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コラム

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従業員満足はいらない | その他

従業員満足はいらない

 いつのころからか登場したES(Employee Satisfaction)調査というものには、やや違和感を感じる。かつては、従業員意識調査はモラールサーベイといった名称で従業員の職務責任意識や士気、結束力の高低をみる調査であり、軍隊アナロジーで経営が従業員に要請する状態として分かりやすいものだった。つまり、業務遂行にそれが影響する。しかし、「従業員満足」というと、それがストレートにパフォーマンス発揮に直結するようには思えないからだ。  すべてのステークフォルダーズとの関係を良好に持つことが企業の社会存立構造であり、その一環として対従業員関係の良好度合いをそれで測るというのは分かる。「ESなくして、CS(Customer Satisfaction)なし」ということも、まぁ理解できる。だが、従業員がその会社にいることに満足していることが、各人の仕事の成果を高め、また組織としての生産性を高めることに結果するのだろうか。  おそらく「衛生要因」であることは確かだろうが、はたして「動機づけ要因」たりえているかどうか。満足しているからといって、職務遂行レベルを向上させ、更なる成果発揮を目指そうという姿勢をもたらすとは限らない。賃金がたかく非金銭的報酬も魅力的で、会社の構成員であることに本当に満足しているからこそ、無理をせず、つまりリスクをおかさずほどほどに仕事をして、その状態を満喫しようとするかもしれない。問うべきは、満足度ではなく、モチベーションの高低とその誘因なのではないか。  さらにいえば、モチベーションが高ければいいというわけでもない。大事なことは、「パフォーマンスにつながるモチベーション」の度合である。もしかすると、誰よりも高いモチベーションで仕事に臨んでいるローパフォーマもいるかもしれないからだ。だから、こうしたサーベイでは、誰の満足度か、どのようなモチベーションか、を見極められる分析枠組みが不可欠であり、従業員全体の満足度の高低やその因子に一喜一憂する必要はない。  こうした観点ではやはり欧米企業はプラグマティックで、ある米国のコンサルティングファームが各国の複数企業で実施した調査は、極めて興味深いものだった。「Employment Branding」調査と銘打って、「会社を辞めないでいる理由」を、仕事の属性やさまざまな就労条件、人間関係など網羅的な項目で調べた。会社の枠を超えて、人々を引き付ける「雇用のブランド」とはなにか、を明らかにしようというものだった。ただ調査分析の対象にしたのは、各社のハイパフォーマたちだけだったのである。  大事なのは、高業績者が、会社にとどまり成果を上げつづける、そのモチベーション因子、満足因子であって、全従業員のそれではないということである。ハイパフォーマにとってのブランドを構成するものを知り、それを強化することができれば、彼らの確保が促進され、業績が向上する。それこそが、業績に資するESであるという合理的な割り切りが小気味よい。  ちなみに、このマルチクライアント調査の結果は、たいへん示唆的なものだったが、明らかになったブランド構成項目はここでは書けない。ただ一点、あまりにも当たり前の事情ともいえるが、ハイパフォーマたちを引き付けるブランディングの最大の因子はやはり、金銭やさまざまなベネフィットではなく、仕事の意義や意味に関するものだったことだけを付記しておきたい。

成果のでない理由(わけ) | その他

成果のでない理由(わけ)

人事の課題の中には、時間をかけ、腰を据えて取り組まないと、成果を出すことが難しいものも少なくない。「女性活躍の推進」もそうした課題のひとつかも知れない。多くの企業で、従前より検討されているが、期待される水準を達成できている企業は数少ない。  例えば「指導的な地位への女性の登用」という観点で言うと、我が国の管理職における女性比率は10%程度で、欧米諸国の30〜40%に対し、大きく差をつけられている。取締役における女性比率についても同様で、2016年の上場企業の女性役員数は、わずか3.4 %と、こちらも欧米諸国の水準である20〜30%に比べて、大きく後れを取っている。以前より女性の積極的登用を検討してきたはずなのに、結果が伴ってきていない理由として、何が何でも女性活躍を推進しなければならない、というほどの重要性や危機感を経営層や人事の現場が共有して来なかった事が、正直なところ、あるのではないか。 そもそも女性活躍に限らず、ダイバーシティマネジメントを推進する目的の中には、性別、年齢など人間の属性にかかわらず雇用機会を提供すべきという「人権的な側面」や、人手不足を補う「労働力確保」の意味合いもあり、どちらかというとそうした観点から受け身的にこの課題に向き合っている企業は少なくないようだが、そもそも「企業の競争力強化や組織パフォーマンス向上」という企業価値を高めるための重要な取り組みであるという点を、我々は改めて強く認識する必要があるだろう。 テクノロジー革命やグローバリゼーションの急速な進行により、今後、今まで以上に大きく、かつ急激に社会が変化していくことが想定されるなかで、企業は、異なる知識や発想などを備えた多様な人材を積極的に取り込むことで、より多くのイノベーションを生み出し続けていくことが不可欠となっている。 言い換えれば、従来の男性中心の組織に、より多くの女性を取り込むことで化学反応を起こし、迅速かつ大胆に革新を継続していかないと、これからの厳しい競争下で、企業は生き残っていけないという事だ。 実際、米国ピーターソン国際研究所、クレディスイスなど各所が実施した調査等で、「幹部職における女性比率が高い企業ほど、収益性や時価総額が高い」という上記の仮説を、客観的に裏付ける結果が複数、報告されている。 女性活躍推進の領域で、我が国の前を走っている欧州各国も、最初から女性の役員・幹部職比率が高かったわけではない。危機感をもって、「女性役員クオータ制」の導入も含めた様々な悩ましい議論や取り組みを長年、積極的に行ってきた結果として、ようやく現在の水準までたどり着いている。 我々は、我が国だけが特別に難しい状況という認識を持つべきではないし、我が国だけは諸外国とは別だから、このままでもなんとかなるだろう・・と言った、独善的なガラパゴス発想を持つことはさらに危険である。 いまや、「女性活躍の推進」が企業の継続的発展の成長エンジンになるというのが世界的な見識であり、「社会的要請への対応」や「人材確保のため」と言った受身的、間接的な目的に留まらず、「企業競争で勝ち残るために不可欠な施策」という確信をもって、人事が事にあたっていくことが必要ではないだろうか。

選抜育成の光と影 | 人材開発

選抜育成の光と影

 選抜されなかった人材のモチベーションダウンが心配だ。選抜育成プログラムをやるかどうかの逡巡として、かつてはよくこうした声を聞いた。一方的に選抜され、閉鎖的に運用されれば、そうした事態も確かにありうるだろうが、自発性をベースとしたノミネーションプロセスを念入りに組み、プログラムの主旨と受講機会を周知し、恒常的な教育施策としてしつらえれば、その危惧はあたらない。かくて多くの会社で、管理職や管理職前の層からの選抜者教育がなされるようになった。  選抜するということ自体はもはや問題にはならない。しかし、選抜者への育成方法にはまだまだ問題がある。たとえば、こうした育成プログラムは、やりよういかんによって、まったく正反対の結果になることがあるからだ。受講した優秀な人材が、さらに自己成長し会社のなかで成果を出していきたいと動機づけられたか、研修の徒労感と会社への諦観すらある冷めた心理状態となったか、という違い。つまり、受講後、エンゲイジされるか、されないか、という全く逆の結果である。  それを分けるのは、研修コンテンツの良し悪しだけではない。選抜プログラムにかける経営の意思や想い、つまり、人材育成の本気度が受講生や従業員たちに伝わるかどうかに大きく影響される。  選抜育成プログラムは6か月間で月一回づつの連続研修といった形式が多い。たいていは、経営リテラシーの先行教育で、毎回の学習を経て、最終日に経営陣に対してプレゼンテーションを行う。次期リーダー予備軍として育成しながら見極めるべく、研修だけではなくアセスメント的アプローチも加え、何らかの成績管理をする。各研修の事前事後に課題を課すなど負荷をかけるのも常套的だ。さて、こうしたプログラムをどう運用するか。  ある会社では、受講生をグループに分けグループごとに2人づつ役員をメンターとしてつけた。彼らは、時々は研修をオブザーブし、場合によっては担当グループのディスカッションに介入したり、全体に対してコメントしたりした。加えて、担当グループのメンバー個々人の事後課題評価を行う。つまり、採点してフィードバックコメントを書く。受講生の側からいえば、講師以外に2人のメンター役員のコメントを受け取る。最終のプレゼンのための施策立案の相談にものり、最終日は社長以下役員全員が各発表に対してコメントし、また役員同士で議論がおこり、長い時間を費やした。  ある会社では、初日に社長のメッセージがあるはずが、来れずに2回目の研修で、来れなかった弁解とともに挨拶された。その後、人事部主催者と担当講師により粛々と研修が進んだが、欠席者の多さが問題になり、事後課題の提出が遅れがちだった。最終日のプレゼンテーションには、社長以下全役員が参加したが、社長だけが短いコメントをするだけで、予定より早く終了した。優れた提案に対しては、プロジェクト化して推進することになっており、優秀施策案が1つ選ばれた。当該の受講生は研修以降熱心にプロジェクト遂行に臨んだが、盛り上がらずに立ち消えになった。  この2社の研修プログラム自体はよく似ていて、受講生の負荷も同様に高いものだった。業務繁忙のため、どちらも研修は土曜日に行われた。経営陣の参画度合いだけが異なっていたのである。  両極端な例をあげた。前者の場合、経営陣の負荷は半端なく高かったから、ここまでの参画はなかなかできない。通常は、この両者間の距離のどこかに、「経営陣参画度合」があるのだろう。ただ、どの程度までかかわるかという姿勢は、そのまま、次期リーダー育成への経営者の本気度を示してしまうと覚悟すべきだろう。

業績と人材力 | その他

業績と人材力

 企業が成長を維持向上するためには、人材は欠かすことのできない重要な資源です。人材が高い能力、モチベーション、コンディションを持ち続ければ、企業のパフォーマンスは上がると考えられています。この人材の状態を総括して人材力というのであれば、人材力が上昇すれば業績が上がり、逆に低下すれば業績が下降することになります。これに対して異論を唱える人はいないくらい、どの経営者も人事部門も誰も疑わない考えでしょう。  問題は、人材力と業績の関係が明確でないことです。どの程度人材力が上昇すれば業績がどの程度上がるのかがわかりません。またそもそも“人材力”を総合的に測定する指標がないのです。仮に人材力が測定できれば、人材力と業績の関係性を解析できる可能性があります。そうなると経営としては人材力の投資に基準を持ってできることになります。  さて、経営者はこの人材力が業績に与える影響が大きいと考えているのでしょうか。現在の人材力が100だとして、これを110に上昇したとしたら、業績はどの程度上がると考えているかは、分析事例がないのでわかりませんが、実際にはあまり高くないリターンであると思っているように感じます。人材力がほどほどであれば、それ以上に投資してもリターンが経験的感覚的にそんなに大きくないと思っているのかもしれません。  一方多くの企業では、現在の人材力に対して必ずしも満足していません。例えば、管理職の能力が不足していると感じている企業も多いでしょうし、経営方針が徹底していない、モチベーションが十分なレベルでない、離職者が多い、高齢化によってパフォーマンスが低下したなど、重要性や影響のレベルは企業によって異なりますが様々な問題を感じているのです。本来望ましい人材力レベルを100とすると、経営者や人事部門は現在の人材力を何点と評価するでしょうか。100点以上を付ける企業は多くはなく、60点から80点くらいが回答として多いと思います。仮に80点であるとすると、これを100点以上する努力を本来はしなくてはなりませんが、80点を100点にするための投資、要は金額やマンパワーとその結果得られる業績、リターンがバランスしない、ないしはあまり影響しないと考えているのかもしれません。  日本企業は他の先進国と比較すると社員の生産性が低いと言われています。低生産性は人材力に起因している問題であり、これを早急に改善しなければなりません。今後日本企業が成長するための、証明されていない一つの重要な施策は人材力を経営として望ましい状態にすることです。この人材力向上をしても業績に影響がない、ないしは少ないということであれば、人事管理はほどほどに行えばよいということになります。ポジティブに言えば、人材力向上が企業業績の向上のための非常に重要な施策であり、人事管理の強化こそが成長のエンジンであると確証が持てる可能性があるということです。

N+2 | その他

N+2

 企業の人事管理レベルが向上すると、企業経営に大きな貢献をすることが期待される。人事管理のレベルアップとは非常にシンプルで、次の2つの要件を満たすことである。まず経営方針、計画を達成するための人材がそろっていることがまず挙げられる。方針、計画を達成するためには、必要な能力を持った人材が必要人数必要になる。この必要人材の保有は企業の目標達成のための前提である。二つめは保有している人材が高いパフォーマンスを発揮することである。人材を保有しているだけでなくこの人材がより高いパフォーマンスを挙げるマネジメントが必要である。この2つの要件をどの程度満たしているかが企業の人事管理、人事機能のレベルである。  人事制度の改定や雇用施策、人材育成施策は、人事管理レベル向上の具体的施策である。環境が変化し経営計画達成に必要な人材が変化したときには、人材像を明確にし、継続的に育成する仕組みを再構築しなければならない。またパフォーマンス向上のために報酬制度の変更をすることもあるだろう。ビジネスモデルやボリュームが大きく変化した場合には、採用の見直し、雇用調整などの退職施策を実施することになる。必要な能力や知識が変化した場合には教育などの人材育成を強化しなくてはならない。具体的な人事施策は、人事管理レベルを上昇させるために行うということである。人事管理が経営に大きな貢献をするためには、自身の人事管理レベルを把握することが前提であろう。人事管理の強み弱みを把握し必要な強化をしなくてはならない。  人事改革を行う際に経営や人事部門が最も意識しなくてはならないのが、この人事管理レベルの“測定”である。改革初年度(N年)とすると、一年間かけて人事制度の設計や導入準備を行う。翌年(N+1年)新たな人事制度が導入される。その翌年(N+2年)には人事制度改革の成果が出ていることが求められる。N年の人事管理レベルとN+2年の人事管理レベルを比較し想定通り、想定以上のレベルアップになっていることが重要である。  人事改革はその成果が重要であり、制度の設計などはその過程の一フェーズでしかない。制度設計から導入された後に人事管理レベルを比較するという発想はどの企業でもあるが、このNとN+2のパフォーマンスの定量的な比較こそが改革の重要なインディケーターである。人事制度の改定のような大きな施策の時には、制度を設計導入することではなく、結果のパフォーマンス向上のみが需要であることを再認識しなくてはならない。  さらには改革時だけではなく平時においても、パフォーマンスを定量的に経営に明示することが望ましい。そうすることで人事部門の経営に対する貢献を具体的に証明できることになる。経営への貢献に軸足を置いた人事管理に変貌しなければならないのではないか。

ロボット・AIがオフィスにやってくる! | その他

ロボット・AIがオフィスにやってくる!

昨年12月の完全失業率は3.1% 有効求人倍率は1.43倍(いずれも季節調整値)で、労働市場は、引き続き、タイトな需給関係で推移している。企業としては、総じて、期待通りの採用がかなわない状態が続いている。こうした活発な求人の背景には、各企業で様々な事情があるが、政府の働き方改革で推進されている「長時間労働の是正」という社会的要請に応えていく上からも、当面、この積極的な求人トレンドが継続することになるだろう。 その一方で、第4次産業革命といわれるAI、IOTといった最新テクノロジーによる産業構造の変化が起こり、産業界の様々な領域で業務の自動化が進行している。従来、人間が行ってきた業務をコンピュータやロボットに担わせる動きが加速し、近い将来、社会全体として必要な就業者数は減少してくことが確実視されており、経済産業省も、2015年時点で6,334万人の就業者数は、このまま放置しておくと、15年後の2030年には、735万人少ない5,599万人に減少するという試算をしている。 仕事の自動化が進む領域は、広範にわたっており、既に自動化が大きく進行している製造部門だけにとどまらない。機械学習や人工知能を活用し、今まで自動化は難しいと言われてきた、管理、営業、企画等、いわゆるホワイトカラーの業務を効率化・自動化していく、ロボティック・プロセス・オートメーション(Robotic Process Automation, RPA)の動きが今、急速に広がりつつある。 例えば、米国のナラティブ・サイエンス(Narrative Science)社では、財務報告書等、主にデータによって作られている資料を元に、人工知能を活用したアルゴリズムにより、分かりやすい文章を自動作成するソフトウェアを開発し、提供を始めている。 また、同じく米国のワークフュージョン社が提供しているプロジェクト管理を自動化するソフトウェアは、対象のプロジェクトの中で、どのような業務が自動化可能か、どのような業務を社内のスペシャリストに任せるべきか等を判断したり、社内の人材データベースをチェックし、必要な人材がいなければ、外部求人サイトで募集し、応募者の選別を行う。プロジェクトの各業務の割り振りや作業者の業績評価も行い、プロジェクトメンバーが期待通りのパフォーマンスを出せない場合は、別の人材にその業務を回すことなども行う。 このように、ホワイトカラーの基本的な作業とも言える「文章作成」や、従来、十分な関連知識と適切な判断が求められる「プロジェクトマネジメント」といった領域でさえ、自動化の波が押し寄せてきている事を考えると、直近の需給状況や長時間労働の是正といった現行の観点の延長線上に安易に中長期的な人員計画を組み立てていくことは、思わぬ落とし穴に陥ることになるだろう。 今後の業務自動化の進み具合を正確に見極めることは大変難しいが、早かれ遅かれ、この波は必ずやってくる。企業の人事部門としては、来るべき自動化の波の到来に備えて、現行業務と現有人材の棚卸を行って、「見える化」しておくことは、現時点で、最低限必要なことだろう。 社内ではどのような業務が行われ、その中で、どのような業務が自動化対象領域となりうるのか、社内の業務を棚卸するとともに、(ロボットでなく)社員にどんな業務を行わせるのか、どんなスキルを期待するのか、といった議論を社内で展開し、方向性を定めていくミッションを人事は担っている。実際に、自動化の波が来てから考えるのでは遅すぎる事になるだろう。

脱!自前主義 | その他

脱!自前主義

 ここ10年あまりの間に、産業の水平分業化が著しく進んできたように思える。水平分業とは、企業を構成する諸機能を複数の会社が分担し、相互に補完することだ。ある会社が自社の経営に必要な機能の多くの部分を他の専門企業に委ねる。他方、自らも強みを生かした専門機能業者となって、他社の経営を補完する。そんな産業構造のことを指す。「餅は餅屋」というやつだ。古くからあった元請・下請関係と異なるのは、水平分業するそれぞれの企業が一定の業界標準を形成する力のある企業であって、高い市場シェアを持つところだ。特定の発注者に売上の多くを依存することなく、常に対等の関係で取引する。  たとえば、多くの製薬会社が、SEO(臨床試験受託会社)に臨床試験を委ねたり、CSO(医薬品マーケティング・販売支援会社)に医薬情報提供や営業の機能を任せたりして、自らは創薬の仕事に集中しようとしている。食品業界や飲料業界では競合他社と協力して物流機能を統合・再構成し、製品物流をこれに任せ、製品企画力と販売力で勝負しようという流れになってきている。電子機器産業の数社が製造を専門アウトソーシング会社(EMS)に任せ、実質的には研究開発会社になりつつあるのは周知の例である。管理間接機能においても、経理、ファシリティマネジメント、給与計算、採用、研修などの領域で力を持ったアウトソーシング受託会社を数多く見ることができる。  水平分業を有効活用したビジネスモデルにおいては、自社の付加価値の核心と位置付ける機能に経営資源を集中投下し、その機能をさらに鍛え上げることができる。その他の部分は他社が提供する「部品」を組み合わせて会社を経営することから、産業のモジュール化とか、レゴ型経営といった表現も一般的になってきている。  おそらく今後、グローバル標準機能を提供する強大な機能会社が数多く出現し、多かれ少なかれこれを活用したビジネスモデルで成長と利益を獲得していかねばならない時代になっていくと思われる。自前主義に拘っていてはもう勝てないということだ。  さて、ここまでは良しとしよう。ここから先が問題だ。周知のとおり、わが国の法制と人事慣行の下では、ビジネスモデルへの転換は容易ではない。これまで自前主義で抱えてきた機能を廃止しようとすれば、長く雇用してきた社員を一定程度削減しなければならない。他方、自社の機能を世界標準に育て上げるためには、これまでに増して豊かな能力を備えた社員を数多く雇用していかなければならない。どちらも不可欠であり、かつ困難な仕事である。  このように考えていくと、これから先、人事部のミッションが高度化していくことは容易に想像できる。まずは自社の核心的機能は何なのか、それを再定義することが第一歩だ。次に、それ以外の機能の何を外部化していくのかを現実的に判断しなければならない。  核心的機能を維持発展させるためには、どのような能力を持った人をどれだけの人数抱えればよいのか。そのための社内人材の育成強化をどのように行っていくか。新規採用はどの程度必要か。役員クラスのヘッドハンティングすら必要かも知れない。  反対に、いくつかの機能を外部化することでどれだけの人員が余剰するのか。自然な退職がどれだけこれに寄与するのか。そのスピードが遅ければ、一定の雇用調整を実行しなければならない。こうしたことを考え、ひとつの計画にまとめ上げる力が求められてくる。会社分割や出向・転籍に関する実務知識も不可欠のものになってくることだろう。  自前主義から水平分業への転換。その大局を構想し、手順とスピードを考え、適切なロードマップを描くことは、これからの人事部長に課せられた重大な責務だ。

空気が読めない | その他

空気が読めない

 「あいつは、ほんとにKY(=空気が読めない)だから」などと揶揄されることがある。会議や顧客との商談場面で、(たいていは暗黙の了解があるはずの)状況を踏まえないで、言ってはいけないことを口走ったり、余計な発言をしたりする人物。しょうがねぇなあ、と半分諦め交じりの人物評として笑い話で終わったりするが、もしそれが「KY管理職者」であるとそれではすまない。ピープルマネジメント問題として、組織的被害は甚大なはずだからだ。  ビジネスや組織という環境において、空気が読めない、とは、状況と自身の関係が読めない。その状況のなかで、いま自分がどんな立場にあるか、がわかっていないということである。その状況のなかで、自分のふるまいの意味に気づかない。いま自分がどう見られているかにも気づかないし、いままさになそうとする自身の言動がどう見られるかもわからない。つまりは、自己客観視ができないのである。そんな人物の管理職としての「判断」があてにならないのは当然だが、とりわけ、部下指導がうまくいくはずがない。  自己客観視ができない管理職者はピープルマネジメントができない。この事情は、360度診断をおこなうと残酷なまでに可視化される。例えば、業務分担や人材育成、部下指導、エンパワーメントといった項目の周囲評価者平均が軒並み低い。とくに上司/同位者平均よりも下位者平均があきらかに低い。反面、自己評価はかなり高いというギャップが顕著に出ている。自分がやれていないこと、部下たちが自分の行動を不十分だと感じていること、そのことを自分ではわかっていないことが、数字のギャップとして定量的に突き付けられてしまうのだ。  部下評価平均が低いことが問題なのではなく、そのことに気づいていないことが問題なのである。気づかないから、自分の行動是正ができない。結果、部下たちをうまく動かすマネジメントができていないということである。360診断でそうした自他ギャップに気づけば、自身のふるまいを内省し、常に客観視を心掛け、行動を変えていくようにできる。しかし、そうした事実の突き付けなしには、「空気が読めない」のだから、ほっといても、いきなりあるとき読めるようになるとは思えない。よって、KY管理職の放置は危険なのである。  360度診断のフィードバックを行っていると、よくこんなことをいう管理職者がいる。「この項目の下位者平均が低いのは、今期はこんな方針で、こういう言動で彼らにあたったから当然」と想定内の低スコアだったと、動じない。まれに単なる負け惜しみの発言のこともあるが、総じて、ハイパフォーマー管理職に共通する。  つまり、自己客観視ができるということは、周囲者をよくコントロールできることでもあるのだ。

階層別研修の復権 | 人材開発

階層別研修の復権

 ときに、「社長塾」といった選抜育成施策がある。その多くは、次期経営人材の育成を目指し、管理職層からの選抜メンバーを社長自らが鍛えるといったしつらえだ。その背景には、現状の管理職スキルレベルに対する社長の不満と危機感があり、その事態を招いたであろう従来の管理職教育や人事部任せの階層別研修への不信がうかがえる。  教育研修がかつて作られたしくみのままで行事的な運用をされてきたとすれば、その社長の想いも当然だが、だからといって、選抜育成施策だけが解決策ではないだろう。「社長塾」そのものは有効で成功例も多いが、中長期的な管理職育成の仕組みとして階層別教育がベースとして機能していなければ、短期的対症療法的施策にとどまらざるを得ない。いま目につく限りの予備軍たちをなんとか経営人材に育てたとしても、そのあとが続かないからだ。  やるべきことは、経営人材予備軍を一定数輩出すべく階層別研修を刷新することではないか。それには、二つのポイントがある。まず、最初に行うことは、「あるべき論にもとづく一律教育」からの脱却である。昇格後研修(=新任管理職研修など)は、あるべき知識・スキルのインプットだが、当該階層の既任者に対しては、現状のスキル課題に応じた育成施策を組むことこそが実践につながる教育である。  たとえば、課長たちのスキル課題には、共通するものと個別的なものがある。そうした課題の状況を可視化し、「育成が必要な対象者」に、「必要なスキル教育」を、「適正な方法」でおこなうということである。必要なスキル教育とは、「コーチングが注目されているから、今年の課長研修はコーチングスキルを」などといった行事的運用ではなく、「課長の課題は、部下育成、とくに業務指示スキルと権限委譲」と把握しての研修設計である。適正な方法とは、共通するスキル課題なら集合研修だし、特定対象者ならコーチング、あるいは評価運用に組み込むか、といった使い分けである。  現状課題対応だから、既任者研修は、テーマも方法も一律ではなくかつ年次で変わっていく。つまり、期首に階層ごとにスキルギャップ(=必要なスキルに対する現従事者のスキル過不足)を測定し、状況を可視化し、期中の教育施策をくむことが階層別教育にまず埋め込むべきしくみとなる。  もう一つのポイントは、昇格前教育の連鎖として階層別研修を設計することである。たとえば既任課長研修であれば、スキルギャップ把握のために基準とするスキル要件を、いま発揮すべき課長スキルではなく、近い将来担う部長の必要なスキルとする。あるいは、一定年数を経た課長既任者には、部長で必要なスキルを先行教育するといった具合に、上位階層の要件をもって、教育施策をする。それを階層連鎖的に設計するのである。  管理職手前の階層では、管理職先行教育をしながら、その適性も見極めるといった施策は増えている。たとえば、通常は管理職昇格審査でなされるセンター方式アセスメントを管理職前等級への昇格後に行って、「管理職としてのスキル課題」を本人、上司ともに把握し、以降、業務遂行のなかで、管理職としての先行ブラッシュアップを自己啓発し指導されるような施策が、管理職昇格者の質と量の向上に資することはあきらかだろう。  こうした「昇格レディネス」の醸成を旨として、全階層の教育施策に組まれることが、経営人材予備軍輩出につながるベースとなるはずである。

評価して! | その他

評価して!

 当社では一週間に一つ以上のコラムを掲載させていただいています。定期的に出させていただくこのコラムに対しては、多くの方に読んでいただき、直接コメント、感想をいただくこともあり、ありがたい限りです。またコラムの評価をしていただくことによって、その結果がわれわれにとって非常に参考になるのです。  コラムを評価いただくと平均の評価点がでます。これはコラムの“出来”を表しています。 点が高ければ総じて良い内容であるということです。しかし単純な平均点だけでなく、評価の分かれ方も非常に重要で参考になります。挑戦的、攻撃的、刺激的な内容のコラムは総じて点が分かれます。同じ平均点のコラムでも、全員が同じ評価の場合と良い評価と悪い評価に分散する場合とがあり考えさせられるものがあります。  平均点のほかに、総点数も重要視しています。総点数とは評価点の総合計点であり、多くの人が高い評価をしてくれれば高くなります。コラムは読者が読んだ後に評価する行動をしてもらえるものと、評価ボタンを押さないものがあります。面白くない、的外れなものは評価の投票数が少ない傾向にあります。少ない人数が高い評価をしているコラムは、限られたセグメントのみに“ウケ”ていることになるでしょうし、少ない人数が低い評価の総点数の非常に低いコラムは反省しきりです。総点数はインパクトの大きさですので、この点も大変参考になる数字なのです。  皆様が行うコラムの評価を毎週見ることによって、人事管理として関心のある分野や、議論が分かれる論点などを理解できます。コラム読者が日本企業の経営者、人事責任者、人事従事者ですので、この反応はあるべき人事管理、必要な人事ソリューションを考える上で、当社の重要な財産なのです。コラムという対外発信を通じて、当社は人事業界という市場の貴重な“声”を聴かせていただいているという感覚なのです。  書籍や雑誌、講演・セミナーなどの手段とともにこのコラムは当社の重要なアンテナであり、今後も継続して行っていきます。コラムが途絶えると、“ネタ切れになった”とか“体調が悪くなったのか”果ては”死んだのか“と思われそうですので、継続せざるを得ないという面もあります。  結論は非常にシンプルです。ぜひ今後ともコラムを読んでいただき、他の方に勧めていただき、そして評価していただきたいのです。皆様の評価によって人事管理のあるべき姿を研究し、またそれを何らかの対外発信でお返しすることが一つの重要な義務であると思っているからです。コラム読んだら評価ボタンを!よろしくお願いします。 以上

次世代リーダー | 人材開発

次世代リーダー

 “次世代リーダー”という言葉を意識している企業には、様々な背景があるのだろう。 以前の経営環境が大きく変化して、新しい発想や管理手法で経営をリードしなくてはならない企業などでは“次世代”という言葉はよく理解できる。技術の進化により以前のビジネスモデルが通用しなくなるような業界などでよく見られる。近年ではネットの発達によって、流通や広告などのビジネスモデルが大きく変化したが、これを牽引している人材の多くは旧環境の人材ではない。旧モデル化の人材と新モデル化の人材の別な層があるために、新たな層の中でリーダー育成が必要となり、それを急ぐために次世代リーダーの選抜と育成が必要となるのだ。  上記のような“真性”の次世代リーダーは、市場や業界の大きな変革期における重要で適正な経営課題である。しかし最近の“次世代リーダー”の議論はこのような真性のものだけでなく、不純、不適正なものが混じっているように感じることがある。それは、現在の管理職社員が十分なパフォーマンスを出しておらず、役員候補もいないために、その下の層に期待するというものである。要は今の管理職社員では不十分であり、主力の管理職としても、ましてや経営者として期待しないと言っているようなものである。このようなタイプの企業は、社員の年齢構成が歪であることが共通してみられる現象だ。中長期にわたる人材管理がうまく機能していないことが、“次世代リーダー”という言葉に置き換えられているともいえる。  企業の安定した継続性は、人事的に言えば必要人材を持続的に提供することといえる。正社員一人採用すると大卒であれば38年間(プラス再雇用5年間)の拘束がある。特に企業のコアスキルや文化を継承する総合職社員などは短期の業績で採用の増減など行ってはならない。また業績によって育成施策も影響してはならない。こうなると必要な人材を持続的に提供できないからである。短期的な業績コントロールと中長期の経営の持続性を混同しているともいえる。  業績の良い特に大量の新卒採用を行い、悪くなるとストップする。業績の良い時には教育をするが、悪い時にはしない。このような施策は企業の持続性がないばかりか、社員に対して雇用責任を果たしていないとも解釈されてしまう。長年間育成施策を講じてこなかった今の大量の中高年社員からは優秀な経営者や管理職が多くは出現しないと予測し“次世代”に期待をすることが、強い違和感をもたせるのである。  悪くとらえると中長期の雇用責任を特定の世代に果たしていない上に、これからも継続的な育成を行わないと解釈もできる。本来は常に企業の文化やコアスキルを継承し、優秀な人材を多く出現させることが重要であるが、今いないから特別な施策で育成するという感覚が、人事マネジメント的には短期的視点に偏っているように感じる。  “次世代リーダー”育成を否定しているのではないが、これは環境の激変などを除いては、継続的恒常的施策であり、単に通常の教育研修の一部であるという認識が必要ではないだろうか。

寛容な「顧客」になろう | その他

寛容な「顧客」になろう

政府の働き方改革の主要テーマである長時間労働の是正は、今まで継続的に取り組まれてきた課題であるが、なかなか解決できないまま、現在に至っている。その背景には様々あるのだが、「過度な顧客第一主義」という観念が、我が国の意識の中に強くある事が、解決の障害の一つになっていると考えている。 「過度な顧客第一主義」という観念においては、お客様は神様であり、サービスの提供者よりも、とにかく受益者の利害を最優先させるべきであり、それは社会にとっても良い事という前提に立っている。ビジネスの目的は、顧客創造であり、顧客への価値提供を最大化しようとする事は当然なのだが、サービスの提供者の利害を犠牲にしてでも、それを優先するべきという考え方が根強い。 深夜や明け方でも利用できるように、店舗は24時間オープンにするべきだ。どんな商品も絶えず、在庫を切らしてはいけない・・・等、顧客の価値提供を最大化するために、我が国の企業は努力を続けてきた。実際には、明け方に利用する客数はごく少数だったとしても、顧客の利便性が高まるなら、社員の負荷が多少、増えても行うべきだ、あるいは、正月1日からでも買い物をしたいという顧客がいるなら、社員の家族との時間を犠牲にしてでも、元旦からオープンするのが世の中のためだ、等、なによりも顧客を優先しようというマインドが存在している。一方、我々日本人は、顧客としての立場になると、商品に少しでも傷があれば交換する、丁寧に包装されている事は当然である、等など、商品やサービスの品質に関しては、妥協を許さない傾向にある。 また、この事は、社内顧客に対しても同様で、社内におけるサービスの受益者は、利用する可能性が低い資料の作成を依頼したり、必ずしも同席する必要のない社員にもミーティングへの参加を求めたり、重要性の低い、細かなミスでもやり直しを命じたり・・等、必要以上のサービスを提供者側に求めていく風潮が少なからずあるように感じる。 我々は、社会の中で、労働者たるサービスの「提供者」の側面と、顧客たるサービスの「受益者」の側面の両方を担っていて、時と場合によって、我々は「提供者」であったり、「受益者」であったりするのだが、我が国においては、受益者の利益を最大化すれば、とにかく社会にとっても善であるという単純な発想になってしまっていて、提供者の利害の優先順位を下げてしまっている。我々は、顧客としては、至れり尽くせりのサービスを受けられて、とても居心地がよい国なのだが、労働者としては、逆に、至れり尽くせりのサービスを提供しなければならない、結構しんどい国という事になる。 欧米の諸外国では、サービスの受益者である「顧客」より、提供者である「社員」の視点をより尊重している。多少、営業時間が短かろうと、夏季休暇で4週間以上、店舗が休業しようと、諸外国の人々は、顧客として我々以上に、寛容で、忍耐強く振る舞うことができるようである。 今後、長時間労働の是正を進める上では、このサービスの提供者と受益者のスタンスの見直しに踏み込まざるを得ないだろう。つまり、我々が、サービスの提供者としての生活や立場をより尊重するという事は、逆に、受益者の立場たる顧客として、サービスの提供者に過度な期待や必要以上の要求をせず、今以上に寛容になっていくことを期待されているということでもあるのだ。