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コラム

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ライタープロフィール

林 明文
林 明文(はやし あきふみ)

青山学院大学経済学部卒業。 トーマツコンサルティング株式会社に入社し、人事コンサルティング部門シニアマネージャーとして 数多くの組織、人事、リストラクチャリングのコンサルティングに従事。その後大手再就職支援会社の設立に参画し代表取締役社長を経て当社設立。代表取締役シニアパートナーを経て現職。明治大学専門職大学院グローバルビジネス研究科客員教授。

期間とレベル | その他

期間とレベル

 多くの人事制度改革のコンサルティングを行ってきましたが、制度の検討期間が長くなればなるほど、改革のレベルは低下する傾向にあるのではないかと感じます。企業によって人事制度を改革する背景や目的は異なりますが、外部のコンサルティング会社を入れてまで、制度を改革しようとするのですから、今までの制度より相当優れたものでなければなりません。優れているというのは、経営目標や計画を達成するための有効な部品としての優秀性と言うことです。そのため新しい人事制度は、経営への貢献という観点で合理的に設計されなければなりません。日本企業では成果主義的要素は入りつつも、現在でも年功序列的制度です。また等級・グレード制度なども経営に連動し手いるとは言い難く、単に簡単な人物イメージの表記にとどまっています。また業績貢献が低い社員の雇用を大事にしており、さらに給与レベルも高かったりします。現状はあまり合理的な制度設計に運用になっていないため、様々な問題が発生しているのです。現在の人事制度の見直しは、年功序列、終身雇用色は薄くし、経営との連動性を重視する事となり、多くは改訂ではなく改革というほうが妥当でしょう。  改革とは、制度そのものの内容の改革はもちろんですが、最も重要なのは、経営者、管理職、人事部門が持っている今までの緩い人事管理感覚からの脱却といえるでしょう。制度設計当初は、経営課題から人事制度を検討する意識が強いため、合理的で構造的な設計になります。しかし当初設計した内容から、検討する時間の経過とともに変化していく企業が散見されます。検討期間が長くなれば、現実の人事からのギャップを心配したり、長年慣れ親しんできた人事管理感覚から脱却できづらくなってきます。通常人事制度の設計は3ヶ月から6ヶ月程度の期間をかけることが多いですが、この期間が途中で延びる場合や当初から6ヶ月以上の場合の多くは、改革レベルが当初掲げていたものよりも、だいぶ後退してしまう傾向が強くあります。自分が経営者の時に、自分が人事の担当の時に改革することを躊躇しているのかもしれません。特に年功序列、終身雇用を継続してきた企業では、先輩後輩や同期という意識が存在しています。具体的な顔を思うと、今までのようなあまり差のない、ある意味曖昧で緩い人事管理のほうが、社員全体からの印象は悪くないのです。実際は人件費が高騰し経営を圧迫していたり、人事管理によって業績が上がらないという事態になっているのですが、現状から変えることに一歩が踏み出せなくなるのです。  業績が一気に低下するような状況では、人事制度は合理的なものに直ちに改革しなければ企業が存続できません。しかし業績が大きく低迷していないときに人事制度改革を行う企業では、短期間であるべき制度に改革できる企業と、長い検討期間を経て結果として行うべき改革が実現できない企業に分かれるようです。  人事部門は、制度の改革によって、短期的な効果とともに長期的な成長基盤の提供ということであることを再確認しなければなりません。また人事制度改革は、最も大きなコストである人件費のコントロールと、経営目標、計画達成のための原動力でなければならないことも、再認識が必要でしょう。決して先輩後輩や同期の顔がちらつき、改革が手ぬるくなることがないようにしなければ人事部門の存在そのものが問われてしまいます。現時点で波風を立てないことが、将来の経営に大きなないマイナスになることを強く認識し、直面しなければなりません。逆の言い方をすれば経営者、人事部門は毅然とした姿勢で、自信を持ち、短期間で大胆に合理的な制度への改革を断行するべきということであり、そういう経営者や人事部門担当者は後の経営や社員から賞賛と感謝がされるのではないでしょうか。

二重構造の労働市場 | 雇用施策・その他

二重構造の労働市場

 近年日本の雇用管理上、大きな変化が起きたのは、おそらくバブル崩壊後のリストラブームの時でしょう。バブル崩壊前までは、終身雇用が普通であったのが、これ以降終身雇用は以前に比べて重要視されなくなりました。多くの企業が心ならずも大量の正社員の整理をしなくてはならなかったからです。この大手企業正社員の大量整理という現象は、ネガティブにとらえられますが、一方で日本の歪な労働市場構造に大きな衝撃を与えたという意味では、ポジティブな評価もできます。  そもそも日本の労働市場は、大まかには大企業労働市場と中堅中小労働市場から成ります。市場規模としては中堅中小労働市場のほうが圧倒的に大きいのです。大企業労働市場は、新卒社員を雇用して年功序列的な人事制度で終身雇用です。そのため平均勤続年数が非常に長いのです。中堅中小企業労働市場は、常に人材不足と言われてきました。これは質的にも量的にもです。また経営環境の変化に対して迅速に対応する必要があり、かつ人件費の管理も厳格であることから、必要な人材を雇用し必要でない人材は社外に流出するのが普通の感覚です。したがって自己都合で退職する社員の比率も高く、平均勤続年数は大企業労働市場の半分程度と極めて短いのです。  中堅中小企業の人事管理は、一般に言われているような“日本的”な人事管理ではありません。確かに正社員は“期間の定めのなき雇用”ですが、大企業のように全員を定年まで雇用することに対して、大きな価値を持っていないのです。企業が力強く成長するためには、信賞必罰を実現しなければなりません。また人件費の適正化も大企業よりもシビアですので、実力主義的な人事管理がなされています。日本の人事管理は“終身雇用”“年功序列”と言いますが、これは日本の労働市場の一部であり、全体では実力主義的であり、雇用も流動化しています。ちなみに中堅中小企業労働市場の平均勤続年数は、米国の平均勤続年数とほぼ同じなのです。  日本の労働市場的な問題の一つは、優秀な新卒社員のほとんどが大企業労働市場に入ることです。中堅中小企業では中途採用でしか優秀な人材の確保は難しいのです。さらに大企業に入社した新卒社員は終身雇用的意識が強く、企業側も甘い人事管理を行うために、優秀なビジネスマンを育成することができていません。競争も甘く、社内での教育も十分でないために、本来企業が求める人材レベルを満たしている人材ばかりではありません。特に近年では、長らく業績不振で人事育成に対する投資を怠ってきているために、その傾向が顕著です。当然の結果なのですが、多くの企業で、“人材が育っていない”と嘆いているのです。  大企業のリストラのポジティブな面は、大企業の優秀ではあるが活躍場所のない人材を、人材を渇望している中堅中小企業に送出できるということです。またこういった人材移動が多発することによって、大企業側も中堅中小企業の厳しい人事管理の実態を目の当たりにすることもできます。重要であるのは、このような労働移動は大企業が危機的な状況に陥って行うのではなく、活躍場所のない社員や、大企業ではパフォーマンスが発揮できなかった社員などを、業績とは関係なく、中堅中小労働市場に定常的に送出することです。大企業はとかく雇用調整を嫌いますが、環境変化に柔軟に対応するために、また雇用した社員の将来の職業人としてのキャリアを考えると、全員を定年まで雇用することなどは、現在ではナンセンスです。“雇用調整は社会貢献”であるくらいのスタンスに立って、業績がよい時からより積極的な雇用施策を実施しなければならないのです。

管理職に任期を | その他

管理職に任期を

 世の中の重要なポストにはほとんど”任期”があります。政治家や経営者などはその代表的なもので、あらかじめ決められた期間で、目標を達成することを求められます。任期が決まっていることは、在任中の緊張感を明確に持たせることになります。期間内に目標を達成しなければ評価されないからです。もちろん期間内に当初の成果を挙げる人もいるでしょう。また全くその任に向かない人は、任期途中で退場になる人もいるでしょう。  多くの重要ポストの任期は複数年です。成果を上げるためには、組織の編成を変更したり、部下の意識を変えることも必要となります。また必要な人材を投入したり、逆に必要でない人材を排除することも必要かもしれません。これには時間がある程度かかります。また目に見える成果を出すには、計画、準備、実行というステップを踏み、またこれを一回り行い検証して再度同じサイクルを行ことで、目標達成の実現性を高めます。実際には一年間ではなかなか有効な”実行”ができないかもしれません。また長期的なビジョンに基づき段階的に目標を達成するためには、複数年必要になるでしょう。  企業においては取締役などの経営陣は多くは2年や3年任期です。基本的には中期経営計画に合わせた経営体制が望ましいでしょうから、中期計画が3年であれば任期も3年が合理的です。この中期計画を重視すればするほど、管理職のポストも複数年が望ましくなるでしょう。多くの企業では、管理職ポストの任期は明示されません。管理職本人も何年このポストを担当するかがわからないのです。重要なポストであればある程、丹念で結果はでないでしょうし、中期計画の目標達成という観点では、中期計画の期間に合わせるのが妥当でしょう。多くの管理職は非常にやりづらいのだと思います。前任の部長が中期計画に基づく部門計画を立案したとします。しかし中期計画途中で別な人が部長に代われば、後任の部長は自分の計画を新たに策定して実行するのはなかなか困難です。管理職の単年度の目標を的確に設定するのが難しいというのは、この計画期間と合致しないポスト任用が一因となっています。  企業の業績単位は1年ですので、単年度の経営計画が非常に重要であることは間違いありません。また環境変化が激しい中では、中期経営計画はなかなか当初策定したようにはいかないでしょう。そのため単年度でポストの任用を変えてしまいがちになります。  企業の長期的発展のためには、企業の実戦部隊の管理監督をする管理職の任期を明確にすることも重要な論点です。よく管理職のポストはいつ人を替えるべきかが議論されますが、マネジメントサイクルが、中期計画と、それに従属した単年度計画で構成されているのであれば、基本は3年間となるのが道理です。逆に管理職ポストの任用変更のタイミングとして、別の理由は大したものが見つからないはずです。  管理職は誰でもできるポストではなく、一度任用したら、複数年の戦略を立て実行させなければ、経営の構造とリンクしないのです。管理職に任期を設定するべきでしょう。任用の基準やローテーションの中での非常に重要な論点ではないでしょうか。

残業代不支給 | その他

残業代不支給

 かつて“ホワイトカラーエグゼンプション”という、ホワイトカラー業務従事者の時間管理を対象外にするという議論がありました。そして最近急速に残業代の支給に対する緩和の議論が行われようとしています。特に時間投下と成果の直接的な関係が証明できないホワイトカラー業務については、本来的に考え方を整理するべき時期に来ていると思います。企画や設計を行うようなホワイトカラー業務は、個人の生産性が大幅に異なります。同じ業務を行ったとしても、同一時間を投下した結果、極めて短時間に非常に高い成果を出す人もいますし、時間いっぱい使用して高い品質の成果を出す人もいるでしょう。品質が高くなく時間内に終了する人もいます。また品質以前の問題として時間内に終わらない人もいます。現在ではこれらの人に対して明らかに問題のある処遇管理をしています。時間内に高い成果を出す人には、残った時間で別な業務を与えられます。時間いっぱい使用した人には成果の高低はあれど短期的な処遇は同じです。時間内に終了しなかった人には超過した分の超過勤務手当が支給されます。さらには品質が高くない、時間内に終了しない社員には、上司の業務や時間管理に関する指導が行われたりしますので、このような目に見えない管理コストも発生します。確かに中長期的には高い成果を出す人は、速く昇格するなどの恩恵はあるでしょうが、短期的な処遇という観点では、時間内に終了しないほうが、処遇が高いことになります。  実際に何かの企画をする業務などは、業務時間外にさまざまな発想をすることが多いのかも知れません。有名な話ですが自動車が開発された時にはタイヤはただ円形の枠にゴムを巻きつけたものだったそうです。そのため振動が直接乗車する人に伝わり、乗り心地が悪かったそうです。この乗り心地の改善にさまざまな検討をしましたが、なかなか名案が浮かびません。そんなある日に考えながら公園を散歩していると、どこからかボールが飛んできて頭に当たりました。ゴムボールは中に空気が入っているので痛くありません。その時にタイヤに空気を入れて衝撃を和らげるというアイディアが生まれたという有名な話があります。要は何かの企画や設計などを真剣に考えれば考えるほど、日常の中でもそれを考えてしまうことのほうが普通で、就業時間の時だけ考えて、時間外は一切業務のことは考えない程度の思い入れでは、優れた企画や設計は出ないいのです。そもそもホワイトカラー業務は時間との相関関係など存在しないことを改めて認識しなければなりません。  このようなホワイトカラー業務に時間を主軸とした管理という歪んだ考え方をはめ込むこと自体にそもそも無理があるのでしょう。ホワイトカラーの残業代を不支給にするという考え方は、時間管理を行っている前提の話ですので全くの反対です。しかしホワイトカラーの時間管理を無くすという考え方は自然であり、わかりやすく公平であると思います。これは年収の高さなどは全く関係がありません。残業代を払うはらわないという議論ではなく、時間管理という考え方がなじむか否かという事が重要だということです。

上司のモチベーション | その他

上司のモチベーション

 とかく制約の多い職場環境になり、役員や管理職の方はさまざまな気遣いが必要になりました。時間管理の厳格化、パワハラやセクハラへの注意、多様な雇用形態への配慮、退職リスクの回避など、部下に対していろいろと気を使わなくてはなりません。ある意味では成熟した社会になったと言うことですが、逆に言えば個人の権利主張が強くなり、会社の方針の徹底や部下への指導がゆるくなってしまうのかもしれません。  上司の方針や指示を十分に理解して積極的に業務を推進する社員ばかりであればよいのですが、残念ながら社員一人一人個性や特徴があるので、上司の考えに賛同して、上司が求めている行動をとる人ばかりではありません。期待しても裏切られることも多くあるでしょう。このように期待する行動や成果が出ない社員に対しては、十分なコミュニケーションをとることは教科書的に重要ですが、平穏で対等なコミュニケーションをとり続けても、なかなか行動変容しない、成果が現れない社員に対しては、強い指導になっていきます。しかし指導の強弱の度合いは、部下のモチベーションを配慮しなければなりません。あまりにも強い指導をする事で、モチベーションが低下して離職してしまうリスクもあるからです。部下のモチベーションを過度に気にすると、上司のフラストレーションも上昇します。そもそも組織の目標を明示して、妥当な計画を提示し、日常の業務の指示を行う中で、ついてこれない、ついてくる意思が稀薄な社員に、ある意味迎合しなければならない状況とも言えます。  企業がより活性化しより成長していくためには、役員や管理職の能力が高いとともに、モチベーションが高くなければなリません。組織内では上司部下ともモチベーションが高いことが理想ですが、敢えて優先順位付ければ、上司のモチベーションのほうが重要ではないでしょうか。上司のモチベーションが低ければ、その組織は目的的でなくなり、パフォーマンスは向上しないでしょう。事業に対する高い意識があってこそ、活性化した組織になるのです。しかし現実には権利主張が強い、能力が足りない、モチベーションが高くない部下が存在します。その部下に対して多くの制約を感じながら指導しなければならないことが上司の組織運営のモチベーションを低下させていいます。 人事管理の議論の中でモチベーションに関する議論は非常に多く見られますが、部下のモチベーションよりも上司のモチベーションがあまり重要視されていないように感じます。流動化が進んだ現在においては、仕事への意欲や能力が足りない社員、しかもいつ辞めるかわからない社員に対し、上司のモチベーションを減殺してまで、雇用をする必要があるのかという議論までも耳にするようになりました。企業が営利団体である以上、方針や計画を徹底することが重要なマネジメントとなります。まさに企業の生命線です。世の中のあまい就業意識やローパフォーマー社員への過度な配慮で、役員や管理職の貴重な時間や能力を使うのは全くの無駄です。部下のモチベーションより上司のモチベーションが重要ではないでしょうか。

試合と練習 | その他

試合と練習

 スポーツなどの競技では、正式な試合に出て相手に勝つためには、相応の練習をするのがあたりまえです。試合に勝つためには相手よりもより多くの練習をより効果的な練習を行わなくてはなりません。練習ではミスや試行錯誤があってよいですが、試合では相手に勝つためにミスなく実力を十分に出し切らなければ勝利という成果が上がらないのです。  このスポーツにおける試合と練習の感覚とビジネスにおける感覚は極めて大きく異なります。ビジネスにおいては競合会社に勝ったり、業績が伸びることが勝利ということになりますが、この勝利に向けての実際の活動は、試合と練習が混在しているともいえます。OJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)は、実戦で鍛えるということですので、練習しながら試合するようなものでしょう。確かにスポーツの世界では試合などのように限られた特別な場面が設定されます。ビジネスにおいては長い勤務時間がすべて試合のようなものですので、試合に出て別な時間で十分な練習などはできません。スポーツでは膨大な練習時間に対して試合時間は非常に短いですが、ビジネスでは練習を十分に行うだけの時間的な余裕はなく、そのため実戦の中で練習もしなければならないのです。  新卒で入社した社員は十分な知識・スキルがありませんので、最低限の実戦活動ができるようなトレーニング必要です。多くの企業では最低限のトレーニングをして、すぐに実務に投入します。そして経験させながら成果を出しながら学ばなければならいのです。実戦投入後は毎年評価を受け、個別に指導され、またたまに行われる集合研修で最低限の知識・スキルを学びます。ビジネスマンとして成長するために、換言すれば試合に勝つためには、仕事をしながらいかに学ぶかということが重要なのです。  この最低限の教育で実戦に投入するという育成方法は、本当に効率的であるのかが疑問です。成長するかしないかは本人のスタンスや配属された部署によって大きく異なり、育成のスピードに大きなムラが発生します。確かに最低限の教育のあとは実戦で成長するということは、自己責任という意味では重要です。しかし組織として見たときに試合に勝てるビジネスマンを多く確実に育成しようとしたならば、この方法の効果が疑われます。十分な練習を積んだ者しか実戦に出さないほうが、組織のパフォーマンスを上げるという意味では効率的なのかもしれません。そのため管理職は自組織の成果を上げるのと同時に、練習の指導もしなくてはならないという重荷を負っているのです。働く側にも試合と練習が混在している中での甘えも発生します。OJTは知識・スキルが十分でない社員を実戦に投入するということになりますので、どこまでが試合でどこまでが練習化が分からないという感覚になります。練習中だからできなくて当たり前であるような感覚です。  OJTは大切だと思います。ベテランからの指導は短期間で人のパフォーマンスを上げることができる有効な手段だからです。しかしOJTに頼りすぎるもの大いに問題があります。もっといえば最近の企業はあまりにもOffJTを軽視しすぎていますし、自己学習、自己研鑽に対する意識付けも強烈さがありません。十分な練習を積んだ社員ばかりであれば、常に試合に勝てる組織になれるはずです。業務は試合であるとするならば、会社が十分な練習を提供するか自主トレを強力に推奨することが必要かもしれません。

無音を制する | その他

無音を制する

 アルゼンチンタンゴの全盛期の代表的な指揮者として有名なファン・ダリエンソは、“無音”の天才でした。ダリエンソの演奏は曲の途中で突然無音になります。あたかも次の音やメロディーを強調するかのように突然無音になるのです。この“無音”の効果が余すことなく発揮されている代表作は、“ラ・クンパルシータ“とう名曲です。曲名は知らなくとも、この曲を聞いたことがない人はいないくらいのタンゴの名曲です。この曲の中でも“無音”の効果は絶大なものがあります。音を強調するに大きな音を出すのではないという手法に改めて驚かされます。  会議やプレゼンテーションをする中で、強調して話したい、話さなくてはならない状況があります。このような場合には自然と声を大きく話すことになる傾向にあります。確かに心情的にも自然に声が大きくなってしますのは当然と言えば当然です。しかし強調したい部分をより効果的に伝えるには、“間”をとることも非常に効果的です。“間”を取るとは、「この場でお話ししたいことは、(ちょっとした間)○○ということです」のように、強調したい部分の前に“無音”の時間を作るということです。通常話をしているときは一定のスピードで話をしていますので、いわゆる緩急があまりありません。効果的な話をするにはこの緩急を意識するとよいということです。その究極が“間”であり、これは“無音”ともいうことができます。  プレゼンテーションにせよ会議にせよ、話すことで何かをより効果的に伝えるには、さまざまな準備や工夫が必要です。話すという行為は、話し言葉が順番に耳に入ってくるだけですので、そもそも全体の構造が分かりづらいのです。そのためプレゼンテーション資料などを用意して、図やグラフなどを使用しながら話すことは、この話すという行為を強力にサポートしてくれます。図やグラフや目次や話のポイントなどが目に入ることによって、話し言葉だけでは伝えきれない、伝えられないものが伝えられるからです。そういう意味では本質的に話だけで相手に何かを伝えることは、相当な制約があるということです。  しかし聞き手は、図やグラフやパワーポイントの資料を見に来ているのではなく、これらの補助物は使用しながらも、その人の“話”を聴きに来ています。したがって資料の説明を頭から読むようにやられると全く面白くありません。やはり“話”そのものの面白さと技術が根底にあり、資料などはそのサポートにすぎないのです。  うまく話す、面白く話すという手法やポイントはたくさんあると思いますが、多用して非常に効果的で使いやすいのは、この“無音”の技術です。話にメリハリが出て、また構造的にもわかりやすく、また誰でもが使える技術です。限られた時間で効果的に伝えなくてはならないプレゼンや会議などで、意識的に使用すると、その効果が実感できます。“無音を制する”人は話がうまい人であると評価されるのではないかと思います。

実力主義と雇用責任 | 雇用施策・その他

実力主義と雇用責任

 仕事柄多くの企業の人事制度を見ることができます。全体的な傾向としては社員の実力に応じた人事制度に変更する企業が多くなってきたと思います。今までのような年功序列的な人事制度から、優秀な人材はより早期に抜擢し、そうでない社員は今までよりも低い処遇にするということになります。このような実力主義的人事制度は、経営がおかれている環境変化に対応するために施策として、ごく自然な発想です。議論があるのはその実力主義的な度合いです。優秀であれば全く年齢関係なく昇格させるような完全な実力主義的企業は少なく、今までよりも多少昇格や給与の分散を大きくするという感覚の変更が多いように思います。それでも今迄に比較すると大きな変更であると社内的に感じるのではないでしょうか。今後のこの分散のありかたが実力主義的であるか否かという議論になると思われますが、この分散の激しさは企業の雇用責任に大きく影響を与えることを十分認識している企業ばかりではありません。  実力主義的にする、要は標準的なキャリアパターンよりも昇格や報酬の分散を大きくすることは、二つの重要な論点があります。一つは優秀な人材をより早期に要職につけることができる、また優秀な人材に対する報酬を傾斜的に多くすることができるため、企業の成長に寄与するとともに、優秀社員の社外流出を抑止することができるということです。これは企業にとっても優秀な社員にとても非常にメリットがあると言えるでしょう。もう一つの論点は、その逆で実力主義が進行するとともに、優秀でない社員の昇格や報酬が今までよりも下がるということです。この結果優秀でない社員のモチベーションは今までより低くなる傾向になります。ここで重要なのは企業は優秀でない社員の雇用を定年まで維持することが望ましいか否かということです。優秀でない社員は将来的に昇格や報酬が今までの期待以上にならないため、長期に渡り優秀でない状態が続くことになります。このような低モチベーションの社員の一団が発生することにより、企業全体のパフォーマンスが低下する可能性が大きいということです。単純にはこのような一団は定年まで雇用するのではなく、社外に転出したほうが企業としては望ましいのかもしれません。また社員も将来のキャリアや報酬を考えると他社で活躍するほうが職業人として、また報酬も含めて望ましいと考えるようになるでしょう。  実力主義人事制度にするに従い、この雇用責任という意味を明確にしなくてはなりません。将来に渡り高いパフォーマンスを期待できる人材は定年まで雇用し、逆に期待できない人材はできるだけ早期に他社に送り出すという考え方が今後の雇用責任ではないか問うことです。  驚くほどの実力主義的人事制度に改定する企業で、このような雇用責任の話をすると、半分以上の企業では、モチベーションが低くとも定年まで雇用するのが責任と考えます。パフォーマンスが将来に渡り期待できなくとも、企業としては退職を勧奨することを極端に嫌う企業が多くあります。社会的な意味での適正な再配置という観点でも、社員の将来のキャリア可能性という観点でも、無理なく積極的に社外に転出させるというスタンスのほうが、今後はよりひろく受け入れられていくことになると思います。“実力主義にすれど終身雇用”という考え方に固執する必要性はないということです。

背水の陣 | その他

背水の陣

 背水の陣とは昔の中国での漢と趙という国の戦争の話です。このとき漢は兵力が少なく圧倒的に不利な状況でした。漢の将軍韓信は圧倒的な兵力の趙軍に勝利するために、常識では考えられない戦術を用います。川を背にして布陣するという当時の兵法の常識では考えられない先方です。当時では“水を背にして陳すれば絶地となる”と言われていたからです。しかし韓信は少ない兵力が大軍を打ち破るためには、兵たちが通常の精神状態では無理だと考え、あえてタブーとされている背水の陣で臨みます。趙軍は敵の将軍は軍事の常識を知らないと嘲笑し、攻撃を開始します。しかし漢軍は後ろに川が流れている状況で一歩も引くことができません。生きて帰るには目の前の敵を倒さなくてはなりません。その必死さが趙の大軍を打ち破りました。背水の陣とは必死に努力することを表す熟語として今でも定着しています。  さて企業のビジネスの現場ではこのような“背水の陣”的な感覚がどこまであるでしょうか。当然命をかけた戦争とビジネスを直接比較するものではありませんが、現代の日本人の多くは商業の世界で生きており、これを生業としている以上どこまで必死かということも問われてしまします。ビジネスマンの多くは生活も決して貧しくなく豊かです。基本的に終身雇用ですので定年までの雇用は保障されています。また一つの会社で失敗しても他社に転職することができます。しかし個人レベルでは一生懸命働き高い成果を出しても十二分に報いてもらえる企業は多くありません。さらには所得が高くなると税金の負担も一層増し、成果の割に所得は増えないのです。  そういう観点では一つの会社や一つの仕事に必死になる要素は以前に比較してだいぶ少なくなってきたのではないかと思います。これは会社を経営するというレベルでも、一担当が業務を行うというレベルでも、その仕事を絶対に成功させるという気概を持ち続けることが、経済的に困難な環境になってきたのではないかと危惧します。また仕事に失敗しても、首になることもないですし、ましてや命を失うことなどありません。何に依拠して必死に仕事をするのでしょうか。  仕事で成功している人の多くは、このような経済的な動機や生命の危機回避的な動機ではなく、それこそ自己の存在証明としての動機のように思えます。仕事を通じて生命や経済的困窮などのリスクがほとんどない以上、なんらかの“価値観“が背水の陣的な必死さを生み出すのではないでしょうか。現在の日本企業における人事制度の議論においての成果主義などは、効果はあるが根本的に働き方を変貌させるだけの力はなく、だからこそ企業の理念や方針や職業人としてのプライドが重要性を増しているのです。そのため評価制度などでも、単に成果を数字で測るような仕組みは、重要な本質的議論を避けているようにも思えます。日本企業がグローバルに輝きを取り戻すためにも、背水の陣的な必死さがほしいものです。

タレントマネジメント? | その他

タレントマネジメント?

 最近流行りの言葉で“タレントマネジメント“という言葉があります、またその実行をサポートする”タレントマネジメントシステム“が注目を浴びています。人材の高度な活用を目的とした、人材の育成、配置、発掘などに力点を置いた人事管理手法であり、システムです。 人材活用というテーマはいままでさまざまな議論がされ、多くの企業で意欲的な取り組みがされてきています。今時点で“タレントマネジメント”の中身を聞いても、“いまさら”的なものが多く、至極当然のことを言っているように思います。確かに経営により直結した人材管理という意味で、ある程度体系化されている概念でありシステムです。しかし人事管理を通常議論する者にとっては、新規性が見当たりません。さらにこのような“手垢のついた“概念に対して、わざわざ“タレントマネジメント”と称することが大げさな感じすら受けます。改めて英語で呼ぶことにも逡巡します。  タレントマネジメントは何が新しいのでしょうか。まずこのマネジメントの基本的な考え方は、社員の活用、育成、定着に対するものであり、そのために評価やサーベイや職務履歴や自己申告などを活用するというものです。新規性があるとすると、この高度な人材管理を実際に行うことを強力にサポートする“タレントマネジメントシステム”でしょう。今までの人事システムが、人事の実務処理を効率的に行うことを目的にして利用されてきたものから、より高度な人材管理を行えるようにするという発想で構築されています。社員の発掘や活用や育成、定着などをよりスピーディーに適正に行うべく、そのマネジメントに必要な情報を体系化したものです。今までの人事システムが“人事業務システム”であったものから、経営者や事業管理者なども含めて人材のパフォーマンス向上を直接的に執行する経営幹部も含めて活用する“人材マネジメントシステム”ということになります。今までのシステムの発想や守備範囲という観点からは新たな領域、プロダクトということができます。  このようなシステムが一般的になること自体は、企業の人事管理レベルを押し上げる基盤が提供されるという観点では非常に好ましいことです。しかしプロダクトとしては、今までの人事システムが本来カバーしているべき機能であるはずです。ところが、今までの多くの人事システムがこの機能を十分に顧客にアピールできなかったこともあり、人材活用のための積極的なシステム機能が発達しなかったのです。そのため既存の人事システムとタレントマネジメントシステムは本来一つのシステムであるべきところが、別のプロダクトとして販売されていることが多いのです。人事システムとタレントマネジメントシステムは使用するデータも共通性が高く、別のシステムである必要はないので、人事システムの機能拡張モジュールか、そもそも人事システム内に取り込まれるべき機能です。  人事管理がより高度になるためには、経営に対して人事管理がより重要で有効な管理であることを証明しなくてはなりません。タレントマネジメントシステムが新たなプロダクトとして定着するには、経営における人事管理の有効性が真に認識されなければならないということです。そして“タレントマネジメントシステム”が定着した時には、“タレントマネジメントシステム”などの洒落た名前ではなく、単に“人事管理システム”と呼ばれているはずです。

直間比率を気にするな | その他

直間比率を気にするな

 よく経営者や管理部門責任者などから、”直間比率”について質問を受けます。直間比率とは、要は直接収益に貢献している人材とバックオフィスやサポート業務のように間接的に収益に貢献している人材の比率を言います。正確には人数比率で算出することもありますし、また直接部門と間接部門の人件費比率で算出することもあります。  この直間比率は正確な統計がありませんので、明確な議論はできないのですが、多くの経営者は他社との比較を非常に気にしています。おそらく間接比率が高いと思っているからでしょう。収益拡大を行うには、直接部門の人員を増やし間接部門の人員を削減することが、効率的であるという認識からです。まあ間接部門の人員や人件費が多いと思っているのです。  現在の高度に発達したビジネスモデル下では、直接部門と間接部門のような区分け自体に大きな意味がなくなってきています。例えば営業部門などは、営業人員数の増員が確かに重要ですが、人が営業するだけでなく、広告やネットでの営業、または提携などのコラボレーションによる営業なども重要な手段です。なんとなく営業マンは直接部門ですが、ネットの企画や運用をしている人材は直接とはストレートに言わないかもしれません。各社によりビジネスモデルも異なりますし、また直接、間接の定義自体も大きく異なります。  間接比率が高いことが、問題であるとストレートに導かれるものではなく、収益に貢献していない人材が多く存在しそうであることが問題です。そのために直間比率で判断するのは、あまり論理的ではないのです。  直間比率を気にする企業の多くは、高齢化で営業や生産の第一線で活躍が困難な社員を、間接業務に配置するなどのような、間接部門を活性化しない人材の配置場所に使っているようなケースが多く見られます。このような企業では間接部門の人材は、本当に間接業務の屋台骨を背負っている優秀な人材と、直接では使えない人材が入り交じっています。間接部門のコア社員、ハイパフォーマー社員にとっては非常に迷惑な話でもあります。  不健康な人ほど他人を気にするように、不健康と分かっているのですが、その不健康さを証明する手段が十分でないために、理論的な検証ができない”直間比率”の他社比較に頼ろうとするのです。実際には他社比較よりも自社の直間比率の推移のほうが分かりやすいでしょう。さらに直接と間接の境界線がわかりづらくなってきているため、各部門や機能の人員数比率や人件費比率を管理した方が現実的です。過去の自社の比率を管理していないで、突然定義が曖昧な他社との比較を用いてもほとんど有意な情報は得られません。  多くの企業の場合、問題は直接、間接の比率ではないのです。別なところに問題があります。直間比率を気にする必要は全くないということです。

抑止力としてのパワハラ | その他

抑止力としてのパワハラ

 パワハラとは、”同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為”ですが、正直どこまでがパワハラでなくどこからがパワハラかよくわかりません。企業を経営してよりよい会社にし、より社会貢献し、社員により処遇をよくしていこうとすると、いろいろなこだわりが出てきますので、どうも納得できないことがあるとかなりストレートな物言いになることがあります。このストレート度合いがパワハラか否かというかということなのでしょうが、正直はっきりとした線引きはできません。  経営の方針や行動規範などに抵触する発言や行動に対しては、当初はやんわりとストレートに話をするのですが、それでも改善しないのであれば次第に強くなります。挙げ句の果てには机を叩いて怒ることもあるでしょう。しかし頭の片隅ではこれはパワハラであろうかと常に自問する自分もいます。企業を経営するまたは部門の管理をする人たちにとって、方針の明示とその徹底は生命線ですので、これに反することがあるのは、経営者管理者としては看過できないはずです。そのため勢い激しい言動になってしまうのでしょう。  このパワハラの議論はいろいろな文献を見るとどうも働く側にある意味過保護だと思うところが多すぎます。こんなに気を遣って管理監督しなくてはならないのかとも思うような事例も目にします。しかし現在の社会の常識上仕方ないのかもしれません。 あるクライアントの取締役がこんな話をしていました。この取締役は以前社員に対して罵声を浴びせパワハラであると社内で問題になったことがあります。当の取締役は昔の厳しい社風で育った人物で、強い指導=パワハラと言われてしまうようなことが感覚的に理解できないといっていました。その後この取締役は言葉使いには非常に気を遣っていると言っていましたが、鋭い目つきとなんとなく醸し出す苛立ちなどから、”存在がパワハラ”と言われているそうです。  さてこの取締役の凄いところは、自分の方針や計画については妥協しないで実行することに強い意志を持っているところです。部下が明らかに準備を怠ったり、やる気がない場合には、最後はパワハラ覚悟で徹底させようと思っていると言っていました。”抑止力としてのパワハラ”と名付けましたが、会社として組織として守るべき一線を守るためには、最後はパワハラも辞さずというスタンスです。こんなことしたらまずいことになる、という価値観を、過去に実際に見せたパワハラの姿で抑止するという新たな武器のようなものです。  パワハラを肯定しているのではありません。しかし譲れない一線もあることがビジネスマンとしての価値なのではないかと思うということです。