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吉岡 宏敏

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昇格審査では遅すぎる | スマートアセスメント®

昇格審査では遅すぎる

 管理職への登用を決める際には「昇格アセスメント」を行うことが多い。人事評価や部門長推薦によって選定された昇格候補者に対して、テストや論文、役員面接などといった社内での審査に加えて、外部アセッサーによる審査=アセスメントを行う。たいていは「アセスメントセンター方式」と呼ばれる手法が使われ、1~3日の研修形式で管理職能力の発揮可能性が測られる。  この手法は、まだ非管理職である対象者全員が同一のシミュレーション環境(=管理職の業務環境)のなかに置かれ、そこでの行動を観察することで、保有能力(=潜在的管理職能力)を測定するもの。約50年前から欧米企業で使われ、日本でも約40年の歴史があり、その評定の信頼性はすでに確立されている。管理職への入学審査として総合的な管理職能力レベルがわかること以上に、個別の強み弱みが能力項目の言葉で明らかになる効用がきわめて大きい。  つまり、一人一人の管理職たりうるための能力課題が、非管理職の段階で明確になる。しかし、昇格審査では、序列化された総合点結果が選抜だけに使われ、個別育成に資する結果は個人の自己啓発の参考としてフィードバックされるだけである。残念ながら、審査の合否段階で、自身の能力課題がわかっても、もはや遅い。宝の持ち腐れだ。  個々人の強み弱みという貴重な情報がもっと早く、例えば、管理職手前の等級にあがった時点で得られれば、3年なり5年なりの期間、本人も上司も業務遂行のなかで管理職へ向けての自己研鑽や成長のための指導を効果的にはかれるに違いない。このことは、管理職スキル先行教育にほかならず管理職候補者群の能力底上げとなり、量的にも質的にも管理職能力の向上につながる。  実際、管理職手前の等級のエントリー時点で全員にセンター方式アセスメントをきっちりと行い、管理職昇格審査をむしろ簡素にする運用を仕組化している企業もあるが、まだまだ少数派だ。  どう考えても有効なこの手の施策が広がらないのは、センター方式アセスメントの手間と費用の負担レベルが多人数実施に向かないからである。しかし、センター方式アセスメントは、必ずしもコストのかかる1日や2日の集合研修形式(5人程度の専門アセッサーが稼働)を必須とするわけではない。大事なことは、「何を診るか」に応じて、適切なシミュレーション環境(=「刺激」)が設計され、評定構造(=「認知」「判断」「行動」)が理論的専門的に正しく組まれること。  たとえば、インバスケット演習だけをテストとして設計したり、用途ごとに作成したケースを使った方針策定演習だけを実施することだけでもディメンション(=評価項目)は限定されるが、十分な能力課題把握ができる(ちなみに当社の『スマートアセスメント』はWeb診断で簡易に多面的な診断ができる)。昇格審査だけではなくむしろ人材育成にこそ、アセスメントセンター方式は、自由な発想で多様に活用すべき手法なのである。  管理職先行教育はもちろん、若手対象の選抜型経営人材育成も、個々人の(経営人材としての)能力課題の測定があって初めて、効果的個別的な育成が可能になる。あるいは、中途採用対象者が自社で能力発揮できるか、なにが課題になりそうか。新卒採用対象者のなかで自社の事業開発業務に適する人材がいるか、どのような能力特徴か。  そうした将来可能性と個別特性が、シミュレーション環境で測定する手法ゆえに掴めるから、全社で鍵となる人材の活用・育成を個別効果的に実践するには必須のツールなのである。

必須のリーダー要件 | スマートアセスメント®

必須のリーダー要件

 管理職の昇格アセスメントでは、複数のディメンション(=評価項目)で評点をつけ、総合点の降順で候補者を序列化するのが常である。それを見ながら「合否」を判断していくのだが、ある合格点ラインで単純に合否を分けるのは得策ではない。総合点がはっきり高い、あるいは低い人たちについては、能力適性判定の限りではその高低に従ってよい。あとは、社内評価や個別の期待事情を含めて総合的に判断していくことになる。問題は、ボーダーラインの前後あたりに並ぶ人々をどう評価するか、である。  アセスメントとは入学評価である。まだ経験していない管理職業務における能力発揮可能性をみる。将来管理職としてちゃんとやっていけるかどうかを、複数のディメンションで評定する手法だが、個々のディメンションには「濃淡」がある。誰しも、ディメンションごとの評点に高低のメリハリがあるものだが、これだけは低い評点であってはマズいというディメンションがあるのだ。  ディメンションは通常、①思考面、②対人面、③資質面の3カテゴリーで構成されるが、この資質面カテゴリーの項目群のなかにそうしたクリティカルなものがある。例えば、「達成指向」、「自律一貫性」」といった項目が低い評点であるなら、まず候補からはずしたほうがよい。ひらたくいえば、達成に向けてブレずにやりぬく――こうした資質は、人を率いて組織成果を出すうえでの前提要件だからである。他に際立って高い評点の項目がない、つまり総合点でギリギリのポジションにいて、これら姿勢を持たないなら、そもそも管理職に向いていないといってよい。  思考面や対人面の能力には、経験や教育によって高めていけるものがある。なかには変えることが難しい能力もあるが、その弱みは、管理職になってからの限定的アサインやサポートする上司やナンバー2の配置によって補完することもできる。つまりは、能力課題はあるけれどもそれをわかったうえで、管理職登用後の成長期待や組織的配慮を併せ合格判断をすることもできる。その場合あくまでも、資質面がOKであれば、ということである。資質というくらいで、この手の姿勢はなかなか変え難いからだ。  では、思考能力や対人能力において、マストとなる必須能力はあるか。ディメンションにはなかなか分解できないが、管理職としての優劣を分けるベース能力としては、「概念化力」と「自己認識力」のふたつに特定できるだろう。概念化つまり本質を掴み表現できれば、課題解決や方針策定から日常の業務遂行まで的確に行えるし、自己認識つまり自身の内面も外面(=行動)も客観視できれば、自分をコントロールし、周りの人々を的確に動かすことができる。  というようなことはしかし、我々がいろいろな場面で見てきた優れた経営者、管理職者、ハイパフォーマの方々を思い浮かべれば、あまりにも当たり前のことなのである。

人事評価の限界 | スマートアセスメント®

人事評価の限界

 客観的な能力評定の手法として使われるヒューマンアセスメントは、正確には「アセスメントセンター方式」と呼称される。この手法は第二次大戦中、将校(一説には諜報員)の選抜手法として生まれ、各地にアセスメントセンターが設置されたことが呼称の由来と言われる。アセスメントセンター方式を特徴づけるのは、シミュレーションによる能力測定ということであり、その有効性は、社会心理学者クルツ・レビンが以下の方程式で示した原理を前提としている。  レビンいわく、個人がとる行動は、個人特性と環境との関数である。ゆえに、環境を職務シミュレーションとして固定することで、その環境下の行動発揮を観察・分析すれば個人特性を評定できる。対象者が経験や職場の異なる人々であっても共通環境で評定できるし、シミュレーションだから経験したことのない職務環境での行動発揮も診れる。例えばまだ経験したことのない管理職環境をシミュレーション演習とした評定は、管理職の昇格審査にきわめて多く使われているから、アセスメント=管理職昇格審査という理解が一般的になっている。  この方程式からは、通常企業内で行われる人事評価の限界もまた、見えてくる。業績評価は結果や目標達成なので明快だが、能力評価や行動評価では、個人能力の正確な把握は原理的に難しい。レビンの式でいえば、職場での能力発揮行動は、職務の慣れ具合や長くともに働いてきた良好な人間関係、上司との相性などなどといった「環境」と個人が有する「能力・資質」の両方が相まっての結果として発揮度合が決まるからだ。  そうであっても、貢献度合いを評価するという意味では何ら問題はない。能力評価とは保有能力ではなく発揮能力、発揮行動を問うのだという評価原則はつまり、貢献に結果しているかどうかを評価することに他ならないからだ。「環境も含めた能力」の発揮を評価するのが、企業内で行われる能力評価、行動評価ということである。 問題になるのは、個別育成や組織的活用の基盤となる個人能力・資質を、人事評価では正確には把握できないことだ。もちろん、環境変数に惑わされず、個人特性を見極め得る慧眼のマネジャーはいるかもしれないが、その彼彼女とて、部下の未経験職における能力発揮可能性を見極めるには、特殊なトレーニング(アセッサー養成訓練のような)抜きには難しいだろう。社内の適材を探し出して配置する、あるいは能力開発を個別的に効果的に行う――そうしたタレントマネジメントの起点情報としての個人特性把握には、人事評価情報は使えない。 かくして、管理職よりも下の階層に対して網羅的経年的にアセスメントセンター方式による測定を行う取り組みやリスキリング施策へのアセスメント組み込みのニーズが増えてきた。あるいは、イノベーションをにらんで事業開発型人材の発掘のためのアセスメント仕様設計などの要請もある。その採用局面への展開の事例もある。タレントマネジメントとは現有人材の保有能力の最大活用を目指すものだとすれば、必然的に、こうした正確な能力測定機会をさまざまに設けざるを得ないということである。

「人が集まる企業」のKPI | 調査・診断

「人が集まる企業」のKPI

 人的資本経営とは、人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方、とされる。  人的資本経営の情報開示が求められるのは、投資家がそうした非財務的情報も考慮して投資判断をするためであり、それが株価に影響するため各社本腰をいれて情報開示の巧拙を競わなければならなくなった。しかし、人事施策と株価変動の関係については、せいぜい人員削減施策の影響がプラスに出たりマイナスに出たりといった事例があるくらいで、調査も分析もされていない。よって「金融商品としての自社」に最適な開示情報の選定ははなはだ難しい。  ゆえにそこはいったんおいて、では、そもそもわが社の企業価値向上につながる人的資本経営とはなにか、と考えたのが、情報開示に臨んだ各社に共通するスタンスだったろう。しかし、何が企業価値を高めるかについても普遍的な答えはない。例えば、エンゲージメントレベルをあげることが生産性向上につながる、ダイバーシティ&インクルージョンがイノベーションの苗床になる、従業員が幸福であれば(Well-being)結果的に企業は成長する・・・、といったよく言われるコトワリを自社にあてはめても、そうした人事施策が自社の企業価値向上につながる保証はない。    で結局のところ、多くの企業は国から例示された定型一般的な指標情報の開示に留まるといった横並び姿勢を見せたのが、情報開示初年度の状況だった。女性管理職比率〇〇%、目標○○%といった当たり障りのない指標開示には、独自の指標はほとんど見当たらないし、その会社ならではの人的資本経営の思想は伝わってこない。  企業価値向上うんぬん以前に、なにより「優秀な人材の確保」がなければ始まらないのだから、開示すべき情報は、求める人材像が明快で、働く場として魅力的かどうか、つまりその情報を見た人が働きたいと思うかどうかの観点でまず検討すべきではなかったか。開示情報=新卒採用広報の際に提示する情報だと考えれば、人材獲得競争のなかで差別性の高いメッセージたりえているかが問われるから、横並びなどもってのほかで、独自性の高い情報開示に腐心しなければならなかったはずである。  新卒採用広報における企業PRとは、製品やサービスのPRのように「企業の現状」を魅力的な効用として見せることではない。入社した自身の将来の姿がイメージできるような「企業の未来」を確かなものとして提示することである。確かさを保証するものは、組織と人材に関する明確な経営意思(=方針)と実現のリアリティ。人的資本経営としてその会社は何を目指すか、つまり入社する自分たちがどのような人材を目指しどのような場に身を置くか、そのリアリティを裏付ける重要なファクターこそが、開示情報に示される固有の指標、その現状の達成度合いと目標に向けたマイルストーンである。  とすれば、人的資本経営とはまず、「人が集まる企業」としての自社のアイデンティティを問い直し、追究し、形づけることから始まるのではないか。人的「資源」を「資本」と言い換えても、企業都合で人々の能力を高め、十全に使用/活用し、企業価値(¬つまり経済価値)を向上させるという構図に変わりはない。それだけではない、人々が交通し、成長し、機会開発する「場」としての企業の価値向上に目を向けることからも、各社各様の人的資本経営の指標はさまざまにありうるはずである。

あなたの会社にCLOはいるか | 人材開発

あなたの会社にCLOはいるか

 ここでいうCLOとは、Chief Legal Officer(最高法務責任者)でもなければ、Chief Learning Officer (最高人材育成責任者)でもなく、Chief Logistics Officer(最高ロジスティクス責任者)である。と説明せざるを得ないほど、CLOは言葉として知られていないし、その役職のある日本企業はほとんどない。  ロジスティクス(兵站)は、もともと軍事用語。戦争の趨勢は兵站術に左右されることは常識であり、「戦争のプロはロジスティクスを語り、戦争の素人は戦略を語る」とさえ言われる。モノを扱うビジネスにとっても同じ事情(戦争のプロ≒経営のプロ)のはずだが、多くの企業にとってロジスティクス責任者は物流サービスの発注担当者にとどまる。そうした経営意識ゆえCLOの不在が当たり前ではあったが、ここにきて急にCLO設置の「外圧」が高まってきた。  ロジスティクス環境の危機的状況が加速しているからである。来年2024年には、時間外労働時間の上限規制が、ドライバー職にも適応される。もともとロジスティクス業界は、昨今の宅配ニーズの高まりもあって物流量は増大、低賃金長時間労働が常態化し、恒常的な人手不足による将来の物流能力不足が危惧される構造だった。  そこに、時間規制により業務量が減り売上がさがる。人材確保のためには時間外勤務報酬を前提しない賃金レベルアップは必定であり、利益は減少、さらなる物流コスト増や徹底せざるを得ない効率化の取り組みは、ロジスティクス業界のみならず産業界全体のサプライチェーンを揺るがす事態となることはあきらかだ。  かくて、昨年9月より国が主導する「持続可能な物流の実現のための検討会」では、荷主企業に役員クラスの物流管理統括者(≒CLO)の選任を義務づける措置案があがっている。この検討会は、物流業者、発荷主企業、着荷主企業の三者それぞれの物流効率化へ向けての取り組み促進を目指し、その一環としてのCLOの設置は、荷主企業経営者に対する物流生産性向上の意識醸成が狙いとされる。  しかし、単に物流生産性向上のためのCLOでは、「経営のプロはロジスティクスを語る」には物足りない。そもそも、三者関係においては、一方の効率化が他方のコスト増をもたらしかねない。物流というサービスの売買である限りは、「三方よし」の追求は難しい。持続可能な物流のためには、従来の、安くて融通のきく物流サービスを使うという発注姿勢からの転換が必要なのではないか。  たとえば荷主企業は当たり前のように、出荷タイミングにあわせ待機させ、指定の時間に届けることを最優先に要求する。たとえば私たちは気軽にアマゾンで、近所のコンビニ行けば買えるような日用品をひとつ、時間指定の宅配で購入したりする。物が運ばれる/物が届けられることは、産業と生活にとって不可欠な機能であり、物流は経済社会の血脈ともいえる。だとすれば、そうした顧客の身勝手な個別ニーズ以前に、その仕組み維持と効率的使用のための社会共通の使用規則と標準手順があってもいい。  経産省と国交省が旗を振る「フィジカルインターネット」構想は、そのような社会インフラとしてのロジスティクスネットワーク、いわば公共財としてのロジスティクスへの構造転換を予感させる。インターネットとは、①情報を「パケット」に分割しそれが ②都度、さまざまな通信経路を自在に経て届き ③共通プロトコルによって各局面が制御されるしくみ。それにならって、①「コンテナ」や「パレット」といた標準化された荷単位を使い、②最適なルート(空き容量があり時間の合う輸送手段)を経て配送され、③集荷・配達・情報管理の汎用ルールによって荷主とのインターフェイスが制御されるしくみとし、ロジスティクスを社会的装置として組み立てるということだ。  となれば、荷主企業には、インターネットのようにユニバーサルなロジスティクス機能を自在に使えるリテラシーと、それを使いサプライチェーンマネジメントをどう最適化するかという戦略的意思決定が、日々問われるだろう。安く自社の都合に合わせてくれる物流業者をどう調達するかが勝負で、あとは業者任せ、ではなくて、自社のサプライチェーン戦略にあわせて、みずから柔軟に物量機能自体をどう設計し制御するかが問われてくる。さらには、個別業者のキャパシティの制約から解放されて、サプライチェーン戦略自体の自在な策定も可能になるからだ。  兵站術では、戦闘の作戦が「兵站支援限界」によって規制される方策と、戦闘に必要な兵站をなんとか用意する「作戦追随型」の方策があるとされる。国と国の戦争ではもっぱら前者が歴史的に選択されてきたが、近年のテロとの戦闘においては後者にならざるをえないらしい。ビジネスにアナロジーすれば、それはVUCA時代のロジスティクスであり、フィジカルインターネットはそれを可能にする。と考えれば、これは先行き不透明ななかでの柔軟自在なロジスティクス=攻撃的なサプライチェーンマネジメントへの機会かもしれない。  その担い手としてのCLOであれば、魅力的でチャレンジングだ。単なる物流合理化ではない、ロジスティクスの構造転換に今から主体的に与し先行してリテラシーを磨くという意味で、CLOの設置の好機なのである。

初めての、部下評価 | 人事制度運用支援

初めての、部下評価

■先輩、ちょっと相談していいですか。管理職になって初めての人事評価つけるのですが、まだまだ未熟な自分が人を正しく評価できるかすごく不安なのです。私のつけた評点で処遇が決まるのも重圧だし、年上の部下もいてちゃんと本人に納得させられるのか自信がなくて。 □未熟、つまり経験とか人間力が足りないから不安と言っているなら、君は評価の原理がわかっていない。自分の経験や価値観をもって評価する=つまり、自分の「中」の基準で人を評価するなら、そうかもしれないが、君がやるべき評価はそうではない。君の「外」にある基準に照らして、部下の行動や能力発揮度合を見る、ということなのだぜ。 ■「外」にある基準? □公開されている会社としての基準(こんな行動をとってほしい、こんな能力を発揮してほしい)に照らして各部下の行動を見ればいいのだから、君の人としての成熟度とは関係ない。「基準に即しての評価=つまり、絶対評価をせよ」と評価者研修で習ったでしょ? ■だとしても、評価項目は抽象的だし、基準もあいまい。個々人をその基準に照らして1~5点なんて、正しくつけられるとは思えないのだけど。 □ここは確かに、最初は難しいかもね。場数を踏んで磨かれていくという面はある。でもすぐできるコツがあるのだけど、知りたい? ■ぜひ。 □たとえば、部下が5人いたとしたら、評価項目ごとに、できている順に並べてみる。 ■それは相対評価では? それはしないと習ったけど。 □まぁ聞いて。ちゃんと絶対評価になるから。で、Aさんが一番できているとするなら、なぜ、君がそう判断したかの根拠をならべてみる。同様に、BさんやCさんについても、Aさんとの違い、それぞれの違いがどこにあるかを考えてみる。 ■根拠、つまり行動事実の違い? □そう。そこで、あらためてそれを評価基準に照らして、レベル分け=評点化してみればいい。 ■なるほど。できている、できていない、と私が感じる「事実の違い」を材料に絶対評価をするわけですね。うん、それならできそうだ。でも、、、そもそもの、この行動事実ならOKとみた私の判断自体が会社として正しいのかどうかが私には自信がないけれども。 □はい、そのとおり、そこが大事なところ。それは君一人では確認できないし、二次評価者の上司の眼も現場を見てないから怪しい。方法は、たったひとつ。ほかの評価者との間でつけた部下の評価表を開示して、相互検証をするのです。 ■え、そんなことしてもよいの? □大丈夫、君はまだ経験していないけど、「評価会議」というイベントがこの会社では用意されているから。一次評価者同士で評価結果の妥当性を相互に検証する会議。他の評価者が、どのような行動事実をもとに、どう評点をつけたかを知り、またその妥当性を検証しあうことで、評点レベル、つまり評価者の目線があう。 ■なるほど、人のふり見てわがふり直せ。 □いやいや、意味ちがうけど。。。正確にいえば、個々の判断が妥当かどうかを検証していくというよりも、会社ごとの「見えない基準」を明示化し共有していく場という方が正しいかな。評価基準は抽象度が高くどの会社でも似たようなものだけど、具体的実態的な基準は、会社ごとに違ってしかるべきだから。 ■個別具体的な評価基準とは、会社の「暗黙知としての価値基準」の明示化である。 □いきなり難しいこと言うなぁ。。。平たく言えば、「勤務態度」みたいな項目で、一回でも遅刻したらダメな会社もあれば、二回まではOKという会社もある。そういう暗黙の基準が評価会議で確認・共有され、皆が同じように評価できるようになるわけね。 ■評価って、どこか内密にっていうか、上司部下の間だけ、せいぜい二次評価者までの間での秘匿性高い印象あったけど、もっとオープンに論じるべきものなのですね。少し気が楽になりました。 □評価時期の評点のつけ方よりも大事なのは、その材料となる日常の観察と指導。日々君が部下をよく見ていて、都度、指導をしていて、個々人の成果達成にむけて気配りを怠らないこと。まぁそこは大丈夫でしょう、初評価の責任を痛感し不安を覚えていること自体が、君が誠実な管理職者であるということだから。

エフェクチュエーション―創造的ご都合主義のすすめ | 人事制度

エフェクチュエーション―創造的ご都合主義のすすめ

 経営にしろ、ビジネスを行うにしろ、日常の業務遂行にしろ、まず目標/ゴールを定めることが鉄則である。経営とはそもそも構想主導の取り組みであり、ゆえに経営リテラシーの筆頭はビジョンニング力とされる。ビジネスへの着手は、つねにゴールセッティングに始まる。定めた目標をゴールとし、そこへ至るプロセスを考えるのが合理的な方策であることには、疑いの余地はない。  しかしそれは、過去の常識かもしれない。VUCAの状況下では、目標設定自体が難しいし、設定した目標の正しさもあやういからだ。かくして近年は、「コーゼーションからエフェクチュエーションへ」といった言葉が目に付くようになってきた。コーゼーション(Causation=原因/因果関係)とは、環境を予測し目標(結果)を定め逆算的にプロセス(原因)を描くこと。エフェクチュエーション(Effectuation=実用/効力発生)とは、目標を定めず現実的に採れるプロセス(実用)を進めていくなかで決定要因(効力)を見出し結果を創り出していくこと。要は、因果論ではなくて、実効論である。  平たく言えば、「目標から考える」のではなく、「走りながら考える」。と聞けば、先の見えない新規事業開発などは、まさに走りながら、試行錯誤しながら、形にしていくという実態にならざるを得ないこともよくあるから、耳慣れない「エフェクチュエーション」も、とりわけ目新しい概念というわけでもない。ただ注目したいのは、これが起業家に特徴的な意思決定行動だということだ。  この言葉が日本に登場したのは、『エフェクチュエーション』(サラス・サラスバシー著)が翻訳出版された2015年。学際型の経営学者として定評ある加護野忠男さんの監訳だったから買ってはみたもののその分厚さもあって積ん読状態だったが、どこかで見た言葉だなと書架の本に気づいてひも解いてみた。実証的起業家研究の書で、起業家たちを特徴づける能力を調べてみると、それがエフェクチュエーションだったということである。  「走りながら考える」とは、目的からではなく手段から考えるということである。つまり、手持ちのリソース、能力、人脈で何ができるか考え、できることから始める。これが、①掌中の鳥の原則、と命名され熟達した起業家行動の第一の特徴とされる。以下、②許容可能な損失の原則、③クレージーキルトの原則、④レモネードの原則、⑤飛行中のパイロットの原則の5原則が提示される。ちなみに、レモネードの原則とは、「酸っぱいレモンをつかまされたら、レモネードをつくれ」との格言の意で、偶発性の活用という行動原理だ。良いことも悪いことも、途中で起こったサプライズは、価値創造の源泉と考える。  5原則の概要はググれば出てくるので確認いただきたいが、それぞれに示唆的ではあるが刮目するほどのものではない。しかし、こうした原則に通底する起業家行動、その原理にはなるほどとうならされる。彼らは、未来を予測しようとするのではなく、未来をコントロールしようとするのだ。ゆえに、今あるリソースから確実にできることをはじめ、実際にコミットした関与者をリソースとし、サプライズもまたリソースとしてインプットするのである。つまり、不確実な未来だからこそ、すべてを自分に都合よくデザイン(=創出)しようとする。  サラス・サラスバシーは、エフェクチュエーションを支える論理をプラグマティズムだと説明し、こんな逸話を書いている。  ある日、学生たちに、私が背の低さゆえにバスケットボール選手になれなかったことを語った時、クラスのなかのプラグマティストは、「背が低い人のバスケットボールリーグを作ればよいじゃないですか」と言い返したのだ!

社長の仕事 | 人材開発

社長の仕事

 「社長業というのは、つまるところ金勘定ですから」と自嘲気味に語ったのは、重厚長大企業グループの基幹企業を率いた元社長だった。企業人のキャリア開発のあれこれを話題にしていて、キャリアゴールとしての社長に話が及んだときに、彼が最初に口にした言葉である。だから社長業なんてつまらない、と言えるのはそれをこなしてきた自負の裏返しで、戦略も戦術もその成否が金勘定の巧拙に左右されるのは経営の常識だろう。  別の会社の現役社長は、競争に勝つ策を出し続けることが社長の仕事だと言った。IT業界で独立系企業として成長続け確固たるポジショニングを得た経営者ならでは言葉で、その言葉の裏側には、勝つための力を磨く不断の自己研鑽を日々自身に課しているという自負がある。彼は、先見力、分析力、構想力を鍛える独自の「脳のトレーニング」を毎日行っているのだった。  経営とは、端的に言えば「競争と金」である。そのバランスは、規模や歴史や市場ポジショニングによって異なるだろうが、「競争と金」を両にらみしてひとり最終判断をするのが社長の日常業務である。金勘定には、投資判断や資金調達から日日の経費状況検証まで、「木を見て、森を見て」、「過去を解釈し、未来を展望する」全方位的な計数センスが必要である。競争には、市場内での競争のみならず「ファイブフォース」との闘いや社会に対する提供価値の差別化という意味で、やはり全方位的な競争を勝ちぬく胆力(=意思と信念と知力)がなければならない。  そのように戦略の策定と推進をリードする際に、もうひとつ、社長にしかできない仕事がある。それは、ダイレクトなメッセージよる人々の触発や行動喚起だ。経営目標に向けた従業員のパフォーマンスマネジメントとは、ビジョンや方針を提示し、モチベーションを高め、方針に沿ったあるべき行動発揮を促し、成果を出させることである。グローバル標準の人的資本管理の言い方でいえば、「Engage & Align」。これは、ヒエラルキー組織のなかでマネジャーが担うべき役割だが、ときにそれだけでは充分ではない。社長が、人々への行動要請の意味と意義と覚悟を、自分の言葉で人々に直に語りかけることがあってはじめて、人々は強くエンゲージされアラインされるのだ。  そのことを自覚していない社長は、意外に多い。確かに、たくさんの人を動かす仕組みが組成され、マネジャーたちがタスクと人をマネジメントし、階層化・分業化された統制がされるのが組織である以上、現場のパフォーマンスマネジメントは現場に任せるしかないし、任せるべきである、ということは正しい。しかし、顔の見えない、雲の上の人が率いるのであっては、戦略遂行に画竜点睛を欠く。社長の顔、つまり、経営者としての意思と覚悟が全社員に見えることが、エンゲージメントの前提になるのだ。  社長が社員たちに直接語りかける場をどれだけ持つか。さまざまな階層別の会合への参加はもちろん、若手研修の冒頭メッセージ、車座セッションの全国行脚といったイベントを「コミュニケ―ション戦略として」、かつ「社長自身の意思をもって」、組み上げ、その実行に大量時間投下することもまた、きわめて重要な社長の仕事なのである。

褒めれば伸びるか | 人材開発

褒めれば伸びるか

 成功体験が人を成長させる、ということは、ほとんどすべての人が知っている原理である。だから、幼児に対して、「あーひとりで靴下はけたねー、○○ちゃんえらいねー」と誰しも申し合わせたかのように、こぞって声をかけるのだ。原理だから大人でも通用するはずと、部下にむかって、「○○さん、よくやった。さすがたいしたものだ」と褒めれば伸びるか、というとコトはそう単純ではない。無理して褒めたばかりに勘違いした部下を生み出してしまうかもしれない。部下を成長させるには、褒めたあとのもう一押しがいる。  幼児の場合、褒められることにより、自分で「できた」という事態を強く認識し、その繰り返しが自己効力感の醸成につながるのだが、大人はそれだけでは充分ではない。自他の違いがやっと分かってきたくらいの幼児とちがって、大人はすでに社会的存在(=関係の中で生きる存在)だからである。ゆえに、一個人としての学習の原動力である自己効力感よりも、関係の中で自分が何をなしえたかの発見こそが成長のエンジンとなる。成果の意味のフィードバック、つまり、なしえたことの価値をわからせるという後押しが必要になる。  会社の一員たる大人の成長にとって、もっとも大事なことは、自分の成し遂げた成果の「意味」を知ることだ。自分の業務遂行上の意味はもちろんだが、職場や同僚にとっての意味、会社にとっての意味、ひいては社会全体にとってどういう意味を持つか、それを知ることで、自身の価値を発見する。同時に、それを成しえた能力を自覚できるから、さらなる成長に向け新たなチャレンジにも臨める。で、次の目標を定め、成果を出し、その意味を知りさらなる価値を発見するというサイクルこそが、シンプルにして唯一の人間成長の原理なのである。  このサイクル、経営心理学で「心理的成功体験連鎖」と呼ぶモデルとかつて教えられた。図式的に言えば、①能力の確認→②目標の設定→③目標の達成→④価値の発見→①能力の確認→……という4フェイズの循環サイクル。すぐにわかるように、これは本来のMBOに他ならない。MBOの本義は、組織目標の達成というゴールよりも、自律的な業務遂行と業務を通じての人間成長というプロセスこそを狙いとした方法論であり、だからこそ、ストレッチした目標設定や本人の主体的意思やフィードバックの重要性が強調されるのだ。  自分の価値の発見とは、ことばを換えていえば、成長実感ということである。よくエンゲージメントサーベイでは、「仕事を通じての成長実感」の項目がカギとなることが指摘されるが、その向上策は、個々人の感じ方やレベル観がちがうから打ち手が定まらないことも多い。  成長実感を高めることでエンゲージメントレベルをあげたいのであれば、まずやるべきは、自社の人材育成施策全般を「心理的成功体験連鎖」の観点で検証することだ。業務アサインと育成のしくみとして、加えてマネジャーの部下育成スキルとして、このサイクルが埋め込まれているかどうかをチェックすることである。しくみという意味では、さきにあげたMBOもそうだし、たとえばトレンドワードであるタレントマネジメントを、個々のタレントの確実な成長システムとして具現化できているかという話であり、マネジャースキルという意味では、この成長メカニズムを踏まえた部下コミュニケーションが浸透できているかという話である。  さて、部下の成果の意味をわからせよ、と冒頭書いたが、上司が唐突に、一方的にそんな話を部下にしてもダメなのだ。大事なことは、たとえば入社間もない社員が「ワタシ、なんか成長したかも、、、」と自分で気づき始めたタイミングで、すかさず、「君はようやく組織の一員っぽくなってきたな。だって言われなくても周りをよく見て、自分のやるべきことをちゃんとやれるようになっている。次は○○○○できるようになることだな」とはっきりと言葉にして、上司の眼からみた解釈をフィードバックすることだ。  もっとも効果的な意味づけは、自分でもストレッチできたかなという思うところにミートして指摘する(=褒める)ことであり、これもまた褒めて伸ばす秘訣なのである。

マネジャーの心理は安全か | その他

マネジャーの心理は安全か

 自社の管理職者に研修をしようと思い立ったとき、どんなスキルテーマにするかを考えるには3つの観点がある。 ①マネジメントの観点。 ここでは「目標達成」と「人材育成」が2大テーマであり、分解すれば前者は、PDCA、業務アサイン、目標設定・評価……、後者は、業務指示、OJT、後継者育成……と必要スキルが細分化される。 ②リーダーシップの観点。 同じく2大テーマは「ビジョニング」と「モチベート」。前者は、ビジョン設定、ストーリーテリング、リーディングチェンジ……後者は、動機付け、巻き込み、信頼醸成……などのスキルが想定される。 ③コンプライアンスの観点。 ここはスキルというより禁止則が、さまざまにありうる。  と書いてみると、改めてマネジャーの役割はたいへんだと思う。自組織の目標の必達をまず第一に要求されたうえで、メンバーの育成もしなければならない。イノベーションが喧伝される昨今は、環境変化のなかで新しい方向性を示し、メンバーを動かせとも言われる。教科書的な管理職役割、「マネジメント=成果をだすための組織の統制」と「リーダーシップ=変革に向けての組織の主導」が、文字通りともに求められるのだ。さらには、ハラスメントは絶対するなと脅され、メンバーの働き方改革をとにかく促進せよと強制される。    もちろん研修の趣旨は、武器=スキル/手法を与え必要に応じて使ってほしいということではあるが、研修テーマのひろがりは、管理職への役割期待が高まる一方であることを示しているともいえる。さらなる期待となりそうなのが、いまはやりの「心理的安全性」だ。グーグルの調査「Project Aristotle」で、チームの生産性に一番影響するのが心理的安全性(=誰もが率直に意見を言い合える組織環境)だと言われて以来、「心理的安全性の高いチーム作り」もホットなマネジメントテーマとなった。  心理的安全性が高い組織は、生産性向上だけでなく、離職率の低下やコンプライアンス維持、あるいはイノベーションのタネになる創発的な意見喚起などの効用があるので、その実現が望ましいのは確かである。しかし経営が、さらなる期待役割として、自組織の心理的安全性向上をマネジャーに命ずるとしたら、目標達成にむけチームをときに厳しく統制し、改革を主導・牽引しなければならないマネジャーにとってはダブルバインドになるのではないか。  「誰もが率直に意見を言い合える」とは、平たく言えば、「こんなこと聞いたら無能(無知)だと思われる」とか「批判していると思われるから黙っておこう」とか「これを頼んだら邪魔することになるからやめよう」という躊躇がなく、自分自身の意見や想いを表明できることだ。とすれば、マネジャー行動としては、個々人の意思・想いへの配慮や、まずは傾聴といった姿勢などが求められ、目標達成にむけシビアなタスクマネジメントに尽力しているマネジャーには、余計なコミュニケーション負荷にもなりかねないからだ。  たとえば、メンバー各人の意思や想いや意見を尊重すべく、マネジャーが ・報告を徹底せよと命じるより、こちらから「どうだった?」「何があった?」と部下に聞く ・上手くいかなかった原因を追求するよりさきに、まず「それは大変だったね」と共感を示す ・本筋と関係ない意見を切り捨てずに、まず「なるほど。ということは……なの?」と意見を聞く といった部下対応を意識的にやろうとするとしたら、繁忙のなかで適時的確な判断を強いられている身としてはいらだつかもしれない。もしかすると「端的に結論だけ言え!」と言いたいこのマネジャー自身の「率直な意見」は言えてなくて、「自分たちの心理的安全性はどうしてくれる」との声があがるかもしれない。  当たり前だが、業務特性やメンバー編成によっても、マネジャーの組織方針やリーダーシップスタイルの違いによっても、心理的安全性のインパクトは異なるから、とにかくその向上をすればよいということではない。実際「Project Aristotle」でも、「チームへの信頼の高さ」「チームの構造の明瞭さ」「チームの仕事の意味の共有」「チームの仕事の社会的意義の共有」が、心理的安全性とともに高生産性チームの特性だとされているから、生産性に資するチームビルディングは一様ではない。  冒頭にあげた様々なスキルと同様に組織力を高める一つの武器として、心理的安全性のメカニズムも知り、状況に応じて使う裁量こそがマネジャーに与えられなければならないのだろう。マネジャーが、自組織をどうしていくべきか経営に対して率直に意見が言え、経営がマネジャーの意思と想いを尊重し、マネジャーは裁量をもって組織マネジメントを行う。チームにおける心理的安全性とともに、経営におけるマネジャーの心理的安全性向上もまた、きわめて重要なはずである。つまり心理的安全性とは、チームビルディングの問題以前に、「全社の心理的安全性」が検討されるべき経営テーマなのである。

組織の病理 | その他

組織の病理

 仕事はすごく面白いのに、会社が嫌で嫌でたまらない。なぜか、そんな愚痴を聞くことが多い。民間企業から公益法人まで所属は様々で、また年齢も異なる複数の知人たちが口を揃えるから、経験やキャリアの違いに帰着させられないことなのだろう。何がそんなに嫌かと聞けば、状況は異なるものの要は人間関係が耐えられないという。  まず多いのは、上司の問題。感情的、場当たり的、パワハラ的、ただのヒラメ、あるいは、とにかく無能。と表現は様々なれど、言っていることは一つだ。まず自分で判断をしない、また判断したとしても間違った判断をする。組織視点からの判断業務をするのが管理職だから、つまりは管理職としての役割を果たしていない。加えてなによりも、それで仕事上支障があるからたまらないというのだ。  ユーザーや顧客にサービスを提供するなかで、やりがいや使命感、手ごたえを得て、自分は仕事をしている(=だから仕事は面白い)のに、ダメな上司との不毛なやり取りがその邪魔をする(=だから会社は嫌だ)。あるべき問題意識や意義、責任感が共有されない上司(あるいは同僚、部下)とのやりとりに辟易し、それが、せっかくやりがいのある仕事そのものを棄損するようにすら感じさせるのである。  サービスや事業の目的は、ユーザーや顧客やあるいは社会に対して役に立つことである。民間企業ならそれによって収益を得、公益法人なら役立つこと自体が存在理由である。だから、上司や同僚がそもそも論を逸脱して平然とおかしな判断や判断停止をすると、「おめえら、なんのための仕事かわかってんのか!」とさけびたくなる。仕事に真摯に向かい合っているからこその、上司その他へのいらだちともいえるのだろう。  ひとりの人間という能力限界を超えて、より大きな働きかけを社会に対してなすために「組織」は生まれた。機能として分業し、統制することで組織力は高まるはずなのに、同時に、異なる志向や想いや価値観をもつ人間の集団ゆえの軋轢もあわせもつ。それが、組織目的、つまりなんのための仕事か、ということに関わる齟齬であればあるほど、モチベーション低下や場合によってはメンタル失調に結果するのではないか。  もしかすると、事業や仕事の目的を意識するかしないか、の違いは結局、就労価値観の違いに帰着するのかもしれない。自分の時間を売って生活費を稼ぐのか、やりがいのある面白い仕事をしたいのか。手段としての労働と目的としての労働の違いである。価値観はそれぞれだから、どちらが良いということもない。ゆえに、その混在から起こる組織の病理なのだとしたら、いかんともしがたい。せいぜいが、ビジョンや理念の徹底した組織浸透、バリュー評価の活用による行動制御により、最低限の管理職役割として「何のための仕事か」との反芻を判断や業務指示の原理にせよと教え込むことぐらいしかできないだろう。  かくて、このような愚痴に対しては、こう答えることにしている。仕事が楽しいのに組織が嫌になる、ではなくて、嫌なことがあるからこそ仕事の楽しさが一層輝くんじゃないの。それがコインの裏表のようにいつもセットなっていて味わえるのだから、幸せだよねー。その人たちには、決して味わえない労働の快楽なんだから。

宴席の闘い | その他

宴席の闘い

呑めないムキにはしんどいが、酒好きには愉しい、宴席続きの季節がやってきた。 酒を“酒として”愉しむようになったのは、40歳を超えてからだ。今思うと、20代のころは、間違いなく酒自体を味わってはいなかった。人と酒を飲む状況がただ面白かっただけである。他愛ない話で盛りあがり、笑い、たまに泣きや怒りがあるも結局は酔っぱらって沈没する馬鹿馬鹿しさが楽しかった。 そんななんでもありの酒宴でも、一つだけ許せないふるまいがあった。「まあまあ、ほらあけて」などと言いながら、無理やり酒を注ぐ輩である。概して酒が弱いメンツがターゲットになったりするから、そこに会社の上下関係があれば、ある種のパワハラである。こうした不快な輩に対しては、ゲリラ戦を仕掛けることにしていた。 注がれた酒を飲むふりをしつつすきを見て脇の植木にでも飲ましてやって、グラスを空ける。すかさず注がれれば、「礼儀として直ちに注ぎ返す」を繰り返して、その当人を泥酔させ潰して差し上げるのである。えてして、宴席パワハラ男は、酒に強いことだけがよりどころなので、ギブアップさせたところで「え、もう飲めないの? まだまだ、これからじゃない」などと言ってあげれば、もう二度と誘ってこなくなるのだった。 こんな禁じ手は別にしても、文字通り勝負というような宴席もある。たとえば、商談中の顧客との飲みの場だ。かつて同僚だった営業部長は、商談の最終局面でかならず宴席を設けた。彼の目的は、接待の場で成約を促すべく歓待すること、ではまったくない。表面的には「接待」をきわめつつ、見事な運びをもって相手が酔い潰れるまで飲ませ、介抱し、ともすれば家まで送り届けることであった。男同士の間では、たかが酒、されど酒である。「どちらがえらいかをわからせてあげればいいんだよ」と彼はいつも嘯いていた。 こうしたわかりやすい勝負ではない、孤独な闘いもあることをあるときに知った。それは、30代のころ在籍していた会社の同僚10人くらいで飲んでいたある時のことだった。なみなみ注がれたビールグラスにいつまでたっても口をつけない男がいたので、聞いてみた。 「あれ? 飲んでないけど酒だめだったんだ?」 「何言ってんの、大好きだよ。だって注いでくれないから」 あ、ごめんごめんと、注ごうとすると、まだ入っているから言って、口をつけようともしない。このやり取りが何回か繰り返されて、彼は、あきらかに一滴も飲まないまま宴席は終わったのだった。もう一回、また別の男で同じ光景があった。言い方は別だったが、本人は酒好きといいながら、実際には一切口にしないという点は、まったく同じだった。そして、この二人には、見事な共通性があったのである。 ふたりとも、詐欺師だったのだ。一人は、結婚詐欺、もう一人は金銭詐欺、ともに詐欺常習犯だった。実は、一人目の男の詐欺が露見して何年かあとに、もう一人の「飲まない男」に出会ったので、もしやと思って調べてみたら案の定で、結果、被害には合わずに済んだのだった。人を評価する、まったく新しい判断基準(かもしれないもの)をこの時知った。 嘘をナリワイとする人たちにとっては、なるほど酒は厳禁だろう。少しでも酔ってしまえば、組み上げた虚構の一角を不覚にも崩してしまうかもしれないからだ。であれば、「自分は酒が飲めない体質」といえばよいのに、そこをまた嘘のやりとりというきわどい闘いを挑んでしまうのが、さすが詐欺師の本能と感服したのだった。