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コラム

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ライタープロフィール

南城 三四郎
南城 三四郎(なんじょう さんしろう)

大学卒業後、建設系専修学校にて、都市計画、情報処理関連学科の教員として、講義、学生指導を行う。その後、IT企業にてサーバー、ネットワークの保守・運用業務のほか、スマートフォンアプリ、Webサービスの企画、開発を担当するとともに、人材育成担当マネージャーとして社員教育に従事した後、現職。

パイロットフィッシュ | 人材アセスメント

パイロットフィッシュ

 職場で何か新しいことや面倒な取り組みをはじめる際に、なぜかいつも声がかかる人物がいた。中小企業の間接部門に所属していた彼は、取り立てて優秀な社員というイメージではなかったが、30代前半という若さもあったろう、どんなプロジェクトも気力と体力で突っ走っていくような男だった。  いろいろなプロジェクトに先陣を切って投入される彼であったが、なぜか、途中で他の社員にバトンタッチすることが多かった。本業が忙しくなって呼び戻されたり、どういうわけだか、プロジェクト終盤に差し掛かってくると失速し、勢いだけでは押し切れなくなるところがあった。とはいえ、あともう少しというところでプロジェクトを外される彼の気持ちを考えると、さぞ悔しかったに違いない。はたから見ていて気の毒に思うこともしばしばあった。  そんな彼のことを、仲間の間では(今にして思うと、大変失礼な言い方なのだが)”パイロットフィッシュ”と呼んでいた。  熱帯魚を飼育した経験のある方ならご存知と思うが、新しい水槽を立ち上る際に、新しい水を入れて直ぐに高価で繊細な熱帯魚を入れるようなことはしない。新しい水槽には、熱帯魚の排泄物やえさの食べ残しを分解するバクテリアが存在しないので、水質の変化に弱い繊細な魚を投入するとすぐに弱ったり死んでしまったりするのだ。 そこで登場するのがパイロットフィッシュだ。そういう名前の魚なのではなく、有益なバクテリアの繁殖を早めるために、まっさらな水槽に先陣を切って投入される魚のことを言う。無事にバクテリアが繁殖し、水質が安定すると、パイロットフィッシュの役割は終わりとなる。はじめは魚にとって過酷な環境なので、時には死んでしまうこともある。したがって、丈夫で安価な種類の魚がチョイスされるのだ。  職場で新しい取り組みを始めようとすると、誰しも苦労するものだ。誰もやりたがらない面倒なプロジェクトに次から次へと飛び込んでいく彼の姿が、アクアリウムのパイロットフィッシュと重なって見えたのだ。  先日、そんな彼と何年振りかに会う機会があった。聞けば今でも同じように、いろいろなプロジェクトを次から次へと渡り歩いているらしい。そこで、どうしても気になっていた、かつての疑問をぶつけてみた。あんなに何度も途中でプロジェクトを外されて、どうして腐らずにやっていられるのか、と聞くと、「何もないところからスタートして、造り上げていくっていう感覚がなんかいいんだよね。道筋ができると俺の中ではもう終わりっていうか、そこからなら誰でもできちゃうし」  なるほど、本当に彼は職場のパイロットフィッシュだったのである。 彼をプロジェクトにアサインしていた上司はその適性を的確にとらえていたのであった。 (ちなみに、パイロットフィッシュの語源は飛行機のテストパイロットから来ている。)

能力を発揮できるか? | その他

能力を発揮できるか?

 面接では非常に好印象だったが、実際に仕事をしてみると、どうも期待していたような成果が挙げられない、ということがある。 自社に適した人材か否かを大抵は複数の面接を経て評価しているにも関わらず、なぜこのような期待値とのずれが生じるのか?  面接官が応募者の情報を十分に引き出すことができなかった、応募者のプレゼン能力が高く自社が望む能力を有しているように見えてしまった、など、様々な理由があるだろうが、 そもそも、人がある能力を発揮する、という際に、その能力の発揮度合いは環境に依存する、という特性があることを理解しておく必要がある。  例えば、何年も活躍をしていた一流のサッカー選手がチームを移籍したら、その実力を発揮できず、ベンチ要員になってしまう、ということがある。チームの戦略やメンバーとのコミュニケーション、チームの中での自分の立ち位置などが異なることで、本来の能力を発揮できなくなるのである。  人の能力は、置かれている環境などの特定の状況の中で習得し、その状況の中で発揮される。一言でリーダーシップ能力といっても、プロジェクトチームか、部門全体か、それとも会社全体でのリーダーシップなのか、どの階層で能力を発揮してきたのか、によって異なるのである。プロジェクトチームでリーダーシップを発揮してきた人物を、リーダーシップ能力があるから、と言って、部門長にしてみたら必ずしも優れたリーダーシップを発揮できるとは限らない、ということはイメージできるだろう。  人の能力発揮の特性として、このような環境依存性がある以上、面接や筆記テスト、適正診断だけでなく、実際にその人材が自社で業務を行う際に、必要としている能力を必要なレベルで発揮できるかどうかを見極める必要がある。そのための手法としてインバスケット演習は効果的である。  インバスケット演習は多数の案件を限られた時間内でどのように処理するか、そのプロセスと処理内容を解析することで、意思決定能力、業務管理能力などを評価するもので、主に管理職登用、昇進昇格試験などで用いられるが、演習を自社の環境に合わせてカスタマイズすれば、採用の応募者が自社の環境でどのように能力を発揮できるか、実際に採用する前に、実際に近い形で能力発揮の度合いを見ることができるのである。  ちなみに、能力の環境依存性は必ずしもネガティブな方向に作用するとは限らない。これまであまり能力を発揮できていなかった人材が会社やチームが変わることで思いもよらない力を発揮する、というケースもある。 自社の各階層で人材アセスメントを定期的に実施することで、人材の能力特性を把握し、会社全体の能力開発の課題を明確化することができるだろう。  最後に宣伝だが、トランストラクチャは、この7月にWeb上で実施できるインバスケット演習サービス「スマートアセスメント」をリリースした。従来の紙面演習と比較して、診断対象者が集合する必要がなくなり、実施しやすくなったこと、紙面演習では評価できなかった回答を記述するまでのプロセスを操作ログから診ることができるなど、従来のサービスと比較してメリットが多くある。是非、活用をご検討いただきたい。

ギャランティとベストエフォート | その他

ギャランティとベストエフォート

通信ネットワークでは、ギャランティ型とベストエフォート型というサービスがある。ギャランティ型というのは、通信速度や、中断時間などのサービスの品質が一定以上であることを保証する通信サービスであり、高価ではあるが、安定した通信品質が求められる金融機関や企業の基幹回線などで利用されている。 一方、ベストエフォート型は、インターネット接続サービスが該当する。保証はしないが最大限努力する、というタイプのサービスである。そのような努力がなされていれば、結果に対する責任を負うものではない。たとえば、1Gbpsの回線を契約しても、フルにそのスピードが出るわけではなく、時間帯や周辺の利用状況など、様々な要因によって遅くなることもある。利用する側からすると、フルスペックのサービスは期待できないが、その分低コストに利用できる、ということになる。 これは通信ネットワークに限らず、すべての製品・サービスにおいて同様であり、製品・サービスについてよく理解し、ニーズにあったものを利用することが重要だ。品質を保証するサービスは高価であり、低コストであるということは、品質はそれなりである、というのが原則なのだ。 これを踏まえ、改めて身の回りを見てみると、本当にその価格で良いのだろうか?と思うようなサービスが世の中にはあふれている。 不在でも無料で再配送してくれる宅配便。ほとんど客が来ないのに24時間営業しているコンビニやファミリーレストラン。購入した商品を店の出口まで持って見送ってくれる店員など、このようなサービスは顧客にとっては、確かに便利だったり、気持ちの良いものだったりする。だが、それが企業の収益の向上につながっているのか心配になる。 もともとは、サービスを提供する側の誰かが、顧客のためを思ってはじめたことなのかもしれない。いつの間にか皆がやり始め、当たり前の保証されたサービスになっていく。当たり前になってしまうと付加価値として価格に転嫁できない。だが、現場は過剰なサービスのために疲弊していく。というのはあまりに悲惨だ。価値を保証するのであれば、企業はその分の費用負担を顧客に対して求めるべきだ。そうでなければ、企業はせっかくの努力が利益につながらないし、顧客の要求はますますエスカレートしていき、高品質でありながら低価格という相反するものを追求し続けるだろう。 現在の我が国ではそういった高品質なサービスがあふれており、その利便性、価値を低コストに享受できる、というのは1消費者としては大変ありがたいのだが、このような状態が続くのは健全ではない。 「この商品を今日購入すると、今週中に届きますか?」と問えば、「明日発送しますが、到着は予定より遅れる場合もあります。でも安いです。」というベストエフォートな選択肢があってしかるべきだ。価値あるサービスにはコストが掛かるという当たり前のことを実感できるようになるだろうし、本当に必要な時には「じゃあ、ちょっと高いけど、こっちのサービスにするか」と高品質なサービスを選択することができる。ベストエフォートというサービスが存在することで、ギャランティという選択肢の価値が見えてくるのではないだろうか。

群盲象を評す | その他

群盲象を評す

学んだことを実践するために、明日から具体的にどのような行動をするか計画を立てる。 大抵の研修の締めくくりでは、このようなアクションプランを設定させるが、残念なことに、このアクションプランは実行されないことが多々ある。 決して安くはない費用をかけ、参加者の時間を割いて研修を実施しても、これでは効果は乏しく非常にもったいない話である。研修の内容はもちろん重要だが、参加者が研修で学んだことを実際に行動に移せるようデザインすることが重要だろう。 アクションプランを実行できなかった人に聞いてみると、いろいろな理由(言い訳)がでてくる。業務が忙しくて実行に移す時間がない、現場の協力が得られなかった、忘れてしまった、とか、そもそもの計画の立て方がまずいというのよくある話だが、もっと困るのはそもそもの問題の認識が誤っているというケースだ。 こんな話がある。盲人が数人、象の体の一部分だけを触ってその感想について論じ合い、ある者は、耳を触って「これは大きな葉っぱだ」と言い、ある者は足を触って「これは木の幹だ」と言う。尻尾に触った者は「これは太いロープだ」と言い、またある者は牙に触って、「これは槍だ」と言う。 全員、同じものを触っているのに、自分が触っている一部分だけをもって、それが何であるか、を断定しているのである。 これは、「群盲象を評す」というインドの古い寓話だが、物事の1側面だけを見てすべてを理解した気になってしまうことの例えとして使われる。現在では視覚障害者に対する差別的な表現として避けられる表現ではあるが、意味するところは重要である。 事業環境の変化の激しい現在のビジネス環境において、問題の本質を誤ってとらえてしまえば、その対応もまた誤ってしまう。邪魔な象をどかすのと、葉っぱをどかすのとでは、するべきことは全く違う。葉っぱをどかそうとホウキを持ってきても、到底、象をどかすことはできないのである。 アクションプランを検討する際も、前提となる問題の本質を捉えることが重要だ。そのためには、研修の最後で単にアクションプランを宣言するだけでなく、そのアクションプランの妥当性を参加者同士で徹底的に検証する必要があるだろう。そうすることで、お互いが抱えている問題の本質を理解し、アクションプランを実行、サポートし合える環境ができる。 先の寓話ではないが、部分しか見ることのできないものであっても、皆で情報や知識を共有すれば、「これ、もしかして象じゃね?」と物事の本質に迫ることができるのである。

身銭を切る覚悟はあるか | その他

身銭を切る覚悟はあるか

 以前、IT企業にいた時の話しである。新卒採用の面接官を担当したことが何度かあった。一通りの質問を終え、最後に、何か質問はあるか、と問うと、様々な質問が返ってくるが、「御社の研修制度について教えてください。」と聞かれることがしばしばあった。  自分自身の成長を考えたときに、会社の研修制度というのは確かに重要な要素だ。学生が気になるのもよくわかる。少しでも充実していた方がよいと思うのも無理はない。しかし、少々引っかかるものがある。今の自分に知識・技術がなくても会社に入ってから、ちゃんと教えてもらえるかどうか、という点を気にしているように感じるのだ。  IT企業ということもあり、新卒採用とはいえ、コンピュータやネットワークに関する知識・スキルが求められるのは当然だが、意外なことに、全く知識を持たずに面接に臨んでくる学生もいる。平然と「これから勉強します。」というのには驚かされる。プロフェッショナルとしてのスタートはすでに始まっているということに気が付いていないのだろうか。  会社が用意している人材育成プランは、会社の戦略を実現するために必要な人材を育成することを目的としている。もちろん、新卒社員向けのカリキュラムを用意している企業は多いが、全くの初心者がそれだけでプロフェッショナルになれるものではない。足りないところは自分で何とかするという気概・覚悟が必要だ。  さて、そういう私もあるとき研修業務のマネージャーに任ぜられることとなり、ITエンジニアとしてのキャリアに区切りをつけ、人材育成にかかわる仕事に転身することとなった。  いざ、新しい仕事にとりかかってみると、圧倒的に知識が足りない。何がわからないのかがわからず、ただ目の前の作業をひたすらこなしている状態だ。  このままではまずい、と、外部の人材育成に関する研修プログラムに参加すべく、社長にお伺いを立てたのであるが、社長から返って来たのはただ一通のメールだった。どうやら私も面接に来た学生と同じことを考えていたようだ。仕事を甘く見ていたのは自分自身だった。 そこにはただ一言、「身銭を切る覚悟のない者は何事も身につかない」とあった。

練習時間が足りない | その他

練習時間が足りない

以前、あるIT企業の経営者からこんな話を聞いたことがある。 「職場とは成果を上げる場であって、練習をする場ではない。スポーツでいえば、試合をする場なのだから、自分の実力が足りなければ、試合に臨む前に自ら練習し、腕を磨いておくものだ」 新しい技術が次々に生まれるIT業界特有の事情もあるかもしれないが、勝つか負けるか、という競争の中で、勉強、練習のつもりで仕事に取り組むというのは、端から勝負を捨てているようなものだ。そのような社員を見れば、苦言を呈したくなるのも無理はないだろう。 一方、社員の側からは、「ではいつ練習をしたらよいのか?」という声もあった。1日8時間の勤務時間、休憩や残業も含めると10時間以上職場に拘束される。さらに、通勤時間、食事や家事、育児など、生活に必要な時間、それに睡眠時間を考慮すると、時間は幾ばくも残らない。仕事以外の時間で練習をする、というのがそもそも現実的ではない、自身のスキルを高める時間的、精神的余裕のないまま、日々の仕事に忙殺されているというのである。 もちろん、そのような職場環境であっても、プライベートの時間を削って、自ら学習、スキルの習得に余念のない社員もいるし、自分の能力が足りなければ長時間の残業も厭わず仕事をやり切り、その中で必要な知識やスキルを得るという社員もいる。しかし、誰もがこのような働き方ができるわけではない。世の中の流れから言って就業時間外の練習を強制することもできないだろう。結果的に、仕事の練習が足りていない社員が増えていくのである。 社員一人一人の実力を上げ、職場での成果を上げるためには練習が必要だが、就業時間外の練習は強制できない、というのであれば、もはや試合時間を短くするしかない。その時間で自主的な学習を促すということを検討しなければならないだろう。 これにはさすがに”甘い”という意見もあるかもしれない。しかし、現在の1日8時間という労働時間の取り決めは、1919年の国際労働機関の採択が根拠となっており、100年も前の労働生産性についての研究がベースになっているものだ。その当時とは、社会情勢、職場環境も全く異なる現代社会において、1日8時間という就業時間にこだわらなくてもよいのではないだろうか。

理論中心アプローチのすすめ | その他

理論中心アプローチのすすめ

 理論に基づいて体系化された知識、方法を学問というが、企業の人事、人材育成の領域は、学問と呼べるほど成熟していないように思える。教育を行う側の講師やインストラクター、企業の人材育成担当者などは、人材育成のプロとして、教育学や学習心理学など、成人教育の理論について学んだ経験を持っているだろう。しかし、その他の社員については、おそらくそのような学習機会を持ったことはほとんどないに違いない。学ぶ側の人材はその背景にある理論を知らないまま業務知識やスキルを習得させられている可能性が高い。  少し前まで、スポーツの世界では精神論や根性論が幅を利かせていた。この本来の考え方は「苦労にめげず向上を目指せば、できなかったことができるようになる。そのためには努力が重要であり、努力を続けるためには根性が必要である」というものであり、これ自体は否定すべきものではない。だがこの考え方が行き過ぎた結果、無駄に長時間トレーニングを強いたり、誤った練習方法が故障の原因になったりするなど、多くの問題が指摘されることとなったのである。このような問題も、スポーツの理論が体系化されスポーツ医学や運動生理学が注目されるにしたがって、過去のものとなり、現在では、学校の部活動などでも理論に基づくトレーニングが行われようになっているのは周知のとおりである。  スポーツの世界では選手もトレーナーも理論を学び、理論に基づくトレーニングを実践することで結果を出していくというアプローチが当たり前になっているわけだが、企業の人材育成の現場はそうなっていない。教える側はさておき、学ぶ側に対して正しく理論を理解させようという意識が希薄に感じるのである。人材育成はもっと理論をベースとしたアプローチをとらなければならない。これは特に新入社員研修のカリキュラムを見るとそう感じることが多い。  まず第1に、学生から社会人へとシフトする際に、社会人としての学び方を学習する機会がない。新入社員研修のカリキュラムにはたいてい学生と社会人の違いを意識させる枠がある。確かに、学生から社会人への意識の転換は重要なテーマであり、うまく意識をシフトできない新入社員に先輩社員たちが苦労させられるのは毎年の恒例行事といってもよい。単に学生と社会人の立場や責任の違いを考えさせるだけでなく、もう一歩踏み込んで、オトナの学習というのがどのように為されるものかということを理論的に解説して欲しいものだ。  それには学習モデルの理論が役立つだろう。代表的なモデルとしては、「経験学習モデル」がある。OJT等で採用している企業も多いことだろう。このような学習モデルは教える側、学ぶ側の双方が、人材育成についての共通認識を持つためのツールとして非常に有効である。  また、新入社員は翌年には部分的にではあるが、学ぶ立場から人に教える立場になる。何かを教える際には、自分の経験をもとに教えてしまうことが多い。これがうまくはまる場合もあるが、逆効果となってしまったり、悪くすると組織としての教育計画を破綻させてしまう可能性すらある。したがって、経験を積んでいるときから理論を理解し、実践する機会を作ることが重要だ。  そのためには、学びの源泉である動機付けの理論が参考になるだろう。動機付けの理論とは、いわゆるモチベーションに関する理論である。代表的なものとしては、マズローの欲求段階説や、外発的/内発的動機づけの理論がある。  例えば、先輩社員から仕事の指示を受けたが、自分のやりたいこととギャップがあったとしても、自分なりに仕事に意味を持って取り組んだり、自身の成長課題として取り組むなど、自ら動機付けし、仕事をやり遂げたという経験の有無は、自分が仕事を指示したり教えたりする立場になった際に、大いに役立つに違いない。  ここまで新卒社員研修のケースを例に挙げてきたが、これは何も新卒社員の場合に限定されるものではない。階層別研修やリーダーシップ研修においても、理論は社会人としての正しい学び方を習得するための一助となるだろう。それは何もこれまでと違うことをやるというわけではなく、今実施している人材育成の施策に理論的な裏づけを与え、学ぶ側にも理解を求めるということである。  このような理論中心のアプローチが一般的になることで、企業の人材育成の領域は学問として成熟し、より具体的な育成成果が期待できるものになっていくだろう。

組織の言語 | その他

組織の言語

 言語相対性仮説という仮説がある。「人の思考というものが、言語を用いてなされているのであれば、思考は言語に影響され、異なる言語を用いる人との間では同じ認識を持つことができない」というものである。サピア=ウォーフの仮説という呼び名の方が有名かもしれない。  これには二つの仮説が含まれている。ひとつは「言語のない思考は存在しない」という仮説だが、これはその後の非言語的思考の研究により、成立しないとされている。もうひとつの「言語は人の思考に影響を与える」という仮説についてはさまざまな意見はあるものの、限定的ながら成立するという主張が一般的である。 人が頭の中でめぐらせている思考は、言語が違うからといって、お互いに理解しあえない、と言えるほどの大きな違いはないが、それでも、さまざまな認識に影響を与えているらしい、ということである。  同じことは組織においても言えるだろう。組織が違うからと言って、お互いに理解しあえない、とまでは言わないが、組織自体がそこに属する者の認識や行動に様々な影響を与えているのである。 例えば、経験も実績も豊富な中途入社社員が、新しい職場で本来のパフォーマンスを発揮できなかったり、ベテランらしからぬミステイクを犯したりすることがある。 これを単に新しい環境に適応できていないから、と片付けてしまうのは少々乱暴な気がする。  組織にはそれぞれ独自の価値観やポリシーがあり、同じ言葉でも違うニュアンスで使われていたりすることもある。業務フローやコミュニケーションのスタイルについても同様だ。これらはその組織固有の”言語”といってもいいだろう。 組織の言語が異なることにより、思考が影響を受ける。そして、その思考が行動にも影響する。しかもそれはほとんどの場合ネガティブな方向に作用するのである。 これは時間を置けば解決することもあるだろうが、放置することにより、メンタルへの影響、人材の流出にも繋がりかねない。  これを防ぐためには、組織の言語を誰もが理解している状態、かつ、新しくその組織に加わった者には、その言語を効率よく学習させるプロセスを用意することが必要だろう。 そのような環境を作り上げるうえで、人事の果たすべき責任は大きい。人事の役割は人事制度を作ることだけではない。経営戦略実現のための人材マネジメントこそが人事に課せられた使命であり、だからこそ、その制度が何のために、何を目指し、それをどのように実現するのか、誰もがわかる言葉で理解の浸透を図らなければならない。 それができてはじめて、組織の全員が力を結集するための方向性を示すことができるのであり、それこそが人の思考に影響力を持つ組織の言語となるのである。