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コラム

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「同質化」と「インクルージョン」 | その他

「同質化」と「インクルージョン」

「彼らは、異常者だからね!」と、キャリア関係の大学講義で、2人の大学教授を指して冗談交じりで言えるのは、彼らとの付き合いが20年近くになろうとする間柄であることに加え、「『教授の言うことはいつも正しい』という学生さんたちの思い込みを破壊して欲しい!という教授たちの要望に応える」ため、つまり「自分の役割」を意識してのことである。 この講義のきっかけとなったのは…企業に就職した元学生が、3年も経たないうちに「思っていたのと違った」などと言って転職するのを目の当たりにしたS教授が、「社会に出る前、少し考えるゆとりがある大学在籍時に、真剣に自分のキャリアについて考えて欲しい」と感じたことだった。 インドで開催された「アジア学術会議」(材料工学分野の回。アジア各国の若手研究者が、2週間に渡って、世界一流の研究者による講義や現地視察を通して学び合う場。日本からは4名)に参加していたS教授(当時の東京大学助手)が、W教授(当時の東京工業大学助手)と私に声をかけて、このキャリア講義が始まり、2006年以降、年に一回だけだが続いていて、評判も良い。 私が、友人の大学教授たちを異常者と表現するのは、「毎年あるいはもっと短いサイクルで、世界初あるいは世界最高といった成果をあげて論文を書き続けることが求められる職業に就いている人たちの発言内容や体験談は、特殊(統計的にいうところの異常値)である」ということを強調してのことである。 しかし、少なくとも私の知る理工系の研究者にとって、「世界初・世界最高を目指して研究する」ことは普通であり、彼らにとっては、「他者と異なることをすることが求められる。むしろ、他者と違っていなければ意味がない!」という感覚は当たり前である。 企業の採用あるいは育成、組織開発の担当者は、この辺りのことをどう理解しているのだろうか? 「就職時、転職時には、他者との違いをアピールする」ことを求めるくせに、職を与えた途端、「組織に染まることを求める」などという態度はとっていないだろうか? 「就労者としての寿命 > ビジネスの寿命」という状況が多数を占める現代、「人生100年時代」の私たちは、どこかの場面で「異常者」になることが、「個人の働き甲斐、生き甲斐の視点」から大切なのではないかと、私は思う。 他方、「組織の視点」に立てば、「組織内にバラバラな考え方・価値観の人が散在する」だけでは、「関係者どうしの衝突(仲違い)が増えて業績が低下する」など、「組織が持つ本来の力」が充分に引き出せないため、都合が悪いというのも確かである。 そこで求められるのが「インクルージョン」(Inclusion)である。インクルージョンというのは、「事業の目的に適うように、種々の境界(就労地域の違いによる時差といった物理的な境界や、部門・部署間での価値観の違いのような心理的な境界など)を越えて、多様な人々を束ねたり、ビジネス環境の変化に適応できるように人々を導いたりするための、『持続的な働きかけ』」のことを指す。 「別解を示せる人が評価される」(他者と異なる解法や異なる意見が出せないと、存在価値がないと見なされる)という感覚を持っている人々からすれば、粒を揃えて管理するという「同質化」は受け入れづらい。 不揃いを統合する「インクルージョン」に真正面から取り組むのは、部門横断的な働きが期待される、人材開発部門・組織開発部門ではないだろうか? 以上

やめられる才覚 | その他

やめられる才覚

こんな経験はないだろうか。 タバコをやめよう、お酒の量を減らそう等々である。 まず、なぜやめようと思うのか、体に悪いと思ったからなのか、お金の面なのか、それとも自分の意思を試すためなのか。 いろいろな理由はあるだろう。しかしその理由はやめるための心の踏み切り台にしか過ぎない。本当の理由とは何か、体に悪いことは悪い、それを知っていてやめない自分が一番悪い。この自己嫌悪から抜け出すこと、これが一番の理由である。 私の知り合いは、タバコをやめるのには自然にやめるのが良い、やめるのに力んではいけないと言った。至言だと思う。実際、風邪をひいたり喉が痛い時には自然と吸わなくなる。 体のため、お金のため、自分の意思のためと思ってはダメだ。ごく自然に自我の命ずるままにやめるのが決め手のようだ。 よく「今日からタバコをやめるぞ」と周囲に宣言して、持っていたタバコはもちろん、目の前からタバコに関するすべてのものを捨ててしまう人がいる。こういう人は才覚年令的にいうと低い。逆にタバコをいくつかしまっておいて、ライターや灰皿を身の回りに置きながらやめる人もいる。この方がやめやすいのである。 自然にやめるという心構えが大切なことはすでに述べたが、この自然さを身の回りに持つためにも、わざとらしい禁止は禁物。禁止による不安感、恐怖感に対しては、いつでも手にしようと思えば手にできるという安心感があればよいわけだ。空腹の時、そばに食べ物があれば安心だが、ないと少し不安になったりする。 仕事も日々の業務ルーティンを自身で見直しをして、優先順位をつけ、順位の低いルーティンをやめていくべきだ。そうでないとキャパオーバーに陥り、新しくアサインされた業務に対応できないようなことになってしまう。求められているのは、ひたすら業務を続けていくことより、成果を上げることだ。やめたことで新しいアイディアが生まれたり、新たなチャレンジをスタートさせるきっかけになる。肝心なのは、「やめることは難しいこと」という固定観念を捨てることと、力まず自然にやめられる才覚を持つことなんだと思う。

内なる敵 | その他

内なる敵

 個人的なエピソードを書く。  その①  新しい社長が着任してきて1か月くらいたったときに、社長室に呼ばれて、こういわれた。「なぜ、指示したことを一切やらないのか?」 えッ~! なにを言っているのだろう、と驚愕、まったく身に覚えがない。よくよく聞いてみると、彼が言っていたことを、「命令」だとは、私は思っていなかったことが判明。聞き流して、ごくふつうに自分でやるべきと思うことをしつづけていたということだった。  その②  その当時、なぜか派遣社員の方々が頼んだ以上のことをやってくれて、ずいぶん助けられた。どんな意気に感じてくれたのか。ある時、その理由を直接彼女らに聞いてみると、社長と話すときも、派遣社員と話すときときも、同じ話し方、要はどちらも「タメグチ」だから、というのだ。よく社長と立ち話をしているところを彼女らに目撃されていたのである。  振り返れば社会に出た当初から、「上下関係」という意識をなぜかもったことがなかった。上司は部下より偉くて、部下はその命令に従うという雇用関係の原則がはら落ちしていない。だからきっとこういうことがおこる。ヒエラルキーで人を見ない、ニュートラルな人間なのだなぁ、自分は、、、、と都合よく自画自賛していたのだが、実は、そうではなかったのである。  真相に気づいたきっかけは、ある「診断」だった。グローバルでひろくつかわれているリーダーシップ・アセスメントツールがある。その信頼性については、それをもとに処遇を下げられた従業員個人から何度も訴訟されているが負けたことがない、というセールストークがされる診断。それを受けてみたときに、自身の結果で顕著な特徴があった。ある項目についてだけ極端に低い点がついていたのだ。  なんと、10段階評点の1点。他の項目はどんな悪くたって5点くらいなのに、である。その項目とは「Interpersonal sensitivity」。対人感受性である。間をおかず、別の種類の診断も受けてみたが、結果はまったく同様の傾向。つまりはそういうことだったのである。 すなわち、対人感受性不全ゆえのエピソード。  マネジメントとは、「ヒトを通じてコトをなす」ことである。つまり、人を動かすことがその要諦だ。対人感受性を発揮するとは、「人は、どうすればどんな気持ちになるか」をわかって人と接する。それをもって、戦略的に人を動かすことである。リーダーシップ行動の古典たるカーネギー『人を動かす』にあれこれ書かれている、相手を知り、相手に好かれ、相手を動かす原理は、要はそういうことだ。  対人感受性の欠如を自覚していれば、そこを留意し、不得意だからこそ自身に強制し、きっともっとましなリーダーシップが発揮できたはず、と悔やまれる。  だからマネジャーたるものちゃんとした診断ツールをつかって自分を知ることを、ぜひやってみるべきである。センター方式アセスメントや360度診断による「自分の可視化」は十分に意味があるけれども、できれば、対人感受性のような、より奥深い自身の心理特性の自己確認もしたほうがいい。と、大いなる悔恨をもって、お勧めしたい。もしかしたらリーダーシップの障害になる、「内なる敵」を発見できるかもしれないから。

「タイプ分け」は、育成に向かない | その他

「タイプ分け」は、育成に向かない

 「血液型は何ですか?」と尋ね、相手のXさんが「B型です」と答えたとしましょう。 翌日、あなたは同じXさん相手に「今日の血液型は何ですか?」と尋ねるでしょうか? まず間違いなく、そんな質問はしませんね。なぜなら、私たちには「(骨髄を移植したり特定の疾患にかかったりしない限り)血液型は一生変わらない」という前提があるからです。 この血液型の例に倣うかのごとく、私たちは一旦何らかの「タイプ分け」を行うと、「Xさんは、○○型だからねぇ」などと、相手を「色眼鏡で見る」ようになりがちです。 また、このような「タイプ分け」は、同じ時期の同じ人物であっても、例えば、仕事の時とプライベートの時には採用する言動・態度のパターンが異なっていても当然だという「人の多面性」に目をつむらせてしまうことを忘れがちです。 私の研修提供経験を振り返ってみても、多くの人にとっての「タイプ分け」は、先入観を強化する「決めつけ」態度をもたらし、目の前の相手の新たな長所や些細な変化に気づくように「観察する姿勢」や、反応に合わせて「コミュニケーションの仕方を柔軟に変更する姿勢」を損なわせるものだと言ってよいと思います。 「静的なタイプ分け」が役に立つのは、中長期に渡って変わらずに特定の機能の発揮が期待されるチームの編成や人材の最適配置などの「組み合わせ」等を検討する場面であって、人材育成などの「変化の促進」(成長支援)の場面ではありません。 確かに「タイプ分け」の考え方は、面白いですし、単純で便利に感じます。しかし、「人や組織は望ましい姿に変わることができる」という考え方を前提として持つことが大切な、人材育成関係者(特に、部下を持つ上司、メンター、コーチなど)には、基本的には、不適切な考え方であると私は捉えています。(タイプ分けの根底にあるのは、「人や組織は、少なくとも当分の間は変わらない」という前提ですから。) 人材育成というプロセスが、「相手を信じ、相手の新たな可能性を見出す」という側面を含み、「一度伝えただけで理解するなどと思わず、できるようになるまで失敗を許容すること、辛抱することが大切」という側面を含むのであれば、「タイプ分け」という安易な手法に基づくコミュニケーション研修の繰り返しなどはやめた方がよいのではないでしょうか。 また、今後のビジネスにおいて、アマゾンの「0.1人のセグメンテーション」(個人単位での商品推薦よりもきめ細かく、種々の行動・検索履歴なども含めたビッグデータ分析に基づき、リアルタイムで商品を薦めるのが0.1人セグメンテーション)に見られるような「超顧客主義」の方向性が強まっていくのであれば、「静的なタイプ分け」よりも「動的パターン認識」を踏まえたコミュニケーションの習得に関心を持つ人や組織が増え、リアルタイムで収集された各種データを分析するテクノロジーを用いた人材育成も当たり前になっていくのかもしれないと、私は思っています。 アルバート・アインシュタインの言葉、「すべてのものは可能な限り単純化すべきだ。しかし、単純化しすぎてはいけない。」(Everything should be made as simple as possible, but not simpler.)を思い出し、性急に「単純化し過ぎるという過ち」を犯さない姿勢、「適切な複雑さ」を容認するという姿勢が、人材育成の場にも求められるのではないでしょうか?

諸刃の書物 | その他

諸刃の書物

人は、  本を読まねば  サルである。 こんな出版社の広告コピーを見たことがある。本に書いてあることなんか役に立たない、仕事で大事なことは実践の中で学んでいくものなのだ、とうそぶくビジネスピープルは少なくないが、そんなことはない。本を読むことは、ビジネス以前に、人が人であるために必要な行為だとの挑発的メッセージだった。 優秀なビジネス“ピープル”であるためには、とにかくまず本を読め。そんなしつらえの研修事例をご紹介したい。経営幹部育成の1年間にわたる連続研修なのだが、ひたすら読書を強制する。2か月に一度、経営に関する名著を読ませる。それも、よくある解説本や要約、抄訳ではなく、原著の翻訳、ハードカバー厚さ5センチという重量級本ばかり。 書籍を読むのが事前課題。その理解度確認テストを行い個別成績把握、集合して関連テーマのケーススタディ、終われば実務につなぐ事後課題を提出して1クール。マネジメントや戦略、ファイナンスなど6領域=6クール6冊の本を読むというシンプルな形式だ。全員幹部候補者だから、繁忙である。その中で読みにくい専門書を読まねばならない苦行に悲鳴をあげながらも、やりきった。もちろん、人による明暗、メリハリでるけれども、終われば、実践に役立つとの声が大半だった。 単に知識をうるのではなく、自分なりの、自分の仕事やその将来を踏まえての、「解釈」ができたからだ。著名な著者のマネジメント論や戦略論、リーダーシップ論を真正面から読み込み、事例をもって考え、自身の仕事に引き付ける。そのことによって、自分の業務や役割や自分なりの今まで我流でやってきた方法の「意味」がわかる。知識を得るだけの「子供の学習」ではない、きっちりとした「大人の学習」ということである。 大事なのは、知識獲得ではなく書物を相手どった格闘を通じて自分の考えを整理し深め意味付けることだ。逆に言えば、知識習得にはあまり意味がない。バベルの図書館主たる盲目の作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、多くの道具がひとの身体の一部を拡張延長するものーー望遠鏡や顕微鏡は眼の拡大であり、電話は声の、鋤や剣は腕の延長されたものーーしかし書物は、記憶と想像力が拡大延長されたものだといった。 記憶=知識だとすれば、想像力の拡大も含めてこそ、読書の効用なのである。イマジネーションが拡大されるから、解釈ができ意味付けができる。だから、知識だけを獲得すべく本を読むのだったら、それは書物の価値の一部に過ぎず、むしろ余計な知識は邪魔になるかもしれない。中世ヨーロッパのある神学者は、こんなことを言っている。 無知の人の手に書物をゆだねるのは、 子供に剣を持たせるのと同じく 危険なことである。

見本で気づく | その他

見本で気づく

 『わが子に教える作文教室』という本を読んだ。作者は、清水義範さん。小林信彦、筒井康隆に連なる、注目すべきパロディストと評される小説家だが、この本はいたって真面目に、小学生の作文を個別添削する教室での体験にもとづく“目から鱗”の作文指導術が書かれている。  そのなかで、作文が飛躍的にうまくなるきっかけを発見したエピソードがある。それは、同じ教室の生徒が書いたよくできた作文を見せ、読んで聞かせることだった。それを見た多くの子供たちの作文が、その後各段に良くなったというのだ。なるほど、個別添削という先生と本人の間のやり取りでは分からない、「こんな風に書いていいのか!」、「なんて面白い書き方なんだ!」と思える文章を目の当たりにできる。その気づきが何よりも作文力向上に効くのである。  他者の見本を見て、自分の問題に気づく。このことは、組織人事の世界でも通用する。『わが子に教える作文教室』のこのくだりを読んで、すぐに頭に浮かぶのは人事評価である。一次評価者の評価表を二次評価者がチェックし変更するという閉じた関係では、評価スキルは向上しない。自分のつけた評点が妥当かどうかを判断する材料は、上司である二次評価者の指摘だけであって、しかも上司はむしろ相対評価的視点でのチェックにとどまっていたりするから、自身の評価スキルの問題には気づけない。 作文の例のように、他の一次評価者たちの評価表を見ることによって、自分の評点の付け方が客観視でき、評価のしかたが向上する。人がどう評点を付けているかを知り、自身の問題点やクセに気づき、妥当な評価を共有できるからだ。だから、「評価者会議」(=部下の評価表を公開して行う一次評価者同士の相互検証の場)が、管理職者の評価スキルを上げていくもっとも有効な手法になるのだ。  リーダーシップ開発においても、ロールモデルが大事だといわれる。この人こそ目指すリーダーと思える現実のリーダーを目の当たりすれば、ひるがえって自身とのギャップに気づく。これから自分はなにができるようにならねばいけないかがわかる。このことは、とくに経営人材育成のシンプルな原理である。 社長の方々と会える機会があれば、「いかなる経験が、あなたが社長になるうえで有効だったか」と必ず聞くことにしている。各人各様の、極めて味わい深い見解が語られるけれども、共通する答えの一つは、「優れた社長の側で仕事ができた経験」だった。目の前で社長がどう判断し、どう行動するかを知ること以上の学習機会はない。子供でも大人でも見本例の効用はきわめて大きいのだ。 『わが子に教える作文教室』では冒頭、そもそも子供が作文を書く気になるためのポイントが書かれている。子供がはじめて、しかもしかたなく書いた作文のデキはひどい。字が汚い、言ってることが分からない、接続詞がおかしい、「楽しかったです」とばかりあるけど何があったのか書かれていない、とかとか問題だらけだが、それを指摘してはいけない。まず、ほめる。 「題名がいい」とか「この表現がいい」とか「その場の雰囲気が伝わってくる」とか、どこか見つけてほめる。それによって、書いた子をいい気分にすることが作文指導のもっとも大事な第一歩だという。ただ、なんでもほめればよいわけではない。その子が自分でもよく書けたかな思っているところを正しく読み取ってほめなければならない。そのためには、親が真剣にしっかり読むことが大前提になる。 ここもまた、人材育成で言われる「ほめて伸ばす」に通じるところだ。

MECE自身、モレている | その他

MECE自身、モレている

「Moving Target」(動く獲物)という言葉があります。これは、「狩りに行ったときに、さまざまな情報が集まるまで待って、得た情報を精緻に分析して、正確に銃を撃っても、獲物が動けば銃弾は当たらない」ということを伝える表現として、ビジネスで用いられます。 人々の好みや状況が刻々と変化する市場では、「予測の確度があまり変わらないなら、情報量が少なく、網羅的でなくても、早く意思決定して、仮説と検証のサイクルを回し続けることが大切だ」という考えが浸透してきていますね。 また、「渋滞を解消するために道路の拡張を行ったところ、交通量が増え、新たな渋滞および環境汚染を生じた」という話も有名です。 これは、「問題症状の解消(対症療法)は、本質的な問題解決策ではない」という考え方についてお伝えするために、私がコーチを育成する際のテキストで紹介していた例のひとつです。 物事を考えるときに、分解された構成要素のうちの「特定の要素」だけに着目して(要素どうしの「つながり」を考慮に入れず)、問題症状(≠真因)を解消しようとすると、巡り巡って、問題をもっと悪化させてしまうこともあるので、気を付けないといけませんね。 このように、本質的な問題解決に臨む際には、「対象とする事象にどのような因果関係のつながり構造があるのか、システムの境界をどこに設定するか(どの変数を考慮し、どの変数を無視するのか)、想定する時間域はどのくらいか」といった「メンタル・モデル」(Mental Model)についても検討することが大切です。 「動く獲物」の話と「道路拡張」の話について、「MECE」(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustiveの頭字語で、ミーシーあるいはミッシーと発音。意味は、「相互に排他的で、集合的に網羅的で」)の観点から、改めて考えてみましょう。 「論理的思考法を身につける」という場面では、上記のMECEという条件を満たして考えているか、すなわち、「漏れなく、ダブリなく」考えているかを確認するのが大切であると教わることがあります。 ところが、「動く獲物」の話では、「漏れなく」(集合的・網羅的に)考えるのではなく、ある程度のところで、早く意思決定して、仮説と検証のサイクルを回すことが大切でしたね。 また、「道路拡張」の話では、「ダブリなく」(相互に排他的に)考えるだけでは、「要素間の相互作用」や「再帰性」などを見落としてしまって、問題が悪化してしまうこともあるのでした。  MECEは、論理思考を進める際の「チェック項目」を意識するうえで優れているのですが、「『種々の要素どうしは相互作用を起こす場合がある』という側面について、考え落としている」ということを認識していないと、「道路拡張」の話のように、安易な問題症状の解消策(問題症状の裏返し)で、逆に事態を悪化させてしまうこともあるというわけです。 取り扱う対象がエンジンや自動温度調節器のようなものであれば、「非生物学的なメンタル・モデル」で考えるのが適切ですが、対象が自己複製や自己展開、自己再帰性などといった特徴を持つ場合、例えば、細胞や動植物、家族や組織、ビジネスや文明などを扱う場合には、「生物学的なメンタル・モデル」の方が有効であることが多いのです。 さまざまなモデルやフレームワークというものは、金科玉条のごとく守らなければならない絶対的なルールではなく、目的や対象に合わせた適切な使い方が大切であること(MECEも常に効果的なわけではないこと)を思い出していただければ幸いです。 以上

うまくいかない目標管理 | 人事制度運用支援

うまくいかない目標管理

 目標管理は言うまでもなく“企業の目標の達成のために、組織や社員が目標を設定し、達成を促進する”ものである。多くの企業で目標管理が導入されているが、うまく機能している企業は非常に少ない。うまく機能しないのは、経営や人事が目標管理に対して過度に期待しているからではないか。多くの企業でみられるうまくいかない代表的なパターンは次のようなものである。 -そもそも会社や組織の目標が不明確  企業が毎年掲げる目標が明確でないことが散見される。目標そのものが十分に社内で検討されていない、また実現可能性が低いなど企業目標として“質”を疑うものがある。この企業の全体の目標を、各組織や個人に分解するのであるから、元の目標の質が十分でなければうまくいくはずがない。十分な社内協議や計画の裏付けのない目標が掲げられているということである。こうなると企業目標を組織や個人に割り振っていくと不整合が発生し、解決できない様々な矛盾が発生する。目標設定の段階で失敗しているということだ。目標設定がうまくできないので、結果正しい測定になりようがない。企業目標、経営計画が不明確な企業は目標管理をする前提がないのである。 -所詮“正確”に測定できないことを前提としていない  企業の経営目標も売上や利益のような数字だけでなく、管理レベルの向上、人材育成、コンプラ、社会貢献などの数字で測定しづらい目標も多くある。このような定性的な目標に対しても、達成度合いを判断しなければならない難しさがある。所詮定性目標の達成度は人により判断することであるので認識が完全に一致することはない。しかし多くの人の認識を一致させる必要はある。“目線合わせ”というのは、多くの人に認識が一致することであるので、これには“衆目の目”にさらすことが有効である。目標と達成度合いを公開すれば目標そのものの設定やその評価に対して様々な意見議論が発生するだろう。衆目の目にさらすことによる目線合わせを行うことによって、適正な評価をする文化が醸成される。 -目標管理は管理職以上  目標を設定するということは、その目標に対して責任権限がなくてはならない。自分の責任権限外の目標は自分ではコントロールできないからである。そのため目標管理の対象は組織の長には最適である。本部、部、課などの組織は目標が設定しやすくかつ責任権限がある。まず管理職の目標管理を機能させることが第一歩である。一般の社員の目標管理は実際には非常に困難で、多大な時間を投下しても得るものは少ない。仕事は個人に閉じて遂行しているのではなく、チームとして動いていることが多い。そうなると課の目標を個人にきれいに分解することは困難であり、またあまり意味が無くなる。さらに目標を自分で設定させる例を目にするが、業績の測定という観点では全くナンセンスだ。業績管理のための目標管理では、会社や組織の妄評を達成するための個人に対する指示であるので、あくまでも会社や上司が決定しなければならないからだ。 -測定技術が不正確、非合理  せっかく目標を設定してもその測定方法が曖昧であったり非合理であれば正しい評価とは言えない。例えば目標を100%達成ならB、120%ならAなどのように、目標に対して一律の達成基準で測定する方法がよく見られる。目標に対する達成の振り幅は目標によって大きく異なる。ルートセールスであれば売れる数量はあまり大きく変わらないかもしれないが、新しい商材の営業や個人の営業努力で数字が大きく変動する業態では振り幅は非常に大きい。本来は個別の目標ごとに達成基準を設置しなければ正しい測定はできない。 また目標に難易度を付ける例などもあるが、どこまで合理性があるか疑問である。 -ほんとうは重要視していない  目標の設定が曖昧で測定も非合理であるために、評価の結果は当然適正で整合性があるものとは言えない。それでも目標管理に多大な時間を投下しているが、この結果をストレートに反映している企業はごく少数だ。目標管理は通過儀礼的なもので評価は最初から答えがありきではないかと疑われてしまう。社員の処遇に対して大きな影響を与える評価であるのであれば、仕組みや運用などもっと厳格にするべきであるが、曖昧な目標や甘い評価が散見されても経営者も人事も身を挺して防ぐことをしない。本当は重要視していないのではないか。  目標管理を否定しているのではない。現在の目標管理があまりにも機能していないため、まずは原則に従いできる部分から始めることが有効だと考える。会社そのものや経営者の目標管理を明確にし、次に管理職の目標管理を機能させることを優先させるべきであろう。 以上

無駄の効用 | その他

無駄の効用

 働き方改革という波がずいぶんと早いスピードですべての日本企業に寄せてきている。その施策の照準は、ともすればダイバーシティやワークライフバランスに目が行きがちではあるが、要は生産性向上である。  働き方を変えることで生産性を上げ、生み出された時間を、プレイングマネジャーでままならなかったマネジメント業務などの本来業務や、付加価値創出につながるかもしれないアンダーザテーブル研究などに使う。あるいは、個々人が自己啓発や視野拡大の活動に時間を使う。結果、不確実な時代を乗り切れるよう業務品質と人材品質を高めていくということである。  その方法はさほど複雑なものではなく、無駄をなくすための組織や業務の仕組みを変えることと、人々の協業に伴うコミュニケーションの無駄を徹底排除することの2つを検討すればいい。その各社各様の取り組みはさまざまに目にするが、気になるのは、前提されている、生み出された時間の「有意義な」使い方である。その時間を、「無為に」使うことも大事なことなのではないか。  あえて、なにもしないで無為に過ごす時間に使う。個々人があるとき、業務から離れ、あるいは頭の中の思考検討から離れ、今目の前の環境を遠景化して、縁側でお茶を飲むようにぼーっと過ごす。生産性高く密度高く仕事をするなかでの優雅なゆとりは、エアポケットのように心に作用し、もしかすると「ユーリカ!」と叫ぶようなアイディアが生まれるかもしれない。  さらには、生み出された時間を「意味のないコミュニケーション」に使うのもいい。コミュニケーションとは、何らかの目的をもって、人に働きかける、あるいは何かを伝えるということだ。それが自然に円滑にはじめられるきっかけには、意味のない働きかけ=ゼロサイクルが有効だといわれる。例えば、道で近所に人とすれちがうとき、「いい天気ですね?」とか「お出かけですか?」という挨拶。人と人の相互の働きかけをサイクルをかけるというが、そのゼロベース、単に認知し合ったというだけの合図だ。  それは、問いのようでありながら意味も目的もない、ただのコトバのやり取りだ。そこに意味を意識すると、家を出た作家の稲垣足穂さんが「お出かけですか?」といわれて、「よしゃいいんでしょ!」と憤然と家に戻ってしまったというエピソードになってしまう。意味がないことを了解し合ってのゼロサイクルは、交渉や依頼に至る前のコミュニケーションの土壌づくりともいえるだろう。  さしずめ仕事と何の関係もない世間話の時間。縁側(デスクの端?)や井戸端(給湯室?)での無駄話に、生み出された時間を使うのである。無駄にも効用があるから、生産性向上のための無駄取りでそれらの完全排除はすべきでない、と言っているのではない。組織内の、業務上のコミュニケーションの無駄を徹底排除したうえで、改めて生み出された時間をこうした「無為」にも使うこともよいのではないか、と言っている。「なんとなく」ではなく、「自覚的に」である。  無為に使ってもいい時間をうみだすための働き方改革。獲得されたそのゆとりがきっと、付加価値創出や変化対応できる組織づくりにも効くはずである。

社内コミュニケーションとデジタルリテラシー | その他

社内コミュニケーションとデジタルリテラシー

「情報が共有されない」「レスポンスが遅い(来ない)」「自分も意見を発しない」等、社員のコミュニケーションに課題を感じている企業は少なくない。 組織として、トップと中間層、そして各現場で方針や事実認識が異なってはならないのだが、現実には、社内コミュニケーションが適正に機能せず、トップのあずかり知らぬところで、忖度され、誤った行為が長年行われていたような不祥事が、ここ数年、毎年のように発生している。また、社会的な問題にまで至らないにしても、社内コミュニケーションは、人間でいえば血液のようなもので、組織のどこかで、情報が滞留したり、誤った情報が流通されたり、あるいは、必要な情報発信がされなかったりして、組織全体のパフォーマンスに影響を与えてしまう事態は、多かれ少なかれ、どこの企業でも起こっている。 経営環境が、今まで以上に、予測不能で、かつ急変する中、さらには、働き方改革や生産性向上という国家的課題に取り組んでいく中で、我が国の企業内コミュニケーションの品質向上は最優先課題であり、実際、多数の企業の人事部門が、様々な階層に対するコミュニケーションスキル向上のための研修施策に注力している。ただ、社員一人ひとりのコミュニケーションスキルや意識向上を目指した研修施策に取り組むことは極めて重要なのだが、実のところ、それだけでは十分とは言えない。 より全体的な視点で、組織の情報流通の仕組みやインフラのリデザインといったコミュニケーションの構造にもメスを入れることも当然、必要になって来る。 ただ、こちらの話となると、現状の取組み姿勢に企業間でずいぶんと濃淡があるように感じている。 たとえば、コミュニケーションツールの活用で言えば、TV会議システム。主要な経営機能が複数の地方拠点に分かれている企業等では、日常的に使われているところも多いが、設備は一応あるものの、埃をかぶったまま、ほとんど使われてない企業もかなりある。理由としては、使い方がよくわからない、あるいは、なんとなく、実際に会って話したほうがよいから、といった属人的あるいは漠然とした理由で、せっかくの有効な機器が放置されている。しっかり操作方法を把握し、使いこなせば、もっと業務の生産性は高まるはずだ。 また、電話とメールが、社内コミュニケーションの主要なコミュニケーションツールとして利用されているが、最近では、それに加えてチャットを利用しようという動きがある。チャットは、ラインやフェイスブックメッセンジャーのようなもので、それぞれのテーマごとに、予め複数の相手と共有するチャットルームを設定しておけば、パソコンやスマホで、そのメンバー全員と瞬時にコミュニケーションが出来たり、過去の履歴を遡って、コミュニケーションの経緯を確認することもできるという利点がある。メールだと過去のメールを一件づつ、開けて確認しなければならないが、チャットであれば、その必要はない。また、メールと違い、あいさつ文など、形式ばった文章を書く必要もないところもメリットとして挙げられる。 現時点で、こうした新しいコミュニケーションツールの活用状況は企業により様々だが、これから数年で、こうした新しいツールのバリエーションも増え、今まで以上に急速にビジネス社会に浸透していくというだけは確実だろう。 新ツールの導入に対する主要な障壁は、「使い方が難しい」「従来のやり方の方がやりやすい」といった、おそらく中高年層を中心とした社員のマインドだ。実際、こうした抵抗勢力でも、十分使いこなせるように丁寧に説明することは重要だが、10年後、いや5年後でさえ、いままでのような、電話とメールがコミュニケーションの中心であるということはあり得ないことを認識させることの方が効果的かも知れない。 いずれにせよ、こうした新ツールがビジネス社会に早晩、浸透していく事が、時間の問題なのであれば、組織全体のコミュニケーション力の向上にむけて、他社に先がけ、積極的に導入推進したほうが、経営的に有効と思うのだが、デジタルリテラシーの壁はそれ以上に厚いものなのだろうか。

人材育成ミニマリズム | その他

人材育成ミニマリズム

多くのマネージャーの方々は、プレイングマネージャーだ。自組織の目標達成のために、先頭たって邁進し全力を挙げて成果を上げようと日々腐心している。結果、ついつい部下を育てることは後手に回って、「わが社の管理職は、人の育成ができていない」などと社長が不満を漏らし、急遽、社長命令で管理職対象の部下育成スキル研修が組まれたりする。 こうした研修に臨むマネージャーの方々は、部下育成の重要性はもちろんわかっている。人を使って成果を出すのが管理職の役割だなどと講師に言われるまでもなく、そうしたいと思っている。ただ目の前で目標達成が危ういときには、自分が動かなければならないのだ。じゃあ、目標達成できなくても育成を優先しろというのかね、と胸の内でうそぶきつつ、研修会場で身体はいつしか斜めになっていくのだった。 彼らを前向きにするにはどうするか。なにより、教科書的な部下育成論など扱わないことがこの手の研修のポイントである。教えるのは、部下育成ではなく、部下活用。いかに部下たちに、自身の仕事を切り出して渡し、自分がラクになるか。その具体的、実践的、明日からできる方法論である。プレイヤーとして少しでも楽になって初めて、マネジメントに着手できるし、なにより自分にとってメリットがあるスキルを学べる。 一方で、部下活用とは、部下育成の原点である。仕事を渡すとことの延長線上には権限移譲があり、部下にとっては難易度の高い自分の仕事をやらせることは、部下のスキル向上機会の第一歩だ。部下を活用して自分がラクになることは、イコール短期的部下育成に他ならないのである。 問題は長期的な部下育成である。部下活用=短期的部下育成を日々続けているだけでは、なりゆきの育成である。長期的に人を育てるには、ゴールセッティングを必要とする。部下のAさんを何年後にどのレベルに仕上げるか。育成目標と育成計画が、個別に描かれていなければならない。そのためには、個々人のキャリアの将来を意識しなければならないし、強味弱みや志向性にも気を配らなければならない。繁忙極めるプレイングマネージャーにとって、このハードルこそが高い。 部下全員ではなく、ひとりだけの育成ならできるのではないか。手っ取り早いのは、特定部下の育成を強制するしくみにしてしまうことである。つまり、後継者育成。現場起点のサクセッションマネジメントのしくみをもって、自身の後継者候補1~2名に限っての計画的育成をせざるを得なくするということである。たとえば、多国籍企業でよくやられているような、年次で自身の後継者のサクセッションプランを提出させる方式。後継者候補を、所定のアセスメント項目で評定のうえ選び、短期的・中期的に、どんな仕事をさせどう育てていくかを計画化する。それを年次で更新させていくのだ。 部下全員ではなく、特定の1~2名ついてだけでいいから、任務として後継者育成=中期的な部下育成せよ、という限定である。その効用は、単に次のリーダー育成の実践だけではない。特定候補者とはいえ、選び見極め育成を計画化するためには、個々人の能力や志向性、ロイヤリティなど留意し、何をどうできるようにしなければならないかを検討する。その目配りやアサインの配慮こそがマネージャーの部下育成スキルであって、それが強制的に鍛えられるということに意味がある。 おのずとそのスキルや育成意識は他の部下たちにもむく。繁忙なマネジャーたちだからこそ、すぐできる最小限のことからだけ始める。一点突破全面展開の企てを持って。

ギャランティとベストエフォート | その他

ギャランティとベストエフォート

通信ネットワークでは、ギャランティ型とベストエフォート型というサービスがある。ギャランティ型というのは、通信速度や、中断時間などのサービスの品質が一定以上であることを保証する通信サービスであり、高価ではあるが、安定した通信品質が求められる金融機関や企業の基幹回線などで利用されている。 一方、ベストエフォート型は、インターネット接続サービスが該当する。保証はしないが最大限努力する、というタイプのサービスである。そのような努力がなされていれば、結果に対する責任を負うものではない。たとえば、1Gbpsの回線を契約しても、フルにそのスピードが出るわけではなく、時間帯や周辺の利用状況など、様々な要因によって遅くなることもある。利用する側からすると、フルスペックのサービスは期待できないが、その分低コストに利用できる、ということになる。 これは通信ネットワークに限らず、すべての製品・サービスにおいて同様であり、製品・サービスについてよく理解し、ニーズにあったものを利用することが重要だ。品質を保証するサービスは高価であり、低コストであるということは、品質はそれなりである、というのが原則なのだ。 これを踏まえ、改めて身の回りを見てみると、本当にその価格で良いのだろうか?と思うようなサービスが世の中にはあふれている。 不在でも無料で再配送してくれる宅配便。ほとんど客が来ないのに24時間営業しているコンビニやファミリーレストラン。購入した商品を店の出口まで持って見送ってくれる店員など、このようなサービスは顧客にとっては、確かに便利だったり、気持ちの良いものだったりする。だが、それが企業の収益の向上につながっているのか心配になる。 もともとは、サービスを提供する側の誰かが、顧客のためを思ってはじめたことなのかもしれない。いつの間にか皆がやり始め、当たり前の保証されたサービスになっていく。当たり前になってしまうと付加価値として価格に転嫁できない。だが、現場は過剰なサービスのために疲弊していく。というのはあまりに悲惨だ。価値を保証するのであれば、企業はその分の費用負担を顧客に対して求めるべきだ。そうでなければ、企業はせっかくの努力が利益につながらないし、顧客の要求はますますエスカレートしていき、高品質でありながら低価格という相反するものを追求し続けるだろう。 現在の我が国ではそういった高品質なサービスがあふれており、その利便性、価値を低コストに享受できる、というのは1消費者としては大変ありがたいのだが、このような状態が続くのは健全ではない。 「この商品を今日購入すると、今週中に届きますか?」と問えば、「明日発送しますが、到着は予定より遅れる場合もあります。でも安いです。」というベストエフォートな選択肢があってしかるべきだ。価値あるサービスにはコストが掛かるという当たり前のことを実感できるようになるだろうし、本当に必要な時には「じゃあ、ちょっと高いけど、こっちのサービスにするか」と高品質なサービスを選択することができる。ベストエフォートというサービスが存在することで、ギャランティという選択肢の価値が見えてくるのではないだろうか。