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吉岡 宏敏

column
行儀の悪いイノベーション | その他

行儀の悪いイノベーション

 研修のテーマを「イノベーション」としてくれ、と頼まれることが少なくない。階層別研修の実施をお手伝いしている場合など、すべての階層でイノベーションを扱いたい、とまで言われることがある。その背景には、新規事業開発といったことだけでなく、すべての事業、日々の仕事を通じて従来とは別の付加価値を出していかなければ生き残れないという経営者の切実な想いがある。  それまでのやり方に縛られずに新しい視点や方法をもって、サービスや製品や仕事の変革を実現するには、まず最初に「発想」が求められるから、さまざまな創造技法やHowではなくWhyを問う思考技法等々、先入観を排し既存の常識を疑う方法を研修で教えることは可能である。しかし、生み出された優れたアイディアや卓越した発想を企業内でカタチにしてくことこそがイノベーションの要諦であるとすれば、そこは、研修の範囲を大きく超えざるを得ない。  通常の組織はそもそもその構造からして、イノベーションが生まれる環境ではないからだ。付加価値創出が求められるとはいえ一方で、ベースとして生産性と効率の追求が組織の宿命であり、そのため企業組織は、制御と管理の構造=部門の壁とヒエラルキーからなる。そこでは、新しい発想=異質性はそもそも排除されがちであり、「イノベーションせよ」との社員へのメッセージは、ダブルバインドにもなりかねない。  そうした硬直性を打破すべく、組織をフラット化したりクロスファンクションを設定したりといった組織論的取り組みも出てきているから環境改善はすすんでいるものの、「旧パラダイム」は根強く暗黙知として組織に張り付いていて、人々の動きはいつの間にか縛られていたリする。  その背理を超えるヒントの一つは、「ネットワーキング」にある。中間管理職が主導したイノベーションの成功事例でよく知られるのは、自律的に生まれたイノベーションが全社的に波及するときには、必ずネットワーキング活動を伴っていることだ。そのプロジェクトを企てた人は、通常の権限経路やコミュニケーション経路をどこかで無視しながら、しかし経営陣の誰かのサポートをうけ、どこかでうまく資源を調達する。  会社内の(場合よっては社外の)人的ネットワークを駆使し、必要な人に接触する。ネットワーク論でいう「弱連結」ネットワークを軽やかに組み、活用することを通じて、通常の予算経路以外の費用調達をしたり、闇研究で地下に潜行したり、必要な人材を引っ張ったりとか、ある意味で行儀の悪いリーダーシップがイノベーションを実現しているのだ。なにより、その行儀の悪さを許容するトップの存在が大きい。  全社員にイノベーションの喚起を要請するある社長は、管理職に対して、「君たちのアタマからはもはや新しい発想が生まれない。若い世代の新しい発想の芽を、注意深く見出し、なにより潰すことなく、育て活かすことが、君たちの役割だ」と言った。新しい発想は、新しい人材から生まれる。まずは、異質性の重視、とんがった人材の温存がイノベーションの大前提ということだ。加えて、それをカタチにしていこうとするやみくもなリーダーシップ行動を促進することが必要だとすれば、トップは腹をくくって、その行儀の悪さに目をつぶり、ときにインフォーマルな支援をするといった鷹揚な態度が求められるのだろう。  では、もっとも大事な、必死でイノベーションを実現しようする個々人のやみくもな意志、強烈な目的志向は、いかにして喚起できるか。それには、まず会社や事業が社会に対して新たな価値を提供しようとする経営の想いが、ひたひたと社内に浸透し、人々をエンゲージする場ができていなければならない。つまりはそれも、そうした場を作り出すトップの本気の姿勢と「志」の問題なのである。

業務指示の極意 | 人材開発

業務指示の極意

 部下に業務を分担しアウトプットを出させる。期待通りの品質の成果を適正な時間で出させるためには、的確な業務指示が必要である。そのポイントは、単に、正しい業務の進め方や技法を教えるということではない。いちばん大事なことは、「業務の目的」を伝えることだ。その業務は、なんのためにあるか、を理解させる。目の前の小さな業務が、組織として何につながるか。ひいては、会社にとってどんな意味があるか、をわからせる。  目的(=purpose)とは、「意味」や「意義」である。その具体的な成果指標が、目標(=objective)である。それらを伝えたうえで、あとは、有名なSL理論(=Situational Leadership)を思い出して、部下の経験や能力レベルに合わせて、概要指示から詳細指示の幅のなかで的確な説明を行えばいい。業務遂行では、不測の事態も起こるかもしれないが、「意味」が分かっていれば、ある程度の応用もできるし、何をやるべきか、何をやってはいけないかも想像がつくものである。  個別業務指示の集積であるOJTは、もっとも有効な人材育成手法である反面、その属人性が課題とされる。つまり、上司である管理職者によって、教える内容が異なるということだ。業務の方法や技術が人によって異なる点は、階層別の必要技能を組織として整理し可視化し共有することやOff-JTを組み合わせることで解消できる。 階層別研修のようなOff-JTではなく、もっと短サイクルでOJTを補完する研修、かつて小池和夫さんが造語した「ショート・インサーティッドOff-JT」によって、経験を裏付け、技能を体系化するといったやり方である。  問題なのは、目的、つまり意味付け自体が上司によって異なってしまうことのほうである。そうならないためには、企業目的から各組織目的への展開が、管理職者のなかで胎落ちしていなければならない。その意味でのリーダーシップの連鎖がなされるような、管理職層育成が恒常的になされていることが、的確な業務指示の前提になるのだ。  さらに、人材育成の最前線である業務指示には、実はもう一つの意味付けが不可欠である。業務を行う部下本人にとっての「意味」である。会社や経営にとっての意味や意義を意識できたとしても、最終的には、自分のためになるという動機付けがなければ、人は未知なるものに挑戦的に臨めない。自分にとっての意味を自覚したとき人は変わる。かならず、その業務をいま自分が経験することが次の成長へのステップであり、将来のキャリアにいかにつながるか、をわからせなければならないのである。  それがなされるためには、やはり、管理職者自身が自身の経験を踏まえたキャリアの意味付けができていなければならないし、自社が求める人材像や人材育成の方針と仕組みを理解していなければならない。結局のところ、業務指示に始まる人材育成では「会社にとって」と「自分にとって」のふたつの意味を語ることが方法論としての大原則であり、そのためにはまず、管理職者自身に対する意識付けが徹底される必要があるということだ。  ゆえに、初級管理職者に対する「業務指示/OJTスキル研修」とは、部下に対する業務指示の要諦である意味付けを方法として学ぶとともに、「意味を語りうるマネジャー」育成こそを、ヒドゥンアジェンダとしているのである。

沈黙のインタビュアー | その他

沈黙のインタビュアー

 若い頃、ビジネス誌の記者をやったことがある。日々、多種多様な企業関係者への取材、つまり話を聞くことが仕事だった。話すほうも誇らしいような出来事なら、気持ちの良いインタビューとなるわけだが、時には話したくないことを無理やり聞き出さなければならないことがある。  例えば、極秘に進めたい提携や買収の真偽や進捗、あるいは不祥事など、隠しておきたいことだからこそ、こちらとしては記事にしたい。でも当事者は絶対に口にしたくない。そこでさまざまなインタビューのワザが駆使されることになる。  Aという会社が、異業種のB社を買収しようとしているらしい。それを推察しうる情報はいろいろつかんだが、この段階で記事してしまってよいものか。確証がほしい。そのために、まずは、まったく関係のないテーマでA社の社長にインタビューを申し込む。もちろんそのテーマは同社にとって広報的にメリットあるものをしつらえるから、取材OKとなる。  さて、つつがなくインタビューが終了する。ありがとうございました、と言って、テープレコーダーのスイッチをカチッと切る。一呼吸おいて、世間話のように社長にこう投げかける。 「そういえば、B社の買収はもうすみました?」 「いや、まだ、だけど、、、」  さすがに社長はすぐ口をつぐんだけれども、しっかりと確認ができた。翌日には、買収スクープ記事が紙面をかざったのだった。  こうした「不意の問い」は常套手段で、業界トップが集うパーティがあれば、カメラマンを連れて潜入し、撮影のお願いをしながら、「英国X社との提携は調印された・・・」「Y社の株式はどれくらい取得され・・・」「例の係争について次はどんな・・・」などと囁いたりしたものだった。もちろん胸にはピンマイクを潜ませて。  しかし、この方法は騙し打ちめいた荒技で、さすがに行儀のよいものではない。やはり正攻法は、話したくないその問題を堂々と問い、答えを得ることである。その原理は、意外と単純なもので、ひたすら「WHY?」と問い続けるのだ。クレバーで論理的な人物ほど、これには弱い。真実を隠そうとして理屈に合わないことを言い続けるのは苦しくてできないのだ。  そして最大のポイントは、「WHY?」と問うたら、その後沈黙することである。聞かれたほうは、すぐに答えられない(=答えてはまずい)から一瞬黙る。それをこちらも黙ってじっと待つのだ。決して言葉を重ねたり、問いを言い変えてはいけない。ただただ黙って待つ。多くの人は沈黙が我慢できずに、なんらか口にしてしまう。その言葉に対して、さらに「WHY?」を問えばよいのだ。とくにこの「沈黙のインタビュアー」は、電話取材でパフォーマンスを最大限に発揮する。電話での沈黙に耐えられる人はまずいないからである。  たとえば、取材先から記事に関する抗議の電話がかかってきたとする。「なんだあの記事は!? 大迷惑だ!」との怒りの声に対して、何はともあれまずは、録音ON。丁重に聞きつつも「WHY?」と「沈黙」をフルに駆使する。なぜ、どのように、困るかを聞いていけば、おのずと、そこから新しい情報が聞き出せるのだ。しかも抗議だから言い募りがちで、沈黙という呼び水がひときわ効く。で、その情報をもとに、首尾よく、また記事にするといった具合である。  「WHY?」と問う有効性は、質問技法としてよく知られる。顧客との営業局面でも部下との評価面談で役立つものだ。加えて、沈黙のインタビュアーに扮すると、さらに効果的な場合もあるからワザとして覚えておいて損はない。ただその場合、注意すべきは、その人が今ここで「インタビューに応じる」あるいは「なにか話をする」ということ自体が、前提として合意されていなければならないということだ。  当たり前だが、電話セールスでいきなり架電してきた側が、「え、ご興味ない? なぜですか?」とかいって沈黙してたら、ただちに電話切られるに決まっている。忙しい上司を捕まえて、何かを聞き出そうとするときも、もちろん、やめたほうがいい。

CSRの効用 | その他

CSRの効用

 そういえば、メセナという言葉はとんと聞かなくなった。企業の社会貢献が騒がれた時代、メセナ、メセナと騒がれ、採用面接に臨む学生たちがこぞって「御社のメセナ活動は~~~」といった質問を用意したのは、1990年代のこと。同じく社会貢献という意味では、フィランソロピーという言葉もあったが、メセナはとくに、文化・芸術活動支援を指すの一般的だった。  結局のところ、社会貢献活動としてはパトロネージや文化施設投資、あるいはスポンサードといった企業PR的印象にとどまり、バブル崩壊後の企業リストラクチャリングのなかで、いつしか影が薄くなっていったのだった。そもそも企業は、ステークフォルダーズとの関係のなかに存立するから、その社会性が厳しく問われる。文化支援という社会への利益還元も価値あることだが、それ以前に果たすべき社会的責任があるということを考えれば、メセナ偏重が下火になるのは当然ともいえる。  現在ではまさにその社会的責任が、企業の継続的発展(=サステナビリティ)の要件として取り沙汰され、CSRという言葉が定着している。地球環境ヘの配慮、遵法の徹底、企業倫理の維持、よき市民たる企業行動等々、があたりまえのように謳われ、宣言され、内部評価基準としても浸透してきた。ただこれらは、「守りのCSR」であり、それがなされたうえで、「攻めのCSR」こそがこれからは必要だとされている。  攻めのCSRとは、「本業を通じてのCSR」を意味する。ふつうに考えれば、社会的責任を果たすための活動(=守りのCSR)はコストである。フリードマンが批判したようなCSR=フィランソロピーとみての不要コストではなく、企業の存立と継続のための必要コストではあるが、コストであるかぎり利潤とトレードオフである。だからこそ、CSR投資が業績向上をもたらすか否か、といったあたかも広告費的投資とみるような議論がでてきたりもする。攻めのCSRとは、そうではなくて、企業が利潤をうる事業そのものが、社会に対して貢献しているということだ。  よく例に挙げられる住友化学のマラリア感染予防事業では、現地での雇用創出や教育による地域支援を行っていることもさることながら、その中心となる事業そのものがアフリカの人々の命を守る結果となっている。要は、攻めのCSRとは、事業を通じて、社会をよりよくすること(=社会革新)に関わる。もともと企業は、社会に対してなんらかの付加価値を提供して対価を得ているわけだから、社会革新につながる付加価値を創出せよ、ということである。  そこまですべての企業活動に要請すべきか、という議論はあるだろう。フリードマンならずとも、対株主の企業価値を追求するだけでも社会構成単位としての企業の役割は十分に果たしているといえるかもしれない。しかし、企業=人が働く場という観点からは、攻めのCSRへの挑戦は避けて通れないのではないか。  あらゆる業種業態でのAIの急速な実用化やRPA(=Robotic Process Automation)のインパクトは、労働の質を変える。「作業」は人の手をはなれ、高度な判断や思考や創造という「仕事」が労働者に問われる。それは、労働主体である人の側からすれば、役務としての労働ではなく、労働そのもの意義や意味、労働そのものの面白さのための労働という側面が強調されてくるはずだ。そうでなければ、やっていられないから。  そうしたシビアで創造的な仕事のやりがいの源泉はなにか。このコラムでも何度か書いてきたように、組織の構成員のモチベーションを高め、成果達成を促し、様々なアイディアややり方創出を喚起するものは、目の前の業務の「目的」である。つまり、組織の「目的」である。とすれば、社会をよりよくするために何をなし利潤をうるのか、という自社の事業アイデンティティが、自社の構成員を動機付け業務に邁進させる最大のドライバーとなるはずだからである。

立川談志さん | その他

立川談志さん

 まだ元気だったころの立川談志さんをよく上野で見かけた。  もう閉店してしまったけれども、上野広小路にあった深夜まで営業している小さな蕎麦屋「さら科」で、夜、呑みつつ蕎麦を手繰っていると、バンダナ巻いた談志師匠が、「オヤジ、生きてるか!?」と入ってきた。客の邪魔にならないよう、厨房よりの小上りにちょこんと腰かけると、親しげに店主と話してる、そのテンポのよさ。高座の噺を聞いているようだった。  いつもは不愛想な店主も嬉しそうで、なにやら写真集を取り出しては、その贔屓にしてるカメラマンのことを話し始めた。ちらと「戦争がはじまる」というタイトルが見える。反骨のカメラマン、福島菊次郎さんの新刊だった。「へえ、そうかい、てえしたもんだな」と合いの手いれながら、愉しげなやり取りがひとしきり続いたと思ったら、唐突に、「じゃあ、またな!」と蕎麦を食べることもなく、出て行った。  恰好よかった。あったかくて、そして小気味よかった。この一瞬、ここに身を置いていた巡り合わせに感謝した。いま思えば、亡くなったあとに夥しい本や追悼番組で語られた家元立川談志の素顔そのものだったし、晩年、噺が語られる時になくてはならないとよく言っていた「江戸の風」が、たしかにそこを吹き抜けたのだった。  なにより、様(さま)になっていたのである。様になるとは、外見や立ち居振る舞いの格好がついていることだ。それは、外側をいくらまねてもなかなかできなくて、経験や取り組みの蓄積だけが可能にする。新入社員のスーツ姿が様になるには、社会人職業人としての物事への取り組み方がわかってきてからだろうし、プロフェッショナルとしての様の裏側には、社会人であれ、芸人であれ、情熱をこめてストイックに打ち込んできた歴史があるはずだ。きっとそこには、技術だったり、製品だったり、ユーザーだったり、対象への深い想い入れや愛情があり、それがその人なりのプレゼンスとして立ち昇るのだろう。  当時、黒門町(文楽)や稲荷町(彦六)の名人たちはもういなかったが、上野界隈には、男振りよい談志が出没していたのだった。縁あってこの地に越してきてよかった、と思ったものである。よく通ったことで有名なのは鰻の「伊豆榮」だが、談志さんにはやはり蕎麦屋が似合う。「池之端藪」や「連玉庵」、少し足を延ばせば、「並木藪」と風情ある蕎麦屋は多いけれども、そんな老舗ではなくて、偏屈親父がやってる小さな「さら科」にいる談志こそが素晴らしい画だった。  最晩年、掠れて出ない声を張り上げて、嬉々として好きで好きでたまらない主人公=佐平次を演じた「居残り」で見せる笑顔が、そこに輝いていたからだ。

人材育成ミニマリズム | その他

人材育成ミニマリズム

多くのマネージャーの方々は、プレイングマネージャーだ。自組織の目標達成のために、先頭たって邁進し全力を挙げて成果を上げようと日々腐心している。結果、ついつい部下を育てることは後手に回って、「わが社の管理職は、人の育成ができていない」などと社長が不満を漏らし、急遽、社長命令で管理職対象の部下育成スキル研修が組まれたりする。 こうした研修に臨むマネージャーの方々は、部下育成の重要性はもちろんわかっている。人を使って成果を出すのが管理職の役割だなどと講師に言われるまでもなく、そうしたいと思っている。ただ目の前で目標達成が危ういときには、自分が動かなければならないのだ。じゃあ、目標達成できなくても育成を優先しろというのかね、と胸の内でうそぶきつつ、研修会場で身体はいつしか斜めになっていくのだった。 彼らを前向きにするにはどうするか。なにより、教科書的な部下育成論など扱わないことがこの手の研修のポイントである。教えるのは、部下育成ではなく、部下活用。いかに部下たちに、自身の仕事を切り出して渡し、自分がラクになるか。その具体的、実践的、明日からできる方法論である。プレイヤーとして少しでも楽になって初めて、マネジメントに着手できるし、なにより自分にとってメリットがあるスキルを学べる。 一方で、部下活用とは、部下育成の原点である。仕事を渡すとことの延長線上には権限移譲があり、部下にとっては難易度の高い自分の仕事をやらせることは、部下のスキル向上機会の第一歩だ。部下を活用して自分がラクになることは、イコール短期的部下育成に他ならないのである。 問題は長期的な部下育成である。部下活用=短期的部下育成を日々続けているだけでは、なりゆきの育成である。長期的に人を育てるには、ゴールセッティングを必要とする。部下のAさんを何年後にどのレベルに仕上げるか。育成目標と育成計画が、個別に描かれていなければならない。そのためには、個々人のキャリアの将来を意識しなければならないし、強味弱みや志向性にも気を配らなければならない。繁忙極めるプレイングマネージャーにとって、このハードルこそが高い。 部下全員ではなく、ひとりだけの育成ならできるのではないか。手っ取り早いのは、特定部下の育成を強制するしくみにしてしまうことである。つまり、後継者育成。現場起点のサクセッションマネジメントのしくみをもって、自身の後継者候補1~2名に限っての計画的育成をせざるを得なくするということである。たとえば、多国籍企業でよくやられているような、年次で自身の後継者のサクセッションプランを提出させる方式。後継者候補を、所定のアセスメント項目で評定のうえ選び、短期的・中期的に、どんな仕事をさせどう育てていくかを計画化する。それを年次で更新させていくのだ。 部下全員ではなく、特定の1~2名ついてだけでいいから、任務として後継者育成=中期的な部下育成せよ、という限定である。その効用は、単に次のリーダー育成の実践だけではない。特定候補者とはいえ、選び見極め育成を計画化するためには、個々人の能力や志向性、ロイヤリティなど留意し、何をどうできるようにしなければならないかを検討する。その目配りやアサインの配慮こそがマネージャーの部下育成スキルであって、それが強制的に鍛えられるということに意味がある。 おのずとそのスキルや育成意識は他の部下たちにもむく。繁忙なマネジャーたちだからこそ、すぐできる最小限のことからだけ始める。一点突破全面展開の企てを持って。

無駄の効用 | その他

無駄の効用

 働き方改革という波がずいぶんと早いスピードですべての日本企業に寄せてきている。その施策の照準は、ともすればダイバーシティやワークライフバランスに目が行きがちではあるが、要は生産性向上である。  働き方を変えることで生産性を上げ、生み出された時間を、プレイングマネジャーでままならなかったマネジメント業務などの本来業務や、付加価値創出につながるかもしれないアンダーザテーブル研究などに使う。あるいは、個々人が自己啓発や視野拡大の活動に時間を使う。結果、不確実な時代を乗り切れるよう業務品質と人材品質を高めていくということである。  その方法はさほど複雑なものではなく、無駄をなくすための組織や業務の仕組みを変えることと、人々の協業に伴うコミュニケーションの無駄を徹底排除することの2つを検討すればいい。その各社各様の取り組みはさまざまに目にするが、気になるのは、前提されている、生み出された時間の「有意義な」使い方である。その時間を、「無為に」使うことも大事なことなのではないか。  あえて、なにもしないで無為に過ごす時間に使う。個々人があるとき、業務から離れ、あるいは頭の中の思考検討から離れ、今目の前の環境を遠景化して、縁側でお茶を飲むようにぼーっと過ごす。生産性高く密度高く仕事をするなかでの優雅なゆとりは、エアポケットのように心に作用し、もしかすると「ユーリカ!」と叫ぶようなアイディアが生まれるかもしれない。  さらには、生み出された時間を「意味のないコミュニケーション」に使うのもいい。コミュニケーションとは、何らかの目的をもって、人に働きかける、あるいは何かを伝えるということだ。それが自然に円滑にはじめられるきっかけには、意味のない働きかけ=ゼロサイクルが有効だといわれる。例えば、道で近所に人とすれちがうとき、「いい天気ですね?」とか「お出かけですか?」という挨拶。人と人の相互の働きかけをサイクルをかけるというが、そのゼロベース、単に認知し合ったというだけの合図だ。  それは、問いのようでありながら意味も目的もない、ただのコトバのやり取りだ。そこに意味を意識すると、家を出た作家の稲垣足穂さんが「お出かけですか?」といわれて、「よしゃいいんでしょ!」と憤然と家に戻ってしまったというエピソードになってしまう。意味がないことを了解し合ってのゼロサイクルは、交渉や依頼に至る前のコミュニケーションの土壌づくりともいえるだろう。  さしずめ仕事と何の関係もない世間話の時間。縁側(デスクの端?)や井戸端(給湯室?)での無駄話に、生み出された時間を使うのである。無駄にも効用があるから、生産性向上のための無駄取りでそれらの完全排除はすべきでない、と言っているのではない。組織内の、業務上のコミュニケーションの無駄を徹底排除したうえで、改めて生み出された時間をこうした「無為」にも使うこともよいのではないか、と言っている。「なんとなく」ではなく、「自覚的に」である。  無為に使ってもいい時間をうみだすための働き方改革。獲得されたそのゆとりがきっと、付加価値創出や変化対応できる組織づくりにも効くはずである。

見本で気づく | その他

見本で気づく

 『わが子に教える作文教室』という本を読んだ。作者は、清水義範さん。小林信彦、筒井康隆に連なる、注目すべきパロディストと評される小説家だが、この本はいたって真面目に、小学生の作文を個別添削する教室での体験にもとづく“目から鱗”の作文指導術が書かれている。  そのなかで、作文が飛躍的にうまくなるきっかけを発見したエピソードがある。それは、同じ教室の生徒が書いたよくできた作文を見せ、読んで聞かせることだった。それを見た多くの子供たちの作文が、その後各段に良くなったというのだ。なるほど、個別添削という先生と本人の間のやり取りでは分からない、「こんな風に書いていいのか!」、「なんて面白い書き方なんだ!」と思える文章を目の当たりにできる。その気づきが何よりも作文力向上に効くのである。  他者の見本を見て、自分の問題に気づく。このことは、組織人事の世界でも通用する。『わが子に教える作文教室』のこのくだりを読んで、すぐに頭に浮かぶのは人事評価である。一次評価者の評価表を二次評価者がチェックし変更するという閉じた関係では、評価スキルは向上しない。自分のつけた評点が妥当かどうかを判断する材料は、上司である二次評価者の指摘だけであって、しかも上司はむしろ相対評価的視点でのチェックにとどまっていたりするから、自身の評価スキルの問題には気づけない。 作文の例のように、他の一次評価者たちの評価表を見ることによって、自分の評点の付け方が客観視でき、評価のしかたが向上する。人がどう評点を付けているかを知り、自身の問題点やクセに気づき、妥当な評価を共有できるからだ。だから、「評価者会議」(=部下の評価表を公開して行う一次評価者同士の相互検証の場)が、管理職者の評価スキルを上げていくもっとも有効な手法になるのだ。  リーダーシップ開発においても、ロールモデルが大事だといわれる。この人こそ目指すリーダーと思える現実のリーダーを目の当たりすれば、ひるがえって自身とのギャップに気づく。これから自分はなにができるようにならねばいけないかがわかる。このことは、とくに経営人材育成のシンプルな原理である。 社長の方々と会える機会があれば、「いかなる経験が、あなたが社長になるうえで有効だったか」と必ず聞くことにしている。各人各様の、極めて味わい深い見解が語られるけれども、共通する答えの一つは、「優れた社長の側で仕事ができた経験」だった。目の前で社長がどう判断し、どう行動するかを知ること以上の学習機会はない。子供でも大人でも見本例の効用はきわめて大きいのだ。 『わが子に教える作文教室』では冒頭、そもそも子供が作文を書く気になるためのポイントが書かれている。子供がはじめて、しかもしかたなく書いた作文のデキはひどい。字が汚い、言ってることが分からない、接続詞がおかしい、「楽しかったです」とばかりあるけど何があったのか書かれていない、とかとか問題だらけだが、それを指摘してはいけない。まず、ほめる。 「題名がいい」とか「この表現がいい」とか「その場の雰囲気が伝わってくる」とか、どこか見つけてほめる。それによって、書いた子をいい気分にすることが作文指導のもっとも大事な第一歩だという。ただ、なんでもほめればよいわけではない。その子が自分でもよく書けたかな思っているところを正しく読み取ってほめなければならない。そのためには、親が真剣にしっかり読むことが大前提になる。 ここもまた、人材育成で言われる「ほめて伸ばす」に通じるところだ。

諸刃の書物 | その他

諸刃の書物

人は、  本を読まねば  サルである。 こんな出版社の広告コピーを見たことがある。本に書いてあることなんか役に立たない、仕事で大事なことは実践の中で学んでいくものなのだ、とうそぶくビジネスピープルは少なくないが、そんなことはない。本を読むことは、ビジネス以前に、人が人であるために必要な行為だとの挑発的メッセージだった。 優秀なビジネス“ピープル”であるためには、とにかくまず本を読め。そんなしつらえの研修事例をご紹介したい。経営幹部育成の1年間にわたる連続研修なのだが、ひたすら読書を強制する。2か月に一度、経営に関する名著を読ませる。それも、よくある解説本や要約、抄訳ではなく、原著の翻訳、ハードカバー厚さ5センチという重量級本ばかり。 書籍を読むのが事前課題。その理解度確認テストを行い個別成績把握、集合して関連テーマのケーススタディ、終われば実務につなぐ事後課題を提出して1クール。マネジメントや戦略、ファイナンスなど6領域=6クール6冊の本を読むというシンプルな形式だ。全員幹部候補者だから、繁忙である。その中で読みにくい専門書を読まねばならない苦行に悲鳴をあげながらも、やりきった。もちろん、人による明暗、メリハリでるけれども、終われば、実践に役立つとの声が大半だった。 単に知識をうるのではなく、自分なりの、自分の仕事やその将来を踏まえての、「解釈」ができたからだ。著名な著者のマネジメント論や戦略論、リーダーシップ論を真正面から読み込み、事例をもって考え、自身の仕事に引き付ける。そのことによって、自分の業務や役割や自分なりの今まで我流でやってきた方法の「意味」がわかる。知識を得るだけの「子供の学習」ではない、きっちりとした「大人の学習」ということである。 大事なのは、知識獲得ではなく書物を相手どった格闘を通じて自分の考えを整理し深め意味付けることだ。逆に言えば、知識習得にはあまり意味がない。バベルの図書館主たる盲目の作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、多くの道具がひとの身体の一部を拡張延長するものーー望遠鏡や顕微鏡は眼の拡大であり、電話は声の、鋤や剣は腕の延長されたものーーしかし書物は、記憶と想像力が拡大延長されたものだといった。 記憶=知識だとすれば、想像力の拡大も含めてこそ、読書の効用なのである。イマジネーションが拡大されるから、解釈ができ意味付けができる。だから、知識だけを獲得すべく本を読むのだったら、それは書物の価値の一部に過ぎず、むしろ余計な知識は邪魔になるかもしれない。中世ヨーロッパのある神学者は、こんなことを言っている。 無知の人の手に書物をゆだねるのは、 子供に剣を持たせるのと同じく 危険なことである。

Natural Born Manager | その他

Natural Born Manager

 360度診断(多面診断)の結果を上級管理職の方々に個別にフィードバックする機会が増えてきた。多面診断といえば、主要には中間管理職のマネジメント行動の把握を狙いとして行われてきた施策だったが、それを上級管理職や役員クラスにまで実施範囲を広げるのが近年の傾向。通常はセッション形式でフィードバックを行い、結果の解釈や前向きな行動改善をディスカッションしながら検討していただくのだが、さすがに役員や本部長の方々となると、なかなか自身の結果をお互いに開示し合って、というのも抵抗があるので個別面談の要請になるということである。  よく知られるように、360度診断の結果を本人に伝える際には、個人レポートをいきなり本人に手渡す(あるいはデータ送付する)ことは避けたほうがいい。定期実施で慣れているならともかく、とくに初めて実施する場合は厳禁である。「劇薬」なだけに、人によっては自身の結果を見るや否や、怒り爆発あるいは自信喪失、ときに丸めて屑籠(=無視)といった惨状となることがあるからだ。地位の高い人ほどそのリスクを避けたいので、個別に、しっかりと意味を伝えつつフィードバックするに越したことはない。  そうした、場合によってはスリリングな面談をさせていただいて気づいたのは、早いスピードで役員レベルまで昇格する方々に共通する思考・行動特性、つまり、デキるマネジャーの特徴だった。なるほど、だから同じ管理職のなかでも破格の速さで昇格しているのだな、と腑に落ちるような違いである。  周囲評価の高さが際立っているのはもちろんだが、その結果に対する見解が見事なのである。高い点の項目や、やや低い点の項目は、自身が意図して行動した結果だと詳しく具体的に説明ができる。なぜ、そういうアウトプットになったのかがわかっていて、さらには「やったことが間違ってはいなかった」、「ちゃんと部下たちに意図が伝わっていた」とレポートを見て胸をなでおろしたり、「やはりまだ足りなかったな」とすなおに反省したりする。  自己客観視ができているし、なにより自身の行動に方針と意思が明示的にある。つまり明確に語ることができる。例えば、新たに支社長として赴任してきたら、課題を把握し業績向上の方策を立て、タスクと人をマネジメントする行動方針をたて、自覚的反芻的に実行している。そこにぶれがないから、360度診断はストレートにその達成レベルを映し出すものであって、大きな自他ギャップになるような意外性がないということなのだ。  タスクマネジメントに優れるのはもちろん、特に感じるのは、人を動かすコツが身についていることだ。部下たちがどう感じるか、どう考えるかを分かって行動している。だから、360度診断結果が完全に想定の範囲内なのだ。  カーネギ―の「人を動かす」を地でいってるようなのだが、聞くと、読んでいないという。鍵となる経験を知りたくて、では、いつから、どんな経験から、そうしたマネジメントをするようになったのか、を聞くと、「うーん、いつからといわれても、、、」といった答えが返ってくる。はじめて管理職になったときからとくに変わっていないというし、教えられたわけでもないらしい。「何か特別のことをやっているわけではないし、、、」とこちらの感嘆ぶりが不思議だと言わんばかりの反応。  企業人の「育成」に携わるものとして忸怩たる思いではあるが、この人たちは、「生まれついてのマネジャー」としか見えないのであった。

学習する社会 | 人材開発

学習する社会

 先日、家に来た水道屋さんがレバー式の水道の蛇口を見て言った。「これは、変えたほうがいいですね、古いし、第一、危険ですから」。古い、は分かるが、危険とはなんだ? 聞いてみたら、我が家のレバーは、下に押すと水が出るからダメなのだ、という。「これは、阪神淡路大震災以前の仕様です。震災以降はすべての製品が仕様変更し、レバーを上げると水がでるようになってますから」。  なるほど。災害時に物が落ちてきて、水道の蛇口をあけてしまうから、下方開放のレバーでは、水びたしになってしまう。さらに、湯沸器が点いていれば、点火し、火事を引き起こすかもしれない、ということだ。調べてみたら、この一斉仕様変更は震災だけの理由ではないようだが、震災経験が影響していることは確からしい。震災というとてつもない事態を契機に、産業社会は学習し、地道な改善を行っていると知らされた。おそらくそこには、各器具メーカーの技術者たちの自発的で迅速な対応があったのだろう。  阪神淡路大震災はまた、ボランティア活動というものが自然発生的に一気に広がり、そうした活動が市民権を得た契機でもあった。1995年1月17日の震災発生以降、多くの人が、「居てもたってもいられない」思いに駆られ、できることを探し、考え、行動した。会社に勤めている人たちも、休暇をとったり、週末をつかったりして、それぞれの活動を行った。  当時私がいた会社でもこんなことがあった。震災直後、家でテレビのニュースを見ていたら、同僚の一人が被災地の真ん中でパソコン通信につないだPCを見ながら、周りの人たちと叫ぶように話している絵が映った。もう現地入りして、活動している。ううむ、さすがに素早い、と思って会社に行くと、今度は別の同僚がケンカ腰で電話をかけている。  何のツテもない某大手コンピュータ会社にいきなり電話をして、パソコン100台が必要なので、無償で供出せよ、と談判しているのだった。彼も現地でボランティア活動をしていて、そこで使いたいので、「企業として当然のことだ、100台直ちに送れ。もちろん、一切の経費負担で」とほとんど脅迫的に迫っていた。そしてその会社は、100台の供出をのんだ。ううむ、決断したそのコンピュータ会社もさることながら、さすが、わが社の同僚であるな、と感じ入ったものである。  と、こんなようなことが、たくさんの会社のなかで起こっていた。当時、ある経済団体から委託され、たくさんの会員企業の会社員たち向けの情報誌(いわば、“日本株式会社の社内報”)を出していたので、その読者たちにアンケートをとったところ、さまざまな会社員たちが、それぞれに自分たちで、あるいは自社を巻き込んで行った行動報告や、これからやると決めている計画が大量に寄せられ、その大きなうねりを知った。  こうした会社員のたくさんの行動を経て、その後、多くの会社で「ボランティア休暇」が制度化された。また、一方では、ともすればやみくもであったり迷惑だったりもするボランティア活動が批判的反省的に議論され、ボランティアのあるべき行動のルールが定まっていき、ボランティア活動というものに一定のカタチができたのだった。  ゆえにこの年はボランティア元年とも呼ばれる。震災という不測の大惨事を契機に、産業社会の枠を超えて市民社会としての学習がされたといってよいだろう。  震災の2年前に出版された岩波新書「ボランティア」で、著者の金子郁容さんは、ボランティア活動が市場や経済とはべつのもう一つの情報ネットワーク社会を誕生させるのでは、と書いた。ボランタリーな意思に発する活動だからこそ、非市場的な新しい相互関係がそこに生まれるという仮説もまた、震災後の「何か役立ちたい」というたくさんの意志の自然発生的な噴出とその活動の試行錯誤により、一気に検証されたのだった。  学習する社会は、いつだって、こうしたひとりひとりのWILL(=何とかしたいという強い意志)の表明に始まるのに違いない。そしてきっと、「学習」という行為もまた。

惨劇のプレゼン | 人材開発

惨劇のプレゼン

 社会に出てからやってきた仕事は、分野は異なるものの、いずれも顧客に企画提案して受注を獲得するというタイプだった。ゆえに、数えきれないほどのプレゼンテーションの場に身を置いてきた。何回かは、会心の成功を収めたことはあるものの、その何倍もの失敗があり、なかでも惨憺たる状況として今も忘れられないいくつかの事件がある。  まずは、あまりにもばかばかしいミスである社名の間違い。社長以下役員が揃うプレゼンの場で、配られた分厚い提案書の表紙を見たとたんに社長が席を立ち役員を引き連れ、なにも言わずに部屋を出ていったのだった。一瞬呆然としつつ、瞬時に悟り顔面蒼白の企画担当者。その後の顧客側担当者を含む提案チームがどのような惨劇となったかはいうまでもない。  あるビール会社の社長に向けたプレゼンでは、プレゼンターがきわめつけの失言をした。出たばかりの、同社肝いりの新製品を「~~~といったキワモノを出されて、、、」と口にすると、間髪をいれず社長は席をけって仁王立ちになると「失敬な! 出ていけ」と怒鳴ったのだった。当然その商談はなくなったが、直後に社長室に駆けつけ責任者として謝罪すると社長は、ふだんと変わらぬ調子で「立場上ああせざるを得ないだろ」とにやりと笑った。ああこの社長と仕事がしたい、と必死の思いで次の提案機会をなんとか得て、翌年は契約を得ることができたという後日談も忘れ難い。  とても現実とは思えない出来事もあった。成功者として名高い創業社長の二代目、代替わりしたばかりのまだ30歳代の若社長に向けての提案だった。プレゼンターが実直かつ口下手な男であったことも災いし、冗長な説明を聞かされている社長は、つまらなそうにぺらぺらと手元の提案書を先のほうまでめくっている。その光景にさらに焦り、説明自体がしどろもどろになっていく中で、なぜか社長は、提案書のステープルを外し、バラし始めたのだった。  と、そのバラされた提案書の一枚を熱心に折り始める。プレゼンターの悲壮な声がむなしく響く。しばらくして出来上がった紙飛行機を、社長はまったく無表情のままで、我々に向かって静かに投じたのである。かくて、ゆらりゆらりとプレゼン会場を蛇行して飛ぶ紙飛行機の光景は、当時の同僚たちの間でいまも語り継がれるシュールな伝説となった。  といった様々な惨劇がプレゼンテーションという儀式には生まれる。しかし、いちばんつらいのは、こうした、分かりやすい外形的なダメージではない。最大級の惨状は、内容的に切り捨てられることである。ともすればわかりにくくてその場にいる人たち全員は気づかないこともあるが、当人同士では勝負がついている。つまり、提案者が負けている。  例えばこんなことがあった。 企画提案というものは、一言でいえば、ニーズやゴールを実現するソリューションの妥当性と差別性を主張するものだが、そのポイントの一つは、前提となるニーズやゴールの設定。そこは「仮説」であるが、その仮説をどう組むかが勝負どころになる。的確な仮説とそのためのソリューションが合理的に整合し、かつ魅力的であることが勝てる提案の条件ということだ。  プレゼン後7人の評定者からそれぞれに質問があり、大過なく進んでいたなかで、それまで興味なさげにしていた責任者と思しき人物は、ただ一点、仮説そのものの妥当性に疑義を表明したのだった。ときに、ソリューションの魅力や差別性を強調したいがために、ニーズやゴールのレベルを少しだけ高く仮説することがある。この提案もそうで、そこだけを彼は突いてきたのだった。  じーっとこちらを見つめ、馬鹿にした嗤いを口元に浮かべた彼は「仮説が違えば、あとは瓦解しちゃうよねぇ」と言った。