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コラム

column
立川談志さん | その他

立川談志さん

 まだ元気だったころの立川談志さんをよく上野で見かけた。  もう閉店してしまったけれども、上野広小路にあった深夜まで営業している小さな蕎麦屋「さら科」で、夜、呑みつつ蕎麦を手繰っていると、バンダナ巻いた談志師匠が、「オヤジ、生きてるか!?」と入ってきた。客の邪魔にならないよう、厨房よりの小上りにちょこんと腰かけると、親しげに店主と話してる、そのテンポのよさ。高座の噺を聞いているようだった。  いつもは不愛想な店主も嬉しそうで、なにやら写真集を取り出しては、その贔屓にしてるカメラマンのことを話し始めた。ちらと「戦争がはじまる」というタイトルが見える。反骨のカメラマン、福島菊次郎さんの新刊だった。「へえ、そうかい、てえしたもんだな」と合いの手いれながら、愉しげなやり取りがひとしきり続いたと思ったら、唐突に、「じゃあ、またな!」と蕎麦を食べることもなく、出て行った。  恰好よかった。あったかくて、そして小気味よかった。この一瞬、ここに身を置いていた巡り合わせに感謝した。いま思えば、亡くなったあとに夥しい本や追悼番組で語られた家元立川談志の素顔そのものだったし、晩年、噺が語られる時になくてはならないとよく言っていた「江戸の風」が、たしかにそこを吹き抜けたのだった。  なにより、様(さま)になっていたのである。様になるとは、外見や立ち居振る舞いの格好がついていることだ。それは、外側をいくらまねてもなかなかできなくて、経験や取り組みの蓄積だけが可能にする。新入社員のスーツ姿が様になるには、社会人職業人としての物事への取り組み方がわかってきてからだろうし、プロフェッショナルとしての様の裏側には、社会人であれ、芸人であれ、情熱をこめてストイックに打ち込んできた歴史があるはずだ。きっとそこには、技術だったり、製品だったり、ユーザーだったり、対象への深い想い入れや愛情があり、それがその人なりのプレゼンスとして立ち昇るのだろう。  当時、黒門町(文楽)や稲荷町(彦六)の名人たちはもういなかったが、上野界隈には、男振りよい談志が出没していたのだった。縁あってこの地に越してきてよかった、と思ったものである。よく通ったことで有名なのは鰻の「伊豆榮」だが、談志さんにはやはり蕎麦屋が似合う。「池之端藪」や「連玉庵」、少し足を延ばせば、「並木藪」と風情ある蕎麦屋は多いけれども、そんな老舗ではなくて、偏屈親父がやってる小さな「さら科」にいる談志こそが素晴らしい画だった。  最晩年、掠れて出ない声を張り上げて、嬉々として好きで好きでたまらない主人公=佐平次を演じた「居残り」で見せる笑顔が、そこに輝いていたからだ。

「共感」を強制するな! | その他

「共感」を強制するな!

私は、「大自然に接すると、美しいと感じる」ことがありますが、「絵画を見て、美しいと感じる」ことは滅多にありません。 これは、間違ったこと、悪いことなのでしょうか? 私のような感性の持ち主に、「この絵画を見たら、美しいと思いなさい。美しいと思わないと、マズイですよ」という態度で接することは、ある意味、「外から力ずくで、特定の価値観を押し付けようとする非人道的な行為」だと捉えています。 また、反対に「相手の考え方や気持ちがどういったものであれ、それに共感を示す人物」は、「八方美人で、信用できない相手」あるいは「自分なりの考え方や感性を持たず、他者との相乗効果が望めない相手」であって、本音で付き合うには心理抵抗を覚えます。 ところが、人事考課に「共感力に関する評価項目」を設けている企業もあるためか…「相手に共感できないのだけれど、それは自分に『共感力という能力』が欠けているためだ」と悩む、真面目な研修受講生に出会うことがあります。 そんな場合には、まず、「自分とは異なる考え方の相手とのコミュニケーションでは、即座に相手に共感を示すことなんて、できないのが普通です」と話し、少し安心していただきます。 大切なことは、「相手が、どんな考え方や感じ方をしているのか?」「物事をどのように捉えていて、その捉え方には、どんな利点があるのか?」「その解釈や評価の背景には、どんな経緯があるのか?」などについて、「相手や意見の内容をきちんと理解しようと努める」ことだと伝えます。 そういった姿勢で相手に接することで、「自分の内面に、自発的に何らかの感情が生まれ、結果として、相手に共感できる場合もあれば、共感できない場合も生じる」というのが、「自由意志のある人間どうしのコミュニケーション」だと伝えるのです。 この話のミソは、「どんな考え方や気持ちを持っているのだろう?」などと、「自分に関心を持った態度で接してきてくれる人物」は、「異なる意見の持ち主であっても、なかなか嫌いになれない」という点です。 たとえ、こちらが相手の意見に完全に『同意』していなくても、「相手の意見にもそれなりに良い側面があるはずだ」と、関心を持って接していると、相手は「こちらが『共感』してくれている」(共感力のある相手だ)と感じてくれるということです。 このように、「一生懸命に相手の言語・非言語のメッセージを受け取ろうとする姿勢」が、良好な関係構築の基盤となる、「ラポール(※)」と呼ばれる「瞬間的な心身状態」の構築につながります。 そして、さまざまな形で「ラポールを増強していく」ことで醸成されるのが、中長期に渡って安定した「信頼関係」なのです。 今回は、種々のコミュニケーション系研修の基盤となる、「共感力」と「ラポール≠信頼関係」について取り上げてみました。 あなたの会社で実施されている研修は、小手先のテクニック演習になっていませんか? ※ラポール(rapport;「精神感応」と訳される場合もあります) 「この相手となら、今後も話し合っていっても良さそうだという感覚が持てている状態」のことです。 一般には、次の3つの要素がそろったときに「ラポールが形成される」と言います。(1)お互いに対する心の傾注、(2)肯定的な感情の共有、(3)非言語コミュニケーションの同調。 そして、「約束を守る」などいった経験を重ねて、ラポールを強化し、「信頼関係」に育てていくことが重要です。 [ 参考情報: “The Nature of Rapport and its Nonverbal Correlates”, Linda Tickle-Degnan and Robert Rosenthal, Psychological Inquiry 1, No.4(1990), pp.285-293 ]

10年後の女性管理職比率 | その他

10年後の女性管理職比率

 近年の人事管理では社員を、優秀な社員(ハイパフォーマー、以下HP)、普通の社員(アベレージパフォーマー、以下AP)、優秀でない社員(ローパフォーマー、以下LP)に区分して議論することが多くなった。HP社員、AP社員は会社の主力である。この社員にはできるだけ満足度を高くし、社外への流出を防ぐことが求められる。社員をHP、AP、LPに区分するには、昇格のスピードや評価情報を組み合わせるのが一般的である。その結果HP、AP、LP社員の人数や比率を把握することができる。またどこに存在しているかも明確になる。  この会社全体のHP、AP、LP比率をさらに様々な区分で見ると有益な情報を得ることができる。その代表的なものは“女性活用度”である。男性社員と女性社員の発生率を比較することによって、女性活用がどの程度すすんでいるかがはっきりわかるのだ。同じ総合職社員で女性活用が進んでいると言っている企業は発生率が同じような数字であるはずである。  多くの企業で分析した結果、真に女性活用が進んでいる企業では、この比率が男性とほぼ同じである。このような企業では“女性活用”を大きなスローガンにしていないことが多いのも特徴だ。すでに男女という区分なく人事管理をしているので、あえて高々とスローガンを掲げる必要がないのかもしれない。  活用が進んでいない典型的なケースは、女性のLP比率が高い(HPが少ない)というものだ。女性であると無意識に限定的な仕事をさせている企業もある。その結果成長が男性社員よりも遅く、結果管理職社員の発生も比率も少ない。長い間このような女性の限定的な活用しかしてこなかった企業で、突然女性活用を強力に推進しようとしてもうまくいかない。男性と同じような仕事の機会を与え、同じ評価、育成、処遇を継続的に長期間行うことで、同じようなHP,LP発生率になるのであるから、すでに入社して長い女性社員を無理やり活用しようとしても難しいのだ。  女性活用が二層化している企業も少なくない。近年入社した社員に対しては男女の差をなくす努力をしている企業だ。このような企業では、30歳以上の女性社員はLPが多く、20代の女性社員は男性と同じ発生率になっていることが多く、発生率が二層化しているのである。  このような企業では10年後に女性活用の結果が次第に現れはじめる。10年後には女性管理職比率はまだあまり変わらないことが予想される。20年後にむけて女性管理職比率が次第に改善される段階に入るだろう。30年後にやっと女性活用が企業全体として実現するのである。長い道のりである。  最も不幸な例は、スローガン主導で女性を無理に昇格させたり、管理職ポストに就けることである。女性活用を重視するあまりに、女性であることで昇格や管理職登用に下駄をはかせたりするケースだ。女性活用は今後の人事管理で非常に重要であることは疑いようがない。女性管理職比率を高くすることだけが重要な目標だと思わないが、一つのわかりやすい指標として掲げるのであれば、30年後の目標であることを理解しなくてはならない。そのためには今から男女の差をなくす運用を継続して行っていかなくてはならない。女性活用、女性管理職比率向上をスローガンはいまから30年間変わらずに掲げなくてはならない。10年後の比率は変らない。短期の結果を求めることなどナンセンスなのだ。 以上

行儀の悪いイノベーション | その他

行儀の悪いイノベーション

 研修のテーマを「イノベーション」としてくれ、と頼まれることが少なくない。階層別研修の実施をお手伝いしている場合など、すべての階層でイノベーションを扱いたい、とまで言われることがある。その背景には、新規事業開発といったことだけでなく、すべての事業、日々の仕事を通じて従来とは別の付加価値を出していかなければ生き残れないという経営者の切実な想いがある。  それまでのやり方に縛られずに新しい視点や方法をもって、サービスや製品や仕事の変革を実現するには、まず最初に「発想」が求められるから、さまざまな創造技法やHowではなくWhyを問う思考技法等々、先入観を排し既存の常識を疑う方法を研修で教えることは可能である。しかし、生み出された優れたアイディアや卓越した発想を企業内でカタチにしてくことこそがイノベーションの要諦であるとすれば、そこは、研修の範囲を大きく超えざるを得ない。  通常の組織はそもそもその構造からして、イノベーションが生まれる環境ではないからだ。付加価値創出が求められるとはいえ一方で、ベースとして生産性と効率の追求が組織の宿命であり、そのため企業組織は、制御と管理の構造=部門の壁とヒエラルキーからなる。そこでは、新しい発想=異質性はそもそも排除されがちであり、「イノベーションせよ」との社員へのメッセージは、ダブルバインドにもなりかねない。  そうした硬直性を打破すべく、組織をフラット化したりクロスファンクションを設定したりといった組織論的取り組みも出てきているから環境改善はすすんでいるものの、「旧パラダイム」は根強く暗黙知として組織に張り付いていて、人々の動きはいつの間にか縛られていたリする。  その背理を超えるヒントの一つは、「ネットワーキング」にある。中間管理職が主導したイノベーションの成功事例でよく知られるのは、自律的に生まれたイノベーションが全社的に波及するときには、必ずネットワーキング活動を伴っていることだ。そのプロジェクトを企てた人は、通常の権限経路やコミュニケーション経路をどこかで無視しながら、しかし経営陣の誰かのサポートをうけ、どこかでうまく資源を調達する。  会社内の(場合よっては社外の)人的ネットワークを駆使し、必要な人に接触する。ネットワーク論でいう「弱連結」ネットワークを軽やかに組み、活用することを通じて、通常の予算経路以外の費用調達をしたり、闇研究で地下に潜行したり、必要な人材を引っ張ったりとか、ある意味で行儀の悪いリーダーシップがイノベーションを実現しているのだ。なにより、その行儀の悪さを許容するトップの存在が大きい。  全社員にイノベーションの喚起を要請するある社長は、管理職に対して、「君たちのアタマからはもはや新しい発想が生まれない。若い世代の新しい発想の芽を、注意深く見出し、なにより潰すことなく、育て活かすことが、君たちの役割だ」と言った。新しい発想は、新しい人材から生まれる。まずは、異質性の重視、とんがった人材の温存がイノベーションの大前提ということだ。加えて、それをカタチにしていこうとするやみくもなリーダーシップ行動を促進することが必要だとすれば、トップは腹をくくって、その行儀の悪さに目をつぶり、ときにインフォーマルな支援をするといった鷹揚な態度が求められるのだろう。  では、もっとも大事な、必死でイノベーションを実現しようする個々人のやみくもな意志、強烈な目的志向は、いかにして喚起できるか。それには、まず会社や事業が社会に対して新たな価値を提供しようとする経営の想いが、ひたひたと社内に浸透し、人々をエンゲージする場ができていなければならない。つまりはそれも、そうした場を作り出すトップの本気の姿勢と「志」の問題なのである。

働き方改革のKPI | その他

働き方改革のKPI

 働き方を変えることが注目を浴びている。働き方を変えることで現在よりより高いパフォーマンスを追求するというものだ。さまざまな企業で行われているこの改革は、単に残業時間の短縮といったものから、特定の働き手のパフォーマンスやモチベーション改善などその施策の範囲は広い。働き方改革の目的や施策の範囲が広く便利に使える反面、あいまいな印象を受ける。この改革によって企業や働く側が得られるメリットをもっと整理する必要があるだろう。  働き方改革は4つの目的があるだろう。一つは生産性向上である。働き方を変えることでより多くの付加価値が生み出されるというものだ。そのためには現在の生産性を数字で把握しなければならない。生産性の数字がどの程度改善したかが改革の果実であるからである。数字に依拠していない生産性改善の多くは超過勤務時間の短縮が限界であろう。  2番目にモチベーションや退職率の改善だ。エンプロイアビリティーの向上とも言える。例えば職場に定時に出退勤する必要のない業務などを在宅勤務を認めるようなものである。通勤時間が短縮され、また個人の都合のよい時間に執務ができることによって、モチベーションが上がり、自己都合退職が減少することが望める。  次にコストである。働き方改革をして結果コストが大幅に増加することは経営は望まない。会議をWebで行えば移動時間や交通費などが抑制される。在宅勤務にすればオフィスコストが減少する。最も原則的なことを言えば、職務に合った給与にすることも含まれるだろう。管理職待遇であっても管理職ポストに就いていない社員は割高な人件費となっている。適正な人件費とすることもこの改革の中に含まれる。  4番目は競争力である。改革を行うことによって、企業の競争優位性が向上することである。必要な情報を適時に得て、コラボレーションを促進することによって、企業の競争力が増すことになる。そのためにはコミュニケーションの在り方をより効果的効率的にすることが求められる。新たなサービスの創造や競争力の差別化は、多くの有用な情報を適時得るインフラがあって機能する。生産性向上以上に企業の創造性や革新性を高めることも視野に入れるべきであろう。  働き方改革はこの4つの指標で自社を測定することによって、その方向性や施策が決定される。その結果働き方改革の施策は実に広範囲でありユニークなものになるだろう。人事制度改革なども、大きくはこの改革の中に含まれるものである。働き方改革の目的や効果がはっきりしない例が散見される。働き方改革が掛け声だけで終わってしまわないように、まずは正確な分析が必須である。 以上

宴席の闘い | その他

宴席の闘い

呑めないムキにはしんどいが、酒好きには愉しい、宴席続きの季節がやってきた。 酒を“酒として”愉しむようになったのは、40歳を超えてからだ。今思うと、20代のころは、間違いなく酒自体を味わってはいなかった。人と酒を飲む状況がただ面白かっただけである。他愛ない話で盛りあがり、笑い、たまに泣きや怒りがあるも結局は酔っぱらって沈没する馬鹿馬鹿しさが楽しかった。 そんななんでもありの酒宴でも、一つだけ許せないふるまいがあった。「まあまあ、ほらあけて」などと言いながら、無理やり酒を注ぐ輩である。概して酒が弱いメンツがターゲットになったりするから、そこに会社の上下関係があれば、ある種のパワハラである。こうした不快な輩に対しては、ゲリラ戦を仕掛けることにしていた。 注がれた酒を飲むふりをしつつすきを見て脇の植木にでも飲ましてやって、グラスを空ける。すかさず注がれれば、「礼儀として直ちに注ぎ返す」を繰り返して、その当人を泥酔させ潰して差し上げるのである。えてして、宴席パワハラ男は、酒に強いことだけがよりどころなので、ギブアップさせたところで「え、もう飲めないの? まだまだ、これからじゃない」などと言ってあげれば、もう二度と誘ってこなくなるのだった。 こんな禁じ手は別にしても、文字通り勝負というような宴席もある。たとえば、商談中の顧客との飲みの場だ。かつて同僚だった営業部長は、商談の最終局面でかならず宴席を設けた。彼の目的は、接待の場で成約を促すべく歓待すること、ではまったくない。表面的には「接待」をきわめつつ、見事な運びをもって相手が酔い潰れるまで飲ませ、介抱し、ともすれば家まで送り届けることであった。男同士の間では、たかが酒、されど酒である。「どちらがえらいかをわからせてあげればいいんだよ」と彼はいつも嘯いていた。 こうしたわかりやすい勝負ではない、孤独な闘いもあることをあるときに知った。それは、30代のころ在籍していた会社の同僚10人くらいで飲んでいたある時のことだった。なみなみ注がれたビールグラスにいつまでたっても口をつけない男がいたので、聞いてみた。 「あれ? 飲んでないけど酒だめだったんだ?」 「何言ってんの、大好きだよ。だって注いでくれないから」 あ、ごめんごめんと、注ごうとすると、まだ入っているから言って、口をつけようともしない。このやり取りが何回か繰り返されて、彼は、あきらかに一滴も飲まないまま宴席は終わったのだった。もう一回、また別の男で同じ光景があった。言い方は別だったが、本人は酒好きといいながら、実際には一切口にしないという点は、まったく同じだった。そして、この二人には、見事な共通性があったのである。 ふたりとも、詐欺師だったのだ。一人は、結婚詐欺、もう一人は金銭詐欺、ともに詐欺常習犯だった。実は、一人目の男の詐欺が露見して何年かあとに、もう一人の「飲まない男」に出会ったので、もしやと思って調べてみたら案の定で、結果、被害には合わずに済んだのだった。人を評価する、まったく新しい判断基準(かもしれないもの)をこの時知った。 嘘をナリワイとする人たちにとっては、なるほど酒は厳禁だろう。少しでも酔ってしまえば、組み上げた虚構の一角を不覚にも崩してしまうかもしれないからだ。であれば、「自分は酒が飲めない体質」といえばよいのに、そこをまた嘘のやりとりというきわどい闘いを挑んでしまうのが、さすが詐欺師の本能と感服したのだった。

身銭を切る覚悟はあるか | その他

身銭を切る覚悟はあるか

 以前、IT企業にいた時の話しである。新卒採用の面接官を担当したことが何度かあった。一通りの質問を終え、最後に、何か質問はあるか、と問うと、様々な質問が返ってくるが、「御社の研修制度について教えてください。」と聞かれることがしばしばあった。  自分自身の成長を考えたときに、会社の研修制度というのは確かに重要な要素だ。学生が気になるのもよくわかる。少しでも充実していた方がよいと思うのも無理はない。しかし、少々引っかかるものがある。今の自分に知識・技術がなくても会社に入ってから、ちゃんと教えてもらえるかどうか、という点を気にしているように感じるのだ。  IT企業ということもあり、新卒採用とはいえ、コンピュータやネットワークに関する知識・スキルが求められるのは当然だが、意外なことに、全く知識を持たずに面接に臨んでくる学生もいる。平然と「これから勉強します。」というのには驚かされる。プロフェッショナルとしてのスタートはすでに始まっているということに気が付いていないのだろうか。  会社が用意している人材育成プランは、会社の戦略を実現するために必要な人材を育成することを目的としている。もちろん、新卒社員向けのカリキュラムを用意している企業は多いが、全くの初心者がそれだけでプロフェッショナルになれるものではない。足りないところは自分で何とかするという気概・覚悟が必要だ。  さて、そういう私もあるとき研修業務のマネージャーに任ぜられることとなり、ITエンジニアとしてのキャリアに区切りをつけ、人材育成にかかわる仕事に転身することとなった。  いざ、新しい仕事にとりかかってみると、圧倒的に知識が足りない。何がわからないのかがわからず、ただ目の前の作業をひたすらこなしている状態だ。  このままではまずい、と、外部の人材育成に関する研修プログラムに参加すべく、社長にお伺いを立てたのであるが、社長から返って来たのはただ一通のメールだった。どうやら私も面接に来た学生と同じことを考えていたようだ。仕事を甘く見ていたのは自分自身だった。 そこにはただ一言、「身銭を切る覚悟のない者は何事も身につかない」とあった。

シェアリングオフィスという選択肢 | その他

シェアリングオフィスという選択肢

『民泊』や一般ドライバーの自動車で目的地まで行く移動サービス等、大勢の人々がモノや場所を共有し、必要な時に必要な分利用する、という『シェアリング・エコノミー』は、オフィスワークをする場所にも広がりを見せていて、アメリカを中心に、所謂『コワーキング・スペース』を提供する企業の数が、ここ数年、拡大している。 『コワーキング・スペース』では、一般に、交通の便のよい場所に、セキュリティを確保したプライベートなオフィス空間やミーティングルームを提供すると共に、インターネット等の通信設備やプリンター、TV会議等のオフィス機器を備えている他、カフェ、軽食などリフレッシュメントや心身の健康増進のためのヨガ、瞑想スペースなども提供している他、利用者同士の勉強会など、交流をはかるイベントやセミナー等も開催される。また、同様の拠点を異なる地域に複数持ち、利用者は、その時々で最も都合のよい場所のスペースが利用できる。 フリーランサーやスタートアップ企業などを対象としたレンタルオフィスは、従来から存在していたが、シェアリングエコノミーが拡大する中、Fortune 500にランクインするような大企業の社員の間にも『コワーキング・スペース』の利用が徐々に広がっているようで、情報セキュリティに敏感なIT業界やコンサルティング業界の著名企業でも、『コワーキング・スペース』を利用する社員の数が相当数いると言う。 自社オフィスを持つ一定規模以上の企業の間でも、『コワーキング・スペース』の利用が広がっている背景として、遠隔地に居住している社員、あるいは、クライアント往訪や出張の多い社員が、わざわざ自社オフィスに立ち寄るよりも出先の近くにあるコワーキングスペースで仕事をした方が、無駄な移動時間を節約でき、生産性の向上は図れるという事がある。 また、『コワーキング・スペース』を活用することで、同じスペースを利用する社外人材との交流を通じ、社内では得られない情報や刺激が得られる可能性が広がることを指摘する声もある。毎日、自社オフィスでいつもの同僚と、同じような視点の会話をしているよりも、様々なタイプの社外人材の間で働くことで、よい刺激が生じ、新たな知識の習得やアイデアの創出にポジティブに作用することは想像できる。社員の成長を促すために兼業を解禁する企業もぼつぼつ増えはじめているが、『コワーキング・スペース』の活用の広がりも、そうした考えに通じるところもあるのだろう。 少し前までは、こういう話を企業の人事と話すと、『オフィス以外の仕事場として検討するのは、せいぜい在宅勤務ぐらいで、他社は知らぬが、当社の文化や状況では、『コワーキング・スペース』の利用は到底、考えられない。』と言ったレスポンスが返ってくることは多かった。 だが、最近は、従来の常識や前例にとらわれず、ゼロベースで、本質的な議論をしたいという企業が増えて来ているように感じる。 働き方改革が進行とともに、各企業が労働時間削減や生産性向上の実現に向けて、検討はしているものの、効果的な施策を打ち出せている企業は、まだ数少ない。従来までの価値観や常識の延長線上で、よい施策を見つけるというのは、土台無理だという認識が広まりつつあるようにも感じる。 『最も生産性が高まる働く場所はどこか?』という問いに真摯に向き合っていく中で、自社オフィスでも自宅でもなく、『コワーキング・スペース』の活用が、人事パフォーマンス向上の一つの有効なアプローチとなる企業は少なからずあるような気がするし、この事に限らず、常識や前提をまず否定して、ゼロベースで議論を始めないと改革は進めることは難しい。

テレワークの落とし穴 | その他

テレワークの落とし穴

働き方改革一連の施策としてテレワークを導入する企業が増えている。 テレワークとは、情報通信技術を活用した、時間や場所にとらわれない柔軟な働き方で、Tele(遠く離れた)+Work(仕事)の造語である。TelephoneやTelevisionと同じ使い方だ。 テレワークには「雇用型」「自営型」「在宅」に分類される就業形態があり、環境負荷への軽減や企業変革の促進、そしてワークライフバランス向上等の効果があると言われている。 この在宅テレワークを導入した会社があり、導入の際に様々な問題が出たことを聞く機会があった。 この会社は、まず時期を定めてテレワークを導入するステップを定めた。その後プロジェクトチームを発足させ、その目的を明確にし、対象部署を決定していく。 その過程の中で、なぜ会社に出勤するのだろうという理由を挙げて、それを解消することが一番の近道と考えた。理由としては、会社に自席があるから、会議があるから、資料があるから、仲間がいるから、働いている実感があるから等々が並んだ。 それを解消すべくインフラも整え、テレワークをスタートさせようとした際に大事なことを忘れていた。 「テレワークで具体的に何の業務をさせれば良いのか」だ。部課長が揃って何となく考えていたが、結局ルーティン業務しか思いつかない。なぜなら部課長は一度もテレワークを体験していなかったのだ。 結局、テレワークを実際にする社員に何をするのかを考えさせ、周りに宣言させることで仕事の内容は決まった。 次に人事考課だ。人事考課は公平さが要求されることはもちろんだが、部下一人ひとりの仕事ぶりや人間性を的確に把握、洞察する眼が欠かせない。テレワークすることで、日頃の部下の仕事能力、行動力、長所や短所をきっちりとつかまえていないことから起きる考課ミスのケースが出てきたのだ。これは単なるコミュニケーション不足では済まされない、歪んだ主観がまかり通るような低次元の考課レベルに戻ってしまったと再度評価について教育をする必要があるだろう。 人事考課で部下を査定することは自分を査定することだ、いかなる環境下でも自分が部下をどう指導し、育成したかが問われているのだと。 テレワークは今後も普及していくことだろう。それには管理職のマネジメントスタイルの転換が不可欠だ。 慣れ親しんだ目で見える管理手法から、離れた場所でも適切かつ効果的なマネジメントが求められる。 テレワークをすることによって評価が下がったり、あるいはマミートラックに陥るようだと部下はたまったものじゃない。こういった評価がまかり通るようでは職場も有能な人材も壊してしまう。 ぜひ他山の石としたいものだ。 以上

組織の病理 | その他

組織の病理

 仕事はすごく面白いのに、会社が嫌で嫌でたまらない。なぜか、そんな愚痴を聞くことが多い。民間企業から公益法人まで所属は様々で、また年齢も異なる複数の知人たちが口を揃えるから、経験やキャリアの違いに帰着させられないことなのだろう。何がそんなに嫌かと聞けば、状況は異なるものの要は人間関係が耐えられないという。  まず多いのは、上司の問題。感情的、場当たり的、パワハラ的、ただのヒラメ、あるいは、とにかく無能。と表現は様々なれど、言っていることは一つだ。まず自分で判断をしない、また判断したとしても間違った判断をする。組織視点からの判断業務をするのが管理職だから、つまりは管理職としての役割を果たしていない。加えてなによりも、それで仕事上支障があるからたまらないというのだ。  ユーザーや顧客にサービスを提供するなかで、やりがいや使命感、手ごたえを得て、自分は仕事をしている(=だから仕事は面白い)のに、ダメな上司との不毛なやり取りがその邪魔をする(=だから会社は嫌だ)。あるべき問題意識や意義、責任感が共有されない上司(あるいは同僚、部下)とのやりとりに辟易し、それが、せっかくやりがいのある仕事そのものを棄損するようにすら感じさせるのである。  サービスや事業の目的は、ユーザーや顧客やあるいは社会に対して役に立つことである。民間企業ならそれによって収益を得、公益法人なら役立つこと自体が存在理由である。だから、上司や同僚がそもそも論を逸脱して平然とおかしな判断や判断停止をすると、「おめえら、なんのための仕事かわかってんのか!」とさけびたくなる。仕事に真摯に向かい合っているからこその、上司その他へのいらだちともいえるのだろう。  ひとりの人間という能力限界を超えて、より大きな働きかけを社会に対してなすために「組織」は生まれた。機能として分業し、統制することで組織力は高まるはずなのに、同時に、異なる志向や想いや価値観をもつ人間の集団ゆえの軋轢もあわせもつ。それが、組織目的、つまりなんのための仕事か、ということに関わる齟齬であればあるほど、モチベーション低下や場合によってはメンタル失調に結果するのではないか。  もしかすると、事業や仕事の目的を意識するかしないか、の違いは結局、就労価値観の違いに帰着するのかもしれない。自分の時間を売って生活費を稼ぐのか、やりがいのある面白い仕事をしたいのか。手段としての労働と目的としての労働の違いである。価値観はそれぞれだから、どちらが良いということもない。ゆえに、その混在から起こる組織の病理なのだとしたら、いかんともしがたい。せいぜいが、ビジョンや理念の徹底した組織浸透、バリュー評価の活用による行動制御により、最低限の管理職役割として「何のための仕事か」との反芻を判断や業務指示の原理にせよと教え込むことぐらいしかできないだろう。  かくて、このような愚痴に対しては、こう答えることにしている。仕事が楽しいのに組織が嫌になる、ではなくて、嫌なことがあるからこそ仕事の楽しさが一層輝くんじゃないの。それがコインの裏表のようにいつもセットなっていて味わえるのだから、幸せだよねー。その人たちには、決して味わえない労働の快楽なんだから。

トイレの張り紙 | その他

トイレの張り紙

 クライアントや営業先の会社に訪問する時によくトイレを拝借します。特に初訪のクライアントでは意識的にトイレを拝借するようにしていると言っても過言ではありません。 “いつもきれいに使っていただきありがとうございます” トイレにこのような張り紙があったりします。この張り紙はとても好感が持てます。会社と社員の関係が良好な関係であると感じるからです。社員もトイレをきれいに使っているし、そういう社員に対して感謝をする会社側という関係は高い信頼レベルにあると思うからです。このような会社の管理部門は、管理レベルが高く、社員に対するケアを常に意識しているのだろうと。  “タバコはご遠慮ください”このような張り紙も目にします。このメッセージは、管理部門が社員に強く言えないのではないかと勘ぐってしまいます。本当は禁止したいのだが、禁止と強く言えない立場の弱さの表れかと疑ってしまいます。もしかしたら管理部門が営業や製造部門などの直接部門に比較して弱い立場なのかと。人の採用や配置に対して直接部門が権限を持っている、評価が部門によってばらついている、昇格などが公平ではない、このような状況にストレートに意見を言えない情景を想像してしまうのです。  もっとも警戒するメッセージは次のようなものです。“タバコは吸えないことになっております”このメッセージは危険だと感じます。会社の施設を管理する管理部門が、自分の意志で禁止していないのです。誰かほかの人が決めたルールを伝えているのであり、自らの意思を感じません。“人事考課は公平に行うことになっております”と人事部が言ったら顰蹙(ひんしゅく)を買います。自分の責任でしっかり管理しろと言われそうです。他責、他動的なのです。この後のミーティングに出席する管理部門、人事部門は、主体的に管理をしないのではないかと心配するのです。  会社や社員がよりよい状態になるために管理部門、人事部門はいろいろ考え、さまざまな施策を実施します。新しいことをやるにはそれなりの社内の抵抗などもあるでしょう。このような抵抗を乗り越えて自分の責任で施策を実行してこそ成果が上がります。そのような姿勢と“吸えないことになっております”の姿勢にギャップを感じるのです。  トイレの張り紙を見て、管理部門、人事部門の姿勢を推測し、会議に向かうことがたびたびあります。張り紙と管理部門、人事部門の姿勢にどの程度の関係性があるかは統計的にわかりませんが、“吸えないことになっております”を見ると、実は疑いながら会議に出ています。 以上

練習時間が足りない | その他

練習時間が足りない

以前、あるIT企業の経営者からこんな話を聞いたことがある。 「職場とは成果を上げる場であって、練習をする場ではない。スポーツでいえば、試合をする場なのだから、自分の実力が足りなければ、試合に臨む前に自ら練習し、腕を磨いておくものだ」 新しい技術が次々に生まれるIT業界特有の事情もあるかもしれないが、勝つか負けるか、という競争の中で、勉強、練習のつもりで仕事に取り組むというのは、端から勝負を捨てているようなものだ。そのような社員を見れば、苦言を呈したくなるのも無理はないだろう。 一方、社員の側からは、「ではいつ練習をしたらよいのか?」という声もあった。1日8時間の勤務時間、休憩や残業も含めると10時間以上職場に拘束される。さらに、通勤時間、食事や家事、育児など、生活に必要な時間、それに睡眠時間を考慮すると、時間は幾ばくも残らない。仕事以外の時間で練習をする、というのがそもそも現実的ではない、自身のスキルを高める時間的、精神的余裕のないまま、日々の仕事に忙殺されているというのである。 もちろん、そのような職場環境であっても、プライベートの時間を削って、自ら学習、スキルの習得に余念のない社員もいるし、自分の能力が足りなければ長時間の残業も厭わず仕事をやり切り、その中で必要な知識やスキルを得るという社員もいる。しかし、誰もがこのような働き方ができるわけではない。世の中の流れから言って就業時間外の練習を強制することもできないだろう。結果的に、仕事の練習が足りていない社員が増えていくのである。 社員一人一人の実力を上げ、職場での成果を上げるためには練習が必要だが、就業時間外の練習は強制できない、というのであれば、もはや試合時間を短くするしかない。その時間で自主的な学習を促すということを検討しなければならないだろう。 これにはさすがに”甘い”という意見もあるかもしれない。しかし、現在の1日8時間という労働時間の取り決めは、1919年の国際労働機関の採択が根拠となっており、100年も前の労働生産性についての研究がベースになっているものだ。その当時とは、社会情勢、職場環境も全く異なる現代社会において、1日8時間という就業時間にこだわらなくてもよいのではないだろうか。