©️ Transtructure Co.,Ltd.All Rights Reserved.

MENU

©️ Transtructure Co.,Ltd.All Rights Reserved.

コラム

column
好き嫌い | その他

好き嫌い

 「自分は~~」と話す若者が好きだ。対して、「自分的には~~」、「私的には~~」と話す人々は大嫌いである。  「私的には~~」の、「的」とはいったいなにか。「私に言わせれば~~」と言われれば、あんた何様? とその上から目線が気に入らないものの、まだそのスタンスはわかる。そこまでのきっぱりさもなく、「自分の感覚や好み、考え方からすると、~~~なんだよね、ま、あくまで私としては、なんですけどぉ~~」といったズルさの透けて見える自己主張に虫酸が走る。  と、個人的な好き嫌いで暴言を吐いている私が、さて、期末の評価時期を迎えたとする。この手の人が部下だったら、きっと悪い評価をつけたくなる。業務上のミスをしたとしても、「自分は~~」と話す部下だったら、そんな悪い評価はつけないかもしれない。だって、私は好ましい姿勢だと思っているから。  こんな風に人々が評価されないために評価制度はある。評価制度は、会社として、とってほしい行動、なってほしい人材像を基準として提示して、それに即してのみ、出来不出来を判断してくれ、というメッセージである。会社としての良し悪しを、会社としての基準でみる。これに対して、好き嫌いによる判断は、上司である自分の中の基準(価値観だったり、人生観だったりの)による判断である。  自分の“中にある”基準は、もちろん、信念をもって持ち続ければいいけれども、部下を評価する基準は、自分の“外にある”共通の基準でなければならない。何を当たり前のことを殊更に言っているのかと思われるだろうが、好き嫌いは知らぬ間に、評価者の眼を曇らせることがある。価値観がまったく異なる人の行動は、理解できない分、バイアスがかかったりする。  管理職の方々は誰しも、評価に臨めば好き嫌いの感情で判断しないようにとして自分を律しているはずではあるが、好き嫌いのベースには価値観、ともすれば人としての善悪判断につながる個々人の軸があったりするから、厄介だ。とくに、評価を通じて部下を成長させようと考える真面目な管理職者なればこそ、自身が良かれと信じる指摘、指導をしてしまう。それが、個人的な価値観の押しつけになったりする。  多かれ少なかれ、評価やその結果としての処遇には、好き嫌いが入り込むのが、人々の関係の束=組織の宿命かもしれないし、家族主義経営的な日本企業の良き文化というものもそこにあったかもしれない。しかし現代の組織は、ダイバーシティである。性別や年齢や国籍といった外形以上に、その内面の価値観や嗜好、大げさに言えば生き方のスタンスすらメンバーごとに多様に異なる。  とすれば、今まで以上に自分の“外にある”基準、会社が定める評価制度、評価基準に即した評価を徹底しなければならない。そのためには、管理職たる者、資格等級定義や職位の役割定義は完全に頭に入っているのは当然として、業績評価にしろ、行動評価にしろ、評価基準を理解し、自部門における具体基準を、言葉にして語り、また、それで指導、評価できなければならない。  徹底して、会社が定めた基準だけに準拠する。部下育成とはこうあるべきとの自身の信念をもつ方々には、なんとも窮屈かもしれない。そこは、手あかにまみれたこの言葉を呟いてみたらどうだろう。「たかが仕事、されど仕事」。  マネジャーの仕事は、人を使って、組織目標を達成することだ。その限りの人材の活用、育成だから、自身の価値観との葛藤などいらない。割り切って、組織の基準に従って評価し、そこへ向け指導すればいい。しかしだからこそ、自身の価値観や経験に束縛されない、また相手の価値観も気にしない、自由で創造的な指導方法も生み出しうるのではないか。  個々人の内面や本質なんかに拘泥することなく、人の集団がパフォーマンスをあげることを純粋に考えること。それが、マネジャーにとってのWord of wisdom、「たかが仕事、されど仕事」なのである。

職場の民主主義 | その他

職場の民主主義

「社員のロイヤリティを高め、パフォーマンスを向上させるために、他社ではどんな取り組みをしていますか?」企業経営者や人事部門の責任者から、時々聞かれる。 先般、新聞(4月5日付 ウォールストリート紙)に、ある興味深い記事があった。共和党・民主党の大統領候補選出で沸くアメリカでは、一般企業においても職場の民主主義が広まりつつあるという内容だ。 「オフィスレイアウトをパーティションで仕切るかオープンテーブルにするか」「職場の共有スペースで音楽を流すか否か」あるいは、「本社の引っ越し先のロケーションはA地区かB地区か」等、アンケート調査用のデジタルツールを利用して、一般社員が、職場の運営等について発言の機会を与えられたり、意思決定に参画する会社が増えているようだ。また、さらには、最終意思決定は経営・管理職側にあるものの、意見を参考にするということで、CEO決定や人材の採用の是非まで、社員に問う企業もある。 事の大小に限らず、組織運営上の意思決定を従業員の投票を行って決めることは、会社経営への参画意識が高まり、リテンションやモチベーションにプラス効果をもたらすことにつながるだろう。日本に限らず、米国でも、社員の参画意識を高め、やる気を引き出そうと各企業が腐心しているということだろう。 ただ、こうした取り組みには当然リスクもある。社員に迎合するようなアプローチで行ったり、十分に投票環境を整えておかずに投票を実施したりすると、誤った判断や社内の混乱をもたらすことになる。 社員投票を行う際には、経営・管理職サイドは、適切な情報と意思決定のポイントをよく整理して提供して、それぞれの選択肢のメリット・デメリットやインパクトをよく理解させたうえで投票させることが重要だろう。 我が国では、組織運営上の判断をする際に、社員に積極的に意見を聞こうとする例はそう多く聞かない。一般的には、従業員意識調査として社員アンケートを数年に一度、行っている場合はあるが、それさえ実施していない企業も少なくない。 今や、テクノロジーの発達により、比較的容易に、社員投票やアンケートが実施できる環境が整いつつある状況である。採用難やリテンション対策で頭を悩ます企業や社員のパフォーマンスを最大化することに取り組んでいる企業にとって、投票のテーマは、よく吟味するとともに、適切な段取りと社員に対するメッセージを十分考慮した上で、職場の民主主義を広めていくことは、企業差別化人事施策としても有効に機能するのではないだろうか。

質問に答えろ | その他

質問に答えろ

 質問に対してこちらが求めている答えが返ってこないことが実に多く感じる。たとえば会議の時などでも、質問者の質問に対して、的を得た返答をする人が実に少ないのだ。質問している趣旨を理解したうえで、その質問に対しての回答がうまく行える人は多くないのが現実である。  会議などを行っている中で、参加者から質問が出るというのにはいくつかのパターンがある。代表的なものでは単純な質問である。説明者が話す内容の中で、よくわからない部分があった時など単純にわからないことを聞くというものである。次に確認や強調のための質問がある。これは説明者が話している内容の主旨や一部について、会議参加者に再度確認させたり、強調するための質問である。これは会議の主旨から、特に参加者に理解賛同を得たい場合に行う質問のパターンである。また誤りに対する指摘としての質問もある。クレームに近いものである。説明者の説明の事実認識や論理構成などの誤りを正すためにするための質問である。“痛い”質問である。質問をされた側は、質問の意図を瞬時にもっと深く理解するべきである。質問の意図をよく理解しないで回答されると、質問者は“的外れ”と思い苛立ち、失望が大きい。  質問する側は質問したことに対する明確な回答がほしいことを理解しなくてはならない。質問に対する回答が長すぎたり、まとまっていないとさらに苛立ちや失望が大きくなるのである。そのためには結論から回答することも効果的であろう。“この施策にはリスクはないのか?”と聞いたところ、長々と説明されて結論がよくわからなかったりすることがある。長く説明するのであれば、“まず今の質問に対しては、YESです。なぜならば・・・”などのようにはっきりと結論を明示することも場面によっては効果的である。  逆に会議などで質問を受けた時など、気の利いた、ポイントを突いた回答をする人は優秀であると感じる。会議の主旨や流れ、雰囲気をよく理解して、質問者に対して効果的に対応できれば、参加者の信頼を得ることができるのだ。そのためには、質問を受けた時に即反応することは厳禁である。まず質問の主旨を理解する → 次に今、答えられるかを判断する → 答えるのであれば効果的な答えを考える → そして回答。このような頭の中の作業をしてからでないと答えるべきではないのだ。これは質問されてからできるだけ短い時間、瞬時に判断できるかが重要なのだ。このような頭の作業を行わないで答えると、ピント外れになるのである。この頭の反応をいかに瞬時にした上で、できれば回答は結論から言うと非常にクリアである。  これは会議だけではなく日常の仕事の中でも同じである。実に重要なコミュニケーションスキルであるが、日本ではあまり訓練されていないと感じる。それだけ質問に答えない人、堪えられない人が多いのだ。“質問に答えろ”“結論から言え”と心の中で言われていると痛切に感じるべきである。 以上

絶対評価は絶対か? | 人事制度運用支援

絶対評価は絶対か?

その定義は「基準に照らしての評価」にすぎないから、絶対評価といってもそれが“絶対に”正しいわけではない。評価の納得性や育成の観点からいって、相対評価よりも使い勝手がいいということである。   人事評価における絶対評価とは、被評価者同士を比較して序列化する相対評価に対して、あらかじめ設定された個人目標の達成水準や行動評価項目の評価基準をもって個々人を独立的に評価することをいう。 「君はよくやっているが、あいつに比べると劣っているから、C評価」などと言われて納得できるはずもないが、それ以上に、相対評価では育成に使いづらい。 相対評価でつけられた評点は、つねに他者との関係できまるから、なにをどうすれば、高い評点にいたるのか、つまり、自身が成長するのかがわからない。基準との距離を見る絶対評価であれば、たとえば行動評価で「君の等級では、あとこの2つの項目がBになれば、卒業レベルだ。その2項目がCなのは、要件である〜〜〜〜ができていないこと。だから今後業務で意識すべき課題は〜〜〜〜」といった指導ができる。だから、人事制度を設計する場合、その評価制度は絶対評価とするのが主流になっている。 発揮能力や行動や成果を測定する道具としては、絶対評価であるべきなのは当然であるが、その一方で、絶対評価の弊害もある。評価基準自体があいまいであれば、評価の中心化や高ぶれが起こったりする。かといって、基準を具体化詳細化しようとするとキリがないし、逆に精緻に作りこまれた評価基準は、本来その意思や裁量性が発揮されるべきマネジャーに杓子定規な評価行動を強制したりする。 よく目標管理を運用されている会社で問題とされる「目標レベルのばらつき」とは、要は基準自体がおかしいわけだから、絶対評価の納得性もゆらいでしまう。かくて、目標設定をいかに適正に行うかに腐心し、必然的にそこに時間と手間をかけざるを得ない。個々人の目標という基準に即して独立的に評価する以上、そこが根幹になるからだ。 全社横断的に目標レベルを揃えることは難しいし、行動評価基準に誰しもが迷いなく評価できる明快さを持たせることは至難の業である。基準は、評価制度を使うマネジャーたちが運用のなかで明確化し共有していくしかない。一次評価者同士の目標設定会議や評価会議を地道に繰り返し、「基準」を共有していくことが、絶対評価を適正な評価手法として活用していく最良の方策である。 それでもなお、基準に即して評価することは、難しい。もしかすると、人が人を評価するということの限界がそこにはあるのかもしれない。つまり、どちらがいいか人と人を比べればわかるけれども、「基準」との距離なんて個別正確に測定できない。もしそうだとすれば、賢い方法は、まず相対評価をしてから絶対評価をすればいい。実は、多くのマネジャーがアタマのなかでやっていることである。

組織の整体師 | その他

組織の整体師

ある意味、職業病なのかもしれない。長い間パソコンをたたき続けていたためか、肩こり・首こりが激しくなり、先日のある週末、頼りの整体師に施術を受けに出かけた。 「高柳さん 今日も、相変わらず、すごい硬さですよ」 私の肩をもみながら、整体師のAさんは、そう言った。 「肩こりの主たる原因は、血行不良なんです。長時間、同じ姿勢をしていると、特定の部分の筋肉が緊張状態になり、その周辺の神経や血管を圧迫する。その結果、血液の流れが悪化し、筋肉は酸欠状態となり、老廃物がたまり、こりを感じるようになります。ですから、仕事の合間に首や腕を回したり、軽い運動して、とにかく、血行を良くして、老廃物をためないようにしてください」 長い時間、同じ姿勢で過ごすと筋肉が緊張し続けることになるので、血液の通りが悪くなり、酸素の供給が滞ったり、老廃物を滞留させ、それが慢性化すれば、目まい、頭痛、集中力の低下など、全身に大きな影響を及ぼすことになるだろう。 マッサージサロンのベッドの上で、彼の話を聞きながら、人間の体で起こるこうした現象は、実は日本企業の組織の中でも、よく起こっているのではないかと思った。 組織の血流を停滞させないように、積極的に人事異動を行っている企業ももちろんあるが、組織やその構成人員が硬直的で、一度、ある部署に所属されたら欠員補充のような異動以外は、積極的に人事異動を行わないところは、思いのほか多いのが現実である。 そうした企業が人事異動に消極的な事の主たる理由として、同じ社員が継続して業務を行うほうがノウハウが蓄積され効率的だからという主張である。確かに、新しく移ってきた社員は、従来やっていた社員より、最初は効率が悪いかもしれないが、次第に慣れていくものだし、異動がないと、業務の標準化、マニュアル化の遅れの原因にもなり、業務の属人化が進んでいくことにつながる。あまり長い期間、特定のメンバーに業務を任せ続けてしまうと、仕事の内容がブラックボックス化して、外部で把握できなくなっていく。人事部門は、異動に伴う引継コストという短期的視点ばかりでなく、異動を行わない事による中長期的なリスクも考慮して、人事異動を実行していかなければならないはずである。 もう一つは、本当はもっと積極的に人事異動をしたいのだが、組織が縦割りで一度配属されたら、他部門への異動は現場が受け入れてくれないという理由である。本当は、やりたいのだが、現場の部門も抵抗されるということだ。確かに。現場の各部門の力が強く、人材の放出に、部門長が否定的な企業も少なくないが、これこそ、「全社最適<部門最適」の典型であり、人事主導になって、トップを巻き込みながら、組織全体での血流の活性化の重要性を浸透させていかなければならないところだろう。 ヒトの体と同じで、人事異動を適切に行う事で、組織の血液たる「情報」の流れがよくなるとともに、蓄積された老廃物も取り除かれていく。組織が硬直化し、企業全体が機能不全に陥らぬ前に、人事部門は組織のコリを取り除いていく優秀な整体師の役目も負っている。

ほしいものが、ほしいわ | その他

ほしいものが、ほしいわ

 このキャッチコピーを覚えているだろうか。成熟時代のマーケティングを象徴する広告として、80年代末期に書かれたものである。  当時、躍進を遂げていた西武百貨店は「おいしい生活」というコピーをかかげ、百貨店はモノを売るのではなく、生活提案産業だと謳った。たとえば食器は、食事をするための道具であるけれども、さまざま使い方を見せることで購買を促進できる。その使い方を、新しい暮らし方や格好いいライフスタイルとして見せたのが、その時のマーケティングだった。  部屋は狭いし、十分な収入があるわけではなくても、そこには、豊かな“気分”がある。そうした気分を味わうための道具として、さまざまなモノを売る。現実は変えられないけれども、気分は変えられる。だから、新しい暮らし方やモノの使い方の情報を発信し、つぎつぎと新しい気分の消費=関連するモノやコトの消費を煽っていくということである。  気分を喚起するマーケティングは、ニーズにあった商品を揃えるのではなく、ニーズを作り出す。欲望の対象になる商品を生産するのではなく、欲望そのものを生産するということである。「おいしい生活」から数年後、この事情を消費者にむけてストレートに言い放ったセンセーショナルなキャッチコピーが、「ほしいものが、ほしいわ」だったのである。  つぎつぎと「ほしいもの」を作り出す社会は、いまも続いている。情報ネットワークや先端技術は、新しい欲望を生み出す大きな原動力だし、金融工学の進化は、金持ちの欲望を大衆化した。供給者の思惑どおり、いつの間にか日本にもハロウィンが年中行事化しつつあるように、常に虎視眈々と暮らしのなかに新しい消費を喚起するイベントが仕掛けられる。  働く欲求としてよく聞かれる「自己実現」もまた、その獲得をそそのかされた「ほしいもの」ではないか。社会に出る若者が面接で言う「自己実現ができる仕事がしたい」という一言の違和感くらいなら良いが、働くからには、マズローのいう低次の欲求段階を経ていたる最上位の欲求を目指さねばならないという強迫観念が若年層の転職を後押しているかもしれない。働くうえでは「夢」を持たねば、と喧伝される風潮もそれを煽る。  しかし、実現すべき自己などというものがどこにあるかよくわからない。まさに、「ほしいもの(=自己実現)が、ほしいわ」。こうした呪縛にとらわれるのは、働くことを手段だと思い込んでいるからである。手段だから、目的が要る。なんのために働くのか、それは、生活のためだけではなく、集団欲求や社会性欲求のため、ひいては自己実現という素晴らしい目的のため。だから、頑張ってはたたらく価値がある、となる。  もっと気軽に、働きたいから働く、でよいのではないか。働くことが愉しいから働く。万有引力ならぬ情念引力をもって世界を語ろうとした異端の思想家シャルル・フーリエは、快楽労働と言った。つまり、手段としての労働ではなく、目的としての労働である。  そういえば、消費だって、実はそれ自体が愉しい。メーカーや小売業にそそのかされた気分や欲望のためであろうとなかろうと、モノを買うという行為は、愉しい。それが、交換経済ではない貨幣経済がもたらした快楽だった。「ほしいもの」は、消費であれ、労働であれ、それがなされた時点で、すでに獲得されているのである。だれのものでもない、自分だけのものとして。  だから、その労働の自分だけの面白さを感得することこそが、「ほしいもの」なのではないか。企業組織がやるべきことは、なにより、その仕事の意義と意味、とりわけその従事者当人にとっての意味づけを喚起することだ。ビジョンや戦略はつねに一人ひとりの意味づけに資するという観点から、表現され、また語られ、参照されるべく仕組まれなければならないのだ。  あなたがたの「ほしいもの」は、ほら、目の前にあるじゃないか、と。

プレイングマネージャー禁止論 | 人事制度設計

プレイングマネージャー禁止論

 「生産性の動向2015年度版(日本生産性本部)」によると、2014年の我が国の労働生産性は約73,000ドルで、OECD加盟34カ国の中21位、主要先進7カ国で最も低い水準が2005年より続いている。我が国の企業の生産性が低い水準で留まっている背景に何があるのだろうか。  コンサルティングの現場、肌で感じている事をいくつか挙げてみよう。例えば、「業務の分担」の問題。多くの企業で、正社員が非正社員と同様の業務を行っている状況が少なからず見受けられる。非正社員より労働コストの高い正社員が、非正社員と同様の業務を行い続ければ、生産性が低下するのは当然である。そこにメスをいれることができていないのは、誰が、どのレベルの業務を行うべきかというモノサシが現場で確立されないまま、放置されているという事だろう。  次に、「不要な残業」が行われ、それが見過ごされているという現実。なぜ、残業が必要なのか、どのくらいの追加時間が必用なのか、誰もよくわかっていない。残業をマネジメントするための環境が整っていないので、本来は就業時間内に当然完了すべき業務が残業時間に回されたりしても、気付かなかったり、否定することができない。適切な残業基準ができれば、就業時間内に仕事をかたずけてしまおうという意識が高まり、業務の生産性は高まっていくはずである。  もう一つは、「不適切な意思決定プロセス」である。意思決定に無関係な人物まで会議に召集されたり、せっかく会議を招集したのに、延々議論の末、結論をださなかったり、逆に、しかるべき時に、意思決定の場が設けられず、何度も先送りされたり・・。こうした不適切な意思決定プロセスのために、関与者の多くの作業と時間が無駄に使われていることを深刻に受け止めなければならない。  さらには、部下と上司の間で、「適切なコミュニケーションがされないこと」で、無駄な作業ややり直し作業が発生したり、現場における「業務の標準化やシステム化への主体的取り組みマインドの低さ」なども、我が国の生産性向上を阻害する要因といえるだろう。  実際のところ、大多数の企業では、それらを問題として認識している。が、現場の管理職がその他の業務で忙しすぎて、結果、本格的に手が付けられていないというのが実情なのではないか。本来、管理職は日々の実務を行わず、配下の実務者のアウトプットを最大化するためのマネジメントを行うことがミッションであるはずだが、我が国では、バブル経済崩壊以降、長きにわたり、合理化推進の旗印のもと、組織の頭数を抑えるために、管 理職をいわゆるプレイングマネジャーと位置づけ、非管理職が行うべき実務まで、管理職に多大に追わせてきたことで、管理職本来のミッションが機能不全に陥ってしまっている面があるのではないか。また、当の管理職も、非管理職時代から慣れ親しんだ実務を引き続き行うことを会社から許容されている事で、本来のマネジメントはほどほどでよいという免罪符を与えられた感覚になっているのではないか。  厳格に管理職と非管理職のミッションを切り分け、管理職から一切のプレイヤー的業務を取り上げ、四六時中、配下の組織パフォーマンスを高めるためのマネジメント業務にだけ集中させるぐらいの覚悟で、生産性向上に正面から取り組める環境を整えていかなければ、我が国の生産性問題は本質的に解決されないだろう。

評語の標語化 | 人事制度設計

評語の標語化

 評価票の無機質さは、なんとかならないものか。なにより学校の通信簿のような「評語」が大人げない。  コメントはいろいろ書かれているものの自身の評価結果が味気ない評語の羅列で示されている。成績としての良し悪しだけはわかるが、業務遂行や行動におけるリアルなレベルは伝わらないし、だからどうする、が見えない。ゆえに、上司コメントや面談による指導が評価という行為には不可欠とならざるをえない。  評語とは、 1. 批評の言葉。評言。 2. 成績の評価を示す言葉。優・良・可の類。 と辞書にあるが、人事の世界ではもっぱら後者の意味でつかわれる。評語=SABCDとか54321などの評点レベルの表現語、である。ついでに言うと、数字評語は、成績レベルとしては直感的だし、平均処理といったわかりやすい集計処理ができるけれども、アルファベットはいただけない、と常々思う。  評語だけではレベルがわからないから、評価制度ではたいていその説明がついている。それもまた味気ない。たとえば、 S / 5 期待を大きく上回る A / 4 期待を上回る B / 3 期待どおり C / 2 期待を下回る D / 1 期待を大きく下回る といった表現で、味気ないだけでなく、そもそも、4と5、2と1の違いである「大きく」とはなにか。あいまいである。なので、評価者研修では、「期待とは、等級に求められる水準であり、5は、上位等級レベル」だとか、「問題があれば、2。支障があれば、1」などと解説する。  解説がいるくらいなら、評語自体をメッセージ化してしまったらどうか。それならば、見てすぐに自分のステータスがわかる。たとえば、こんな具合に。 ■上位等級レベル。昇格準備  ←S / 5 期待を大きく上回る  ■卒業レベル。要上位課題確認 ←A / 4 期待を上回る   ■等級相応。要ストレッチ   ←B / 3 期待どおり ■問題あり。要確認      ←C / 2 期待を下回る ■業務支障。降格危機     ←D / 1 期待を大きく下回る   いわば、評語の標語化である。標語とは、「主義・主張,運動の目的などを簡潔に示した短い語句。モットー。スローガン」であるから、ここであげた即興例なんかより、もっと自在に、もっと独自表現で、自社にとっての評語表現をメッセージ込めて作ればよい。  評語の一つ目の意味は、「批評の言葉。評言」である。当社にとって、5レベルの優れた人をどう評するか、が標語としての評語作成の出発点である。大げさに言えばそこに、会社の理念や組織哲学が表出するはずであり、味わいのある評価票がうまれるのではないか。  何を評価するかの観点は、多種多様だし、その表現もまたいくらでもある。企業固有でかつ琴線にふれるような文学的表現があってもいいとも思う。最近読んだ本のなかに、人を評する言葉としてこうあった。  佇まいの凛冽、志操の高潔、言動の超俗。

密室の実力主義 | その他

密室の実力主義

 社員の人事制度に“実力”“成果”度合いを強める流れは、今後も強くなっていくだろう。実力、成果主義的な人事制度は、今までよりもより多くの“差”を生み出すことになる。この差は単純に単年度の賞与だけではなく、中長期の昇格のスピードにも表れる。入社して定年を迎えるまで、優秀な成果を出しかつ早く昇格する社員とその逆の社員では生涯の収入差がさらに大きくなる。この差はしばらくすると、成果が普通以上の社員のモチベーションを向上させ、成果の低い社員のモチベーションを今までよりも下げることが顕著になってくる。社員にとっては会社に在籍し続けるか否かも含めて、自己の評価とその結果の処遇は、今までに比較にならないくらい大きな意味を持つ。経営としての狙いは、“信賞必罰”によって、結果として全体のパフォーマンスを向上させるということである。実際には成果の低い社員のモチベーション低下の分を、普通以上の社員に傾斜配分することによって、これが実現するということだ。  この“差”を生み出す人事管理が適正に機能するためには、“成果”と“処遇”の関係が社内で十分な納得性を持って認知されなくてはならない。これだけ大きい“差”を作るのであるから、社員からするとわかりやすく納得できるものでなくてはならない。ルールが明示されていることと、そのルール通りに運用され、それが社員に“適正”であると感じさせなくてはならない。適正に評価を行い、適正な処遇を実現するためには、いくつかの大きな障壁がある。その最大のものは、“結果の公開“であろう。実力、成果主義と標榜するからには、評価とその結果の処遇が自分だけでなく他の社員も含めてわかりやすく公開されることだ。スポーツの世界は非常にわかりやすく、当年度の成績によって査定され、次年度の年俸が決まる。成績によって年俸の増減や額がわかるというオープンな世界である。このような公開された世界では査定そのものや処遇への反映の妥当性が常に衆目にさらされることになる。そのため査定する側も、適正に評価する圧力がかかるのだ。  現在の日本企業の“成果・実力主義”は“密室”で行われている。確かに自分の評価とその結果としての処遇は上司から伝えられるが、他の社員の評価や処遇については全く公開されておらずわからない状態である。自分の評価はわかるが、それが全体の中での位置づけや特定の他の社員と比較したときに妥当性があるかを検証する術がない。成果・実力で処遇すると言っておきながら、情報の公開が十分でないため、制度本来の機能が発揮されていないのではないか。この情報の公開の壁を何らかの形で乗り越えなければ、本当の成果・実力主義とは言えないだろう。 以上

フェミニンリーダーシップ | その他

フェミニンリーダーシップ

 ふたたび、ジェンダーについて書く。  ダイバーシティマネジメントを体現する人材活用の一環として、女性管理職比率を目標設定することがある。それについては賛否両論あって、否定派は、一定数の女性管理職登用を目指すがゆえに、本来の登用基準より低い“女性用基準”が生まれることを危惧する。ひいては、女性の尊厳を傷つける施策だとまで言うむきもある。  しかし多少無理はしても、一定比率の女性管理職を人数枠設けて“外形的に”作ることが早道であることは確かだろう。女性の管理職候補者が育ってきてから同じように選考して、などと言っていたら、女性の管理職が増えるのがいつになるかわからない。だからこその強引な目標設定だったのだから。  そこでの主たる懸念は、このように登用した女性管理職が管理職としてパフォーマンスをちゃんとあげられるか、ということだが、その心配はあたらないのではないか。きっと女性たちは、管理職能力を発揮できるはずだからである。  ある時期から、採用担当者の方々からこんな悩みを聞くことが増えてきた。選考過程で、評価の高いほうから採用していくと、女性ばかりになってしまうので、男性を採るために採用基準を下げざるを得ない、と。これはこれで大丈夫か? という気もするが、それは置くとして、優秀で元気な女性が会社に入ってきている時代である。我々も、研修の場で、女性のほうが自由で創造的な発想をする場面を何度も目撃している。  いやいや確かに女性社員は優秀だけれども、管理職としての能力はどうだろうか、と疑問を呈する方もいるだろう。それなら優秀な女性社員の業務遂行ぶりをよく見てほしい。彼女らの特長は、複数の並行作業の優先順位づけと割り切り、判断の速さである。  仕事も家事もこなすために、定時退社や場合によっては時短勤務を必須として、効率的にかつ割り切った判断で仕事をする。よく言われるようにそもそも家事というシャドウワークは、マルチタスクの並行処理であるから、仕事においても、男性社員のようにうだうだ思い悩まずに進めていくクールさがある。  管理職の仕事の大半は、多種多様な案件の意思決定である。優先順位の高いものから、早く、的確に判断する仕事である。そこには冷徹な割り切りもしつつ、やるべきことを粛々とやっていくことが求められる。かつて女性ならではのリーダーシップを分析し話題なった本『フェミニンリーダーシップ』(マリリン・ローデン)を持ち出すまでもなく、こうした管理職業務が女性に向いていないとはとうてい思えない。問題は、女性の管理職能力ではなく「管理職志向のなさ」にあるにすぎないのだ。  アセスメントセンター方式による昇格アセスメントでは「インバスケット」というシミュレーション演習を使う。管理職の立場でたくさんの案件を短時間で処理するという判断ゲームで、純粋に管理職としての意思決定力を診断するものだ。純粋に、という意味は、会社固有の暗黙知や職場の人間関係や業務情報の多寡によらずに、ということである。  従来の、人事考課の結果と部門長推薦と役員面接による登用決定だけでは見落とすかもしれない管理職能力を診るために、アセスメントの活用が増えてきている。同時に、そうした従来型の登用方式が女性の管理職登用を阻害してきたものでもある。アセスメントによって、予断なく純粋に管理職能力を見極めれば、女性管理職の登用にさほどの無理はなくなっていくだろう。  もちろん、管理職に必要なものは、ここで書いてきた意思決定力、つまり管理能力だけではない。リーダーシップと言ったり、人間力と言ったりする人々に影響を与える力がないと人はついてこないし、管理職としての強い役割意識もまた不可欠だ。それらについての女性たちの適性はまだわからない。もし多くの女性が管理職になりたいと思わないのであれば、その姿勢やマインドからして、このあたりはあるいは不得意かもしれない。  しかしそれも心配はないのではないか。管理職とは役割であって、演じるものである。男性よりも演技に長けているのが女性だという通俗的な女性観が正しいとすれば、リーダーとしての役割を、割り切って演じられるはずだから。

無能の大罪 | その他

無能の大罪

 企業内教育は、個々人のパフォーマンスを高めるために不可欠の施策である。OJTやOff-JTにより、早く求められる成果をだせるようになって、生産性に貢献してほしいから、育成する。しかし、そこで高められる能力とは、企業固有スキルであって、大半は汎用的スキルと重なるけれども、大事なのはその会社ならではの必要スキルである。  だから問われるのは、その会社で成果を出せる能力にすぎない。「あいつは能力が低くて困る」という上司のぼやきは、正確に言えば、パフォーマンスが低い、貢献となる行動をとれていない、という意味で、決して、「能力」そのものを深刻に評価しているのではない。たかだか、いまこの会社で求められる行動発揮に問題があるだけである。  企業で評価されるのは、行動とその結果である。評価制度は通常、業績評価と能力評価のふたつで構成される。その能力評価とは、潜在能力ではなく、発揮能力。その会社で階層別に求められる発揮能力=行動を評価するものである。なので、名称自体も能力評価ではなく、行動評価とする評価制度が増えてきている。  問われるのは、能力ではなく行動である。仮に能力が低くても、行動ができていればいいし、行動ができるレベルにないなら訓練をすればいい。訓練をしても行動ができないなら、その仕事は無理だということだけである。それが、能力が足りないからか、やる気がないからか、あるいは別の何かのせいか、その理由はどうあれ、である。  企業の現場において、個々人の能力の多寡は、重要でない。行動と行動発揮を促進する訓練、つまりはマネジメントが問われるのであって、「あいつは能力が低くて困る」などと、上司に言われる筋合いはないのである。行動発揮が十分でなければ、それなりの評価となり、それなりの処遇になるだけであって、あえて能力を発揮せずに、そうした働き方を選んでいる人だっているかもしれない。  その意味で、従業員の能力のあるなしは、問題ではない。しかし、この上司=管理職者だけは、文字通り能力が問われるではないか。問われるどころか、無能なマネジャーは組織にとって有害といっていい。管理職も役割定義されているから、求められる行動ははっきりしている。ただ、明文化された役割行動をとるだけでは、マネジメントはできない。内外の不測の事態に対応した判断ができるには、「能力」が必要なのである。  その最前線での判断が会社に与える事業的影響もさることながら、たとえば、クレームだったり事故だったりに対して、逃げたり、責任転嫁したり、矢面に立たなかったりする上司を目の当たりにした部下たちはどうなるだろうか。当の管理職者に対してのみならず、任用した会社に対しての落胆、失望、諦観。個々人を活用して、組織としての成果を上げていくしくみである会社にとって大罪である。  管理職役割定義に書かれていることの根幹は、要は、意思をもって、いろいろ工夫して、判断してくれ、ということであり、それには、一定の能力を前提する。そこで必要な能力とは、課題発見力だったり、分析判断力だったり、指導力だったり、育成力だったりいくらでも書き連ねられるけれども、もっとも大事なのは、「意思」と「覚悟」である。  これは、経験によって磨かれるだろうけれども、そもそもそれを持ち得るかどうかは能力だろう。だから、昇格のアセスメントでも、意思決定にかかわるスキルとともに、必ず、「達成意欲」や「姿勢」、「自律一貫性」といったさまざまなスキル名称をもって、それらのレベルを測定しようとする。  よくリーダーシップの要件として、人間力といった言葉が語られる。そこには、ともすれば高邁な人徳や器の大きさのイメージがあるが、それほどのものは必要ない。ただ、意思と覚悟を持てる能力だけは、管理職者には不可欠であり、その意味での無能な管理職者を決して作り出してはいけないのである。

無知は哀しい | その他

無知は哀しい

 恥ずかしながら40歳になるまで、ザルそばの薬味のワサビは、直接そばにつける、あるいは口直しにちょっと舐めるものだとは知らなかった。あるとき、池之端藪の小上がりで独り菊正宗ぬる燗をやりながら、隣の初老の客を見るともなく見ていたら、ワサビをちょんちょんと蕎麦につけると、その部分はつけ汁につけずに手繰った蕎麦の下だけ蕎麦猪口に入れてズズッとすすっている。  真似をしてみたら、その旨いことといったら堪らない。ワサビが引き立て役になって蕎麦の味が香り高く際立ち、口腔をうならせる。後で調べてみたら、薬味のワサビは本来そのためのもので、つけ汁に溶いたらまったく意味がない、と知った。なぜ誰も教えてくれなかったのか、とその時、くやしさに身もだえしたものだった。若い時から蕎麦好きで、たいていの老舗蕎麦屋には通っていた、この20年間は、蕎麦の味を十全には味わえていなかったということなのだから。  なんともったいない時を過ごしたことか。無知のせいで、蕎麦喰いの快楽を実に20年間も味わっていなかったとは。大げさに言えば、食という人生の愉しみについて取り返しのつかない損失である。おそらくは、蕎麦喰いとしては、薬味のインパクトを知っている人が味わう蕎麦の60〜70%の堪能レベルだったに違いない。なぜワサビがそこにあるのかをよく考えもせずに、つけ汁に溶いていた自分が実に情けない。  かくのごとく、無知は哀しい。無知はその本人にとって、豊かになるはずの人生を阻害する。たとえば、歴史の知識がある人とない人では、NHK大河ドラマを面白がる度合いが違うだろう。それもささやかだけれども、人生の豊かさの違いである。知らないからわからない面白さや醍醐味は、きっとあらゆる事柄にある。無知ゆえに、そのこと自体にすら気づかないのだ。  逆にいえば、知識は人の人生を豊かにする。よく研いだ包丁で長葱を切ると細胞をつぶすことがないので、くさみのない、格段に旨い刻み葱になる、あるいはボンゴレビアンコの旨さはちょっと煮立て“乳化”させたソースにあるとか、理屈がわかればしみじみと料理が愉しくなる。漢字や言葉の由来を知れば、それだけで人々の知恵の連鎖に触れ世界は深まる。  どんな事柄でも、理由がわかれば、物事はより面白くなる。企業の階層別研修では、よく、WHY思考というものをテーマとする。WHY=なぜ〜〜を問うことで、たとえば、目の前の業務の意味や、ルールの意味を考える。それが仕事の有意義感や面白さにつながり、また、何をなすべきかがわかる。そうしたWHY思考は、仕事の場だけでなく、実は日常のすべて、生活のすべてのことわりに向けて働かせるべき態度として重要なのである。  「なぜ、この仕事をするのか」、「この仕事の意味は何か」を問うことは、イノベーションの源泉といわれる。ひたすらWHYを突き詰めることで本質まで立ち返って初めて、新しい視点やアプローチ、アイディアが生まれるからだ。もちろん、蕎麦のワサビの意味に気づいたからと言って、生活のイノベーションはうまれない。しかし、暮らしの中のささやかな革新の契機にはなるのではないか。  すくなくとも私はそれ以来、「薬味の効用」に目を開かれ、ステーキを焼くときも、辛子、ワサビ、柚子胡椒、大根おろし、ディル、クミン、ガラムマサラ、梅肉、練唐辛子、晒し玉ねぎ、海苔佃煮、、等々を合わせてみるという、小さなイノベーションに挑戦し続けているのだった。