2023.08.07
「誠実さ」のジレンマ
「顧客や関係者に対して常に誠実に対応している。」…これは、弊社の提供している360度診断の標準的な設問群の中の一つである。 一応ご存じない方に少しだけご説明すると、360度診断とは、ある対象者を決め、その方の上司・同僚・部下など、周囲の複数の視点からアンケート形式で観察・評価してもらうことにより、日頃の行動について本人への「気付き」を与え、さらなる行動改善に結び付けてもらう試みのことを指している。 先の設問は、360度診断の中の一設問であり、弊社ではこれを「<誠実対応>設問」と呼んでいる。私は、多くの企業様の360度診断に継続的に関わってきたが、各企業様の全体傾向として、この設問に対する「周囲評価」が著しく悪い例に、今までたったの一度も出会ったことがない。すなわち、多くの企業様の従業員は、「顧客や関係者に対して常に誠実に対応している」と、周囲から高く評価されているのだ。 これは喜ばしいことではないか。私自身も、時折他者から「誠実だ」と言われ、悪い気はせず、内心ほくそ笑んだりしている。確かに大方その通りなのだろうが、見方によって、これはちょっとまずいこともあるのではないかと、最近私は思うようになった。 この「<誠実対応>設問」を、答える方(周囲評価者)はどのように受け止めているのだろうか。付随するフリーコメント等から解釈すると、ひとまず二通りの意味合いを読み取っているらしい。一つは「とにかくこの人はまじめで一生懸命で完璧を目指して仕事をしています」という「まじめでストイックな性格・行動」という意味合いであり、もう一つは「とにかくこの人はよく相手の話を正確に受け止めて適切に応答しています」という「協調性・ホスピタリティがある」という意味合いである。やはり一見非の打ちどころもなさそうだが、しかしそれは一面だろう。 「まじめでストイックな性格」が好ましいのは、本人の目指していることや取り組んでいることが好ましいときだけである。極端な例を述べるようで恐縮だが、分かりやすいので述べておくと、ナチス政権下の官僚たちは、きわめて忠実でまじめだったからこそ、今からは考えられないような政策を徹底して推進し、甚大な被害を引き起こしたのであり、同様の政策を掲げていた、とある近隣同盟国よりも、戦後遥かに大きな非難に晒された。その近隣同盟国の人々はといえば、ナチス政権下の官僚たちよりも、ある意味遥かに緩く適当で「ふまじめ」だったのだろう。敢えて比べれば、どっちがましだったのだろうか。 「協調性やホスピタリティ」も実は同様であり、「何に協調し、何を歓待するか」に拠る。やはり極端な話だが、わかりやすいので述べておくと、旧ソ連スターリン体制下において、スターリンの演説が終わった後、聴衆の拍手はつねに長時間やまなかったという。それは感動的な演説だったのかもしれないが、最初に拍手をやめた者が忠誠心を疑われて粛清されるのではないかと恐れ、誰も最初にやめられなかったのだ。誰もが倒れそうになり、「もう限界だ」と誰しもが思いはじめた時、その空気を察して、一斉にほぼ同時に拍手がやむのだった。こういうときに人は、周囲のちょっとした変化にも敏感になるのだろう。彼らは結局、スターリンの治世を底堅く支えることになった。そして協調性の正体とは、実は大概このような粛清や村八分になる恐れに近い。 これらの話を、「昔話だ」「極端な例だ」と切り捨てられるだろうか。例えば我々は、仕事が調子に乗ってくると、「ゾーンに入る」と言い、「フローに入る」という言い方をする。そのような集中状態は、高い成果に結びつくと言われているが、取り組んだ先のことまで見えているのだろうか。そしてその「成果」と言っても、それが好ましいのは、取り組んでいることそのものがまともなときだけである。本当に今われわれが取り組んでおり目指していることが、将来・後世に渡って評価に値することなのかどうか、明確に判断する基準を持つことは、ごく控えめに言っても難しい。 なるほど「誠実である」ことは、基本的にはのぞましいことだろう。しかしあなたは、「何に対して誠実なのか」を見失ってはならない。もしあなたが無自覚であり、後からまずかったことに気付くとき、あなたはむしろ、「誠実であった」ことを強く後悔するはめになる。「不誠実であったほうがまだましだったのではないか」と。