©️ Transtructure Co.,Ltd.All Rights Reserved.

MENU

©️ Transtructure Co.,Ltd.All Rights Reserved.

コラム

column
フレームで考える | その他

フレームで考える

 「創造とは、フレームワークだ」と公文俊平さんは言った。  まだインターネットが登場する前、パソコン通信をつかって、当時シアトルに在住していた公文俊平さんにメールインタビューをしたことがある。何回かのやりとりを編集せずに、ライブ感もってそのまま掲載する試みで、マニアックに制作していた企業組織論専門誌の企画だった。「叛企業文化論」と銘打った(なんと青臭い!)特集のなかで、企業文化をテーマに、独自で厳密な論を展開してもらったあと、次号のテーマ「場の創造性」を巡ってまたメール交換したのだが、そのやりとりのときに公文さんが言った印象的な言葉がこれである。  「創造とは、フレームワークだ」という発言の文脈も詳細も忘れてしまったけれども、そのときの指摘はこうだ。何か考え出さなければならないことがあるとする。そこでひとつ、新しいアイディアを思いついたら、例えば、そのアイディアを配置できる、2軸4象限のフレームを創出せよ。そして、空白の3象限を埋めていくようにさらにさらに創り出せ。創造とはそういうものだ。たしかそのようなことを言っていたのだった。  フレームというものは、たしかに、たいへん便利な思考の道具である。  マーケティング環境分析では、お馴染みの『SWOT(Strengths-強み、Weaknesses-弱み、Opportunities-機会、Threats-脅威)』や『3C』(Customer,Company,Competitor)などは必須ツールだし、最近増えてきている経営幹部候補育成の研修では、とくに『PEST』を使うセッションを念入りにやったりする。PESTとは、政治(Politics)、経済(Economy)、社会(Society)、技術(Technology)の枠で、例えば自社に影響与えるマクロトレンドを最も広く考える際に使う。  経営とは、突き詰めれば競争と数字であり、そのリアリティの薫陶が幹部育成には不可欠ではあるが、その前提となる社会と自社の関係と将来についての見識も経営者の大事な要件である。だからこんなセッションをやったりするが、これが結構できないことが多い。PESTの枠内に書き込むべきコトがなにも出てこなかったりする。  このような普段考えないような事柄を考えたり、問題の原因をできるだけ広範に洗い出したりする際には、最初に「発散」という発想技法を使うのが常套手段だ。グループや個人でブレーンストーミング(=発散)をして、たくさんのアイディアを生みだし、そのあと「収束」し構造化するという段取りだが、白紙の状態からの発散はなかなか難しい。そこでフレームを用意して、発散すると、漏れなく、深いアイディアがたくさん出せる。たとえば、職場の問題と原因の洗い出しなら、『7S』(Strategy、Structure、System、Style、Staff、Skill、Shared Value)とか『PDCA』(マネジメントの基本であるPDCAも汎用的なフレームとして使い勝手がよい)が、有効な道具になる。  枠があるほうが新しいモノゴトを発想しやすいということである。  そのことは、事業の課題や戦略を構想する際にたくさんのフレームワークが使われていることでもよくわかる。その紹介だけで本一冊分はゆうにある世の中の創造技法というものも、多くは、フレームワークだ。ただ、公文さんがいったいちばん大事な指摘は「フレーム自体を考え出せ」ということである。  PEST分析がうまくできないケースが多いと書いた。その理由は、ともすれば、「視野が狭い」、「目の前の仕事に思考が埋没している」、「社会的な問題意識がない」といった研修の受講者の意識にあるとされる。その要因ももちろんあるだろうが、もう一つの理由は、一つのフレームが大きすぎるからである。P(政治)ならPの枠のなかで、より細かいフレームを自分で設定していけばいいのだが、それがわかっていないから、漠然と立ち向かい、何も思いつかない羽目になる。  「フレームで考える」ということは、「フレームを考える」ことでもある。  4象限の枠組みでいえば、まず二つの軸をどう設定するか。その組み合わせはいくらでもある。どれだけ自由に、自分なりの軸を思いつけるか。そのうえで発想していく。創造という行為は、まずフレームを創り出し、そのフレームで発想していくことともいえる。ただいきなりフレームを設定せよといっても雲をつかむような話なので、公文さんは、最初のアイディアがまずあれば、それを配置しうる2軸を考え出せ、といったのだろう。  その軸を考え出すための“枠”というものもあるのではないか。いわば、フレームを考えるためのフレーム。一つのヒントは、その枠は、フレームワークにより創り出すアイディアは事業や仕事に結びつくものである、という目的から規定されることにある。つまり、事業や仕事の意味や意義、付加価値から発想される軸、ということである。意味や意義、付加価値とは、「なぜ自社はこの事業をしているのか?」という本質的な問いの答えだ。  禅問答みたいな分かりにくいことを書いている。こんな例をだせば言いたいことのニュアンスを伝えられるだろうか。  たとえば、鉄道の会社が、自社の事業を「鉄道事業」と思うか、「輸送事業」と思うのでは、例えばそこで思いつくフレームはきっと違ってくる。デパートが「百貨を売る物販業」なのか、「総合生活提案業」なのか、でも違う。あるいはかつて、コカコーラのボトルには「Drink Coca Cola!」と書いてあったが、ある時から「Enjoy Coca Cola!」と変わった。その時に、コカコーラ社の従業員がもし皆でPEST分析を試みて、PとかSとかの中でいろんなフレームを設定するとしたらそれは、「Drink〜〜」時代とは違うフレームが設定されるのではないか。  事業や仕事に関わる創造のためのフレームを考えるには、「なぜ自社はこの事業をしているのか?」といった本質的な問いがまず必要のはずである。フレームを創りだし、そのなかで発想していく方法を「フレーム思考」と呼ぶとすれば、「フレーム思考」は、本質的な問い=「Why思考」と表裏一体なのである。

居ることの問題 | その他

居ることの問題

 従業員の常習的な欠勤のことをアブセンティズム(absenteeism)という。何らかの体調不調により、仕事を休んでしまう「病気欠勤」をさすが、病気を理由にした長期欠勤をくりかえすことによる生産性の低下を問題視する際に使われるようになった。さらに近年は、アブセンティズムならぬプレゼンティズム(presenteeism)という言葉が使われることがある。休むことよりも、“居ること”のほうが問題だということである。  何らかの不調があっても出社して仕事を続ける「疾病就業」がプレゼンティズムのもともとの意味だ。たとえば、頭痛や風邪などの軽い変調や花粉症などの慢性的な変調、うつ病などのメンタル失調により、仕事の能率が落ちてしまうことの問題ということである。ただその限りなら、病気欠勤(アブセンティズム)よりも従業員本人の生産性の観点からは、少しでも職務遂行が進む分まだいいだろう。問題は、組織に与える影響にある。  インフルエンザの疑いがあればまず出社を控えるのは当然だが、普通の風邪であっても、無理して会社に行くことで、他のメンバーが感染してしまうかもしれない。そうなれば結果として組織のパフォーマンスが落ちてしまうことになりかねない。発熱でボーっとした状態で鼻水流しながら、重要な案件の議論に参加することがチームとしての間違った判断をもたらすかもしれない。欠勤して早期に直せばよかったのに、無理して出社を続けることで悪化し、結果的に長期にわたって休まざるを得ない状態になるかもしれない。だとすれば、欠勤により本人の仕事が滞ること以上の影響を、その人は組織に与えていることになる。  こうした健康と生産性のマネジメントからの問題提起がプレゼンティズムという言葉に込められた一つの主張だった。長期欠勤ほど目立たないからこそ、経営者はプレゼンティズムの見えざるとリスクに気がつきにくい、ということへの警鐘である。  さらに加えて、周囲への影響という観点では、プレゼンティズムにはもうひとつの問題提起が潜んでいるのではないか。それは、周りのメンバーに対する心理的な影響。組織として、多くの人々とともに働く喜び、そのモチベーションへの影響である。  心身の不調により意欲や能率が低下していながら長く就業し続けるメンバーは、同僚にとって困った存在になることがある。目標の達成や課題解決に向けたチームとしての活動が阻害されてしまう場合があるからだ。他のメンバーが不調な仲間をサポートする必要に迫られたり、それを重荷に感じるメンバーが生じることによって、チームワークがぎくしゃくする。仕事に臨むには不十分な状態なのに組織の一員としてそこに居る。短期間ならともかく、それが常態化していたりする。その姿勢が、周囲のモチベーションを損なう。不調な仲間が、仕事を、万全な状態ではなくてもできるものだと考えているように感じ、おおげさにいえば、仕事に対する冒涜にも見えるからだ。  仕事をするということは、その対価を得て生活するための手段ではある。しかし人によっては、それ以上に仕事自体が目的である。仕事自体の醍醐味ややりがいや意義や意味が感じられるから、モチベーションをもって働く。そして、一人ではできないより大きな仕事を行うために、人々と組織として事にあたる――それが会社だ、と思っている人たちにとっては、不調な社員が“居ること”で感じる違和感や心地悪さは大きい。自身の仕事観そのものが揺さぶられるからである。  不調であっても出社すべきだと思うことも、仕事は万全な状態でバリバリやるべきものだと思うことも、就労価値観の違いなのだから、それも組織のダイバーシティだ、ととらえるべきなのかもしれない。しかし、そこで失うものの大きさこそ、最大の見えざるリスクではないか。  もちろん、病気という不調によるのなら、プレゼンティズムも仕方がない面もある。であれば、個々人に対して健康管理という組織人としての行動規範を厳しく問うべきなのかもしれないし、不調な社員が自分の不調を自覚し、「がんばって仕事をする」のではなく、改善策を講じる行動をとるように促すマネジメント、つまり安全衛生管理のマネジメントの徹底の問題でもあるだろう。  より大きな問題は、病気でもないのに意欲も能力もない困った社員=問題社員が多くの会社に存在することである。いわく、恒常的なローパフォーマー、コミュニケーション不全、フリーライダー、モンスター社員などなど。こうした社員が“居ること”の問題こそ、生産性の観点ではなく、仕事に生きがいを感じている多くの従業員のモチベーションを守るという観点から問われるべきだろう。

人事部長には先がない | その他

人事部長には先がない

 統計をとっているわけではありませんので、感覚的な話になりますことをまずは宣言させていただきます。結論は、人事部長経験者は役員になる可能性が低いのではないかということです。人事部長ポストは確かに重要なポストではありますが、人事を含めた管理部門の責任者に直結したポストかというと、経理や経営企画のほうが、分があるようです。多くの企業(特に株式公開している企業)では経理部長出身者が管理部門全体の責任者に昇進する可能性が高いように思えます。CFOという言葉は日本語では最高財務責任者ということになりますが、実際には管理本部長ということです。経理財務を制する者は他の管理分野の統括も包含していくことが普通な感覚です。たまにCHO(チーフ・ヒューマンリソース・オフィサー、最高人事責任者)などのような言葉もありますが、管理部門全体を掌握できるルートにいない人事関係者の寂しい思いが、このような中途半端な言葉を生んでいるのでしょう。  そもそも管理間接部門は企業経営の基盤を整備することが主たる任務です。主要な機能としては、経営企画、経理財務、人事、総務、法務、システムなどしょう。これらの機能の中で短期業績重視、株主経営重視、対金融機関重視という観点で、経理財務責任者が管理部門全体を掌握していくことが普通な流れと認識されているのです。経営の重要なリソースはヒト、モノ、カネ、情報と言われています。特に資源のない日本企業ではヒトの管理が企業の成長に絶大な影響を与えるはずです。しかし実際の人事管理のレベルはこの経営の期待に対して大きく遅れていると言わざるを得ません。実際には給与計算や評価の後処理、採用などの実務に追われて、本来のヒト資源の有効な管理を提供していないのです。経営計画を達成するには、人員配置、採用退職、評価給与のコントロールが絶対的な力を持つのであれば、人事機能の地位はもっと格段に向上するでしょう。  人事が十分に機能していないことは、経営にとっても重大だと思う企業も多くあります。そのため今まで古い変革のしない人事部で育った社員を人事の責任者にせず、営業や製造の第一線で活躍してきた社員を人事部長に任命するケースも散見されます。過去の人事管理のレベルを脱却して、新しい視点で経営が求める人事管理を構築したいというのが本音なのでしょう。このような人事も効果的に作用することはあります。特に大規模なリストラを断行する場合などは有効な手法ではあります。  今後人事機能が経営に対してより高い付加価値を提供し、人事機能の強化なくして企業の成長がないくらいの重要性の認識が持たれるほどのレベルに成長しなければ、人事部長に明日はないでしょう。厳しい環境における再成長のためのヒト資源の管理を合理的に提供できる人事機能を性急に求めています。このように人事が経営の本質的なニーズに近づけば、将来CFO(最高財務責任者、管理部門責任者)は人事部長から昇進することになるでしょう。CHOなどのような矮小な概念で今の人事の地位を守ろうとするのではなく、企業経営により貢献する機能として再出発しなければなりません。

合併前夜 | その他

合併前夜

 3つの企業が合併するための準備プロジェクトに関与したことがありました。同業界内での中堅の3社が、大手企業に対抗して規模メリットを追求して合併するというものです。正式な合併の調印をするまでに、合併の諸準備を行わなくてはなりません。各領域に個別委員会を編成し、全体を統括する合併準備委員会で決済をする臨時組織を編成しました。主要な個別の委員会は、合併後の経営計画を立案する経営企画委員会、営業統合を進める営業統合委員会、組織機構や人員配置を検討する組織委員会、諸規定や人事制度の整備をすすめる総務人事委員会、新会社の情報システムを統合する情報システム委員会などです。これらの委員会にコンサルタントを数名づつ配置し、統合準備のアドバイスを行うというものでした。私は大元の合併準備委員のメンバー、組織委員会と総務人事委員会の2つの委員会のコンサルティングの責任者として、部下数名づつ配置して統括する役割でした。  個別の委員会は委員長1名と副委員長2名の元、3社から数名の担当者が配属されます。また諸連絡調整のための委員会事務局を設置しました。これにコンサルタント数名が加わり委員会を運営します。委員会は3社の出身者によって多くのテーマについて協議して決定していくことになります。簡単に合意できるテーマもあれば、合意が極めて難航するものもあります。組織委員会では、あるべき組織機構については3社とも合意するものの、責任者の任用の決定方法についてはなかなか合意に至りません。出身会社の規模による役職ポストのバランスの調整が難しく、そのため本当は1名の部長で十分なところを、副部長2名を配置せざるを得ない妥協も選択せざるを得ません。組織人事委員会での難しい大きなテーマは2つありました。社名の決定と人事制度の統合です。社名に関してはA社が旧社名を連想させる名称にこだわります。他の2社は現在の3社の名前を全く連想させない新しい名称にすることを強烈に主張します。  3社を仮にA社B社C社とします。売上規模はA社を3とするとB社は2、C社は1.5の規模です。大手企業に対抗していくためには規模拡大によって、コスト削減や営業の統合にシェアの拡大を実現しなければなりません。時勢の流れでは3社合併は理にかなったものでした。今のままでは3社とも将来はじり貧と予想されますが、合併すれば新しい成長戦略が描けます。この合併はB社C社は積極的に推進したい意向です。しかしA社は合併後もA社オーナーが主導する立場を保持したいと考えています。A社としては他の2社を吸収したい意向もありましたが、企業規模や収益状況からA社による吸収合併は困難です。A社は合併をして主導権取りたいという思惑が根底にあります。そのため委員会の中ではA社vsB社C社という構図が多くみられました。その最たるものが、主要ポストへのA社社員の配置や社名、人事制度です。  様々なテーマは多くの困難や長い協議の結果、なんとか解決の方向が見いだせました。しかしこの3つのテーマについては結論のでない長い協議を繰り返すのみです。最終的には役職者任用は1年間は旧3者出身者を配置し能力適正を判断した後、1年後に1名とすることになりました。社名は現在の合併スキームからは新しい社名を公募することで一応の決着をみました。これは3社の社長に個別に状況を話をして何度も根回し調整の後にやっと結論に達しました。人事制度はもっとも困難でした。A社はさしたる理由もなく、A社の人事制度をそのまま準用することを主張します。日本的な人事制度で成果実力主義的とは言えない制度です。最も人事制度が整備されているのはB社でした。厳しい経営環境を想定した人事制度であり非常に考えられ工夫されたものでした。規模メリットによるコスト削減効果を実現するためにも、また旧3社のイメージを残さないで実力主義を実現し、社員の融合を促進するためにも、B社をベースとした人事制度への転換が誰の目からも合理的です。最終的には委員会内での多数決で決しました。  様々な苦労や困難を経て、やっと合併の最終合意書への調印の日を迎えようとしていました。コンサルティング部隊もやっとの思いで準備作業を進めてきましたので、主要なテーマが解決のめどが立ち、一仕事終わった達成感があります。しかし合意書への調印前日の深夜に電話が鳴ります。相手は組織委員会の責任者であるB社の専務取締役です。電話の内容は、調印前夜にA社のオーナー社長は合併を撤回したという衝撃的なものでした。様々な準備がなされ、いよいよ新会社の誕生という前夜に、合併条件にかねてから不満のA社社長が翻意したということです。3社合併は前夜に無くなったということです。その後A社社長に対して多くの関係者が説得しましたが、首を縦に振ることはありませんでした。  当然コンサルティングも突如終了します。組織・人事については、ある程度理想的な姿にできる準備が整っていただけに、あまりに突然の終了で唖然とした記憶があります。その後数年たち、A社は業績低迷で業界大手企業に吸収されます。B社C社は他の連衡先を探し数社からなる企業連合をつくります。しかしその企業連合も数年後には大手企業の攻勢に逆らえず吸収されることになります。B社専務とはその後も何回か会う機会がありました。その度にあの3社合併が成立していればこのような状況にならなかったと回想します。経営にとって時勢を読むことが重要だとつくづく感じる案件でした。

飲み会のスタンス | 人事制度

飲み会のスタンス

 私も50歳弱の年齢となりましたが、最近、飲み会での風景やマナーや礼儀が以前に比較してずいぶんと変わってきたと実感します。我々の年代がまだ駆け出しだった頃は、クライアントとの会食でも社内での飲み会でも、ずいぶんと気を遣った記憶があります。クライアントとの会食は年輩の方との会食が多いため、私自身の振る舞いなどは以前と変わらないのですが、同席する社員の言動やスタンスなどにははらはらすることがあります。また、社内を意識的にフラットにしていることもありますが、それにしてもあまりに気を遣わない、気が利かないなどという感覚を強く感じます。これはよい面と悪い面がありますので一概に以前に比較して問題だと思わないのですが、個人の感覚との差として驚くことも多くあります。  具体的にギャップを感じることを列挙してみます。まず第一に、酒を注ぐことをしなくなったなと思います。酒を注ぐという行為は相手に対する慰労や感謝、親近感の現れの一行為です。接待側であればお客さんに対する礼儀として、常に杯やグラスの状況から適度なタイミングで酒を注ぐのが気遣いというものです。当社の社員は比較的女性比率が高く、また、人事関連サービスをしている企業ですので、女性がお酌をするのも妥当認識は全くありません。フラットな企業文化にするためにも、男女とも基本的には社内での飲み会は酒を注ぐことはしないようにと指導しています。そのため社内での飲み会では酒を注がれることは稀です。この感覚をクライアントとの会食に持ち込まれると、世の中の常識と異なることにすら気づかないことのではないかとも思います。接待の席で静かに座っており、酒も注ぐという感覚がないのです。マニュアル的に酒を注ぐ注がないと言っているのではなく、酒を注ぐという行為の意味や自分の位置付けがあまり理解されないようです。  次に、飲み会の主旨の理解です。飲み会はいろいろな意味で絶好なタイミングであることを理解していません。これも我々が若いときは、飲み会は普段話さない相手や話さないことを会話できる絶好のチャンスなのです。コンサルティング会社は基本的にはプロジェクト単位で組織編成しますので他の社員と日常コミュニケーションを十分にとれません。ノウハウや情報を共有するという観点からも、もっと積極的にいろいろな人といろいろな話しをする絶好のチャンスであるということを認識していない人もいます。仲のよい数名の社員が固まって酒を飲んでいることなどもありますが、別の機会に数名でいけばよいのであってチャンスを生かしているといえません。クライアントに対してもそうです。クライアントの経営者や幹部との会食ですので、様々な話を聞ける絶好のチャンスです。チャンスを生かせるか否かは本人のスタンスによります。  第三には、場の雰囲気を見ないということです。テーブルに料理が運ばれてくれば、気が付いた者が率先してテーブルに置いたり、スペースがなければ少量残っている料理を皿を取り分けてスペースを空けるなどの配慮ができないようです。自分に取り分けられた料理を食べるか、自分の食べるものを自分で取るくらいで、テーブルにいる他の社員への配慮やテーブルの状態などへの場を見ることができないのです。遅れてきた社員に対しては、まずは席を指定して用意することがその社員への礼儀ですのに、あまり気を遣ってはいないのではと思えることが多くあります。  この他にもいくつか気になることはありますが、クライアントにせよ社内にせよ、宴会や飲み会の行動やマナーや礼儀がずいぶんと感覚が違うなと感じます。これは職場を離れて飲食をともにするという意味やスタンスが違うのだと感じます。クライアントとの会食時には口うるさく言いますが、社内の飲み会ではこれも自然な文化の一つかなと思ってしまいます。ですので、飲み会始まりますと、食べ物飲み物への配慮などは私がしていることが多いことに気が付きます。最近ではいたずら心もあり、酒の瓶やボトルは私の横に確保して私が他のメンバーに注ぐようにしています。たまに私に注ごうとする社員はいますが、断りますとすぐに引き下がります。形式の問題ではなく、酒を注ぎたいと思ったら、私から瓶やボトルを奪っても注ぐくらいの気合いがなければ、注いでもらわないで結構だということなのです。  お酒を飲まない社員の比率も高くなってきている中で、宴会や飲み会のスタンスやマナーを論じること、特に社内での飲み会などはそうですが、昔の飲み会の方が人間味があったなと感じてしまいます。クライアントとの会食などは、普段は話せない普段では聞けない仕事や人としての話が聞けます。時代とともに変わるのでしょうが、最低限のマナーや礼儀はビジネスマンとして意識するのが当然です。私などはクライアントとの会食で本当にいろいろなことを教えていただきましたし、親交を深められました。せっかくの機会ですので、気持ちよく、さらには勉強になるような、いい酒を飲みたいと思っています。

なぜホワイトカラーの生産性は上がらないか | その他

なぜホワイトカラーの生産性は上がらないか

企業にとって業務を効率化し、生産性を向上させることは永遠の課題であり、これまでも多くの取り組みがなされてきました。ホワイトカラーの生産性向上については何十年も前から企業の重要な組織テーマとして各企業で様々な試みがなされてきています。その結果は果たしてどうだったでしょうか。 結果を知るとすっかり気落ちしてしまうのですが、実は日本企業におけるホワイトカラーの生産性は先進国の中で最下位なのです。一方でブルーカラーの生産性はその逆でトヨタ生産方式に代表されるように高い生産性を誇っています。実際のところ弊社で引き合いを受ける業務コンサルティングのテーマで最も多いものの一つが管理間接部門の適正人員算定であり、これはとりもなおさず管理間接部門の生産性の低さを経営者が問題視していることの証しでしょう。逆に生産現場における生産性向上についてコンサルティングを依頼されたことは私の経験ではありません。 同じ日本人が働いているのになぜブルーカラーの生産性は高く、ホワイトカラーの生産性は低いのでしょうか。多くのホワイトカラーは大学を卒業しており知力も高いはずなのに、こと業務の生産性に関してはなぜブルーカラーの人々に負けてしまうのでしょうか。これにはもちろん多くの原因が存在するのでしょうが、私が考える一番の原因はやはり年功序列を基軸とした人事システムにあるのではないかと思います。現時点で道行く会社員に「あなたの会社は成果主義に基づく人事制度が導入されていますか」と聞けば、おそらく9割の人からYESという返事が返ってくるでしょう。しかしこれが曲者で、日本企業に導入されている成果主義は同期社員の間に数年の昇格スピードの差をつけることで社員に同期に負けじとする気持ちを持たせ奮い立たせようとするものであり、外資企業に見られるような年下の上司が存在する真の意味での成果主義が導入されている日本企業は少数派なのです。従って多くの日本企業においては年功序列を基軸に成果主義の味付けがしてある人事システムが主流と言えます。 日本企業の人事システムが年功序列でしかも退職率が低い、さらに経済成長の鈍化で高度成長時代のように会社規模が拡大し結果的にポストが増えることもないとなれば当然管理職あるいは管理職への待機人材が余剰となります。周りを見廻せばポストが空くのを待っている先輩社員がたくさん待機している有様では、入社時にはいつかは会社の中で課長になり、部長になり、そして役員になることを夢見ていても、それが見果てぬ夢であることに気付くのに時間はかからないでしょう。その結果社員に生まれるのは、与えられた仕事を無理しないでゆっくりとこなせば良い、いくら頑張っても昇進は無理、問題を起こさないようにマイペースで仕事をこなせば良い、と言った守りの姿勢です。この守りの姿勢こそがホワイトカラーの生産性を落とす最大の原因だと思います。人が守りに入った時、仕事の効率、生産性を上げる、同時に業務の品質、有効性を高めようとする気概も失われます。これがホワイトカラーの生産性を低下させているのです。 こうした状況の時、会社が生産性を上げるべく外部コンサルタントを雇ってトップダウンアプローチでBPR(ビジネス・プロセス・リエンジニアリング)を推進しようとしたら一体何が起こるでしょう。守りに入っている社員はBPRの推進に決して抵抗はしないでしょうが、自ら積極的に業務変革に取り組むこともないでしょう。BPRで与えられた新しい仕事の進め方を当座は守っているでしょうが、やがて問題がありさらに改善すべき点にも気付くはずです。しかし守りに入っている社員は問題を改善しません。その代わり仕事のやり方をBPR以前の元のやり方に戻してしまうでしょう。かくしてBPR活動は失敗し、仕事の進め方もいつのまにか元に戻っていたと言うことになります。 守りに入っているホワイトカラーの社員を生産性向上の動きに持ってゆくには、彼らの意識変革が必要です。それは生産性を向上させ仕事が変わってゆくこと自体が面白いと思わせること、あるいは生産性向上により労働時間が短縮し残業や休日出勤が減少することでより多くの自分の時間が持てるようになり、結果的にワークライフバランスがとれた生活を送れるようになることを理解させることで実現します。要するに守りに入っているホワイトカラーの社員が自ら生産性向上の必要性と価値を理解して動かない限り、生産性向上活動は決して成功しないのです。 これを実現するには会社全体としての取り組みを継続的に粘り強く実施することが求められます。例えば生産性向上に向けた時間管理の仕組みを作り、毎週上司と部下間で業務の無駄がないか確認する、全社キャンペーンを実施する、社長メッセージを定期的に発信する、研修を行う、等のいろいろな施策を組み合わせ、しかも継続的に実施することになります。成果が挙がるにも相当の時間がかかると思いますが、あきらめることなく粘り強い取り組みが求められます。従来からのBPRのようなトップダウンアプローチではなく、本人の意識に訴えるボトムアップアプローチこそがホワイトカラーの生産性を高める有望な手法と言えるのではないでしょうか。

人事の笑えない話 | その他

人事の笑えない話

人事管理の中でよく冗談とも言えない小話があります。その時々の人事の問題や本質は捉えつつも皮肉的自虐的不謹慎であるという感覚があり、あまりおおっぴらには話されない傾向にあります。まあ笑えないジョークというところでしょうか。私が遭遇した人事関係で笑えない話を少ししたいと思います。 1.”部長ならできる” 非常に古典的な笑い話です。バブル崩壊後のリストラ時によく使用された話です。当時は団塊の世代管理職が余剰していたことから、管理職の人員削減が多く行われました。企業内に管理職待遇の社員が多かったことから、管理職としての仕事をしているのではなく、実務を半分、管理職のサポート半分という仕事のスタイルをしていた人が多かったのでしょう。実務を中心にしているわけでないので、実務のノウハウも現場の社員にはかないません。また管理能力も高い訳ではありません。部長のサポートをしているということなのですが、部長も周りにサポートしてくれる管理職がいるものですから、自分一人の責任で管理をしていません。このようなキャリア的に中途半端な管理職の社員がリストラで会社を退職して、再就職のためにいろいろな面接に行きます。面接の担当者が”あなたは何ができますか?”と聞くと、”部長ならできます”と答えるそうです。実務に自信がないことから、周りのサポートを受けて部長というイスに座ることはできるということを言いたかったのだと思います。 “部長ならできる”という言葉はビジネスマンとしてのキャリアを考えさせられる象徴的な言葉としてちょっと流行った言葉でした。 2.“みんな徹夜でがんばったんだ” ある会社でサービス残業が多く、労働基準監督署から指導が入ったそうです。この会社は損益的に厳しく、超過勤務手当をまともに支払うと人件費倒産するのではないかという状況でした。しかし現場では非常に忙しく、多少の業務効率化などをしても、厳しい経営環境の中で、残業を大幅に少なくすることは難しかったそうです。労基所の指導はしごく全うなもので、社員の労働時間管理をすること、労働時間に対する超過勤務手当を支払うこと、長時間労働者の健康管理を徹底することの3点だったそうです。総務担当取締役は労基所の担当官に、このサービス残業問題は半年間待ってほしいと言ったそうです。当然監督官は直ちに適正な状態にしろと言います。このままでは人件費倒産することなども話をしましたが、結果監督官は、次月に個人別の時間管理表の提出をする事と時間管理表通りの超過勤務手当の支払いを行うことを命じました。 会社側は各職場で毎日出勤時間と退社時間の管理表をつけるように指示をしましたが、一定範囲の時間しか残業として認めないと付け加えたそうです。要は形だけの時間管理表を作成しろということです。次月に監督署に赴き時間管理表を提出しました。監督官は時間管理表をみた後に、この管理表は適正に出退勤時間をつけていないのではと言ったそうです。総務担当取締役は、“この時間管理表はちゃんとつけるように指導しています。人事は徹夜でがんばったんです”ちなみに人事部の社員は時間管理表上では残業時間がほとんどなかったそうです。これもコンプラか会社の損益かという事でよく使われた悲しい話です。 3.“部長代理なんていらない” とある企業で人員削減の相談を受けました。社員数3000名の企業で社歴の長い伝統ある企業です。人員削減の相談で社内では問題があるので、当社に来ていただくことになりました。2、3名の方が来社されると思っていましたが、7名の方がお越しになりました。名刺交換すると、人事部長、人事部部長、人事副部長、人事部長代理が2名、人事次長、人事課長の7名です。伺った話は非常に深刻で、3000名の社員のうち500名くらいが余剰であるとのことです。しかも管理職がかなり余剰しているそうです。人事制度を簡単にお聞きすると、特に部長のポストに比較して部長級の社員が異常に多いとのことでした。そもそも年功的な人事制度や運用の結果このような状況となったということで、短期的には人員削減を実施するとともに人事制度をもっとシンプルにしなければなりません。直言癖のあるコンサルタントが、“そもそも部長がいる上に副部長がいて部付部長がいて部長代理なんていらないですね。”人事管理としてのあるべき姿を話すスタンスからは部長代理はいらないと言わざるを得ません。先方は大人の会社で、当方の意図するころや直言を素直に聞いていただきました。中間的な役職が多い企業が多く、会議をするときも参加者によっては多少気にはなりますが、直言するしか当方の存在価値はありません。 4.“シニアバイスプレジデント” 名刺交換するとたまによくわからない肩書きに遭遇します。外資系の企業の名刺の肩書きでおもしろいものがよくあります。例えば先日ある外資系企業の方3名と名刺交換しました。1名はバイスプレジデントもう一人がシニアバイスプレジデント、もう一人がディレクターでした。3名の上下関係は何となくわかりましたが、意味がよくわからなかったのでストレートに聞いてみました。“御社の社長の肩書きは?バイスプレジデントは副社長ですか?何人いますか?シニアバイスプレジデントとは?社員全員で何人ですか?”失礼になってはいけないので実際にはもっと気を遣った聞き方をしていますが、答えは、社長はCEOでCOOもいるそうです。バイスプレジデントは10名いるとのこと、その中でシニア付きが3名だそうです。社員全員で30名の会社だそうです。肩書きはビジネスを行いやすくするためにある程度自由につければよいと思いますが、ずいぶんインフレな会社もあるのだなと、ある意味感心しました。世間とズレすぎで面白すぎです。 5.“有給は無いの?” たまに遭遇する取締役です。取締役になるときに十分な教育を受けていないのか、商法上の取締役の権限や役割、人事上の扱いがよくわかっていない方がたまにいます。社員の延長線上で役員になったという意識ですので、たまに面白いことを聞かれます。”役員には有給はないの?”“役員にも夏冬の賞与を払ってほしい”“休日に出勤したときの扱いは?”などなどです。ご本人が悪いわけではないと思います。取締役は社員と全く異なる存在です。十分な教育を。

人質の解放 | その他

人質の解放

数年前、銀行員向け週刊誌の連載で「人質の解放」という記事を書いた。伝統的日本企業の1.後払い型賃金カーブと2.熟練の企業固有性という二つの特徴は、従業員にとって「辞めると不利になる条件」で、人質のようなものだ。バブル崩壊後の人員削減ブームを経たうえで求められる柔軟な人事管理のために、人質は解放されなければならない、という主旨だったが、この記事は掲載されなかった。この原稿入稿後にイラクで日本人が人質にとられる事件がおこり、内容は関係ないものの人質メタファ自体がふさわしくないと、急遽原稿を差し替えることにしたからだ。 経済学に、企業とは、様々な人々が投資しリターンを得る「場」だ、とする議論がある。そのキーコンセプトは、ホステージ=人質だそうだ。たとえば、下請けと元請けの関係。元請から厳しい取引条件を出されても、下請けが乗り換えないのは、特定の商品にあうような設備投資をすでにしてしまっているからである。こうした「人質」が、関係を安定させる。企業組織でいえば、各メンバーがそこに人質をとられているから、組織が安定的な形態となる。 従業員にとっては、ひとつは、後払い型の報酬体系による「見えざる投資」であり、もうひとつは、「その企業の熟練形成に投資してしまっている」という意味の人質である。それにより従業員は辞めにくいから、組織を安定させる。 一方で人質の存在は、人員の代謝を阻害する。実際に会社を辞めた中高年者は、給与ギャップの大きさに直面し、また多くの人にとっては、自身の経験・スキルの市場性の低さが再就職を難しくする。 長期雇用の黙契が破棄され、ヒューマンリソースフローのマネジメントが要請されているなかで、人質の存在は大きな問題であるということである。その後、再びリーマンショックによる人員削減も経たが、こうした事情はあまり変わってはいないのではないか。 成果主義型や市場連動型の賃金制度改訂の流れのもと、年功的運用はまだまだ多いものの、「見えざる投資」という人質性は少し低くなってきてはいる。しかし、一方の熟練の企業固有性が低まり、企業の従業員の市場価値が高められてきているようには思えない。 熟練というと現業職のようだが、むしろ問題は、管理職能力の市場性のなさだった。ゼネラリスト育成のOJTで養成される管理職能力の中身は、もしかすると、さまざまな部門風土、派閥、人間関係、企業固有の意思決定の「クセ」や暗黙のルールの知識や使い方の熟練かもしれない。とすれば、中高年管理職の能力は、今いる会社の文脈を離れては十分には発揮できない。 企業の対応策として、ひとつの共通した傾向は、「エンプロイアビリティ(=雇用されうる能力)」の育成である。専門知識や専門技術自体の市場性も、事業環境の変化によって保証されない。むしろ、職務遂行能力や管理職スキルの原理を知り、個別の手法を身につけることが、個々人が持ち運べるスキルとして汎用性がある。階層別研修において、ロジカルシンキングや業務指示スキルといったスキルモジュールが必修や選択のプログラムとして組まれることが一般的になってきている。 エンプロイアビリティとは、言い方を変えれば「辞められる能力」だ。しかし、会社がそのような施策を用意しても、本人の職業意識が“企業固有”であれば効果はない。 市場性を高めるために何より大事なことは、本人の成長意識であり、与えられた役割における自分の意思と能力を常に問いなおすことだろう。職務遂行というよりも職務をつくりだせる力、意思あるから人がついてくる力、仕事に対峙し成長しようとする力、それらを自覚的に磨くことが職業人としての市場価値を高める。つまり、自律的にキャリア形成できるということこそが市場性につながる。 実は、企業固有スキルに市場性がないのではない。管理職能力というとあいまいで、転職の面接のときに説明しにくいけれども、長い経験のなかで培ったスキルが別の職場で役に立たないはずがない。自身の能力に無自覚のまま、自らのキャリア形成を会社にゆだねる態度に、市場価値がないのである。 ちなみに、人質事件を考慮して、書き換えた原稿の新しいタイトルは、「会社で有能、外では無能?」だった。

コミュニケーションに「こころ」は必要 | その他

コミュニケーションに「こころ」は必要

当社のコラム内で論争をするつもりはありませんことを表明してから書き始めたいと思います。当社吉岡執筆の”コミュニケーションに「こころ」はいらない”というコラムがあります。 (リンク先はこちらです↓) https://www.transtructure.com/column/20100513/ このコラムは非常に衝撃的な内容で、いろいろなところから反響をいただいております。人と人とのコミュニケーションは役割を演じるのであり、一人の人間としての人格や性格は会社の中では本来的に必要ないということです。コミュニケーションは技術論であり、その実証としてロボットによる演劇で感動を与えられるというのです。 私は30歳くらいの頃より講演やセミナーで話す機会が多くなりました。30代前半の時は企業のリストラに関する内容が多く(当時はリストラの専門家があまりいなかったのでよく登板しました)、その後は人事関連やベンチャー企業経営などについて様々なテーマで話す機会をいただいています。通算して何回話をしたか数えていませんが、年間30〜40回程度話すと思いますのでそれなりの回数話しているはずです。わざわざ話を聞きに来ていただく方に対して出来るだけのパフォーマンスを出したいと思って行っていますが、講演セミナーがうまくいくために重要なポイントは2つあると思っています。一つは内容(コンテンツ)です。講演セミナーのテーマに即して、分かりやすく、インパクトのある、実例に基づいた内容でなければ聞き手は満足してくれません。 二つ目は、吉岡流に言うと「こころ」です。開演の5分前には常にこう思っています。“この講演で失敗したら今後講演は二度とやらない!”いつも何度もこう思いながら講演前の時間を過ごしています。(周りからはそう見えないようですが・・・)同じコンテンツを伝えるにしても、聴衆の期待にできる限り答えようとするスタンスや姿勢が満足感に大きく影響するのです。もっと言うとコンテンツよりも、この「こころ」のほうが極めて重要なのではないかと感じています。これは「演じる」レベルではないのではないかと思います。 実験したことがないので「こころ」があるのと「こころ」がないのは聞き手側の評価がどう変わるかはわかりません。プレゼンテーターとしての役割をうまく演じるという感覚以上の「こころ」の部分は必要ないのかと思うと肯定も否定もできません。社員も「演じる」ことで役割を達成できるという感覚も、肯定も否定もしませんが、やはり否定したいです。職業人としての自己の思いが、組織内でのキャリアを形成していくのであり、役割を演じることによって(その程度で)キャリアが開かれるとは思いたくないと言うのが本音です。吉岡コラムを読むと、自分のキャリアに関する感覚が古いのか役割の演じ方に甘さがあるのかと考えさせられます。 今度ロボットに講演させてみましょう。「こころ」が必要か否か。聴衆の反応が私が話すのとロボットと変わらなければ、2度と講演しないと宣言します。 以上

自分の言葉で語る | その他

自分の言葉で語る

多国籍企業で働いていたときに、「リーダーシップ・カスケード」という言葉を知った。組織のなかを、カスケード=CASCADE(幾筋もの滝)のようにリーダーシップを連鎖させていくことを意味し、各国のリーダーが集まるキックオフ・ミーティングの席上では、ビジョンや方針の話のなかで、“カスケードする”という言葉が何度も聞かれた。単なるWATERFALL やTORRENT(瀑流)ではなく、CASCADE(幾筋もの滝)というのが、言いえて妙だった。ビジュアルイメージでいえば、華厳の滝ではなくて、竜頭の滝である。 リーダシップを連鎖させるとは、情報を伝えていくことではない。会社の方針や目標達成のミッションを、自組織の問題として分解し伝達することは大事だが、それだけでは十分ではない。組織の構成員を動かすためには、会社の方針自体よりも、それを背景とする個々のリーダーの意思と姿勢がはっきりと伝えられなければならない。 つまり、自分の言葉で語ることだ。 「私は、どう考え」、「私は、どうしたいか」、「私が、どうやっていくか」をどれだけ明示できるか、である。その多国籍企業のキックオフミーティングでは、各国のリーダーにそのことを体得させる仕掛けがたくさんのセッションとして用意されていた。多様な文化や価値観を前提するからこそ、このシンプルな原理に腐心するのだと納得できる。 リーダーシップのあるなしを判断するための問いとして、「うしろを振り返ると、喜んでついてくるフォロワーがいるか」というものがある。この基準によれば、フォロワーは、仕方なくではなく、みずから喜んでついていくのでなければならないので、ハードルはかなり高い。 リーダーシップの有無やレベルは、リーダーの言動を見聞きしたフォロワーが決めるものだとすれば、リーダーに問われるのは、管理的なスキルだけではない。ハードルを越えるために重要なのは、人々が安心してついていける信頼感や、ついていきたいと思わせるような、人々をわくわくさせる言動だろう。 自分の言葉で語るのは、その第一歩である。 「私が描く」自組織の魅力的な絵(=ビジョン)が構成員に提示できれば理想だが、そこまでできなくても、「私が〜〜」という観点で会社の方針をブレークダウンすることから、リーダーシップの発揮は始まる。 このことは、あらゆる階層に当てはまるのではないか。 管理職になっていなくても、リーダーシップの発揮はあるし、その経験が管理職への成長のプロセスでもある。リーダーシップの育成には、管理職前の社員に対して、「君は、どうしたいのか」を追求する。さらには、後輩に対する業務指示や業務連絡の際には、常に「私は」、「私が」という表現を意識させることもひとつの方法だろう。要は、主体的な意思こそが、人を動かすという事情を体感させていくことだ。 それはまた、中期的に各階層のリーダーを輩出し続ける連鎖、という意味でのリーダーシップ・カスケードにもつながるはずである。

M部長 | その他

M部長

今回はある製造業のM部長について話をしてみたいと思います。この会社は精密機器の製造メーカーです。近年の環境の激変で厳しい経営を余儀なくされています。商品サービスの抜本的な再編、生産拠点の合理化、管理機能の徹底したスリム化など、考えられる経営施策を次々と実施してきました。しかし急激な環境変化は、実施する経経営施策でも追いつくことができません。人員削減なども含むかなり大胆な経営施策の実施を行っても、環境変化からみると後追い施策のようにみられてしまうほど変化のスピードが早かったといえます。 この会社とはすでに10年ほど関与させていただいております。この間社長役員もたびたび交代となりました。人事部長もこの間に3回交代し3年前よりM氏が就任しました。M部長就任当初も業績の低下傾向に歯止めがかからない環境であり、当時の新経営計画もどちらかというと縮小均衡の消極的な計画でした。M部長就任前にもすでに数回の人員削減を行い、給与カット、一時帰休など考えられる施策はほとんど実施してきた状況です。 M部長は入社後一貫して事業部に所属していました。事業部では主力の部の部長を長らく担当し安定した実績を挙げてきました。部長としての人物能力は高く評価され事業部には不可欠なキーマンと言われた人材です。会社は今の縮小均衡をさらに押し進めることと同時に、新たな成長領域を必死に模索しなくてはなりません。人件費をさらに圧縮すると同時に、業績低下に歯止めをかけるべく営業の強化、新たな製品開発への挑戦といったマイナスとプラスを同時に行わなくてはならない非常に難しい環境です。会社はこの難しい局面の人事部長の大任を人事経験のないM氏に託しました。 M部長はやさしそう誠実そうで端正な外見からうける印象と異なり、頑固でねばり強さが際だった人物です。一度決定した方針は徹底して実行します。厳しい会社の状況の中で率先して自らを厳しく律し、自分の納得する経営施策をうまく調整していきながら着実に実行しました。特に労働組合との協議については知恵も気も時間も十二分に使い厳しい中でのこの会社での新しい労使協調の意識を強力に醸成したといえます。 M部長の最後の仕事は非常に見事なものでした。会社は下げ止まらない業績の根本的な原因は、国内生産拠点を抱えているからであると判断しました。かなり以前より海外生産拠点はもっているものの、労働組合や地元の強い要請もあり国内生産拠点の見直しは小規模なものを複数回実施したにすぎません。労働組合も国内工場存続は組合の存在意義をかけた譲れない一線と認識していました、工場閉鎖は難しいため抜本的な改革は進まず、そのため高コスト体質を脱却できないということです。しかし長期低迷の経営から脱却するためには国内生産を中止し、コストの構想的見直しを行わなければならないことは誰しもがわかっていることでした。 工場閉鎖が進まない原因は、労働組合の強力な反対だけではありません。歴代の経営側のスタンスも一因がありあす。歴代の経営陣もこの最も難しく厳しい決断を自分の短い任期中におこなうことに積極的になれなかったということです。しかし新経営陣は躊躇なくこれ以上工場閉鎖を遅らせることはできないと決断しました。会社の歴史の中で最大の苦渋の決断であったと思います。しかし決断した後工場の閉鎖を実際にやり遂げなければなりません。トラブルなく、できるだけ円滑に、しかもできるだけコストを少なく短期間で。主たる問題は工場勤務者の雇用対策を中心とした人事問題です。M部長の最も過酷な使命でした。 まず工場閉鎖を社員や株主に理解してもらうために、今後の経営方針、経営計画、工場閉鎖のメリットデメリットを詳細に説明しなくてはなりません。会社として工場閉鎖は再建に必須な不退転の決断であることを浸透させるということです。その中で最も重要なのは今後の会社の方針やあり方、すなわち将来のビジョンということになります。同時に工場勤務者の雇用対策をしなくてはなりません。工場閉鎖ということですので基本的には工場勤務社員は全員必要がなくなるということです。この工場勤務の社員及び労働組合との協議折衝については、正攻法しかないと判断し、社長はじめとし役員に全面に出てM部長指揮のもと何度も何度も説明をしました。今まで数度の人員削減を行ってきましたが、M部長は、工場閉鎖に伴う退職条件を経営側も組合側も想定していなかったこの会社の中では破格の条件を提示することを提案しました。これは工場勤務社員全員が退職に応じてもらうこと、今までの会社に対する貢献への報償、最後の人員削減であること、労働市場が厳しくすぐに転職できることが困難であることなどがその理由です。このくらいの条件を提示しなければ経営責任を果たしたことにならないという意識と、労働組合や社員が想定以上の条件を提示することによって後の交渉を進みやすくするという戦術的な面もありました。経営陣はできるだけ少ないコストでという意識が強かったですが、M部長のはっきりとした真摯な説明によって原案通りの施策となりました。それでも工場閉鎖に至るまでは様々な問題が発生しました。ひとつずつ丁寧に解決していき最終的には無事に工場は閉鎖となりました。 仕事柄多くの人事部長と会いますがM部長は強力な印象が残っています。無口であり物静かに見えますが、方針や計画を決めたら迅速にねばり強く行動します。人事の細かな知識はありませんので逆に経営や事業という観点からの人事のあり方を先入観なしで判断できます。工場閉鎖の大仕事も外見的には淡々と実施しているように見えますが、相当の決意と努力と工夫がなければできないはずです。経営の大きな変革期での見事な人事部長でした。経営陣もM氏だからこそ人事部長にしたのでしょう。この大任が終結した3ヶ月後M氏の別部署への配転が決まりました。 人事部長としての活躍に敬意を表するとともに今後の活躍をお祈りしてコラムという形で書かせていただきました。 以上

ストレスワクチン | モチベーションサーベイ

ストレスワクチン

多くの組織で問題になっているメンタルヘルスの予防的施策として、ストレスワクチンという処方がある。 メンタル不調を結果するような状況に至る前に、ワクチンを打ってストレスの抗体を作り、個々人のストレス耐性を高めておく手法だ。「ワクチンを打つ」とは、Off-JTのワークショップとフォロープロセスのことで、まずは組織診断によりその会社固有のストレス因子を検出し、それを使ってストレスフルな状況の予行演習を体験する。主に、入社間もない社員に対し行われる予防施策である。 企業内ストレスにさらされる状況はある程度決まっている。一般的には、入社直後や配属直後、異動後や転勤後、管理職への昇格したときがそうであり、加えて各社の業務や組織の特性と風土や慣習によって、ストレス状況の類型化ができる。部門による人間関係の特性や組織の意思決定のクセが、その会社固有のストレス因子かもしれない。それを“抗原”として、想定される状況下で、自分がどのように対処すべきかを先行して考えることで、ストレスを受け止める力を身につけさせるということである。 言うまでもなく、生産性を追及する組織である限りストレスは必須だから、組織のストレスをなくしていくのではなく、個人のストレス耐性が課題になる。「メンタル失調になりそうな候補者を検出できないか」という採用担当の方々からの要請も少なくないように、“個々人の資質問題”に偏りがちなアプローチに対して、ストレスの抗原−抗体反応の仮説は魅力的ではないか。 この仮説が正しければ、EAPや産業保険医体制の整備、あるいは管理職へのメンタルヘルス研修などで、不調者の予兆を個別的に早期発見、早期対応するくらいしかメンタルヘルス対策がないなかで、組織的な予防施策として展開できるからである。 「必ず直面するストレス状況を、事前にイメージさせ、受け止められるようにする」とは、その時どうすればよいかをシミュレーションさせることだけが大事なのではない。何より、その状況の背景の意味を考えさせ、理解させること。個人の業務や役割の意味とその背景にある会社のミッション、そうした業務が自分にとって、自分の将来にとってどのような意義を持つのかを、深く考えさせることこそが重要だ。つまり、将来のストレス状況にポジティブな意味づけを予め前提させる。ストレスとモチベーションが表裏の関係あること自体を体感させるのが、こうした施策の最大のポイントだろう。 さらに、ストレスワクチンの効用はもうひとつある。組織の暗黙知が明示化することである。抗原を検出するための事前のストレス診断により、暗黙のルールや集団行動のクセのインパクトがわかる。例えば、ある部門はきわめて家族的な人間関係に特性があるかもしれない。新入社員がこうしたことを事前に知ることで、効率的に仕事に集中できるはずだ。 かつて、辞めてほしくない社員に対して、アメリカの会社は“ゴールデン・ハンドカフ(金銭による手錠)”をかけるが、日本の会社は“エモーショナル・ハンドカフ”をかけると言われたことがある。日本企業の雇用関係は、長期雇用の黙契がなくなり、成果と報酬の契約的関係になりつつあるとはいえ、暗黙のルールや人間関係の圧力は存在する。ストレスワクチンは、それに対するプラグマティックな挑戦でもあるのではないか。