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コラム

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ワークライフバランスの本質 | その他

ワークライフバランスの本質

ワークライフバランスの本質 月末金曜は15時に仕事を終えることを推奨する「プレミアムフライデー」の導入にあたり、旗振り役の経済産業省が、各省庁にキャンペーンへの協力を求めたところ、 「では15時に帰社しますが、15時以降は何したらいいかモデルケースを示してください。」と言われたそうだ。 笑うに笑えない話で、仕事を早く切り上げて、15時に帰社しても、何をすればよいのか、 自分で考えず、誰かに決めてもらうのを待っているような受動的な労働者が、日本には数多くいることを象徴しているように思う。 「長時間労働の是正」は、極めて重要なテーマであるが、仮に、帰社時間を今よりも早められたとしても、それで、ワークライフバランスの実現という訳にはいかない。そもそも、ワークとライフは対立する二者択一の要素として、ワーク:ライフ=4:6とか、3:7という議論や、単純に、○時に帰社して、全体の○割をライフに割り当てなさいといった事に、話を単純化してしまうと事の本質をゆがめてしまう。 早めにワークを切り上げ、ライフの時間をゆっくり過ごすことで、体力や気力が高まり、健康的になり、ワーク時と異なるコミュニティでの活動をするなかで、新しい発想力や人脈を身に着けられ、ワークにも生かされる。あるいは、ワークの中で、得られた知識やコミュニケーションスキルが、ライフの中でも、有効に活用されていく・・・。 こうして、ライフからワークへ、あるいはワークからライフへのインプットで、双方のクオリティが高まっていくことが本質的なゴールであり、ワークとライフの相乗効果を求めるワーク・ライフ・シナジーや、ワークとライフが相互に好影響を与えあう環境を追求するワーク・ライフ・エフェクティブネス、あるいは、ワークとライフを明確に区切らず、ワークとライフを高いレベルでの統合をめざすワーク・ライフ・インテグレーションといったアプローチへと議論のフォーカスを高めていかなければ、真のゴールには到達しない。 冒頭の話から推察するに、15時と言わずとも、定時に帰社してから、何をすべきかわかっていない労働者も、我が国には多数、存在しているのが現状だろう。 長時間労働をしている人々の中には、本当に切羽詰まっていて、やむなく残業している人々もいる一方で、定時に帰社したら何をするか、明確な意図がなく、残業代も出るし、とりあえず、働いておこうといった、非本質的な長時間労働者が少なからず、混じっているものと思われる。 長時間労働の是正やワークライフバランスの実現について、政府や会社が方針や施策を出すことは重要であるが、単に●時帰社、●時間以上の残業禁止といった外形的な施策だけでは、そもそも限界がある。 それよりも、重要なことは、労働者一人ひとりが、政府や会社の方針を待っているだけの受動的なスタンスから脱却し、自らの頭でワークとライフをどうバランスをとるか、ワーク(ライフ)に効果的なライフ(ワーク)とはなにか?など、自らワークとライフの在り方を主体的に考えていくようにならない限り、真のワークライフバランスの実現はないだろう。

部課長が保守派? | その他

部課長が保守派?

最近、企業の経営者の方に会うと働き方改革の話題から始まり、激しく変化する経営環境に対して、どんな姿勢で臨むべきかといった話題になる。 「トライ&エラー」という言葉があるが、これについてはどうお考えですか。と質問すると自分もそういった姿勢や考えでやっていると返ってくる。経営者としては、それだけ変化の激しさに迅速に対応せざるを得ない状況、ということだ。 経営者としてのリーダーシップや経営意思決定は「経営状況の関数(f)」であり、その時々の状況に合ったものが求められる。 安定的な経営環境下では、方針をブレなく遂行することが大事で、変化の激しい環境下では、素早い方針の転換が必要ということだ。 経営トップがこのような姿勢なら、その下の部課長も同じかというと、そうでもないらしい。 中間管理職として業務の遂行が第一であり、考えがコンサバになっていて変革を嫌う節があるというのだ。部下から新しい企画が上がってきても、リスクが多いとか現実味がないとか、そもそもリソースがないとか。この手の考えが自分の立場を守ること、すなわち保守的な立場に逃げ込んでいるケースが多いという。 今の時代が部課長に要請するのは、組織を安定させるだけでなく、変革に向けて自組織を引っ張り、トップや部下を巻き込んでいくような意識改革・行動変容である。 トップからの指示待ちではなく、自らが変革の気概と意欲を持ち、変革の担い手としてリーダーシップを発揮することが求められている。 先人の変革者を見てみると、日本という枠にはまらず、自由奔放な越境精神で日本社会の変革に貢献した坂本竜馬が上げられる。彼が変革者として成功したのは、立場の違う人の言うこともしっかりと 聞き、良い所を吸収する柔軟な考えを持っていたこと。そして、多くの人が実現不可能だと思っていることでも成功させられる行動力を持っていたこと。新しい時代の明確なビジョンを持っていたこと。 そして最も重要なのは、優れた人脈を幅広く持っていたことだと言われている。さらに、龍馬は北辰一刀流の達人だったが、 ピストルを使いだしてからは刀を捨て、着物に革靴を履き、香水も付けた。貿易結社である海援隊をつくって貿易ビジネスに挑戦したのだ。 彼はこう言っている。「何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿者なり」 こうした変化・改革を恐れない勇気や柔軟な発想と行動に学びたい。 以上

富山県人 | その他

富山県人

 経営者、人事部門は社員に対して厳しい目で見ている。活躍する社員や活躍しない社員に対して、類型化するのが好きである。経歴や性格、ライフスタイルなどを分析して、活躍するタイプ、活躍しないタイプを見極めようとする。新卒にせよ中途にせよ人材のセレクションは、自分が重要視している“尺度”によって判断することが多い。平板な採用基準では語れない、実例の蓄積からの“感覚”が重要なのである。それだけ経営資源たる“人材”は複雑であり解明が困難な存在と言えるのだ。  国内市場がシュリンクしていくことが予想され生き残りをかけた競争が激化する。グローバル展開は海外の競争相手と戦わなくてはならない、そのためには人材も変化に柔軟に対応し、新たな価値を生み出し、スピード感ある人材が必須となる。このような人材に育つには、安定志向が強い人材は向かないだろう。異なる環境を理解し、多様な経験、交流を持つ人材のほうが適している。時にグローバル展開をしている企業や競争の激しい環境の中にいる企業の経営者や人事部門は、人材に対して強い危機意識を持っているため、現在の人材では満足せず、新たな価値を創造できる素養のある人材がほしいのだ、もっと言えばそれ以外の人材には高い価値を感じないともいえる。  “富山県の人材は採用しない”といった不二越の本間会長に対して否定的な意見が強い。富山県人は保守的で進取の気風がないという発言に対してである。富山で生まれ、富山で育ち、富山の学校を卒業した人材は“革新性”、“創造性”、”攻撃性“で物足りないと感じるのであろう。この発言に対しての批判は痛烈である。差別的、公平感がない、富山純正人材も優秀だといった意見である。たしかにこの批判は一面の説得性はあるが本質を突いているのか疑問である。  不二越の会長には面識はないので人となりはわからないが、発言の主旨はよく理解できる。経営の一線で活躍してきた独自の“尺度”で判断したときに、“純富山人材”は活躍する人材の比率が低いということだ。実例に基づく重要で意味のある発言である。純富山人材の傾向が明確なのであろう。 営利を追求する企業が自社の基準で採用を判断することの自由は確保されなければならない。全責任を負って経営を担う立場の人が“求める人材”を語るのであるから相当重い発言であり、説得力がある。一民間企業の採用が過度に公平であり、一般人の感覚の“常識”である必要はない。批判する側の“公平”という言葉が暴力的にすら感じる。  発言が仮に“特定の価値観にとらわれない”、“様々な環境を享受できる”、“異文化を受け入れられる”という表現で、”国内一か所だけでなく海外留学経験がある”、“英語がネイティブに近い”などのようにポジティブに表現すれば問題なかったではないか。この表現であればだれでもが賛同するだろう。しかしその主旨で一歩踏み込み、妙な具体性のある“純富山人材はいらない”という表現をしたので過度な批判をされてしまう。一線で活躍してきた経営者の発言の“主旨”に重点を置くべきで、ほしい人材に対して“世間”、“常識”を意識せず尖るべきだ。ユニークなビジネスモデルの企業にはユニークな人材が必要である。普通の要求ではないのだ。世の中の“常識”的な感覚など関係なく、独自に価値観、独自の基準を貫くことが生命線である。  経営者、人事部門は日本の小さな常識など意識せず、もっと尖った基準で判断することに恐れを抱くことはない。強い企業は他にはない強いモデルで、他と比較するものではない、人材も他と比較するものではなく公平などの観点でなくユニークでなくてはならないからだ。

惨劇のプレゼン | 人材開発

惨劇のプレゼン

 社会に出てからやってきた仕事は、分野は異なるものの、いずれも顧客に企画提案して受注を獲得するというタイプだった。ゆえに、数えきれないほどのプレゼンテーションの場に身を置いてきた。何回かは、会心の成功を収めたことはあるものの、その何倍もの失敗があり、なかでも惨憺たる状況として今も忘れられないいくつかの事件がある。  まずは、あまりにもばかばかしいミスである社名の間違い。社長以下役員が揃うプレゼンの場で、配られた分厚い提案書の表紙を見たとたんに社長が席を立ち役員を引き連れ、なにも言わずに部屋を出ていったのだった。一瞬呆然としつつ、瞬時に悟り顔面蒼白の企画担当者。その後の顧客側担当者を含む提案チームがどのような惨劇となったかはいうまでもない。  あるビール会社の社長に向けたプレゼンでは、プレゼンターがきわめつけの失言をした。出たばかりの、同社肝いりの新製品を「~~~といったキワモノを出されて、、、」と口にすると、間髪をいれず社長は席をけって仁王立ちになると「失敬な! 出ていけ」と怒鳴ったのだった。当然その商談はなくなったが、直後に社長室に駆けつけ責任者として謝罪すると社長は、ふだんと変わらぬ調子で「立場上ああせざるを得ないだろ」とにやりと笑った。ああこの社長と仕事がしたい、と必死の思いで次の提案機会をなんとか得て、翌年は契約を得ることができたという後日談も忘れ難い。  とても現実とは思えない出来事もあった。成功者として名高い創業社長の二代目、代替わりしたばかりのまだ30歳代の若社長に向けての提案だった。プレゼンターが実直かつ口下手な男であったことも災いし、冗長な説明を聞かされている社長は、つまらなそうにぺらぺらと手元の提案書を先のほうまでめくっている。その光景にさらに焦り、説明自体がしどろもどろになっていく中で、なぜか社長は、提案書のステープルを外し、バラし始めたのだった。  と、そのバラされた提案書の一枚を熱心に折り始める。プレゼンターの悲壮な声がむなしく響く。しばらくして出来上がった紙飛行機を、社長はまったく無表情のままで、我々に向かって静かに投じたのである。かくて、ゆらりゆらりとプレゼン会場を蛇行して飛ぶ紙飛行機の光景は、当時の同僚たちの間でいまも語り継がれるシュールな伝説となった。  といった様々な惨劇がプレゼンテーションという儀式には生まれる。しかし、いちばんつらいのは、こうした、分かりやすい外形的なダメージではない。最大級の惨状は、内容的に切り捨てられることである。ともすればわかりにくくてその場にいる人たち全員は気づかないこともあるが、当人同士では勝負がついている。つまり、提案者が負けている。  例えばこんなことがあった。 企画提案というものは、一言でいえば、ニーズやゴールを実現するソリューションの妥当性と差別性を主張するものだが、そのポイントの一つは、前提となるニーズやゴールの設定。そこは「仮説」であるが、その仮説をどう組むかが勝負どころになる。的確な仮説とそのためのソリューションが合理的に整合し、かつ魅力的であることが勝てる提案の条件ということだ。  プレゼン後7人の評定者からそれぞれに質問があり、大過なく進んでいたなかで、それまで興味なさげにしていた責任者と思しき人物は、ただ一点、仮説そのものの妥当性に疑義を表明したのだった。ときに、ソリューションの魅力や差別性を強調したいがために、ニーズやゴールのレベルを少しだけ高く仮説することがある。この提案もそうで、そこだけを彼は突いてきたのだった。  じーっとこちらを見つめ、馬鹿にした嗤いを口元に浮かべた彼は「仮説が違えば、あとは瓦解しちゃうよねぇ」と言った。

理論中心アプローチのすすめ | その他

理論中心アプローチのすすめ

 理論に基づいて体系化された知識、方法を学問というが、企業の人事、人材育成の領域は、学問と呼べるほど成熟していないように思える。教育を行う側の講師やインストラクター、企業の人材育成担当者などは、人材育成のプロとして、教育学や学習心理学など、成人教育の理論について学んだ経験を持っているだろう。しかし、その他の社員については、おそらくそのような学習機会を持ったことはほとんどないに違いない。学ぶ側の人材はその背景にある理論を知らないまま業務知識やスキルを習得させられている可能性が高い。  少し前まで、スポーツの世界では精神論や根性論が幅を利かせていた。この本来の考え方は「苦労にめげず向上を目指せば、できなかったことができるようになる。そのためには努力が重要であり、努力を続けるためには根性が必要である」というものであり、これ自体は否定すべきものではない。だがこの考え方が行き過ぎた結果、無駄に長時間トレーニングを強いたり、誤った練習方法が故障の原因になったりするなど、多くの問題が指摘されることとなったのである。このような問題も、スポーツの理論が体系化されスポーツ医学や運動生理学が注目されるにしたがって、過去のものとなり、現在では、学校の部活動などでも理論に基づくトレーニングが行われようになっているのは周知のとおりである。  スポーツの世界では選手もトレーナーも理論を学び、理論に基づくトレーニングを実践することで結果を出していくというアプローチが当たり前になっているわけだが、企業の人材育成の現場はそうなっていない。教える側はさておき、学ぶ側に対して正しく理論を理解させようという意識が希薄に感じるのである。人材育成はもっと理論をベースとしたアプローチをとらなければならない。これは特に新入社員研修のカリキュラムを見るとそう感じることが多い。  まず第1に、学生から社会人へとシフトする際に、社会人としての学び方を学習する機会がない。新入社員研修のカリキュラムにはたいてい学生と社会人の違いを意識させる枠がある。確かに、学生から社会人への意識の転換は重要なテーマであり、うまく意識をシフトできない新入社員に先輩社員たちが苦労させられるのは毎年の恒例行事といってもよい。単に学生と社会人の立場や責任の違いを考えさせるだけでなく、もう一歩踏み込んで、オトナの学習というのがどのように為されるものかということを理論的に解説して欲しいものだ。  それには学習モデルの理論が役立つだろう。代表的なモデルとしては、「経験学習モデル」がある。OJT等で採用している企業も多いことだろう。このような学習モデルは教える側、学ぶ側の双方が、人材育成についての共通認識を持つためのツールとして非常に有効である。  また、新入社員は翌年には部分的にではあるが、学ぶ立場から人に教える立場になる。何かを教える際には、自分の経験をもとに教えてしまうことが多い。これがうまくはまる場合もあるが、逆効果となってしまったり、悪くすると組織としての教育計画を破綻させてしまう可能性すらある。したがって、経験を積んでいるときから理論を理解し、実践する機会を作ることが重要だ。  そのためには、学びの源泉である動機付けの理論が参考になるだろう。動機付けの理論とは、いわゆるモチベーションに関する理論である。代表的なものとしては、マズローの欲求段階説や、外発的/内発的動機づけの理論がある。  例えば、先輩社員から仕事の指示を受けたが、自分のやりたいこととギャップがあったとしても、自分なりに仕事に意味を持って取り組んだり、自身の成長課題として取り組むなど、自ら動機付けし、仕事をやり遂げたという経験の有無は、自分が仕事を指示したり教えたりする立場になった際に、大いに役立つに違いない。  ここまで新卒社員研修のケースを例に挙げてきたが、これは何も新卒社員の場合に限定されるものではない。階層別研修やリーダーシップ研修においても、理論は社会人としての正しい学び方を習得するための一助となるだろう。それは何もこれまでと違うことをやるというわけではなく、今実施している人材育成の施策に理論的な裏づけを与え、学ぶ側にも理解を求めるということである。  このような理論中心のアプローチが一般的になることで、企業の人材育成の領域は学問として成熟し、より具体的な育成成果が期待できるものになっていくだろう。

人事評価の新トレンド | 人事制度設計

人事評価の新トレンド

我が国では、人事評価を年1回、ないし、半年に1回行っている企業が大半を占めているが、米国では、数年前から、年次評価や半期の中間評価をやめ、社員にリアルタイムでより頻繁にフィードバックを行う企業が増えている。 この背景には、期初に目標を置き、期末にその達成度を確認・評価するという従来の目標管理制度がうまく機能していない実態がある。ビジネス環境が日々刻々と変化する中では、期初に立てた目標は、1年後の期末には、陳腐化してしまう事があるし、何か月も前に起こった事象に対して、後から上司と部下双方でその時を思い出しながら、まとめてフィードバックや改善施策を議論しても遅きに失してしまうという事もある。 年に1回、AとかBとか各社員をレーティングすることもやめて、代わりに、上司が部下へ頻繁にフィードバックを行う。部下の個々のアクションに対して、「先週のクレーム処理は完璧だった」「あのプレゼンは、正確でなかった」「この業務は期限内の終了しなかった」と言った率直なフィードバックを行い、課題解決に向けた方策を双方で議論する。直近の部下の行動やパフォーマンスについて速やかに議論を行い、上司と部下とのコミュニケーションを増やすことで、双方の認識がズレたまま、漫然と業務を遂行し続ける事を防いだり、課題を解決するための行動をより速やかに導くことを目指している。 1年まとめてじっくりパフォーマンスの評定をするより、日々の行動の都度、フィードバックを行うことを重視する人事評価のトレンドは、今後も、社会の変化のスピードがさらに加速すると言われている中で、ますます、浸透していくと考えられるが、この仕組みを導入している企業の現場では、まだ、必ずしもスムーズに事が運んでいるわけではない。実際、現場の管理職には、多くの負荷が掛かっていて、毎月、何十回も部下とのフィードバックのミーティングを行う時間を確保することだけでも大変であり、また、部下に対し、ストレートにフィードバックする事で、感情的なストレスを抱えることもある。こうした取り組みが定着していくためには、上司、部下ともに、一定の試行錯誤の時間が必要なことは確かだろう。 今後、このようなフィードバックを効率的に行うためには、管理職の負荷軽減と部下とのコミュニケーション力の向上がカギとなる。それを推進するには、なによりITツールの活用が不可欠となる。目標設定や社員の進捗状況をリアルタイムで評価するツールや、会議やイベントの終了後に関与した社員にその評価を求める多面評価システムなどがそれにあたる。例えば、大きな会議が終了した後、出席した上司や同僚が席に戻るとパソコンにメールが送られてきて即、その会議の内容や進め方についてのアンケートを求められ、その結果は、即、会議を主催した当事者にフィードバックされるといった具合である。 従来のように、1年まとめてじっくり評価しようとしても、当初の目標設定がずれたり、上司の認識が異なるまま評価され、不満を抱えたまま、翌年を過ごすより、一つの業務の節目ごとに、ほぼリアルタイムで周囲からフィードバックを受け、頻繁に、今後どうするべきかを上司とともに建設的に考えていく事ができれば、社員の評価に対する不満は減り、モチベーションは向上していくことになるだろう。 我が国においても、以上のようなITツールが充実するに従い、こうした頻繁なフィードバックをベースとした評価システムへと移行していく事になるのではないだろうか。

組織の言語 | その他

組織の言語

 言語相対性仮説という仮説がある。「人の思考というものが、言語を用いてなされているのであれば、思考は言語に影響され、異なる言語を用いる人との間では同じ認識を持つことができない」というものである。サピア=ウォーフの仮説という呼び名の方が有名かもしれない。  これには二つの仮説が含まれている。ひとつは「言語のない思考は存在しない」という仮説だが、これはその後の非言語的思考の研究により、成立しないとされている。もうひとつの「言語は人の思考に影響を与える」という仮説についてはさまざまな意見はあるものの、限定的ながら成立するという主張が一般的である。 人が頭の中でめぐらせている思考は、言語が違うからといって、お互いに理解しあえない、と言えるほどの大きな違いはないが、それでも、さまざまな認識に影響を与えているらしい、ということである。  同じことは組織においても言えるだろう。組織が違うからと言って、お互いに理解しあえない、とまでは言わないが、組織自体がそこに属する者の認識や行動に様々な影響を与えているのである。 例えば、経験も実績も豊富な中途入社社員が、新しい職場で本来のパフォーマンスを発揮できなかったり、ベテランらしからぬミステイクを犯したりすることがある。 これを単に新しい環境に適応できていないから、と片付けてしまうのは少々乱暴な気がする。  組織にはそれぞれ独自の価値観やポリシーがあり、同じ言葉でも違うニュアンスで使われていたりすることもある。業務フローやコミュニケーションのスタイルについても同様だ。これらはその組織固有の”言語”といってもいいだろう。 組織の言語が異なることにより、思考が影響を受ける。そして、その思考が行動にも影響する。しかもそれはほとんどの場合ネガティブな方向に作用するのである。 これは時間を置けば解決することもあるだろうが、放置することにより、メンタルへの影響、人材の流出にも繋がりかねない。  これを防ぐためには、組織の言語を誰もが理解している状態、かつ、新しくその組織に加わった者には、その言語を効率よく学習させるプロセスを用意することが必要だろう。 そのような環境を作り上げるうえで、人事の果たすべき責任は大きい。人事の役割は人事制度を作ることだけではない。経営戦略実現のための人材マネジメントこそが人事に課せられた使命であり、だからこそ、その制度が何のために、何を目指し、それをどのように実現するのか、誰もがわかる言葉で理解の浸透を図らなければならない。 それができてはじめて、組織の全員が力を結集するための方向性を示すことができるのであり、それこそが人の思考に影響力を持つ組織の言語となるのである。

プレイングマネージャーの目線 | その他

プレイングマネージャーの目線

最近名刺交換をさせていただくと、グループリーダーやチームリーダーという肩書が非常に多くなったことを実感する。従来の部・課制を廃止し、組織の見直しと共にフラット化を進め、ユニット単位で仕事をしているということだ。 このグループやチームを牽引する部課長は、ライン型の職場の長と違い自分自身も固有の担当業務を持ち、かたわらでメンバーの指導・育成にあたる。これまでのスタイルで部門目標や方針を立案し、部下の管理をしていくのとは違い、頼れる兄貴分のように部下と協議しながら、アドバイスをし、チームの成果をあげていく。いわゆるプレイングマネージャー型である。 このプレイングマネージャー型にはメリット・デメリットの両面がある。もちろんメリットの方が大きいと思うが、デメリットがないわけではない。その最たるものは、プレイングマネージャー型の管理職は、部下やメンバーと同じ目線で仕事をしてしまいがちな点だ。兄貴風を吹かすわけでもなく、自身も業務をこなしていくメンバーの1人なのだから、チームワークを大事にしていくのは良い。 しかしそのことが変に作用し、リーダーであるはずのマネージャーの考え方や判断の仕方、仕事の質がメンバーと同レベルになってしまうことがある。 人というものは、一度身についてしまった自分なりの判断の基準や、決断のタイミングに無意識のうちにこだわることが多いと言われる。チームの部下からの報告をうける場合、「かなり売れています」、「ほとんど大丈夫です」、「できるだけ頑張ります」、「なるはやで対応します」等のあいまいな表現を聞いて、そのまま自分の判断も流されていないだろうか。 部下ごとの時間や量の尺度を理解して判断していれば良いが、実際は聞いた言葉をそのまま受けとめてしまって、感覚で判断しているのである。 報告に対し指示を出す場合、部下には具体的な数値や時間軸を的確に伝え、あいまいな部分を残さないようにしたいものである。 そして「さすがリーダーはそこまで考えているのか」といった感服が必要だ。 それが部下の成長につながるだろうし、信頼も生まれる。 チームワークはもちろん大事だが、絶えず一段上の目線で仕事をするためにいつでも自分の判断力、決断力をチェックし、磨いておくことを忘れてはならない。 ビジネスは生き物で、常に状況は動いているのだから。

関係の体系としての企業 | その他

関係の体系としての企業

 いつのころからか、「ヒト、モノ、カネ、情報」と言われるようになった。情報つまり企業固有の知識・技術が経営資源であることは、昔から変わりはないが、それらは、ヒトに属するものだった。それを、情報という独立項目として外出ししたのは、ICTの進化により、情報の蓄積と活用がしくみとして可能になったからだろう。ナレッジマネジメントという概念もまた、そこに生まれている。  ナレッジマネジメントがすでにある情報・知識を管理し活用するだけだったら、情報をそのようなもうひとつの経営資源とみて、高度活用の術を追及すればいい。しかし、組織を情報知識体系とみるときの眼目は、「情報創造」にある。経営にとって、会社が存続し、また存立する価値を持ちうるためには、新しい情報や知識を創出し続けることの重要性が含意されている。  AIがヒトを超えるという事態が迫っているからには、もはやそうではなくなるかもしれないけれども、情報を創造する主体は、どこまで行っても、ヒトである(と信じたい)。とすれば、ナレッジマネジメントが本来的に機能するためには、「独自の情報・知識をどう管理するか」の対極にある、創造性の喚起に関わる二つの問題が議論されなければならないだろう。  一つは、個々人にどう創造させるか、である。創造のためのフレームワークの活用や創造技法をあるものの、人々の内発的な創造性開発研修といったものが存在しないように、創造をもたらす方法はテクニカルにはつかみがたい。人がある事象を、考えに考え抜いたその先に生まれるブレークスルーの理屈はわからないけれども、ただ、寝食忘れて考え抜くという情熱と持続力が要件になることは確かだろう。  それができるのは、その創造せねばならないことが、自分にとって大きな意味と意義があるからである。人は、目的の意味に共感するときにはじめて創造を可能にするといわれる。とすれば、従業員が創造するためには、その目的、事業的な意味とか社会に対してどのような価値を提供したいのか、といった会社や仕事の目的が共感でき、真剣にその達成を願えるものでなければならない。  会社は利潤追求装置である。自身の仕事で問われる創造性=新しい効果的な方法の創出、が会社の利潤拡大に大きなインパクトを持つことだけでも、やりがいはある。さらに、その利潤獲得のための事業そのものに意味と意義があれば、ヒトはその行為に大げさにいえば、“全存在かけて”投企するのではないか。  つまり、本業そのもののCSR性がそこに要請され、また、従業員がそれを体感できていることが大事になる。これが、一つ目の議論であり、それは自社のアイデンティティを問うことに至らざるを得ない。しかし一方で、そのアイデンティティは、全社一丸、固有の価値観を共有し、自社独自の情報資源を守り、再生産するための「自社の枠組み」として“閉じて”いてはならない。  これが、創造性を喚起するための、もうひとつの議論である。新しい発想は、他の発想との相互刺激によって、創出促進される。ヒトの発想行為では、相似性の追求や異質性と交換が有効ともいわれる。またそもそも現代社会では、新しい知識や技術はそれ単体としてよりも、他との連関性のなかで活用され、そこにさらなる知識・技術を生み出していく。  とすれば、自社内を越えた情報創造、たとえば他社の知識・技術をもつ人との情報連関と相互作用こそがブレークスルーの鍵かもしれないし、企業の壁をこえたCSRがそこに生まれるかもしれないのだ。そうした自在なやりとりには、堅固な“わが社アイデンティティ”は、邪魔でしかない。  つまり情報知識体系としての組織は、オープンシステムであることを要請する。さて、そのように情報が、その担い手であるヒトが、自在に交通する組織は、いかにして可能か。その組織論や戦略論、制度論や人材マネジメント論はおそらく、「個別企業の壁をどう超えるか」ではなく、「(社内外を通底する)関係の体系としての企業」という企業観から始めなければならないだろう。

生産性への意識 | その他

生産性への意識

 民間企業は、商法や商慣習、社会的常識などのルールの中で利益の最大化を目的にして活動する組織である。ビジネスチャンスを見つけ、稼ぐモデルを作り、それを実行して利益を上げるという団体である。  多くの学生は学校を卒業し、民間企業に入社する。学校は実態的には民間企業人材を養成しているともいえる。しかし民間企業の目的や会社組織の基本構造、ビジネスの基本的な知識などビジネスの基礎的素養を伝授できていないのが実態である。新規に入社した社員や、その後キャリアを積み重ねた社員を見ても、利益の最大化を目的とした組織で働く知識やスキル、マインドをあまり理解していないと感じることすらある。自己の役割の根源が短期、中長期の利益のためということが本質的に理解されていないため、経営者からみると多くの場面で営利企業の構成員として違和感を持つのである。  たとえば管理職の社員にもかかわらず経理財務的な知識やスキルがないことなどはその代表的なものだ。管理職は企業の一つの組織を経営から委嘱されて管理するものであるから、当然組織の方針、計画、日常の業務管理、部下の人事管理、コンプラなどとともに自組織の経営的効率性という観点での管理が必須である。基本的な経理財務知識がなければ、効率的効果的な利益貢献活動などできない。自組織のあるべきコスト構造やそれがどこまでコントローラブルかという視点なくして、適正なコストマネジメントはできない。管理職になって基礎的な経理財務的な研修を行うことは、今までのキャリアでそのような視点を持っていない、指導を行っていないのではないかと疑ってしまう。管理職社員に経理財務的な教育を行うことがあるが、あまりにも遅すぎる。  利益の最大化という視点に立てば、社員の業務に対する意識は、高いアウトプットをいかに少ない資源投下で出すかということである。民間企業の社員は常に生産性を意識するのが仕事の本質ともいえるのだ。近年にわかに残業時間の適正化、社員の生産性の向上が議論になるが、そもそも利益追求のために生産性向上は根源的、恒常的課題であるにも関わらず、社員側の意識、行動がそうなっていないことが放置されているのだ。非効率な残業が発生する、過去から行っているという理由で無駄な業務を行う、状況に合わせた柔軟な業務遂行ができない、コミュニケーションが悪く組織効率が上がらないなど多くの問題現象が職場で日々発生している。業務指導の中でビジネスの本質や魅力やモデルを伝えられていない可能性が高い。これは日常の中で“いかに効率的に稼ぐか“が目的となっていないのだ。  民間企業で働く社員は、その職業特性として“生産性”への意識は生命線であることを再認識しなければならない。入社時点で“営利企業人“としてのマインド、特性、行動をインストールしなければならない。このあたりがあいまいで、社内が”稼ぐ“マインド行動となっていない企業も散見される。営利企業人としてのマインド、知識、スキルを、再度徹底して浸透させる必要があるのではないだろうか 以上

シェアリングエコノミー時代の採用 | その他

シェアリングエコノミー時代の採用

予定通りに人材確保が出来ない今、採用業務に多大な時間と労力を割かざるを得ない企業は少なくない。そんな中、中途採用の選考時に面接で、応募者のドタキャンや無断欠席が時々あるという話をよく聞く。書類選考を行い、応募者と面接者の日程調整し、面接室や書類を用意し、いざ、面接日に応募者を待っていると、予定の時間になっても、何の連絡さえもなく応募者が現れない、さらに、こちららから電話しても全くつながらない・・そんなことが、少なからず起こっているようだ。 やむを得ない事情で、突然キャンセルせざるを得ないこともあるのだろうが、少なくとも、約束した時間に何の連絡もなく、面接の場に現れないというのは、社会人・企業人として資質を問われかねない行為だ。 無断欠席することで、採用担当者の準備調整の時間や面接者の待機時間などを含め、相当な無駄なコストが企業側にかかっている事を応募者は想像できないのだろうか。いや、面接を無断欠席してしまう事の問題の大きさは、応募者もある程度理解しているのだろうが、いざ面接日の時点で応募時と状況が変わり、その企業に入社する意思はなくなり、迷惑がかかる事はわかっているが、何となく、連絡するのが気まずかったり、面倒くさいという理由で、しらばっくれてしまうというのが実情なのだろう。なんとも、情けなく、無責任な話ではある。 こうした行為の背景には、コンピュータやインターネット等のテクノロジーが発達し、採用募集している複数の企業に対し一斉に応募が可能になったり、選考プロセスがメール中心のコミュニケーションとなる中で、求職活動の人間的な側面が希薄化し、応募者は企業側の立場をリアルに感じる事が難しくなっているのかも知れない。 しかし、それ以上にこうした問題が起こっているのは、無断欠席しても、社会的責任を追及されず、応募者自身に実質的に痛みを伴うことがないからだろう。もし、ある企業で採用選考時に無責任な行動をしたとしても、それが把握されるのは当該企業だけで、おそらくは、外部に知られることもなく、応募者のその後の職業人生にキズがつくこともないのだ。 ネット社会が進化する中で、今、オークションやAirBnB(民泊)など不特定多数のサービスの提供者と利用者をマッチングするいわゆる「シェアリングエコノミー」が広がりを見せている。こうした取引では、提供者と利用者が相互に取引を評価する仕組みが確立されている。例えば、AirBnB(民泊)では家を貸すホストと泊まるゲストが互いに評価する。この仕組みは自分も評価されるので悪意のある評価は付けにくい。自分に低評価を付けられると、今後やホストに拒否される可能性があるからだ。相互評価の仕組みがあることで、提供者、利用者ともに、善良で適正な取引を行うことが促されて、安心したマッチング取引が可能になっている。 企業の採用活動においては、インターネット上の口コミサイトなどでは、各企業の採用プロセスや対応などが、評価され、広く公開されている一方で、マッチングの相手となる応募者の選考プロセス時の行動については、当該企業のみが知るのみで、応募者の言動が評価されたり、シェアされることは一切ない。こうした企業側だけが評価される一方的なシステムが、結果として、応募者の無責任な行動を助長していると言えなくもない。 個人情報の保護などクリアすべき点はあるだろうが、何らかのかたちで、求人企業と応募者が相互にチェック、評価される仕組みがあってこそ、バランスのよい牽制機能が働き、採用業務の効率化や高品質化が進むのではないだろうか。 

桜の宴 | その他

桜の宴

 まだ寒さも続き桜の開花も遅々としていたころ、誘われて、屋形船での隅田川花見に行った。どんなグループかは知らないまま、30人ほどの宴席に加わった。三々五々と岸辺の集合場所に集う様を見ているときから、風体とオーラが普通でない方々ばかりと訝っていたが、あとで全員のあいさつを聞いて腑に落ちた。ほぼ全員が、詩人、歌人、俳人といった創作に携わる人々だったのである。  企業の方々と、あるいは仕事仲間たちとの日常の宴席と、大きく異なる点が興味深かった。たとえば、挨拶のコメントの妙。宴の冒頭、全員がひとことずつ自己紹介をしたのだが、そこには、揺蕩う美学と狼藉があった。ふだん耳にしない言葉や文脈がいちいち面白くて、アウェイの醍醐味を満喫したのだった。  あいさつの皮切りは、77歳の詩人。著名な彼は、詩と俳句と短歌を生涯生業としつつ、小説や戯曲、評論も手掛けることで知られる。満開ではない桜を「おぼおぼしているね」と評し、三分咲き、五分咲きこその風狂を語るさまが実に恰好いいものだった。続く各人の言葉もまた、控えめながら創作に携わる矜持を醸し出し、常ならぬこの場に彩を添えるようと腐心していた。  なにより、企業人たちとの日常の宴席とのいちばんの違いは、みなさん、たいそうおしゃれだったことである。ちょっとこぎれいといった体ではなくて、かなり個性的というか人目を惹く姿ぞろい。とくに、男たちの服装は異様で、しかし美しかった。いちいち詳述するのも野暮なので書かないけれども、一点共通しているのは、「靴」である。高齢の人たちも多かったけれども、みな例外なく、ただならぬこだわりを感じさせるブーツ系の靴で足元を固めていたのだった。 花見の宴席というイベント(=ハレの場)に臨むうえでの「表現者」としての姿勢だろうが、ファッショナブルな年寄りが集うさまはなんとも愉しい風景だった。ひるがえって思い起こすと、企業人の宴席の、服装のなんともつまらないことか。例えば、各所で年中行事のようになされ、場所取りばかりが課題となる花見の宴会。会社を終えてからの花見だからスーツ姿もやむなしかもしれないが、もっと自在に、見た目からして非日常を愉しんでもよいのではないか。 多様性のマネジメントが喧伝されるけれども、場に合わせてプレゼンスを変えるというような自身の多様性を仕掛けることも、ささやかにしてかつチャレンジングなダイバーシティである。大げさに言えば、多くの会社に根強い同質性カルチャーを変えていくとっかかりになるかもしれない。 いやいや、勤め人でいる間はそこまで服装に気遣わなくてもいい、定年退職後に「恰好いい年寄り」たるべく頑張りたい、というムキもあるかもしれない。しかし、そううまくはいかないのだ。ハレの場をどう愉しむか、ちょっと服装でエッジを効かせてみたい、といった工夫(=訓練)をバリバリの会社員時代にこそやっていなければ、定年後、ゴルフウェアまがいのカジュアルウェアにちょっと高そうなジャケット、足元は、アディダスのスニーカーといった姿にならざるを得ないのである。