの2019年度の長者番付によると、日本の長者トップは、ファーストリテーリングの柳井社長だそうだ。柳井社長といって思い浮かぶのは、「繰り返し挑戦して、失敗から学ぶ」という経営スタイル。圧倒的な行動力と、失敗に蓋をせず、そこから徹底的に学ぶ姿勢が、柳井氏の成功の源泉となっている。 かつて、それを綴った「一勝九敗」という本が出版されたが、その本の一節に、当時、ファーストリテーリングの幹部が多面評価(360度評価)を実施した時の下りがある。他の幹部と柳井氏との間で、多面評価の結果を比較すると、彼だけが、自己評価と他者評価がほとんど同じだったそうだ。「自分自身を客観的に分析・評価できる事は、経営者に必要な資質」と柳井氏本人は考えており、そのエピソードは、自らの言動やその影響を、日々、自己認識し、今後の言動に反映していく柳井氏の経営姿勢を示す、興味深い一例と受け止めた。 当社も人事コンサルティング会社として、多面評価(360度評価)サービスを提供している。多面評価は、上司、同僚、部下等、異なる立場から多面的にフィードバックを受け取る評価手法で、通常の人事評価で行われる上司評価のみならず、組織上の同位者、下位者からも評価されることで、日ごろ、気づいていない自分自身の課題やクセを認識し、自己成長の効果的な機会として、今や多数の企業が実施している。 一方、多面評価に対して、ネガティブな見解もある。『評価者トレーニングもしたことない下位者の評価など、あてにならない。』『部下が忖度して、本心で評価しないだろう。』といった観点から、多面評価は品質が低く、やっても意味がないとする組織も少なくない。あるいは、上司は部下に対して絶対であり、そもそも、「部下が上司を評価するなんて、もってのほかである。」という階層構造を重んじる組織もまた、多面評価はなじまないかもしれない。こうした見方が必ずしも間違っているとは思わないが、結局のところ、その背景に、上司、部下は、所詮、相互に信頼しきれないものだ、とする前提が見え隠れしていて、少し悲しい気がしてしまう。 先日、当社内でも、管理職以上のメンバーを対象に、多面評価を実施した。楽しみ半分、恐ろしさ半分で、自分自身の結果レポートを開いてみると、あいにく、柳井氏のように、自己評価と他者評価がぴったりという訳にはいかなかった。 とは言うものの、他者評価より自己評価が総じて低かったり、高かったりという訳でもなかった。ただ、「部下を褒めて伸ばす」「長所を伸ばす」といった項目については、自分なりに配慮しているつもりだったが、他者はそう認識しておらず、散々な評価結果を見て、深く反省させられた。 自分自身の多面評価を受けるのは正直なところ、気が重く感じるところもあるが、評価結果は、ある意味、宝の山で、読み込む事で様々な気付きを与えてくれる。組織の硬直化を防ぎ、環境変化に柔軟に対応できる経営者・管理職であるためにも、多面評価は、非常に魅力的なツールであることを改めて感じた次第である。

人生のジレンマとの付き合い方 | その他

人生のジレンマとの付き合い方

企業経営に大きな影響を与えた名著の中でも、ハーバードビジネススクールのクリステンセン教授の「イノベーションのジレンマ」は、私にとって、重要な示唆を与えてくれた経営書のひとつだ。と言うのも、あれだけ世界的にエクセレントだと賞賛されていた日本の一流企業が、せいぜい10年か20年ぐらいの間に、アジアの新興国の企業に続々と追いつかれ、追い抜かれていった現実を分かりやすく解説しているからだ。 少なくともバブル経済が崩壊するまで、世界における日本企業のステータスは、素晴らしいものだった。当時、アメリカを抜いて、日本が世界一になるのではないかという幻想まで起こさせた。バブル崩壊後も、山あり谷ありしながらも、やがて日本企業は復活するだろうと言われ続けながら、次第に潮目が変わっていき、やがて世界を席巻した日本企業の地位がずるずると崩れ落ちていったが、なかなか、その現実を頭の中で理解することができなかった。「イノベーションのジレンマ」では、1)優秀な大企業は顧客と投資家に資源を依存しており、主要顧客のあるマーケット中心に戦略を遂行せざるを得ない。2)将来、成長するかも知れないが、成長途上にある市場の規模が小さいと優先順位は下がってしまう。3)優良な大企業は、市場分析は得意だが、そもそも過去に存在しない市場の分析はできず、分析せぬまま新たな市場へチャレンジはしない。4)既存の事業のより良い仕組みややり方を追求するあまり、新規の事業を扱うのが逆に下手になる。5)既存の事業の延長線上で改良を続けていくうちに、顧客ニーズを追い越し、顧客から魅力が感じられなっていく・・。といった具合の説明を読むと、ああ。日本の優良企業もこうした罠に落ちてしまったのかもしれないと納得してしまう。 実は、この本の著者のクリステンセン教授には、「イノベーション・オブ・ライフ」という大変、興味深い著作がもう一つある。この本は、教授が、ビジネススクールの講座の最終回に、学生たちに対して行ってきた「How will you measure your life ?」という授業内容がもとになっていて、企業経営の理論をベースにしながらも、我々個人の人生がテーマになっている。 「どうすれば、幸せで成功するキャリアを歩めるのか。」「どうすれば、家族や友人たちと幸せな関係を築いていけるのか。」「どうすれば、罪を犯すことなく、誠実な人生を歩んでいけるだろうか。」といった問いに対するソリューションを論理的に提示している。論理的といっても、決して机上の話ではなく、彼の経験してきた事象をベースに展開されていて、金銭的報酬を追求するあまり、家庭の人間関係が崩壊したり、仕事で充実感を得られず心身が疲弊したりした友人・知人の例を挙げながら、キャリア的成功を収めながらも、プライベートがハッピーではない人々や、本当に自分が求めるキャリアから遠ざかっていく構造をわかりやすく解き明かしている。 個人としての人生も、企業経営同様に、頭で考えすぎず、行動することが重要である事、走りながら、状況次第では、ゴールや方針変更もすべきである事、仕事がいくら面白くても、人生の資源配分をしっかり見極めるべき事など、誰でもどこかで感じるだろう人生のジレンマともいうべき事象を理解し、それに対応するために役立つ示唆が多々ある。人生100年時代と言われている今、就職前の学生のみならず、いくつになっても自身のキャリアを整理する助けとなるだろう。

成功は失敗のもと | その他

成功は失敗のもと

日経新聞の「私の履歴書」で、今月から野中郁次郎氏の連載が始まった。言うまでもなく、野中氏は、最も著名な日本の経営学者の一人で、知識経営(ナレッジ・マネジメント)の生みの親とも言われている。 第2次世界大戦に勝利した米国は、戦後も、業務の標準化や品質管理といった科学的管理手法を各企業が展開する事で大量生産を実現し、企業経営においても世界の先頭をひた走っていた。当時、サラリーマンだった野中氏は、米国が、優れた経営上のアイデアや手法を概念化し、世の中にどんどん広めていくのを目の当たりにする一方、よい経営をしている日本企業も多数ありながら、わが国の企業が取り組もうとする経営手法・管理手法は、みな米国から来たものばかりである事を憂いていた。 「また、日本は米国に負けてしまうのか」と危機感を抱いた野中氏は、米国に学びに行こうと、30歳を過ぎてから米国留学を決意、その後、経営学者に転身し、世界的に成長を遂げた日本企業の分析をもとに、経営学の中に、知識経営(ナレッジマネジメント)の領域を確立した。企業が持つ知識には、主観的で言語化しにくい「暗黙知」と、客観的で言語化できる「形式知」があり、それぞれの社員が持つ「暗黙知」と「形式知」を上手に連動させることで、個人の知識から、組織的で高次な知識(ナレッジ)レベルを創出するというSECIモデルを提唱、今までに、多くの企業がこのモデルを実践でも活用している。 三十数年前の話になるが、私が大学在学中に、野中氏が母校の研究施設に移って来られ、一度だけ、特別にマーケティングを学んでいた我々に講義をして下さったことがあった。「私の履歴書」の連載の冒頭で、ごく普通の子供時代を過ごし、数学が苦手で、高校の簿記の試験でたった5点しか取れなかった事も紹介されていたが、アカデミックの世界で、厳しい競争を勝ち抜いてきたにも関わらず、実際にお話をされている様子は物静かで、ごく普通の紳士が、淡々と話されている印象があった。しかし、話の内容とその背景にある思いは強烈で、いつの間にか、野中氏の話に引き込まれていった。 その日の講義では、暗黙知と形式知が、日本企業の中で、飲み会や合宿といったわが国特有の活動を通じて、うまく連動し、組織の知がレベルアップしていくというナレッジマネジメントを分かりやすく解説していただいた。ただ、当時、飲み会はしていたが、社会人としての実務経験のない学生の身の私にとっては、組織の中で知識がどういうもので、それらがどう形式化されていくのかというリアルなプロセスは、実感できず、その意味を理解できたのは社会人になってからの事だった。しかし、もう一つ、当時、野中氏が共著で出版された『失敗の本質』という本の解説をされた際に発せられた「成功は失敗のもと」(「失敗は成功のもと」ではなく)という言葉が、妙に深く私の心に刺さり、その後の私のキャリアの中で、ずいぶんその言葉を意識して、行動してきたように思う。 この本は、第二次世界大戦時の各作戦で日本軍が敗戦した理由を分析し、組織としての成功要因、失敗要因を明らかにした名著で、その後、多くの経営者が読む大ベストセラーとなった。第2次大戦中、日本軍は、日露戦争や大戦初期の勝利によって、それらの成功体験は正しいと言う過信を助長させていった。敵を過小評価し、一度失敗しても「運が悪かっただけ」と考え、状況の変化に敏感に対応せず、イノベーションを続けることをやめてしまった事が敗因の本質だとこの本では分析している。 あの講義の頃は、既に敗戦から立ち直り、多くの日本企業が、世界中からお手本とされる時期だったが、今や、日本企業を取り巻く環境は大きく変わってしまった。現状のやり方を疑わず、今までやってきた事が正しいという前提を置いてマネジメントをしていないか、うまくいった事があっても、絶えず、「成功は失敗のもと」であることを肝に銘じていかなければならないと、「私の履歴書」を読みながら、改めて感じている。

ブルネロ・クチネリと働き方改革 | その他

ブルネロ・クチネリと働き方改革

上質なカシミヤニットを主力商品とするイタリアのラグジュアリーブランド、ブルネロ・クチネリ社をご存じだろうか。CEOのクチネリ氏は、子供の頃、工場に働きに出る父が上司から侮辱され涙する姿を見て、「労働者の尊厳を損なわない仕事の在り方」を追求することを決意し、その方針に従った経営を行っている。 「個人の生活や魂と肉体のバランスを保つため休息の時間を侵すことはあってはならない」として、社員の残業を禁止し、終業後のメールも許さない。製作を行う職人には、職人としてのプライドを保たせるため、通常社員より2割以上多く賃金を支払い、丁寧な仕事を心掛けさせる事で商品の品質を維持している。さらには、次世代の職人育成のための学校を建てたり、社員が楽しめる劇場や学ぶための図書館を建設する等、社員を人間として尊重することで、生産性や創造性が高まり、結果として企業も成長するという考えだ。 こうした彼の経営哲学は、『人間主義的資本主義』ないし『倫理的資本主義』と言われ、ブルネロ・クチネリ社の顧客の中には、このフィロソフィーを高く評価し、自分が購入する事で、そうした企業を応援し、結果として社会に貢献できると考える人も多くいるという。かつて、持ち物にはその人の品格が表れるとして、動物愛護の観点から毛皮の不買運動が広がった事があったが、逆に、経営哲学に賛同できる企業の商品を積極的に買い、身に着けることで、自らも社会に貢献し、メッセージを発信していく、という動きが社会に広がりつつあるようだ。つまりは、社員に対する企業の経営方針が、社会に評価され、業績アップに貢献している例と言える。 我が国では、現在、働き方改革が進行しているが、この改革の基本は、企業の論理が、社員の論理より優先されてきた状況を是正し、社会全体で、より人間的に働くことのできる世の中にしていこうという事だ。 しかし、多数の企業で、給与水準のアップや、有給休暇の取得保証といった施策が実行されはじめているものの、その直接的動機は、社会的な要請に応えていこうというよりは、法律改正への対応や、採用難の中で必要な労働力の確保といったものが、現実的なところなのかも知れない。 上述のブルネロ・クチネリ社のケースのように、我々自身が顧客の立場として、企業の社員に対する考え方により着目し、望ましい働き方を実践している企業の商品・サービスを積極的に購入していく意識が広がっていけば、(プレミアムを支払ってでも、そうした企業を購入する顧客マインドを持ち得れば、) それはこの改革を促進させる強力なエンジンとなると共に、より本質的な社会改革としての成功につながっていくはずだ。

怪我の功名? | その他

怪我の功名?

昨年末にちょっとした怪我をして、しばらく自宅から外出できなかった。年に1,2度、風邪を引いて休むことはあるが、今までの職業人生で、1週間以上連続してオフィスに出なかった記憶はなく、おそらくは、今回が、未出社の最長期間という事になる。傷口を縫合した後数日は、流石に終日、ひたすら寝ていたが、怪我の場合、病気と異なり、体力自体は割と早く回復して来るようで、日を追うごとに、布団の中でじっとしていることは難しくなって来る。かといって、傷口がしっかり閉じていないうちに、外出すれば事態を悪化させることになると医者から言われ、年内の予定は、基本的にキャンセルせざるを得なかった。 そこで昨年最後の10日間は、在宅で、怪我の治癒を進めつつも、体力の回復に合わせて、徐々に、自宅で仕事を再開し、メールや電話を使っての社内のメンバーとやり取りや、いくつかのミーティングにもリモートで参加した。今まで当社でも部分的に在宅勤務は認めて来たし、ウェブ会議システムを使ったリモートミーティングも行っているので、今回が、初めてのリモートワークの機会という訳ではないが、約10日間もの間、継続して、職場のメンバーとはまったく顔を合わさぬまま、仕事をしたのは初めてであり、結果として疑似的ではあるが、リモートワークをそれなりに実体験する機会となった。 この経験を通じて感じる事ができたのは、「これは行けそうだ」、というリモートワークに対する確かな手ごたえだ。すでに、世の中にはリモートワーカーだけで構成されている企業もあるようで、そうした先進的企業からすれば、「何をいまさら・・」と思われるかも知れないが、私が関与しているクライアントの中で、リモートワークを本格的に実践している企業はごく限られているし、TV会議やウェブ会議でさえも、そもそもそうした設備がなかったり、あったとしても積極的に開催されていない企業も少なくないのが実態である。 多くの企業が、リモートワークの有効性や必要性を認識しつつも、必ずしも積極的な実施に至っていない背景には、セキュリティ上の不安やオフィス外で働く社員のマネジメントの難しさ等があると言われているが、既にテクノロジーの進歩がセキュリティ上の問題の多くを解決しつつあるし、実際、部下がオフィスに居さえすれば、マネジメントできるという話でもないのだから、それらは、本質的なリモートワーク浸透の障害とは言えない。むしろ、リモートワークが浸透しない本当の理由は、「仕事はオフィスに集まって、顔を突き合わせてやらないとうまくいかないものだ」という固定観念に縛られている事なのではないかと 思っている。 また、「慣れ」の問題もあるだろう。10日間、疑似的なリモートワークを続けることによって、正直、最初はリアルに会ってコミュニケーションしたほうが早くて確実と思っていた部分もあったが、継続的にリモートでコミュニケーションしているうちに、徐々に慣れて来るもので、業務の品質や生産性に深刻な問題があるとは、振り返って、感じる事はなかった。 働き方改革が進行する中、就業時間を短縮しつつ、アウトプットは維持・増大、という難しい課題に我々は直面しているが、やはり、その有効な解の一つに、リモートワークは数えられるのではないか。一日24時間の中で、オフィスと自宅を往復する通勤時間が不要になる分だけでも相当なメリットがあるはずだ。一気に切り替えるのではなく、週1~2回から始めることも可能だろう。世界経済も今年は厳しくなるという見通しの中、いずれにせよ、我々は、自らの脳の中を検証し、固定観念を見つけては壊し、一つ一つ新しい働き方を実践していかねばならないのだ。

「モンスター社員」の増殖 | モチベーションサーベイ

「モンスター社員」の増殖

最近、「モンスター社員」と言う言葉をよく耳にする。厳密言うと「モンスター社員」にも色んなタイプがあるようだが、一般に、処遇や福利厚生に対し過度な要求をしたり、会社の制度やルールに対して否定的・非協力的な主張をして、自身の要望が受け入れられないと、「労基署に行く」等と言って人事を脅したり、実際にそうする「やっかいな社員」の事を指すようだ。 入社時点に想定していた内容と異なる業務を求められると、話が違うと、拒否したり、上司や人事から気に入らない注意を受けると翌日から無断で休む、さらには、インターネットのSNSや掲示板上に、そうした状況を誇張・曲解した上で、会社や上司・同僚を誹謗中傷する投稿をする等・・。こうした「モンスター社員」は、従来の「やる気のない社員」や「さぼり社員」とは異なり、よりたちが悪いと言える。会社にとっては深刻な存在で、対応を間違えれば、一人のモンスター社員が、会社全体の価値を下げてしまうリスクさえあるかも知れない。 モンスター社員が「増殖」している背景には、採用難が続く中で、会社の採用基準が甘くなりがちな事や、働き方改革が進む中で、残業時間の抑制や休暇の取得など、労働者の権利をきちんと確保していこうとする社会的要請が高まる中、「会社」より「社員」の権利をより尊重する空気が我が国の社会全体に漂っていることも影響しているだろう。 また、SNS上に発信されたコメントにひとたび火が付くと、その内容の正否を確認される間もなく、それが世界中に瞬時に拡散してしまうというネット社会特有の現象もまた、事態をより悩ましくしている。 最近、かつて目覚ましい企業再生を果たし、賞賛されてきた著名な企業経営者が、一たび、逮捕されると(まだ有罪と確定したわけではないのに、)手のひらを返したように、否定的なコメント一色になる我が国のマスコミや識者の論調に、正直、驚いているところだが、我が国のそうした「推定有罪的」国民性?もまた、会社が毅然としたアクションを取りにくくしていて、結果として、「モンスター社員」をのさばらせてしまっているようにも思う。 会社のいわゆるブラック企業的行動を排除させるために、「社員」の権利をより尊重する方向で、「会社」と「社員」の関係をリバランスする取り組みはよいのだが、それが行き過ぎて、社員の権利を守ることに囚われすぎてしまうと、会社の中に、多数のモンスター社員の増殖を許してしまうような事にならないか。ルールに基づく「モンスター社員」への毅然とした対応と共に、社会全体としての「会社」と「社員」のパワーバランスが適切かどうかを検証していく姿勢が、我々、ひとりひとりに求められている。

生産性向上と高齢化社会 | 人材開発

生産性向上と高齢化社会

働き方改革が進む中、多数の日本企業が、労働時間の短縮や生産性向上に取り組んでいる。付加価値を生み出さない業務の見直し、ウェブ会議やビジネスチャット等のITツールの導入、さらには、残業時間の少ない社員を高評価する仕組みの検討、等々、どの企業も、様々な視点から生産性向上にむけて、必死に頭を悩ませているところだ。ただ、実のところ、そうした取り組みの多くは、今までも不況の折にも行ってきたものであり、今まで以上に、際立った効果を期待するのは難しいかも知れない。 もちろん、組織として、そうした構造的な生産性向上アプローチは続けていかねばならないのだが、それ以上に重要なことは、社員一人ひとりが、仕事や時間に対する意識を強烈に変えていく事だと思っている。同じアウトプットを出すにも、いかに必要な事だけを行い、いかにそれに対する時間投下を減らしていくかという事に、一人ひとりがどれだけ本気で取り組めるか。 「前回は半日かかったこの業務を、今回は3時間でやってしまおう」「いままで、20時まで残業してやっていた作業を、集中して17時までに終わらせて、定時に帰宅する」等、所定の時間内に必ずアウトプットを出す取り組みは、組織としての施策と言うより、個人の姿勢・マインドによるところが大きい。上長に言われるからやるのではなく、だらだらと時間をかけて仕事をするより、密度の濃い仕事を短時間で集中して行い、さっさと帰る事を良しとする観念や美学?のようなものを個人の信条として身に着けていく事ができないと、我が国は、世界中で繰り広げられている厳しい競争から取り残されてしまうかも知れない。 一方で、我が国では、「高齢化」という大きな社会的トレンドも進行している。 先日、急いでクライアントのオフィスに行く際、ICカードにチャージしようと駅の自動券売機に行くと、ひとりの高齢の男性が前にいて、右往左往していた。使い勝手もよくわからずに、あれやこれやとボタンを押してはやり直し、後ろに私を含め、多くの列ができてしまった。仕事の生産性から言えば、はやくチャージして切符を買い、クライアントに、予定の時刻に到着したいところだが、年老いて、機械の操作に慣れないのだから、仕方ない。ゆっくり操作方法を説明してから、急いでチャージをして、その日はなんとか事なきを得た。 また、別の日には、半休をとって母の診療同行したことがあった。 母も高齢で、いまや軽やかに歩く事もできないし、コミュニケーションの内容を理解するにも時間がかかる。病院への道中、ゆっくりした母の歩行に合わせて歩いたり、大きく明瞭な声で話しかけ、必要であれば、何度か同じ事を何度かくり返し話しなら、同行していたが、その日の午前中は、オフィスで複数のウェブミーティングをしたり、多数のメールや電話でのコミュニケーションをフルスロットルで行ってから、病院にやって来ただけに、流れる時間のスピードギャップが極めて大きく、高速運転からローギアへとチェンジをする事に相応のエネルギーを必要とすることを痛感した。 おそらく、これから高齢化が進行する我が国では、同じ場所に住みながらも、個人間で流れている時間のスピードのギャップが、ますます広がっていく事だろう。国際的な競争が激化する中で、我々は、仕事上ではより強烈に生産性コンシャスなマインドで臨まなければならない一方で、ゆったりとした時間が求められる高齢者ゾーンでは、彼らの生活に配慮し、やさしく寄り添っていかなければならない。状況に応じて時間への向き合い方に柔軟性が求められる訳で、我々は、脳の筋力を、益々、鍛えていかねばならならない時代に突入していく。