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コラム

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試合と練習 | その他

試合と練習

 スポーツなどの競技では、正式な試合に出て相手に勝つためには、相応の練習をするのがあたりまえです。試合に勝つためには相手よりもより多くの練習をより効果的な練習を行わなくてはなりません。練習ではミスや試行錯誤があってよいですが、試合では相手に勝つためにミスなく実力を十分に出し切らなければ勝利という成果が上がらないのです。  このスポーツにおける試合と練習の感覚とビジネスにおける感覚は極めて大きく異なります。ビジネスにおいては競合会社に勝ったり、業績が伸びることが勝利ということになりますが、この勝利に向けての実際の活動は、試合と練習が混在しているともいえます。OJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)は、実戦で鍛えるということですので、練習しながら試合するようなものでしょう。確かにスポーツの世界では試合などのように限られた特別な場面が設定されます。ビジネスにおいては長い勤務時間がすべて試合のようなものですので、試合に出て別な時間で十分な練習などはできません。スポーツでは膨大な練習時間に対して試合時間は非常に短いですが、ビジネスでは練習を十分に行うだけの時間的な余裕はなく、そのため実戦の中で練習もしなければならないのです。  新卒で入社した社員は十分な知識・スキルがありませんので、最低限の実戦活動ができるようなトレーニング必要です。多くの企業では最低限のトレーニングをして、すぐに実務に投入します。そして経験させながら成果を出しながら学ばなければならいのです。実戦投入後は毎年評価を受け、個別に指導され、またたまに行われる集合研修で最低限の知識・スキルを学びます。ビジネスマンとして成長するために、換言すれば試合に勝つためには、仕事をしながらいかに学ぶかということが重要なのです。  この最低限の教育で実戦に投入するという育成方法は、本当に効率的であるのかが疑問です。成長するかしないかは本人のスタンスや配属された部署によって大きく異なり、育成のスピードに大きなムラが発生します。確かに最低限の教育のあとは実戦で成長するということは、自己責任という意味では重要です。しかし組織として見たときに試合に勝てるビジネスマンを多く確実に育成しようとしたならば、この方法の効果が疑われます。十分な練習を積んだ者しか実戦に出さないほうが、組織のパフォーマンスを上げるという意味では効率的なのかもしれません。そのため管理職は自組織の成果を上げるのと同時に、練習の指導もしなくてはならないという重荷を負っているのです。働く側にも試合と練習が混在している中での甘えも発生します。OJTは知識・スキルが十分でない社員を実戦に投入するということになりますので、どこまでが試合でどこまでが練習化が分からないという感覚になります。練習中だからできなくて当たり前であるような感覚です。  OJTは大切だと思います。ベテランからの指導は短期間で人のパフォーマンスを上げることができる有効な手段だからです。しかしOJTに頼りすぎるもの大いに問題があります。もっといえば最近の企業はあまりにもOffJTを軽視しすぎていますし、自己学習、自己研鑽に対する意識付けも強烈さがありません。十分な練習を積んだ社員ばかりであれば、常に試合に勝てる組織になれるはずです。業務は試合であるとするならば、会社が十分な練習を提供するか自主トレを強力に推奨することが必要かもしれません。

暗黙知を引き出す | その他

暗黙知を引き出す

“子供の学習”と“大人の学習”は違う、という説がある。 それによれば、子供の学習は新しい知識を学ぶことだが、大人の学習は知識を整理し体系化することとされる。大人は、いろいろな経験をし、自覚的ではないかもしれないけれども知っていることも多い。その、自身のなかに散在する知識や経験を、意味づけ、体系化し、コトの原理がわかることで、再現化できるようになる。 つまり、経験を踏まえて自身としての方法論化ができるのが、大人の学習ということである。それこそが、企業研修(Off-JT)が大事である理由であり、そこでは学校の授業とは、まったく異なる教育手法が必要になる理由でもある。企業研修は通常、レクチャーにはほとんど時間を割かずに、ディスカッションや考えさせる演習に腐心する。それにより、自身の経験や知見を引き出し、多様な意見により相互に触発し、暗黙知を形式知化させていくことがその狙いである。 暗黙知を引き出すための一番のポイントは、「言葉にする」ことである。言葉にして伝えるために、あいまいな考えや印象的な経験を整理し、形にしなければならないからだ。それにより人に伝えられるし、自分で行動することもできる。 たとえば理念浸透のための教育では、各部門長がメンバーに対する行動指示のメッセージを具体的に作成する、といったことをする。企業理念や行動指針の項目ごとに、例えば、「地域社会への貢献」という項目に対して、個々の部下の担当業務に即して、「こういったことをしろ」、「これだけはするな」といった具体的な行動指示をつくらせる。その際に大事なことは、そのメッセージには、必ず自分の経験を盛り込むというルールを課すことである。 具体的行動を考えるにあたって、自分の体験や知見を振り返る。その上で、「こんな時はこうしろ、なぜなら自分もかつてこんなことがあって〜〜〜」といったメッセージを作成することで、誰でもないその上司だけの行動メッセージができあがる。 たとえば評価者研修で、部署別に能力評価やバリュー評価の項目ごとに行動例を皆で作成するセッションも効果的だ。あいまいで抽象度が高い評価項目でも、マネジャーたちが自身の経験に即して具体例を出し合い、そのレベル感を議論することで、実態的な行動と暗黙の基準が共有されていくという効果がある。 大人の学習とは、教えるのではなく、引き出すことである。管理職とはどうあるべきか、どう行動すべきか、というレクチャーに対しては「そんなことわかってるぜ」と斜に構えるマネジャーたちも、「あなたのマネジメントの持論を語ってくれ」というセッションをすれば、時間が足りなくなるぐらい白熱するものなのである。

富士越え龍の凄み | その他

富士越え龍の凄み

 葛飾北斎は、73歳になったときに我が人生を振り返り、「70歳までに描いたものの中には、見るべきものは何も無い」と言ったと伝えられています。北斎がかの富嶽百景を作成したのが50歳を超えたころだと言われていますから、世界に名だたるこの傑作さえ、本人にとっては「見るべきもの」ですらなかったということです。また、「この歳になって鳥や獣、虫や魚などの本当の姿がどうやら見えてきた。80歳になればもっと進歩し、90歳にはいっそう奥まで写すことができるだろう。そして100歳には思い通りに描き、110歳には瞬時にまるで生きているような姿を描くことができるだろう。」と言ったそうです。  北斎は、実際には1849年に89歳で亡くなっています。亡くなるときには、「あと5年あれば」と言って、やり残した仕事への無念を表現したそうです。江戸時代の庶民の平均的な死亡年齢がだいたい60歳くらいだとされていますから、89歳というのは長寿の中の長寿です。しかもこの世を去る直前まで仕事をして、さらに5年あればと悔恨の言葉を残して去った天才には、頭が下がる思いです。  65歳を超えて70歳まで働くことがおそらく普通の状態になるだろう世の中です。体力はかなり落ちてきたが、歯を食いしばって、不平不満を言わずにがんばろう、というような「気力の人」は数多くいると思います。反対に、どこといって悪いところはなく、いたって健康ではあるが、どうも頑張りがきかなくなったという意気地の無い話もよく耳にします。北斎の凄いところは、どんな年齢においても、今よりもっと良くなろうと挑戦するところだと思います。常に何らかのビジョンを持っていて、何歳までにここまで、その次の何歳までにここまで、というような目論見を抱いています。こうした気の持ちようが、元気な仕事の源であるという気がします。  考えてみれば、今の世の中、新しいことにどんどん挑戦していかないと、すぐに先が見えてきてしまいます。高齢者は長年の経験を生かして大いに社会に貢献できる、などと言いますが、経験を切り崩すだけで世の中の価値に置き換えられる部分は思ったより少ないかも知れません。切り崩すのではなく、経験を新しい価値の創造につなげるくらいの気迫を持って仕事に臨まなければならないでしょう。なにせ体力のほうが追いつかないのですから。  時間があれば、インターネットか何かで調べて、「富士越えの龍」という絵を見ていただきたい。この作品は、葛飾北斎の絶筆に近いものと言われています。身をよじるようにして天に昇ろうとする龍の姿は、老いてなお、さらに上へ、さらに上へと苦しみもがく北斎が、自らの姿を描いたもののように思えます。一種の凄みすら感じます。画狂老人と自らを称した天才の最高傑作です。

無音を制する | その他

無音を制する

 アルゼンチンタンゴの全盛期の代表的な指揮者として有名なファン・ダリエンソは、“無音”の天才でした。ダリエンソの演奏は曲の途中で突然無音になります。あたかも次の音やメロディーを強調するかのように突然無音になるのです。この“無音”の効果が余すことなく発揮されている代表作は、“ラ・クンパルシータ“とう名曲です。曲名は知らなくとも、この曲を聞いたことがない人はいないくらいのタンゴの名曲です。この曲の中でも“無音”の効果は絶大なものがあります。音を強調するに大きな音を出すのではないという手法に改めて驚かされます。  会議やプレゼンテーションをする中で、強調して話したい、話さなくてはならない状況があります。このような場合には自然と声を大きく話すことになる傾向にあります。確かに心情的にも自然に声が大きくなってしますのは当然と言えば当然です。しかし強調したい部分をより効果的に伝えるには、“間”をとることも非常に効果的です。“間”を取るとは、「この場でお話ししたいことは、(ちょっとした間)○○ということです」のように、強調したい部分の前に“無音”の時間を作るということです。通常話をしているときは一定のスピードで話をしていますので、いわゆる緩急があまりありません。効果的な話をするにはこの緩急を意識するとよいということです。その究極が“間”であり、これは“無音”ともいうことができます。  プレゼンテーションにせよ会議にせよ、話すことで何かをより効果的に伝えるには、さまざまな準備や工夫が必要です。話すという行為は、話し言葉が順番に耳に入ってくるだけですので、そもそも全体の構造が分かりづらいのです。そのためプレゼンテーション資料などを用意して、図やグラフなどを使用しながら話すことは、この話すという行為を強力にサポートしてくれます。図やグラフや目次や話のポイントなどが目に入ることによって、話し言葉だけでは伝えきれない、伝えられないものが伝えられるからです。そういう意味では本質的に話だけで相手に何かを伝えることは、相当な制約があるということです。  しかし聞き手は、図やグラフやパワーポイントの資料を見に来ているのではなく、これらの補助物は使用しながらも、その人の“話”を聴きに来ています。したがって資料の説明を頭から読むようにやられると全く面白くありません。やはり“話”そのものの面白さと技術が根底にあり、資料などはそのサポートにすぎないのです。  うまく話す、面白く話すという手法やポイントはたくさんあると思いますが、多用して非常に効果的で使いやすいのは、この“無音”の技術です。話にメリハリが出て、また構造的にもわかりやすく、また誰でもが使える技術です。限られた時間で効果的に伝えなくてはならないプレゼンや会議などで、意識的に使用すると、その効果が実感できます。“無音を制する”人は話がうまい人であると評価されるのではないかと思います。

もっとユニバーサルデザインを | その他

もっとユニバーサルデザインを

教育研修の世界では、米国海兵隊の訓練方法がよく取沙汰される。 映画「フルメタル・ジャケット」の異常に圧迫的な訓練光景イメージの裏側で、ロイヤリティやスキルを高める考え抜かれた方法があるからで、例えば、個人特性に応じたチームの編成の仕方を学ぶ研修で教えるメソドロジーを、米国海兵隊に借りたりする。 これは、戦争という極限状態のなかで生まれた組織論だからこそ、その実践性が高いということだが、テクノロジーの革新という点では、さらに戦争の“貢献”はよく知られている。いろいろな分野に応用されるIT技術や電子工学の高度利用はもちろんのこと、インターネットもたしか軍の内部コミュニケーションシステムとして生まれたと聞く。世の中からなくなってほしい戦争ではあるが、それが技術革新の契機であったことも事実だ。 同様にクリティカルな状況打破を目指す、もう一つの技術革新の契機が、ユニバーサルデザインの追及である。つまり、障がいのある方々の生活を支援する技術。かつて、Coup d’Etat(クーデター)ならぬCoup d’Tech(クーデテック)という、多くのIT会社が参画した運動があった。「障がい者の生活を革命せよ」と “技術へ一撃”いれて、新機能や新しい道具を生み出そうという動きであり、その後、実際にたくさんの支援機器や支援環境システムが生まれている。 ウォッシュレットやTVのリモコンの例を持ち出すまでもなく、また、「バリアフリー」ではなく「ユニバーサルデザイン」という言葉になったことにも象徴されるように、障がい者支援を契機に生まれた便利な道具を我々全員が享受している。戦争ではない、こうした技術革新こそ、Coup de Tecの思想の実践こそ、もっともっと進むべきだろう。 障がいある方々のために、ICTや先端技術を使った生活や仕事の道具はずいぶんとできてきているが、まだまだ十分でない。必要な人なら誰しもが、ホーキンズ博士並みの車いすが使えるようなローコスト化技術は生まれないものか。また、日常生活の不都合をなくすための道具はある程度あるものの、生活を楽しむ道具は、まったく足りないのではないか。 たとえば、失われた五感の補完や増幅、もっと言えば新しい感覚の創出に基づく、障がい者の方々にとってのエンターテイメントの世界といったものが、技術の粋を結集して切り開かれるべきではないか。それらは、高齢化社会のQOL(Quality of Life)を高めるだろうし、また、結果エンタテイメントの世界を拡充することになるだろう。 道具や環境整備だけが、技術革新ではない。ユニバーサルデザインとしての、組織論や組織管理技術、人材マネジメント技術もあるのではないか。たとえば、さまざまな障がいをもつ人々や超高齢者をメンバーとして前提した組織のマネジメントの技術。それはきっと、海兵隊のメソッドよりもう一段高度化されたダイバーシティ・マネジメントの方法となるはずである。

誰を昇格させるか | その他

誰を昇格させるか

昇格審査に関するご相談が増えている。 勝ち組を目指すための人材力強化の機運のなかで、やはり、まず第一の課題は次世代リーダー育成。それには、きちんとした計画的で合理的な昇格が必要ということだが、その背景には、「なぜ、彼が管理職なんだ!?」といった昇格の失敗経験も少なくない。名プレーヤーは必ずしも名マネジャーではない、といった話もよく聞かれる。 昇格の判断は、2段階で行われる。第1段階は、人事考課による昇格候補者の選定。評価項目は、資格等級ごとに決められた能力や行動の要件だから、その基準を満たしていれば、その等級は“卒業”ということになる。通常は、能力評価結果がその材料だ。業績評価結果も考慮されることもあるが、業績評価は本来、賞与に反映され単年度で報われるべきものだから、その材料にはしない方が合理的だ。 ここまでは、評価の制度と運用に問題なければOKだが、難しいのが次の第2段階。上位資格の役割を担えるかどうかの判断、いわば、“入学”の審査である。とくに管理職昇格で悩ましいのがここのところで、卒業要件満たした人のなかから、部門長推薦⇒筆記試験(&適性テスト、論文)⇒役員面接、といったよくあるプロセスでは、どうもうまくない。見極めなければいけないのは、マネジメントができるかどうか。しかし、その役割にないのだから、やったことがないからわからない。これを、筆記試験や役員面接で見極められるのか、という問題である。 そういった未経験状況における能力発揮可能性を測る方法として使われるのが、アセスメントセンター方式というアセスメントである。シミュレーション環境を用意して、その中で各人の意思決定や行動を評価するというもの。2日間の研修形式でじっくり見極めるか、センター方式のアセスメントツールを個別や組み合わせて使うなどで一定精度の診断ができる。 かくて、人事考課とアセスメントセンター方式によって、在籍資格の要件を満たし、かつ、管理職としてやれる可能性レベルがみれるから、昇格者選定の客観的材料ができるということになる。しかしこれは、スキルだけの話である。加えて、自社のコア人材たるマインドをどうみるか。それを診る意味で、役員面接や論文が機能するというわけである。 近年増えてきたのは、そこに、バリュー評価を考慮することだ。企業理念にもとづく行動こそが大事だから、どんなに能力やスキルが優れていても、バリュー評価に問題があれば、昇格させない、といった運用ルールの会社も少なくない。ちなみに、バリュー評価を賞与反映するようなケースもあり、自社のコア人材の要件は、能力やパフォーマンスだけではないというスタンスは根強い。 能力的にできそうかどうかが問われるけれども、能力発揮可能性だけあっても、姿勢や意欲・意思の面で問題あれば昇格には及ばないというわけである。大事なことは、一方で客観的にスキルを評価・測定したうえで、加えて自社固有の価値観や必要な姿勢を共有・体現している人材を見極めるということだ。役員や部門長が「あいつは“人物として”管理職をやらせても大丈夫だ。俺の眼に狂いはない」と、後者だけで選ぶことでは、昇格の失敗の根絶は難しい。

実力主義と雇用責任 | 雇用施策・その他

実力主義と雇用責任

 仕事柄多くの企業の人事制度を見ることができます。全体的な傾向としては社員の実力に応じた人事制度に変更する企業が多くなってきたと思います。今までのような年功序列的な人事制度から、優秀な人材はより早期に抜擢し、そうでない社員は今までよりも低い処遇にするということになります。このような実力主義的人事制度は、経営がおかれている環境変化に対応するために施策として、ごく自然な発想です。議論があるのはその実力主義的な度合いです。優秀であれば全く年齢関係なく昇格させるような完全な実力主義的企業は少なく、今までよりも多少昇格や給与の分散を大きくするという感覚の変更が多いように思います。それでも今迄に比較すると大きな変更であると社内的に感じるのではないでしょうか。今後のこの分散のありかたが実力主義的であるか否かという議論になると思われますが、この分散の激しさは企業の雇用責任に大きく影響を与えることを十分認識している企業ばかりではありません。  実力主義的にする、要は標準的なキャリアパターンよりも昇格や報酬の分散を大きくすることは、二つの重要な論点があります。一つは優秀な人材をより早期に要職につけることができる、また優秀な人材に対する報酬を傾斜的に多くすることができるため、企業の成長に寄与するとともに、優秀社員の社外流出を抑止することができるということです。これは企業にとっても優秀な社員にとても非常にメリットがあると言えるでしょう。もう一つの論点は、その逆で実力主義が進行するとともに、優秀でない社員の昇格や報酬が今までよりも下がるということです。この結果優秀でない社員のモチベーションは今までより低くなる傾向になります。ここで重要なのは企業は優秀でない社員の雇用を定年まで維持することが望ましいか否かということです。優秀でない社員は将来的に昇格や報酬が今までの期待以上にならないため、長期に渡り優秀でない状態が続くことになります。このような低モチベーションの社員の一団が発生することにより、企業全体のパフォーマンスが低下する可能性が大きいということです。単純にはこのような一団は定年まで雇用するのではなく、社外に転出したほうが企業としては望ましいのかもしれません。また社員も将来のキャリアや報酬を考えると他社で活躍するほうが職業人として、また報酬も含めて望ましいと考えるようになるでしょう。  実力主義人事制度にするに従い、この雇用責任という意味を明確にしなくてはなりません。将来に渡り高いパフォーマンスを期待できる人材は定年まで雇用し、逆に期待できない人材はできるだけ早期に他社に送り出すという考え方が今後の雇用責任ではないか問うことです。  驚くほどの実力主義的人事制度に改定する企業で、このような雇用責任の話をすると、半分以上の企業では、モチベーションが低くとも定年まで雇用するのが責任と考えます。パフォーマンスが将来に渡り期待できなくとも、企業としては退職を勧奨することを極端に嫌う企業が多くあります。社会的な意味での適正な再配置という観点でも、社員の将来のキャリア可能性という観点でも、無理なく積極的に社外に転出させるというスタンスのほうが、今後はよりひろく受け入れられていくことになると思います。“実力主義にすれど終身雇用”という考え方に固執する必要性はないということです。

背水の陣 | その他

背水の陣

 背水の陣とは昔の中国での漢と趙という国の戦争の話です。このとき漢は兵力が少なく圧倒的に不利な状況でした。漢の将軍韓信は圧倒的な兵力の趙軍に勝利するために、常識では考えられない戦術を用います。川を背にして布陣するという当時の兵法の常識では考えられない先方です。当時では“水を背にして陳すれば絶地となる”と言われていたからです。しかし韓信は少ない兵力が大軍を打ち破るためには、兵たちが通常の精神状態では無理だと考え、あえてタブーとされている背水の陣で臨みます。趙軍は敵の将軍は軍事の常識を知らないと嘲笑し、攻撃を開始します。しかし漢軍は後ろに川が流れている状況で一歩も引くことができません。生きて帰るには目の前の敵を倒さなくてはなりません。その必死さが趙の大軍を打ち破りました。背水の陣とは必死に努力することを表す熟語として今でも定着しています。  さて企業のビジネスの現場ではこのような“背水の陣”的な感覚がどこまであるでしょうか。当然命をかけた戦争とビジネスを直接比較するものではありませんが、現代の日本人の多くは商業の世界で生きており、これを生業としている以上どこまで必死かということも問われてしまします。ビジネスマンの多くは生活も決して貧しくなく豊かです。基本的に終身雇用ですので定年までの雇用は保障されています。また一つの会社で失敗しても他社に転職することができます。しかし個人レベルでは一生懸命働き高い成果を出しても十二分に報いてもらえる企業は多くありません。さらには所得が高くなると税金の負担も一層増し、成果の割に所得は増えないのです。  そういう観点では一つの会社や一つの仕事に必死になる要素は以前に比較してだいぶ少なくなってきたのではないかと思います。これは会社を経営するというレベルでも、一担当が業務を行うというレベルでも、その仕事を絶対に成功させるという気概を持ち続けることが、経済的に困難な環境になってきたのではないかと危惧します。また仕事に失敗しても、首になることもないですし、ましてや命を失うことなどありません。何に依拠して必死に仕事をするのでしょうか。  仕事で成功している人の多くは、このような経済的な動機や生命の危機回避的な動機ではなく、それこそ自己の存在証明としての動機のように思えます。仕事を通じて生命や経済的困窮などのリスクがほとんどない以上、なんらかの“価値観“が背水の陣的な必死さを生み出すのではないでしょうか。現在の日本企業における人事制度の議論においての成果主義などは、効果はあるが根本的に働き方を変貌させるだけの力はなく、だからこそ企業の理念や方針や職業人としてのプライドが重要性を増しているのです。そのため評価制度などでも、単に成果を数字で測るような仕組みは、重要な本質的議論を避けているようにも思えます。日本企業がグローバルに輝きを取り戻すためにも、背水の陣的な必死さがほしいものです。

老人力を向上する | その他

老人力を向上する

昔見た映画の話をしていて「あの、ほら監督、誰だっけ、えーと、あれあれほら、あーもどかしい」などといった事態が頻出するようになるから、加齢は哀しい。しかし、こんな風に物忘れがひどくなってきたのは、「やっと老人力がついてきた」と喜ぶべきことなのだ。。。 少し前に赤瀬川原平さんの本で話題になった“老人力”は、逆説に満ちたポジティブシンキング処世術だけれども、たとえば、物忘れを、「忘れることができる能力」というと何やら含蓄深い気がする。豊富な情報あふれる社会では、情報を取捨選択する力こそ大事になるといったコトワリに通じる気配もあったりするからだ。 いずれは「死ぬまで働く」に至るだろう高齢者雇用が始まっている昨今、本当の老人力、つまり加齢により向上する能力はあるのだろうか。 年齢とともに、ほとんどの能力は下降するなかで、創造力だけは維持ないし向上する可能性があるとする説がある。よく知られるように、創造とは無から有を生みだすことではなく、関係のなかからの創出である。ようは、脳の中の編集作業だから、その素材=脳内情報や思考法=脳内バイパスの豊富さは、創造に資することになる。 だから、経験つんだ脳は創造力発揮の可能性があるということだが、それだけでは、創造には足りない。矛盾するようだが、一方で、固定観念や従来のパラダイムに縛られない発想ができなければならないとされる。その原動力となるのは、強烈な目的志向と貫徹の意思ではないか。ある目的を達成するために、なにがなんでも生み出さねばならないと、脳をスクィーズ(squeeze)したときに、飛躍が生まれるのだろう。 スクィーズしきるには気力がなければない。気力は、身体の元気さ=体力に依存するから、健康でなければならない。とすれば、シニア人材の動機付け=気力ブラッシュアップと、健康の維持増進という当たり前の高齢者対策にも、創造性発揮の可能性の前提として意味がある。 そのうえで、しかしいちばん大事なことは、その目の前の仕事の目的が、なにがなんでも達成すべきことと本人に思えることではないか。 人は、目的の意味に共感したときに、創造力を発揮する、と言われる。会社がシニア人材に期待する役割、達成してほしい目標の“企業としての本気度”と自身への胎落ち感こそが、彼らの創造性を刺激する。その観点もまた高齢者活用に必要なのではないか。 単に過去の経験や知識を活かすだけでない能力発揮、高齢者ならではの創造力の発揮=仕事や事業の新しいやりかたの創出、といった付加価値を求めるのであれば。

手口をばらす | その他

手口をばらす

ここ数年、多くの企業でコンプライアンス研修が行われている。労働時間やハラスメントといった組織問題から、公正取引や反社会勢力との関係など社外の問題まで遵法面で留意すべきことは増える一方で、大小さまざまな事件の発生は珍しくない。その対策として、意識づけと行動徹底を目的とする研修施策ということである。 こうした研修は、ともすれば、経営にとってのコンプライアンスの重要性と仕事における原理原則の再確認に終始しがちである。それは不可欠ではあるけれども、一方で、現場のリアリティへの肉薄がないとお題目の確認だけで実効性にかけることなる。 仕事によっては、例えば労働時間に関して、収益性とコンプライアンスのぎりぎりのせめぎ合いで日々のマネジメントがなされるような場合もあるからだ。経営意思として、研修の場で、どこまでつきつめるかを事前に決めたうえで、自社の現場のリアルなコンプライアンスを教えることがもっとも大事である。 教育の実効性を高めるためには、まず、自社で起こった事件の事例を詳細に開示をしたうえで、どのように対処すべきかを、自社の現場に即して学習する。なぜ、そうした問題がおこったか、どんなやり方がされたのか、なにをしてはいけないのか、を具体的に受講者自身が検討することで、“自社のコンプライアンス”が胎落ちするわけである。 何をしてはいけないか、が具体的わかればそれが、抑止効果となる。その意味では、さらに、過去のコンプライアンス違反事例の共有だけでなく、自社でありうる具体的可能性を洗い出すことができれば、抑止効果はより大きくなるはずだ。 たとえば、研修の中で、「露見しないコンプライアンス違反の手口」をできるだけたくさん考えるといったグループディスカッションはどうだろう。こうすればバレずに〇〇〇〇が△△△できる・・・と例示するのは差し控えるけれども、ここでアウトプットされるさまざまな実践可能性の公開と共有は、いかにも有効ではないか。 コンプライアンスの原理原則を教える箇所を教科書だとすれば、このセッションは、いわばそれと一対にすべき逆説的問題集である。人事のご担当とすれば実施するには差しさわりがあるかもしれないが、コンプライアンスの現場徹底の一法ではあると思う。

タレントマネジメント? | その他

タレントマネジメント?

 最近流行りの言葉で“タレントマネジメント“という言葉があります、またその実行をサポートする”タレントマネジメントシステム“が注目を浴びています。人材の高度な活用を目的とした、人材の育成、配置、発掘などに力点を置いた人事管理手法であり、システムです。 人材活用というテーマはいままでさまざまな議論がされ、多くの企業で意欲的な取り組みがされてきています。今時点で“タレントマネジメント”の中身を聞いても、“いまさら”的なものが多く、至極当然のことを言っているように思います。確かに経営により直結した人材管理という意味で、ある程度体系化されている概念でありシステムです。しかし人事管理を通常議論する者にとっては、新規性が見当たりません。さらにこのような“手垢のついた“概念に対して、わざわざ“タレントマネジメント”と称することが大げさな感じすら受けます。改めて英語で呼ぶことにも逡巡します。  タレントマネジメントは何が新しいのでしょうか。まずこのマネジメントの基本的な考え方は、社員の活用、育成、定着に対するものであり、そのために評価やサーベイや職務履歴や自己申告などを活用するというものです。新規性があるとすると、この高度な人材管理を実際に行うことを強力にサポートする“タレントマネジメントシステム”でしょう。今までの人事システムが、人事の実務処理を効率的に行うことを目的にして利用されてきたものから、より高度な人材管理を行えるようにするという発想で構築されています。社員の発掘や活用や育成、定着などをよりスピーディーに適正に行うべく、そのマネジメントに必要な情報を体系化したものです。今までの人事システムが“人事業務システム”であったものから、経営者や事業管理者なども含めて人材のパフォーマンス向上を直接的に執行する経営幹部も含めて活用する“人材マネジメントシステム”ということになります。今までのシステムの発想や守備範囲という観点からは新たな領域、プロダクトということができます。  このようなシステムが一般的になること自体は、企業の人事管理レベルを押し上げる基盤が提供されるという観点では非常に好ましいことです。しかしプロダクトとしては、今までの人事システムが本来カバーしているべき機能であるはずです。ところが、今までの多くの人事システムがこの機能を十分に顧客にアピールできなかったこともあり、人材活用のための積極的なシステム機能が発達しなかったのです。そのため既存の人事システムとタレントマネジメントシステムは本来一つのシステムであるべきところが、別のプロダクトとして販売されていることが多いのです。人事システムとタレントマネジメントシステムは使用するデータも共通性が高く、別のシステムである必要はないので、人事システムの機能拡張モジュールか、そもそも人事システム内に取り込まれるべき機能です。  人事管理がより高度になるためには、経営に対して人事管理がより重要で有効な管理であることを証明しなくてはなりません。タレントマネジメントシステムが新たなプロダクトとして定着するには、経営における人事管理の有効性が真に認識されなければならないということです。そして“タレントマネジメントシステム”が定着した時には、“タレントマネジメントシステム”などの洒落た名前ではなく、単に“人事管理システム”と呼ばれているはずです。

ゲートキーパー | その他

ゲートキーパー

窓際族ならぬ「ドア際族」という言葉があったことをご存じだろうか。 いつでも組織パフォーマンスを左右するのは、中間管理職の能力と活力に決まっているけれども、その要件として喧伝されるものは、時々によって一様ではない。異業種交流など社外活動に積極的で、社内にとどまらない知見と人脈をもつ管理職こそが組織の力を高めるとされた時期に、反面その人たちは、ドアを開けて出て行ける=いつでも辞められる、という意味で使われていた。 日本企業がその成長を競い合っていた頃の、企業の自己革新とか現場からのイノベーションには、会社固有の価値観や情報の範囲を超えた知見を持つ管理職の育成が必要だけれども、それは同時にキーマンの流動化を促進することでもあるというジレンマだった。その後、経営にとって長いシュリンクとリストラクチャリングの季節を通過していま、「他流試合」の要請を実に多くの人材開発部門の方々から聞く。 やはり求められているのは、管理職者としての視野の拡大と人脈である。自身の能力や知識の限界への気づいてもらい、また異なる発想に刺激され、以降も継続する人脈も持ってほしい、というのが共通する経営の思いだ。その背景には、防衛戦のなかで堅固になった“企業の壁”の弊害が、顕在化しているからだろう。壁にとらわれない広い視野と柔軟な発想をもつ管理職が、環境変化に即応する経営に必要ということだ。 ドア際族とは、ネットワーク論で言い換えれば、ゲートキーパーである。社内の情報と人脈、社外の情報と人脈、その双方のネットワークの結節点にいる人。(ある知見を)知っている人、ではなく、(社内社外を問わず)知っている人を知っている人、である。あるいは、知っている人を探し出せる人。ネットワークの結節点で企業の境界に臨み、軽快に、小さなゲートをつかさどる人たちである。 経営学の教科書にあるコンティンジェンシー理論(=状況適応論)は、外部環境の不確実性に対応した経営のためには、組織内部に不確実性を持つことが必要だと言った。でも、ここには、企業の壁が前提されている気配がある。大事なことはむしろ、企業の壁自体をすり抜けて、組織の内外の情報が行き来する現場のダイナミズムではないか。ゲートキーパーとは、それをする人である。 ゲートには、関所という意味もある。とすれば、ゲートキーパーは出入りさせる情報かどうかを判断し、場合によっては遮断する機能を担う。はたして個々の従業員が、その会社にとっての情報の重要性を判断してもよいものか。それが、経営にとって資するものと言えるか。個々人の価値観に依存してしまう危険があるのではないか。 といった心配は、しかし、無用である。ゲートキーパーたるその人が採用され、いま活躍されているということ自体が、その会社の価値観と力量を体現しているはずだからである。