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直間比率を気にするな | その他

直間比率を気にするな

 よく経営者や管理部門責任者などから、”直間比率”について質問を受けます。直間比率とは、要は直接収益に貢献している人材とバックオフィスやサポート業務のように間接的に収益に貢献している人材の比率を言います。正確には人数比率で算出することもありますし、また直接部門と間接部門の人件費比率で算出することもあります。  この直間比率は正確な統計がありませんので、明確な議論はできないのですが、多くの経営者は他社との比較を非常に気にしています。おそらく間接比率が高いと思っているからでしょう。収益拡大を行うには、直接部門の人員を増やし間接部門の人員を削減することが、効率的であるという認識からです。まあ間接部門の人員や人件費が多いと思っているのです。  現在の高度に発達したビジネスモデル下では、直接部門と間接部門のような区分け自体に大きな意味がなくなってきています。例えば営業部門などは、営業人員数の増員が確かに重要ですが、人が営業するだけでなく、広告やネットでの営業、または提携などのコラボレーションによる営業なども重要な手段です。なんとなく営業マンは直接部門ですが、ネットの企画や運用をしている人材は直接とはストレートに言わないかもしれません。各社によりビジネスモデルも異なりますし、また直接、間接の定義自体も大きく異なります。  間接比率が高いことが、問題であるとストレートに導かれるものではなく、収益に貢献していない人材が多く存在しそうであることが問題です。そのために直間比率で判断するのは、あまり論理的ではないのです。  直間比率を気にする企業の多くは、高齢化で営業や生産の第一線で活躍が困難な社員を、間接業務に配置するなどのような、間接部門を活性化しない人材の配置場所に使っているようなケースが多く見られます。このような企業では間接部門の人材は、本当に間接業務の屋台骨を背負っている優秀な人材と、直接では使えない人材が入り交じっています。間接部門のコア社員、ハイパフォーマー社員にとっては非常に迷惑な話でもあります。  不健康な人ほど他人を気にするように、不健康と分かっているのですが、その不健康さを証明する手段が十分でないために、理論的な検証ができない”直間比率”の他社比較に頼ろうとするのです。実際には他社比較よりも自社の直間比率の推移のほうが分かりやすいでしょう。さらに直接と間接の境界線がわかりづらくなってきているため、各部門や機能の人員数比率や人件費比率を管理した方が現実的です。過去の自社の比率を管理していないで、突然定義が曖昧な他社との比較を用いてもほとんど有意な情報は得られません。  多くの企業の場合、問題は直接、間接の比率ではないのです。別なところに問題があります。直間比率を気にする必要は全くないということです。

組織を編集する | その他

組織を編集する

経営をしていたころ、いちばんの愉しみは、組織図を描くことだった。 まず第一の醍醐味は、組織のガラを決めるところにある。あぁでもないこうでもないと、いかに最適な組織図を描くかに腐心する。なにより組織図は、形として美しくなければならない。どうやっても美しくない組織図しかできなければ、それは戦略がおかしいといってよい。組織と戦略はそうした表裏の関係にあるものだからこそ、この作業は面白い。 組織の形が決まったら、次は、各組織のリーダーの配置である。これが第二の、よりスリリングな醍醐味だ。誰を登用するか、誰の役割を変えるか・・・組織構造を決めるよりもはるかに頭を悩ますことも多いけれども、ときに、一瞬にして決まることもある。ポイントは、個別組織の人事と“全体”を常に同時に考えることである。 ある部門に適材が思いつかなくて、ふと、まったく候補でない人物を置いてみると、予想外に全体が様(さま)になり、またその部門の可能性が広がったりすることがあったりする。大げさにいえば、天の配剤めいたこうした瞬間があるからやめられない。ここまでは必ず、経営企画担当にも人事担当にも任せず、また外資系企業だったけれどもヘッドクォーターの横やりも排して、自分で描き上げたものだった。 間違えてはいけないことは、組織のガラづくりと人事の検討は必ず分けて行うということである。さもないと、人を先に想定して組織を考えてしまうからだ。そうした組織は、そもそも、美しくないし、変に飛び出た箱があったりして奇妙な組織図になることが多い。また、現状の人材レベルの範囲を超えない組織(=戦略)になりがちである。 ガラとしての組織図は、戦略を実現するコンセプトそのものだから、その限りで最適解を検討しなければならない。次に、人材を配置していくときには、当然、適する能力や経験の人材が足りなかったりするから悩むことになる。でも、それこそが考えどころであり、新しい組み合わせや育成面でチャレンジングな配置が生まれる契機になる。 雑誌やメディアの“編集”という作業は、コンセプトメイキングとエディティングからなる。それにより、個々の情報素材(=識者の寄稿やインタビューや文献情報などなど)を、総合したときに、単なる個々の集合を超えたメッセージや情報価値を生成させることを目指すものだ。経営にとっての組織図もまた、個々人の力の集合を超えた組織の総合力を発揮させるという意味での編集に他ならない。 そういえば、組織とはそもそも、個人の能力限界を超えるものとして生まれたものだった。組織図を持ち出すまでもなく、すべての組織は、もともと編集されるべきものなのである。

抑止力としてのパワハラ | その他

抑止力としてのパワハラ

 パワハラとは、”同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為”ですが、正直どこまでがパワハラでなくどこからがパワハラかよくわかりません。企業を経営してよりよい会社にし、より社会貢献し、社員により処遇をよくしていこうとすると、いろいろなこだわりが出てきますので、どうも納得できないことがあるとかなりストレートな物言いになることがあります。このストレート度合いがパワハラか否かというかということなのでしょうが、正直はっきりとした線引きはできません。  経営の方針や行動規範などに抵触する発言や行動に対しては、当初はやんわりとストレートに話をするのですが、それでも改善しないのであれば次第に強くなります。挙げ句の果てには机を叩いて怒ることもあるでしょう。しかし頭の片隅ではこれはパワハラであろうかと常に自問する自分もいます。企業を経営するまたは部門の管理をする人たちにとって、方針の明示とその徹底は生命線ですので、これに反することがあるのは、経営者管理者としては看過できないはずです。そのため勢い激しい言動になってしまうのでしょう。  このパワハラの議論はいろいろな文献を見るとどうも働く側にある意味過保護だと思うところが多すぎます。こんなに気を遣って管理監督しなくてはならないのかとも思うような事例も目にします。しかし現在の社会の常識上仕方ないのかもしれません。 あるクライアントの取締役がこんな話をしていました。この取締役は以前社員に対して罵声を浴びせパワハラであると社内で問題になったことがあります。当の取締役は昔の厳しい社風で育った人物で、強い指導=パワハラと言われてしまうようなことが感覚的に理解できないといっていました。その後この取締役は言葉使いには非常に気を遣っていると言っていましたが、鋭い目つきとなんとなく醸し出す苛立ちなどから、”存在がパワハラ”と言われているそうです。  さてこの取締役の凄いところは、自分の方針や計画については妥協しないで実行することに強い意志を持っているところです。部下が明らかに準備を怠ったり、やる気がない場合には、最後はパワハラ覚悟で徹底させようと思っていると言っていました。”抑止力としてのパワハラ”と名付けましたが、会社として組織として守るべき一線を守るためには、最後はパワハラも辞さずというスタンスです。こんなことしたらまずいことになる、という価値観を、過去に実際に見せたパワハラの姿で抑止するという新たな武器のようなものです。  パワハラを肯定しているのではありません。しかし譲れない一線もあることがビジネスマンとしての価値なのではないかと思うということです。

シャドウイングのすすめ | 人材開発

シャドウイングのすすめ

 シャドウイングといっても、ネイティブの発話を聞くそばからそのまま口に出していく(=影のように)英語練習法のことではない。仕事の実態を知るために行うキャリア教育としてのジョブシャドウイングだ。  やり方は、仕事する社会人に半日とか1日間、中学生、高校生や大学生が一人、影のようについて一緒に行動する。それにより、普段見えない仕事の実態や、人が働くということのリアリティを理解できるという効用がある。インターンシップが職業体験であるのに対し、ジョブシャドウイングは、単なる観察である。観察だからこそ、知り、感得することに集中できるし、一対一の関係のなかで、その働く本人の思いや考え方を仕事の合間や事後に聞くことができる。  米国では定着した教育手法であるが、日本でも、キャリア教育として取り組む中学校や高等学校が増えてきた。何人かの人事担当の方々からも、年々、各地の学校からの要請があると聞いた。中高教育なかで浸透しつつあるようだが、むしろ、大学と企業の間で、こうしたシャドウイングの仕組みができるべきではないか。  職業選択の前提となる仕事観やキャリア意識がないから、といって、1、2年生からの「キャリア形成支援」の取り組みが大学では盛んであるが、それに意味があるとは思えない。キャリアの方向性など、仕事を何年か経験してから初めて見えてくるものだ。学生がキャリアデザインするといった矛盾に満ちたキャリア教育や就職予備校めいた指導のおかげで、面接で、「クラブ活動でのリーダーシップの発揮」などをPRする学生ばかりになる。  キャリア形成とは、授業として教えるものではない。大事なことは、自分が興味ある仕事、あるいは、あまり知らないいろいろな仕事の実態やそこで人が何を想い働いているという有様を感得することだ。そのことが職業選択の視界を広げる。それができるジョブシャドウイングのしくみがあれば、ほかに特別なキャリア教育はいらないのではないか。もはや死語のようになってしまった感があるが、学生の本分は勉強である。大学4年間のほとんどの時間を、学問というものに没頭させる経験こそが、将来、長く仕事していくなかで、ボディブローのように効くキャリア形成支援のはずである。  シャドウイングをすすめる理由は、もうひとつある。シャドウイングされる側に対する教育効果があるからだ。それが、CSRを実践することだから、ではない。シャドウイングされる人自身が、改めて自分の仕事の意味や意義に気づくという効用である。キャリアアンカーで知られるエドガー・シャインは、一方で「プロセス・ファシリテーション」というコンサルティング手法を提唱しているが、そのポイントは、「外部の、第三者による素朴な問い」が、組織の構成員たちの暗黙知を顕在化させる効果をもつということだ。  シャドウイングする社外かつ職業社会というものの外部者である学生が発する問いに答える経験は、自身の仕事を再発見する貴重な機会に違いない。キャリアの節目にあるような入社3年目や5年目あたりの若手社員層が学生にシャドウイングされるといった施策は、会社内でよく行うキャリアデザイン研修よりも効き目があるはずである。  エグゼクティブ・コーチングにも、シャドウイングがある。コーチングのプロセスは、1.360度インタビューなどの診断にはじまり、2.解決すべき課題を合意し、3.方策を検討し、4.その実行を定期的に検証・検討しながら促進するというものだが、この4.のフェイズで、コーチが一日“影になって”観察し、フィードバックすることをシャドウイングという。これはなかなか不思議な光景で、かつて外資系企業の日本支社長のコーチングで、影として一緒に会議に出たときの人々の不審な表情をいまでも思い出す。  コーチングにおけるシャドウイングもまた、本人だけでは気づかないことを、顕在化するための方法である。組織もそうだが人も、日々の経験や慣れや繰り返しが地層のように蓄積し、それが判断や思考の前提になりがちである。その“当たり前”という前提を「Why」で揺さぶることが時に必要なのだとしたら、自分自身で行うのが難しいそれを、第三者がやってくれるシャドウイングの効用はもっと注目されていいのではないか。

ハイパフォーマの要件 | 人材育成方針策定

ハイパフォーマの要件

 人材開発の仕事で、360度診断を使うことが多い。  よく、「部下からの評価などあてにならない」、「考課したことないから基準がバラバラ」、「好き嫌いが入り込む」といった理由をあげ、360度診断を否定する声も聞くが、それは当たらない。確かに、「マネジメントとは何か」を知らない部下が、自分の基準で主観的に付ける上司の「点数」は、うのみにできない。しかし、360度診断は、点数の高低をみるものではない。集計された周囲評価の項目間のバラつき方とその自他ギャップに意味がある。  個々人がつける点数水準はどうあれ、項目間の差を集積した周囲者評価のカタチ(=項目ごとの点数の折れ線グラフ表示)によって、できている(と周囲が感じる)項目とできていない(と周囲が感じる)項目が特定できる。加えて、本人の自己評価のカタチを重ねてみることで、行動課題がさまざま浮かび上がるという仕掛けである。  たとえば、周囲評価の(相対的に)低い項目と自他ギャップの大きい項目にまず着目する。対象者の全体傾向としてみるのであれば、それがその層の育成課題を検討する材料となり、個々人でいえば、本人みずから、その理由を内省し、行動変容へのきっかけとするといった研修内での使い方が一般的だ。  多くの会社で360度診断をやっていて、実に興味深いのは、ハイパフォーマに決まってみられる“外形”があることだ。まず、周囲評価のカタチと自己評価のカタチが相似している人は、だいたいできる営業マンだったり、優秀なマネジャーだったりする。つまり、自己認識がちゃんとできている。  さらに成果を上げている人に特徴的な外形は、自他が相似したうえで、自己評価のカタチは、周囲より大きな振幅になっている。つまり、できている項目は、自身ではもっとできているという高い点だし、できていない項目の自己評価の点は極端に低い。出来不出来のメリハリが、周囲評価よりも効いているのだ。  自己認識が正しいうえで、強い自信と強い課題感の表れと思えば、それが優秀さを示すひとつの要件として納得できるのではないか。このことは会社が違ってもほぼ例外なくあてはまる特徴だが、加えて、ハイパフォーマ分析(=パイパフォーマを特定してもらい彼らに共通する特徴を抽出する分析)を行えば、その会社ならでは優秀人材の要件も分かるから、こうした診断から見えてくることは、能力や行動の課題以外にもさまざまある。  毎年、管理職評価用に診断を実施していたある金融機関では、なかなか含蓄深い特徴がみられた。360度診断は周囲評価としてひとつにまとめてしまう場合と、上司、同僚、部下といった評価者属性ごとに結果をわけて表示する場合がある。この会社では、上司、同僚、総合職部下、一般職部下の4つに分けて周囲評価集計を表示していた。  傾向としては、同僚評価はとくにそうだが、総じて甘い評価で、上司評価以外はあまりメリハリがつきにくい(銀行でしばしば見られる傾向ではある)。そのなかで、ハイパフォーマに共通する特徴がひとつあった。それは、上司評価のカタチと一般職部下のカタチがそっくりだったということである。  これは2つの意味で示唆的である。  まず第一に、上司の目にも、一般職部下の目にも同じに映るような、分け隔てない振る舞いが、ハイパフォーマの特徴だという点。常に、誰に対しても変わらぬ行動、とくにヒエラルキー的役割分担の堅固な組織における振る舞いとして、なるほど、と思わせる。  もう一点、注目したいのは、一般職の方々の観察眼の鋭さである。同僚や総合職部下といった周囲者が、防衛的だからか、互助的なのか、中心化傾向で変化に乏しい評点をつけているなかで、上司同様のエッジが効いた評価をしている。いかにも情緒的でないきっぱりしたメリハリが見える。一般職の方々の雇用環境や仕事スタンス、価値観など、この的確な視線の理由としていろいろ推察できることもまた、360度診断ならではの醍醐味である。

貧富の差 | 雇用施策・その他

貧富の差

 日本は総中流意識が強いと言われてきましたが、バブル崩壊以降さらにはリーマンショック以降は貧富の差が大きくなってきました。常用雇用者の中でも正社員の占める割合が少なくなり、新卒の就職難も長く続いています。長引く不況で企業も正社員採用を抑え総人員数も減少傾向です。そのため正社員にならずに(なれずに)非正社員や派遣社員として働く人も増加し、“フリーター”というあまり歓迎できない名称の被雇用者スタイルまで生まれています。バブル経済崩壊前は総中流意識から現時点では貧富の差が激しくなり、総中流ではなくなってきました。  正社員の中でも、製造業における製造業務従事者やサービス業の一線で働く人などの給与レベルも低下傾向にあります。これは高くなりすぎた日本の製造コスト改善の一環として製造業務従事者の給与レベルをダウンする傾向が強いからです。またサービス業などは国内需要が縮小する中で、価格競争が激しくできるだけ人件費コストを抑制しなければ競争に勝てないからです。国内市場が再活性化しない限りは今後もサービス業の給与は高くなることはありません。  製造業はもっと深刻で中国、韓国などの台頭で日本における製造が困難となる商品が多くなり、そのため国内生産から海外生産へと切り替えなければなりません。日本の国内で製造できるものは、国内消費用か極めて高度な技術や技能による商品となりつつあり、今後もこの傾向は、大きな環境変化がない限りは変わらないと予想されます。そうなると日本の製造業は国内工場を縮小、閉鎖し、海外への移転をすることになり、製造業務従事者は給与がダウンするのではなく、雇用そのものがなくなってしまうという危機的状況になりつつあります。しかし企業としては高い日本の工場で生産するのではなく海外で生産するのですから、今までよりも利益が上がる、要はグローバル化の推進は企業にとって利益増加となりますが、国内の雇用が犠牲になるという見方もできます。  正社員の中でも、高度な技術者やグローバル人材については今まで以上に需要が高くなりますので給与も高くなる傾向が強く、同じ正社員でも職種別に貧富の差が激しくなるということになります。職種別賃金とはかつての単一的給与構造と異なり、社内の中で貧富の差が発生する仕組みともいえます。  このように日本の推進力であった製造業が国内から製造拠点を移転せざるを得ない状況下では、国内市場は成長することが難しく、さらに超高齢化時代に突入することでさらに国内市場は低迷し、その結果過当競争となり、さらに国内市場中心の企業の社員の給与はダウンすることになります。日本の中で貧富の差は現在でも問題となっていますが、将来はより大きな差となることが予想されます。実際に大規模な製造従事者削減などが各社で発表されていますが、今後も続くことが予想されます。企業は利益を増加させることが可能で、その推進役となる職種の社員は給与が上がりますが、ドメスティックな職種の雇用は減少し給与が少なくなる人も増える、貧富の差が非常に大きくなるということです。  これは単体の企業の構造転換としては仕方のない施策ですが、雇用の維持や国内市場再活性化という国策レベルで対応しなければならない重大な問題です。企業としては利益増加と雇用責任をどうバランスさせていくかが現実の施策として問われていますし、将来はよりシビアになるということです。

雑多な専門職 | その他

雑多な専門職

 専門職とは、“高度な専門的知識や経験をベースに企業に貢献する職種”という定義になるでしょう。例えば化学や医薬における高度な研究開発者や技術営業や、アパレルなどのデザイナー、商社におけるバイヤーなどがその代表であり、個人に帰属した極めて高度な専門性が、企業発展にとって不可欠な人材で、そのため部下はいなくとも専門職として高く遇することが本旨であります。有名な小売業で“全員専門職”と称して社員であれば何かしらの専門領域を持つべきである、マネジメントも専門性の一つにすぎないといった優れた人事制度などもあるように、企業のビジネスモデルや社員のコアスキルという観点で、最終的なキャリアゴールが必ずしもラインマネジメントだけでないということです。そのため多くの人事制度では若いうちはいろいろな経験を積み、ラインマネジメントか専門職かに分岐する“複線型”人事制度が導入されています。  しかしこの複線型人事制度における専門職で極めて重大なミスをしている企業があまりにも多くあります。専門職は特定の専門性を追求する職種であることからローテーションに向いていません。一つの分野を深く探求しなければならないからです。それに対してラインマネジメントは最終的に事業や経営を担うことになるため、異なる複数の職場の経験が必須です。そうでなければ複合的な機能をバランスよく統括できないからです。したがってローテーションは必須で、異なる機能の経験がない限り、複合的機能の集合体であるラインマネジメントはできないからです。このようにラインマネジメント職と専門職は別々の育成方針と育成方法であり、双方の互換性は理論上ないのです。  現実の企業で多くみられる専門職は実は雑多な人材の集合体となっていることが多くみられます。正確に言うと、ほんとの専門職と何らかの事情でラインマネジメント職からはずれた人材を一緒にしてしまう例が多いということです。本来はラインマネジメントとして期待し育成したが、ポストに就けることができない社員を専門職として職種転換することなどが多くに見られます。たしかにラインマネジメントと言ってもプレイイングマネージャーが多い企業ですと、このような職種転換はできなくはないのですが、そもそもローテーションをしてマネジメント能力を磨くことを指向する人材と、職場や領域固定で徹底して専門性追求を指向する人材は、根本的に異なります。それを一つの専門職とまとめることが、本当の意味での専門職重視になっていないことになります。要はラインマネジメントから外れた人材は、本来の専門職でなく、本当はラインマネジメント職の一つ下の人材ということだということです。  企業のビジネスモデルによってこの本当の専門職がどの程度必要かが決まってきます。また同じようにラインマネジメント職もビジネスボリュームと組織機構によってその必要数が決定されます。モデルとボリュームによってこの構造が決まっていますが、多くの企業ではラインマネジメント職が多すぎるために、途中で専門職への職種転換や役職定年制度などの理論上は正しくない仕組みが導入されてしまっています。  現在のように管理職の一格、半格下のイメージではなく、本当の専門職とは何かを再定義し、管理職と同様かそれ以上の評価処遇ができる本当の専門職として位置付け再確認する必要があります。

徹夜せよ! | その他

徹夜せよ!

 コンプライアンス観点では主張することができませんが、近年のワークライフバランスなどの議論に本音ベースで真っ向から対立する論点を提示します。週40時間労働や有給取得奨励、在宅勤務などのワークライフバランスの考え方は、多様で豊かになり、高齢化が進行する中で注目を浴びる議論です。この方向自体については全く反対ではありません。また当社はクライアントに対して適正なワークスタイル確立のコンサルティングをしているとも言えますし、自社でも徹底する努力をしています。しかしこの議論に決定的に欠如していることは、勤務時間の短縮、非連続な時間での業務遂行、自宅などオフィス環境が整備されていない場所での業務遂行など働き方への規制を緩めることそのものに焦点が当たりすぎていて、反対に今まで以上の時間生産性や協業生産性を上げることが同じ以上の重さで議論されていないということです。勤務形態の自由化と生産性向上の議論では、後者のほうが相対的に軽視されていると感じるのです。まあストレートに言うと過去に比較して働き方が甘くなったということです。  このような“緩和”が議論される前までは、仕事の仕方や仕事に対する時間投下が今よりもシビアでした。どんなに夜遅くなろうとも仕事が終わらなければだれも帰りませんし、忙しい中プライベートで先に帰る時などは、上司にこっそり事情を告げて周りに気を遣いながら帰ったものです。またどんなに遅くなろうとも、徹夜しようとも翌朝の朝九時には何もなかったかのように振る舞うことがビジネスマンとしてのよきスタイルと思われていました。自分のミスや生産性が低いことから遅くなることについては、超過勤務手当の申請などは自制するのが当たり前で、会社に存在していた時間を超過勤務手当の対象とはだれも考えていなかったのではないでしょうか。もちろん生産や営業などの現場では当時から時間管理は意識されていましたので、上記のような感覚ではなかったと思いますが、企画や管理などのいわゆるホワイトカラー業務では、時間なんて関係ないという感覚が濃厚でありました。  現在では高齢化成熟化していく中での新しい時代の働き方という方向性を強力に推進していかなくてはならないことは当然です。しかし前述のように“緩和”が大きくなった分、生産性を向上させなければなりません。また経営環境は依然厳しく、企業が成長していくためには今まで以上のアウトプットの量と品質が要求されます。現在よりもさらに生産性を向上しなくてはならないということです。このような生産性向上を実現するためには、いくつかの重要なポイントがあると思います。まず単純に時間生産性向上のためのタイムマネジメントの徹底を常態化するということです。これを常態化し、しっかり管理していく企業は未だ多くありません。次にこれだけ情報技術や様々な技術進化をしている環境において、個人及び組織がより高い生産性を実現する手段をもっと研究しなくてはなりません。以前よりオフィス環境の整備の重要性は認識されていますが、環境整備という観点でも、物理的なオフィス構造をより科学的根拠で見直すことも必要でしょうし、音や香や内装、など他分野にわたって生産性向上のための検討範囲に入ります。また会議など複数の人による共同生産性向上のための様々なツールや教育なども、もっと注力しなければなりません。また働く側の生産性向上に対する何らかの処遇反映も必要でしょう。端的に言えばちゃんと評価して処遇しましょうということです。  そして最後にコンプラ違反になる覚悟で言いますが、働く側の権利主張を重視する傾向、就業の終了時間が来れば帰宅してよいなどという甘い考えや、自分の能力やモチベーションが欠如していることから、時間内に十分な生産性で仕事ができない社員に対して、強烈な指導をする文化を創ることが必要です。能力・やる気が欠如している社員に対しては、自己研鑽の指導をするなど、時間外での能力向上を求めることを普通の文化にしなければなりません。時間内にミスや能力、モチベーションの欠如でアウトプットが出せないなら、会社にはわからないように、いくらでも時間を使ってでもアウトプットを出さなくてはならないという文化をもつことも精神論として必要です。徹夜せよ!と会社側からは言いませんが、それでも隠れて徹夜してアウトプットを出し、何食わぬ顔で出勤するくらいの気概がほしいというのが本音ではないでしょうか。

退職勧奨のすすめ | 雇用施策・その他

退職勧奨のすすめ

 多くの企業に対してリストラのコンサルティングに関与してきましたが、日本企業の人員削減はある意味残酷だと感じます。企業業績が低下すると、企業としては人件費コスト低下のために人員削減を行うことがあります。バブル経済崩壊後のリストラブームでは団塊の世代と言われた50歳代社員が主たるターゲットでした。また最近ではバブル期大量採用世代の人員削減を行う企業が多い状況です。日本企業は年功的な要素が残っている企業が多いために、若年社員よりも中高年社員を削減するほうが、人件費削減効果が高いのはある意味で当然です。しかし中高年社員削減を行う企業で、退職を勧める社員を選別するに当たり、“そもそもあまり能力が高くない”であるとか“昔から業績貢献が少ない”とか“当社の方針や文化に合わない”“職務に適性がない”という理由がよく言われます。拠点が閉鎖になる地域で転勤できない社員に対して優遇した退職条件で退職を勧めることはまだ理解できますが、業績低下時に能力や適性を理由として中高年社員の退職を行おうとすること自体にそもそも問題があります。このようなローパフォーマー社員は中高年になってからローパフォーマーになったのであれば仕方ありませんが、若年段階からローパフォーマーだと言われている社員のほうがむしろ多いのではないでしょうか。この社員に対して業績低下を理由に、中高年になってから転職を勧めることが残酷だということです。日本の労働市場は特に45歳以上の中高年の転職年収が一般的には非常に安い傾向にあります。30歳代で転職すればそれなりの転職ができるのでしょうが、わざわざ労働市場価値が下がった時点で、そもそも戦力ではないなどと言ってしまうことが問題なのです。  このような社員はたまたまこの企業では能力発揮や適性がなかったかもしれませんが、他の企業で適職に就ける可能性もあります。しかしその可能性が低くなってから退職を勧めることをしてしまうのは、平時における人事管理がいかに甘いかということでしょう。最近では情報産業や環境変化の激しい業界、競争の厳しい業界などで、若年段階で優遇した退職条件で退職を勧める施策を定期的に実施する企業も増え始めました。退職勧奨といい割増退職金や再就職支援などの条件を提示し、早期に別のキャリアのチャンスの獲得を支援するというものです。このような退職勧奨を制度として毎年実施している企業もあり、そのために評価制度の品質も向上させ、評価が連続して悪い社員に対して、この仕組みを提示します。  日本の企業では大手になればなるほど退職勧奨を嫌う傾向が強いです。退職勧奨は優遇した条件で退職を勧誘するだけですので全くの適法行為です。しかし個別に退職を勧めることが違法だと勘違いしていたり、雇用を維持し続けることが大事であると思っている企業では、非常に強い拒否感があります。しかし雇用維持と言っておきながら業績低下となり人員削減をするときに、中高年社員にそもそもローパフォーマーだと言ってしまう感覚が残酷だということです。  成果・職務・実力主義的人事制度のもとでは、入社して早期に能力や適性があるかが以前よりわかりやすくなってきました。採用した社員を大事にするというのは、全員の雇用を維持することではなく、企業に向かない社員は労働市場価値が高いうちに大事に他の企業に送り出してあげることと認識され始めています。  人事制度の改革とともに退職勧奨は重要な部品として認識され始め、また社員に対する新たな救済措置として重要な施策になりつつあります。平時においてローパフォーマーに対して退職勧奨を定期的に実施することをお勧めいたします。

二つの時限爆弾 | 雇用調整施策・支援

二つの時限爆弾

 日本の大手企業の人員構成は企業の歴史が色濃く反映しています。代表的な人員構成は50歳台が少し多く、バブル期採用の40歳台社員が非常に多く、30歳台社員が少なく、20歳台社員が極端に少ないという構成です。年齢別の人員構成では45歳以上社員に大きなコブがあり、逆に30歳台20歳台が非常に少ないという歪な構成です。企業の業績が低調な中で最近の人事問題として深刻さを増してきているのはこのバブル期大量採用世代の問題です。これはすでに20年以上前から指摘されてきた問題です。バブル崩壊後のリストラブーム当時では、団塊の世代問題という50歳台の高齢社員の人数が多すぎ、そのため50歳代社員の削減が大きな人事問題でした。この時すでに突出した年齢層の社員が存在することが企業の人事管理上大きな問題であることが認識されていましたが、その後の20年間でバブル期大量採用世代の問題に抜本的な改革が行われずに来てしまったために、ついにこの歪な中高年社員偏在問題が顕在化深刻化しています。 そもそも短期業績がよいからといって新卒正社員の採用を大量に行うことは人事理論上全くナンセンスですが、ついにこの大量採用世代が企業の中核的存在としての年齢層となり、人件費の高騰化や管理職社員の余剰、活性化の阻害など極めて深刻さを増しています。バブル期の経営者が仕込んでしまった時限爆弾です。この問題のインパクトは非常に大きいとともに、今後10年〜20年長期にわたりこの問題に悩まされることが容易に想像されます。現在の業績低迷期にこの時限爆弾が爆発しかけてきており、さらには65歳までの雇用義務化が追い打ちをかけます。この爆弾処理は大規模な人員削減を行うか、年齢に関係のない人事制度にするか、企業が飛躍的に成長するかのいずれかの解決策しかありません。現在の経営者は過去の経営者が仕掛けた時限爆弾に対しての処理を求められているとも言えます。  この時限爆弾とともに、静かに進行しているもう一つの時限爆弾があります。すでに導火線に火が付き始めていますが、現時点では前述の時限爆弾処理もあり、あまり真剣に議論されていません。もう一つとは10年後20年後に企業の中核を担うコア人材が不足するという大問題です。バブル崩壊後新卒採用は抑制傾向にありました。特にリーマンショック後は新卒採用をストップした企業も多く、歪な構造がより一層悪化してしまいました。業績低迷時でも一定の新卒採用を行わなければ企業の中長期的発展は望めません。短期的視点で人件費抑制のために新卒採用を大幅に縮減すること自体も人事理論上は問題があります。新卒社員を大幅に抑制し続けている企業は、企業活力が次第に衰えるとともに、将来を担う人材を調達していないという点で、あまりにも短期的な視点と言わざるを得ません。不足している年齢層は中途採用すればよいと言う企業は、新卒から企業のコア人材を育成が必要でないと言っているようなもので、自社独自のビジネスモデルやマインドを軽視していると言わざるを得ません。  この同時進行している二つの時限爆弾を同時処理することが、将来の企業の継続的な繁栄の基盤となります。短期的、損益的視点で新卒社員採用を軽視する経営者や人事部門は将来に責任を持っていると言えません。まずは単純に将来20年後までの自社の人件費や人員構成のシミュレーションを定量的に目の当たりにすることが必要です。感覚的な議論ではなく目に見える形で将来の姿を数字として直視しなければ将来への経営責任を果たしているとは言えません。知らないうちに次の世代の経営者に対して新たな時限爆弾をセットしているとも言えます。

関係のマネジメント | その他

関係のマネジメント

 たいへん優秀で、皆が嫌がるような困難な仕事を進んでやり、見事に仕上げた部下の管理職者がいた。その後、私が会社を離れ、半年後に複数の人から彼の話を聞いたら、今は仕事ができない問題社員だという評判に驚いたことがある。  そんな風に、あるリーダーのもとで、“意気に感じて”自分の業務範囲を超えて縦横に働き、高いパフォーマンスを上げていた人が、リーダーが変わったらいきなりローパフォーマーになることがある。もともと持っていた能力以上の行動発揮を引き起こすのは、上司のリーダーシップ能力が高いからではない。そのリーダーの部下になれば、誰もが能力以上に働くわけではないからだ。特定の上司部下関係のなかの、何かが、その人を励起したのだろう。  そうした関係の力は、リーダーとの間だけでなく、同僚との間でも働く。組織診断でみる「組織市民性」という項目がある。ひらたくいえば、職場の仲間が困っていれば手伝う、といった健全な協働意識の度合いを、組織ごとに診る指標だ。部門によって、驚くほどその点が低いと出ることがあるが、その要因はなかなかわからない。マネジャーやメンバー個々人の問題ではない、関係の病理があるように見える。  臨床心理の家族療法でよく知られるように、錯綜した人間関係はさまざまな心の病を引き起こすきっかけのひとつとされる。たとえば、子供の発症のトリガーは、親の夫婦関係の歪さにあったりする。家族ですら、父と子、母と子、父と母、兄弟との関係、、、等々、複数の関係が錯綜する。組織にある人々の関係の多彩さを考えれば、関係の力は、組織におけるメンタルイッシュ―の多さをみるまでもなく、良くも悪しくも、組織のパフォーマンスに大きく影響するはずである。  タレントマネジメントという言い方が含意する個別人材力の強化だけではなく、組織力を高めるような関係のマネジメントを改めて考えるべきではないか。タレントマネジメントの観点でいえば、組織力を高めるには、個々人のリーダーシップ力を育成するのだということになる。それに対していえば、役割や分担や損得を超えた行動をもたらす“つながり”をいかにして生成するか、ということになろうか。  それはきっと、会社という、権限や分業や雇用という公式な「関係の体系」の側面を片目でにらみつつ、おそらくは信頼や互酬性を原理とする非公式な「関係の束」をマネジメントすることだろう。とすれば、それはいかにも難しい。ただ、その原理や方法はまだ整理されていないけれども、ヒントぐらいは散見される。キーワードでいえば、自尊心の尊重、自己効力観の励起、スポーツマンシップの醸成。。。要は、人は関係の中でアイデンティファイされ、生きがいや働きがいを感じるという当たり前の原理に立ち返ればいい。  一方で、ここでいうような“つながり”を嫌悪する人たちもいるだろう。役割の中で自身の能力で、自身に期待される成果を出すことだけに腐心する人たちには、会社の中のべたついた“つながり”(=絆)なんかきっと気持ち悪い。成果を出し自身を成長させるのに、精神的な依存関係なんかいらない。そのように個を屹立させる人々が存在することで生まれる他者との軋轢や共感も、多様な関係の束の一部である。  一様でないさまざまな関係が集積するという組織の“複雑性”もまた、組織の力を高めるキーワードだろう。それは、異質性やゆらぎを要件とする情報創造型組織につながるだろうし、一時期、組織の不活性をしめす原因として取りざたされた「学習性無力感」は、ネガティブな関係の一様性がもたらす現象ともいえる。  脳の正体をつかもうと、脳をどんどん解剖し、生体砕片にまで分解しても、脳の本質はつかめない。脳の本質は、脳内の複雑な信号伝達、つまり「関係」にある。脳の圧倒的なパフォーマンスは、その複雑な関係が生みだしている。組織の複雑性もまた、組織のコンピタンスを高める条件だとすれば、関係のマネジメントの第一歩は、メンバー個々人のダイバーシティではなく、その結果生まれる複雑な関係のダイバーシティに目を向けることである。

平知盛 | その他

平知盛

 日本史に登場する人物の中で、平知盛の生き様には考えさせられるものがあります。平知盛は平家物語の平家側の主役とも言える人物です。清盛の四男として生まれ、34年という若さで自害した人物です。平家の衰退がはじまり清盛が死亡すると、兄の宗盛が家督を継ぎます。宗盛の戦略性のなさと優柔不断さにより、源氏に次第に追い詰められていく過程において、知盛はそれこそ平家再興のために奮迅の働きをします。もともと病弱であり戦場の第一線に出られる体力を持ち合わせなかったと言われていますが、優れた軍事的才能と統率力で源氏の軍勢を幾たびか打ち破ります。しかし時勢には逆らえず一の谷で源義経に敗れ、さらには屋島でも敗戦します。この決定的ないくつかの敗戦の中で知盛はなんとか残る平家の支柱として、宗盛の代わりに指揮を執り続けます。壇ノ浦の戦い時ではとても戦える体調でなかったといわれていますが、最後まで戦い抜き、そして敗戦濃厚となった時点で自害します。その時に言ったのが、“見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん”というあまりにも有名な言葉です。鎧を二重に着てさらに碇を持って海に入水したと言われ、歌舞伎の“義経千本桜“での“碇知盛”といわれる名場面になります。  このように世の中の時勢という運命に対して、自己の存在をかけて最後まで抵抗する姿が、“悲劇”として人の心を打つのでしょう。最終的には運命には勝てない自分がいるのに対して、それを肯定することができずに最後まで自己の存在を運命に徹底して逆らうということです。そして最後にはこの運命を受け入れざるを得ない自分を肯定できずに碇をもって入水するという生き方です。  逆に時勢に乗り勢いがあり成長するときの成功話に人はあまり劇的さを感じません。ともすると自慢話的になり、これが過ぎるとたまたま時勢に乗った幸運な人物と評されてしまいます。人はこのような成功話にはあまり大きな感動を持ちませんが、知盛のような悲劇的な人物にはいたく心を打たれる感性を持っています。このような劇的な生き方をする日本人が歴史上には何人も見ることができます。命を懸けて自己の存在を証明しようとし、そしてその証明ができなくなることにより、自己を否定しなければならない。これは架空の話ではなく現実の日本で起きた実話なのです。  このような悲劇的人物は戦後日本であまり見当たらなくなってしまいました。環境の変化に対して大幅な構造転換をしなければ生き残れない企業でも、将来の予測から徹底したリストラをしなければならない状況と頭でわかっていても実行する人物は少ないのです。また逆らうことのできない環境変化に徹底して反抗し、その結果回復する企業もありますが、最終的には企業が存続できない事例も多くあります。自己の存在をかけて環境や運命に徹底して抵抗することを通じて活路を見い出だす可能性に賭けるわけでもなく、なんとなくリストラをしてそしてまた衰退して中途半端なリストラを繰り返す。そして最終的にはどこかの企業に吸収されたり清算されてしまうという、あまり締まりのないリストラ劇が多すぎます。このようなリストラ劇は劇としては生ぬるく面白い舞台ではありません。主役が誰かもわからなかったり、主役のキャラクターや意思が不明であり、役として成立していないのです。脇役も舞台上で果たすべき役を演じないばかりか、舞台から降りてしまう人までいます。  企業はリストラによって再生することが望ましいに決まっていますが、これは環境に徹底して逆らい新たな価値を見出した企業のみが生き残るのであって、環境に対して徹底した自己存在意義を問い直さないリストラは失敗します。さらに失敗したリストラ劇の結末には、現代日本人の“日本人らしさ”がなくなったゆるい結末で、だれも責任を果たしたと言える状況ではないのです。“見るべき程の事をば見つ”と言えるリストラは非常に少なく、徹底した戦略再構築や経営施策を断行するという命を懸けるような深刻さがなく、単に経営ゲームとして負けたというような感覚にすら感じることがあります。真剣に経営をしているかと問われて命がけでやっていると胸を張って言える経営人が少なくなっているのではないか。日本的な重要な特性が失われているのではないかと感じることがあります。