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吉岡 宏敏

column
対人能力は必須か | 人材アセスメント

対人能力は必須か

 社会で働くために必要な能力=就業スキルとして、コミュニケーション能力は必須のものとされる。社会人基礎力には、「チームで働く力」として発信力、傾聴力、柔軟性などがあげられ、社員教育では早い段階からビジネスコミュニケーションのスキルが教えられる。管理職昇格アセスメントの評点が、「思考能力」、「対人能力」、「資質/姿勢」の3領域で測られるように、マネジャーのスキル要件にもコミュニケーションスキルは欠かせない。  ゆえに、どの会社でも、きわめて高い思考力や高度な専門的スキルをもっていても、コミュニケーションが不得手な人はなかなか肩身が狭いことになる。人との関係形成が苦手だったり、対人感受性に欠け人の気持ちがわからない人(=私です)は、職業人として課題あり、とされる。とくに、人を動かして組織成果を出す役割の管理職なら、対人能力欠如はまず問題視されるだろう。  しかし、ほんとうにそうか。仕事で成果を出すうえで、対人コミュ二ケーション能力は必須なのだろうか。業務上必要な意思疎通さえできれば、それ以外の対人配慮、たとえば、感情や想いへの気配りや、態度や表情といった非言語的サインの察知、ヒドゥンアジェンダ(=隠されているテーマ)への忖度、チームを盛り上げんとする言動などなどは、それはあった方がよいけれども、必須ではないし、ときに邪魔だったりもする。  チームワークにおいて大事なことは、言語化された明示的メッセージをきちんと受発信することで、それさえ徹底されれば、余計なコミュニケーションのワザなど必要ない。メッセージが曖昧だから、察知し、気遣い、忖度するスキルや四の五の言わなくても通じる信頼感の醸成のワザが、補完的に求められているにすぎないのではないか。  よく知られるように、多民族が協働する多国籍企業内のコミュケーションは、意思や要求を明確に言葉にしてやり取りすることこそを必須とする。対人関係の常識の背景(=文化・習慣・感性)がまったく異なるから、すべては言葉にして伝えるのであって、「行間」を読むことなどそもそも前提しないのだ。すでに日本の会社も、年齢や価値観や他者感覚における多様性の組織であり、メッセージの言語化/明確化こそが、協働のためのコミュニケーションの原点だろう。  「言語化された明示的メッセージをきちんと受発信する」ための能力は、思考能力(=理解力や論展開力や概念化力など)と姿勢(=達成指向や誠実性や自律一貫性など)である。いわゆる対人能力(対人理解力、共感力、関係形成力など)ではない。人と協働するうえでは、共感や関係形成ができたほうがもちろんよいが、思考力や姿勢面で優秀であれば、あるべき対人行動を「演じる」ことができるから、その意味でも、生来の対人能力はなくても問題はないのである。    そもそも、仕事をするうえでコミュニケーションスキルが必須となったのは、人類の長い歴史のなかでは、ごくごく最近のことだ。自然に働きかけて直接に商材を得る仕事(=第一次産業)や自然界のモノを加工して商材を得る仕事(=第二次産業)では、身体的技能こそがコアスキルだった。例えば偏屈で人づきあいできない職人でも、モノづくりの腕が良ければそれだけで評価されていただろう。  就業者の大半が第三次産業、つまり人を相手にしたサービスを商材とする仕事に従事する現代になって、対人コミュニケーションが重要なスキルとして台頭してきた。自然を対象にするスキルやモノを対象にするスキルではなく、ヒトを対象にするスキルが重要視され、高度消費社会の進展とともに、対人能力は社会の基盤的なワザかのように見なされるようになったのだった。  技能があるだけでは許されずに、つねに対人配慮性や対人能力が求められる現在の状況は、しかし、人々を能力評価する眼を曇らせる。ヒューマンスキルは「人を動かし成果を拡大させる」能力ではあるが、もともとのアイディアや新しい機能や手法を生み出すのは、コンセプチャルスキルとテクニカルスキル。つまり、思考や身体の技能こそがパフォーマンスの源泉たりうるコアスキルだろう。  職人の方々は、よく「身体が覚える」とか「手で考える」と言う。近年、「身体性の復権」がイノベーションの鍵だといわれる意味でも、対人能力の偏重には気を付けなければいけないのではないか。

読書の弊害 | 人材開発

読書の弊害

とにかく本を読もう――ビジネスパーソンにとっての読書の効用を何度も書いてきた。 「管理職にとって大事なことは、みな本に書いてある」と強調し、ドラッカーやコッター等の古典的名著を次々読ませる経営幹部育成研修の成功例を紹介した。読書とは結局「自分を読むこと」であって、自己流のやり方を体系づけ整理するのが大人の読書だとも書いた。組織で成果を上げていくには、本を読まなくては始まらない。かつての広告コピーにあったように、そもそも「人は、本を読まねば、サルである」なのだ。 そのうえで、本を読むことには弊害もあることに注意しなければならない。たくさんの本を読むことが、「考える力」の劣化をもたらすことがあるのだ。なぜか。ともすると、情報や知識を求めて本を読む。方法を求めて本を読む。つまり、「答え」を求めて本を読むから、その繰り返しは、自分で考えるという行為をよこにおいてしまいがちだからだ。 結果、有用な知識を獲得できるけれども、自分なりにそれを実践に結び付けることにはならない。自身の固有の状況下で、自分はどうするか、どうすればよいかは、本には書かれていない。そここそを考えるのが、本の情報を消化する――つまりは、本を「使う」ことだが、知識や理屈や一般的答えを知る行為に注力するあまり、そこに至らなかったりする。 何らかの知見や答えを求めて本を読むことは、自分のアタマで考えることとイコールではないから、熱心で集中度の高い読書であるほど、知識は増えるけれども考える力は鍛えられないという悪しき側面を持つのだ。 何らかの企画をするときに、すぐに自分の経験や知識であてはめようとする――つまり、手持ちの処方箋でこなそうとして、その目的や課題の本質を深く考えない結果、的外れなアウトプットを出す輩が、えてしてこの手の「読書家」だったりする。当たり前だが、情報知識をどんなに集めても、思考力そのものは身につかない。知識獲得や整理の効率化や視野が広がるという意味で思考の役には立つけれども、地アタマは鍛えられない。 ではどうするか。受け身ではなく、攻撃的に本を読めばよいのである。知らないことを本から学ぶ、ではなく、自分の都合で本と議論し、本に突っ込みを入れ、分解したり統合したり横へ跳んだりして、本を蕩尽するのだ。本をしゃぶりつくすということもあれば、ほんの少しつまみ食いして読み捨てたっていい。むしろ行儀のわるい食い散らかしこそが、考える読書の醍醐味かもしれない。 たとえば、まず前書き後書きを一読し、目次を眺めて、仮説をたてる。著者の主張や結論の仮説ではない。自分の仕事や生活の問題課題への活用の仮説、どう使えるかの仮説である。あるいは世界認識の仮説、大げさに言えば世界と自己との関係課題を腑に落とす材料たりうるか、の希望的観測である。 その仮説を軸に、本のコンテンツに臨む。読みながら、仮説が修正されたり、仮説が木端みじんにされたりする。うまくいけば、仮説が検証されたり、新しい仮説が見えたりする。つまり、自分なりの仮説検証をもって読むことで、その本を、自分なりに意味づけることができる。  などというといかにも難しそうだが、簡単にコツをいえば、要は本に「答え」を求めるのではなく「問い」を求めればいい。仮説をもって本を読めば、読後には、いくつかの問いが心に浮かぶはずだ。だからむしろ、読み終わったあとに、必ず新たな問いを持つことを自身に強制して読む。つまり、問いを見つけるために読むということである。 本を読んで生まれた「問い(=問題意識)」は、本と読み手の相互作用の結果であり、なにより、自分で考えるからこそ問うことができるのだ。

意味はいらない? | その他

意味はいらない?

  異動したばかりの部署で作業の引継ぎを受けている人(Aさん)が、教える人(Bさん)に質問している。 A:「この作業ってなんか無駄だなぁ。なんのためにやるのかなぁ。やる意味を教えてくれない?」 B:「えッ? 私もそのようにしろと言われてやってきたので、知りません」 A:「だってどう見ても意味ないじゃない。そう思わないの?」 B:「考えたこともありません」 A:「!?・・・・・」  「なんのための作業か」を知らぬまま作業するBさんの問題とは、あきらかにBさんの上司の問題である。作業の「目的」や「意味」を必ず教えることが「正しい業務指示」の鉄則だからだ。目的がわからなければ、やりきる意欲もでないし応用も効かない。そもそも、作業者に責任感や主体性を求めていないか、そのことに気づかない無能な上司ということである。  しかしそれ以上に不気味なのは、Bさん本人である。何のためにやるのか=目の前の仕事の意義や意味、を知らずして人は働けるものなのか。まず目的を語れ、というのが業務指示の鉄則だというのも、そもそも人は、「仕事の有意義感によって仕事に前向きに臨める」というコトワリが前提されているからなのだ。  報償や強制によらず人をやる気にさせる要因(=内発的動機づけ要因)の最たるものは、「仕事そのもの」といわれる。仕事自体の面白さや魅力だったり、社会や会社への貢献実感だったり、キャリアアップにつながるからモチベーションがあがる。要は自分の目の前の仕事に「意味」があればいい。たとえばモチベーション論でよく知られるハックマン=オルダムの5つの職務要件でいえば、 ①Skill Variety  ②Task identity  ③Task significance の3つが、「意味ある仕事」の条件だ(残りの2つは、④Autonomy ⑤Feedback)。  平たく言えば、 ①自分の複数のスキルが生かされると実感でき ②仕事の全貌がわかり、担当職務の位置づけを理解していて ③重要性 (社会にとっての、自社にとっての、自部門にとっての、あるいは協働する仲間達にとっての…)がわかっている。  とくに大事なのは、②Task identity。たとえ分業の一端を担っている単純作業だとしても、仕事の全体像と関連する他職務との関係のなかでアイデンティファイされることで、人は自分の職務の有意味感を得る。そもそも「大人」とは、自身の状況を意味づけ関係づけないと生きていけない事情があるから、このようなモデルが成立するのだ。  赤ん坊が外界の刺激にさらされていく中で、意味や関係のなかでモノゴトを秩序づける修練を積んでいくことが、人の精神発達=つまり大人になるメカニズムである。そのように大人、つまり社会的存在になった人は、なにごとにも、意味や関係を見出そうする。もはや、無意味には耐えられないはずなのである。  大人であるはずのBさんはしかし、自身の職務遂行に際して、職務の意味を必要としなかったということである。  さて、Bさんをやる気にさせるにはどうしたらよいか。もしかするとBさんは、社会性や共同性(=関係の中での意味づけ)をはぐくむよりも、自身への関心や自分の流儀に閉じがちな成長をしてきたのかもしれない。だとすると、彼をその気にさせるボタンは、むしろ自己完結性の強化にこそあるのかもしれない。  さきのハックマン=オルダムの説でいえば残りの二つ、④Autonomy ⑤Feedback、自律性と結果の確認である。自分のやり方で業務をすすめ、都度、結果がどうなったかがわかる――仕事の全貌や意義ではなく、切り取られた目の前の職務だけについて自分の流儀で結果を出せること。そうした自己完結的な業務遂行がBさんのモチベーションにつながるのではないか。  というのはまったくの仮説である。ただ、Bさんタイプはときに作業者として優秀で高いパフォーマンスを出したりもするから、なにか定石どおりではない業務指示でモチベートする必要があるはずだ。もしかすると、Bさんの上司は無能どころか、多様性を踏まえて、たとえばこのような仮説を実践する手練れの管理職なのかもしれない。

概念化力を高める | 人材開発

概念化力を高める

 社会人としての基礎スキルの思考面の力といえば、「課題発見力」「計画力」「創造力」(=経済産業省社会人基礎力の「考え抜く力」)などといわれ、ベーススキル研修として、ロジカルシンキングや課題解決スキル、あるいは段取り力、プロジェクトマネジメントスキルといったテーマがよく取り上げられる。これらは、確かに大事は要素能力ではあるが、ビジネスマン、とくに管理職者にとって、もっとも大事な能力は「概念化力」である。  概念化力とは、状況の本質をとらえ、端的に表現する能力。それはビジネスシーンのあらゆる局面での基盤スキルであり、大半の「困った管理職」はその欠如に起因する。たとえば、大局観のない自部署の方針、目的を逸脱した対症的判断、要を得ない経営報告などなど、経営者を怒らせる管理職者たちはまず第一に概念化力に課題があるのだ。  報告を聞いていていらだち「要は何なんだ、一言で言え!」という怒号や、現状課題や実績から積み上げられた計画に対して「いったいどうしたいんだ、コンセプトがない!」という叱責は、実に日常的によく聞かれることではないか。この能力は、目的志向での職務遂行や的確なコミュニケーションにも直結する、つまりパフォーマンスを左右し、また、経験から学ぶための思考方法(=経験の本質をとらえ、他に展開できる)でもあるから、管理職に限らず、社会において仕事をする際のベーススキルでもある。  さて、そのようなキースキルである概念化力を、どう高めるか。残念ながら、概念化力向上トレーニングといった便利なものがないように、その育成方法は明確ではない。ただ2つの実務的なスキルが強く関係しているので、その向上は概念化力のブラッシュアップにつながる。  ひとつは、文章力だ。採用選考に文章を書かせる試験があるように、文章をみれば、いくつかのアセスメントディメンションでの評定ができる。それは、文章から信条や姿勢や問題意識を読み取れるからではなく、文章には純粋に思考力のレベルが顕れてしまうからだ。文章、とくにビジネス文書を書く能力とは、「本質抽出能力」と「論理展開能力」であり、だから能力評価にも使えるし、文章力を高めることでそれら能力向上のトレーニングができる。  例えば、我々のような仕事であれば、複数の経営幹部のインタビュー記録が大量にあって、それをもとにその会社の課題をまとめ200字以内の報告書に書き上げよ、といった演習をくりかえす。ここでは、情報を精査し、得られた内容を構造化し、関係や因果や相似を見極め、いくつかの課題にまとめ、分かりやすい順番で文章化する、そのプロセスが問われることになるから、このトレーニングによって「要約」というスキルを理解し向上させることができる。  要約力は、文章の内容(=コンテンツ)にかかわる能力だが、文章には内容とともに表現力も問われる。わかりやすく伝えることのベースは、論理展開力であってそれはロジカルライティング研修などで学べるが、もう一段上の表現上のワザがレトリック(=修辞)だ。レトリックは、読み手の印象を操作する法なので、ビジネス文章ではあまり使われないが、提案文書ではここぞという記述で有効だったりする。  レトリックの一つに比喩がある。直喩、隠喩(=メタファー)、換喩(=メトノミ―)など手法はさまざまだが、要は、伝えるべきモノゴトを別のものに置き換えて言うことによって、読み手の気づきや実感を喚起するテクニックだ。この置き換えが適切で成功するためには、置き換えるモノゴトとの共通性が妥当でなければならない。つまり、それぞれのモノゴトの本質をつかむ――概念化力が問われるのである。ゆえに、レトリックの訓練(=例えば相似によって横に跳ぶ演習)もまた、概念化力向上につながる。  もうひとつの、概念化力と関係する実務スキルは、デザイン力である。とりあえずは、パワーポイントの資料を美しく作れるようになるためのトレーニングから始めるのだっていい。「書類として美しくない」イコール「コンセプチャルでない」なのである。デザインとは、構成化と意匠化のワザであり、語源を「de-signare」というように、「脱-しるし(=signare)化」し、意味をカタチにすることなのだから。

愉楽の本屋 | 人材開発

愉楽の本屋

 かつて本屋は、ワンダーランドだった。子供のころは近所の本屋に入り浸っては、並ぶ背表紙に垣間見えるまだ見ぬ世界にわくわくしたし、大学の行き帰りには神保町を経由して、新本古本両にらみで本の街に遊んだ。両手に買った本を入れた紙袋を下げて歩いていると、まったく同じ姿の植草甚一さんとすれ違ったりしたものだった。  そんな日々は遠い昔、いまやすっかりアマゾンの上顧客になったせいか、本屋で長い時間を過ごすこともない。そもそも、ワンダーランドたる書店がもはやなくなってしまった。青山ブックセンターやリブロポートといった個性的な書店空間はなくなり、中小書店は廃業し、生き延びている大型書店の棚からは、大物量の本があることの魅力以外は感じられない。  かつて日参していた神保町の書泉グランデも三省堂書店も、行くことはない。アマゾンで欲しい本が買えるからこそ、書店には、出会いや発見を求めたいけれども、ありふれた分類で並ぶ大量な本たちからは予期せぬ邂逅はなかなか起こらないのだ。書店には、書店としての情報編集があるべきで、それこそが書店のアイデンティティであるはずなのに。  そんななかでただ一店、いまも独自の佇まいが快適でわざわざ出向く書店がある。神保町の東京堂書店だ。どの棚をみても、見飽きず、発見があり、ついつい大量購入してしまう。他の書店との違いが一目瞭然なのは、新刊書籍の置かれる1階レジ前のひとシマ。このシマの4辺は、①広い意味の文学系、②広い意味の科学系、③広い意味の社会系、④広い意味の美学系の本が並ぶ。  「広い意味の」と言っているのは、置かれる書籍が実に多種多彩だからだ。たとえば美学系のなかには、絵画やアートはもちろん、写真、広告、デザインから映画、演劇、役者、TVさらには本屋の本などの新刊がならぶ。ちなみに先日「プリズナー№6完全読本」を即買いしたが、こんなマニアックな新刊は他の書店の新刊書コーナーでは見かけない。  どこの書店の新刊コーナーにもあるような売れ線の平積みなどが前面にあったりはしない代わりに、さまざまな分野の新刊が小分けの平積みだったり棚にたてられたり、その並びの妙が際立っている。いろんな顔の本たちが集い、競い合い、感応したり相互作用する光景のすばらしさ。そこには、本を売る仕事としての明確な意思、目配り、大げさに言えば書店員という職業を選んだ者の矜持が感じられる。  2階3階の分野別のフロアも含めて、書店という「場」をどのように区切り、どの本を置くか、どのような並びにするか、がきちんと仕組まれている。その編集のワザ=本の選択とその配置が、個々の本を並びという関係の中で屹立させ、思わず手に取り、買う気になってしまうのである。  かつて百貨店がその売り場づくりを競った時代に流行った言葉でいえば、ビジュアルマーチャンダイジングである。本は、題名、著者、形状、意匠、素材質感が混交したオブジェであり、展示の仕方次第でいかように魅力的な「場」を作り上げることができる。書店はなによりそのことを追求してほしい。服やバッグといったファッションアイテムは、売り場では決して、サイズ別とか素材別とか色別に並べたりしないように。

変われる能力 | その他

変われる能力

 昔、ユビキタス(ubiquitous)という言葉が流行ったことがあった。いつでも、どこでも、誰でもコンピュータネットワークを使える社会を展望する用語だったが、いまや、もうスマートフォンによりそれは実現できていて、こんな言葉はことさらに使われることもなくなった。  インターネットをインフラとし、AIなどの先端技術は想像を絶する速さで作業を変えサービスを変え、働き方を変えていこうとしている。経営者の方々は、現在視点ではなく未来視点をもって、中長期の戦略を描こうと日々腐心されているが、10年後20年後の将来ですら、その経営環境を見極めることは難しい。  未来の自社の必要人材像とあるべき組織像を描き、今から、人材育成や新たな就業のしくみづくりに着手したいけれども、10年後20年後の人材要件=どんな専門性をもち、どんな能力をもち、何にモチベートされるのか。そのあるべき論はなかなか作り得ないのだ。それほど、第四次産業革命と呼ばれる今直面する環境は、先が読めない。 ただ、人材要件として、ひとつだけ確かなことがある。不安定で不確実で、複雑であいまいな状況の中で、対応できる能力。つまり、変化に対応し、新たな環境に適応する能力が求められるということだ。その能力とは、要は、「変われる能力」ではないか。何よりまず、自分が変わることができなければ、新しい発想や大胆な判断も生まれないし、環境適応とは適応できるように自分が変わることだからだ。 では、変われる能力とは、どのような能力か。 それには、まず人が変われない理由から考えてみるのがいい。常識や固定概念や過去のやり方が新しい発想や方法の創出を阻害する。それらは、今まで有効だったし、繰り返しのなかで強化され、堅固に出来上がっている。思考や認識が、そうした出来上がった枠組み(=パラダイム)に縛られているから、その外や異質な世界を自在に感じ、自身の考えを変え行動を変えることができないのだ。 であれば、第一に、パラダイムを完成させなければいいのではないか。ものを見る軸や整理のしかたを、常に、未完成の状態にしておいて、新しい事態に臨む。パラダイムをゆらいだ状態にとどめ、決して、定めないという自然体で変化をうけいれるということだ。その事態や事象を整理すべく、都度、適切な軸やフレームを創出するという意味の創造力。やわらかいアタマが大事とはそういうことではないか。 人の身体の免疫システムには「自己不完結性」という特徴があると、生命科学者の清水博さんに聞いたことがある。外敵が侵入してきたにとき、初めてその外敵に応じた適切な免疫システムが「生成する」。どんな外敵が侵入してくるかは、事前には分からないので、防御体制はできあがっていない(=完結していない)状態にある。だからこそ、都度、どんな外敵にも適応することができるのだ。 つまり、「今ある自分を変える」のではなく、環境との関係の中で、「都度、新しい自分になれる」こと。変われる能力とは、独自の、独立した「自分という完結」に決して至らないでいられる力といってもよい。いわば、自身を完成させないでいられる能力。大人としての成熟なんて、目指してはいけないのである。

成長幻想 | その他

成長幻想

 経済や社会の成長が必ずしも手放しでは喜べないことは、すでに誰もが知っている。その原動力となるテクノロジーの進化にも功罪ともにあることが指摘される。企業経営もやみくもな拡大指向ではない、「成長前提でないサステナビリティ」が表明されたりもする。 成長は、常に望ましいことであるというのは錯覚であって、もしかすると身の回りから地球規模に至るまで、成長とは単なる「変化」に過ぎないかもしれない。そしてその事情は、わたしたち人間についても同様なのではないか。 おぎゃあと生まれ、動物としては異例の長い保育期間を経て、20歳代でだいたい身体はできあがり、身体面では以降緩やかに衰えていくだけである。その一方で、心というか精神というか知性というか、つまり「人としての内面」は老年に至るまで成長を続けると言われる。近年は、高齢者になっても創造力だけは向上を続けるという希望観測めいた説まで聞かれるほどだ。  つまり、身体はある時で止まるが、加齢とともに、人ととしては成長する。さて、それは本当なのか。成長するとは、大人になるとは、要は、社会的存在としての自己を確立し社会のなかでできることが増えていくことである。自分のほしいままに振る舞う暴君=幼児が、親子関係のなかでアイデンティファイされ、家庭、学校のなかで前社会的な自己に気づき、社会に出て経験のなかで、社会内存在として自覚し行動し能力発揮できるようになる。  さまざまな欲望をコントロールしつつ、重要な欲望の充足のために努力し、社会のなかで、やりたいことの実現ややれることの拡大がなされる。プリミティブな言い方をすれば、昨日できなかったことが今日できるようになるのが、成長。というと、そのポジティブさは疑いようがないように思える。 しかし反面、成長とともに、昨日できたことが、今日できなくなることもあるのではないか。たとえば、なんにも縛られずに自由に自在に発想すること。とりとめのない想像の翼を無限に広げること。大人になると、そんなことをしてはいられないからだ。社会のなかの大人として生きていけるようになることとは、いろんなルールや枠組みや箍や常識や自己規制などなどにまみれることでもある。そこの葛藤から社会適応不全の病も出来する。  ある本に「成長とは、より頑なになっていくこと」とあった。よく見る頑固老人のみならず、心の自由を失っていくような成長のネガティブな一面を言い得ていると思う。ゆえに、人の成長も単なる変化に過ぎないとみる方が健全なのではないか。昨日の自分と今日の自分は違う、そのことこそが素晴らしいのである。

人を好きになるスキル | その他

人を好きになるスキル

 経営幹部育成のアセスメントとコーチングで定評ある人物がいる。アセスメントの結果明らかになった強みと弱みをベースに、強みを伸ばし、弱点を克服すべく、定期的なコーチングをしていくのだが、この人の凄さは、強みのまったくない、いわば箸にも棒にも掛からぬ人材であっても、明らかな成長を結果させることだ。  いったいいかなるワザを使うのか。聞くと、「要は、徹底した褒め殺しなんだよね」と笑って答える。さて、よくいわれる、褒めて伸ばすのポイントは、やみくもに褒めるのではなく、本人もよくできたと思っているあたりをきちんととらえて褒めることである。しかし、箸にも棒にも~~の人物であれば、できたと思えることがらを探すこと自体が難しい。そこをいかに褒め殺すのか。  いわば、褒める点がないのに褒めるということである。「それはねぇ、ふつうに褒めてもまったく届かないし、効果ない。ただね、褒めてくれる相手が、本当に自分のことを好きで褒めてくれるとなれば、がぜんやる気になるんだ」と彼はいう。褒められるはずもないのに、おためごかしでなく褒めてくれる、その本気さは、自分への好意に裏打ちされているからこそ伝わる。そこで素直に期待に応えようと頑張るということである。  「だからさ、まず、その人を好きになるんだよ」とその秘訣を語る。しかし、好き嫌いなんて生理的な感覚を、意思をもって制御できるんだろうか。ありていにいえば、コーチングのプロとして成果を出すために、その人を好きになる。しかも、本気で好きにならなければ、効果はないのだ。仕事のためとはいえ、「この人を好きになろう」と決めて好きになるなんて、器用なことができるのか。  と疑問を呈すると、「それができなきゃだめでしょ。そもそも部下を好きになるスキルこそ、管理職者がもつべき基本スキルなんだから」と彼は答える。では、好きになるにはどうするか。「そのためには、まず、その人をひとりの人間として認め、その人ならではの人となりに興味をもつことだ」と続けた。  なるほど、好きになるとは言葉の綾で、まず第一に、その人そのものを認める、というか畏敬の念を持つことが大事なのだ。能力とか出来不出来とか性格的問題とか以前に、ひとりの人間としての尊厳に敬意を払うことができれば、その態度はおのずと自分への好意としてうけとられるのだろう。  例えば、医療現場でよく語られる医者の基本姿勢というものがある。医者が投薬をするとき、なぜその薬が必要かを説明する。ともすれば、専門家の助ける人=医者と、素人の助けを求めている人=患者の関係のなかで、一方的なコミュニケーションになることが多い。しかしその際に、なにより患者自身の意思や納得感を尊重して、つまり畏敬の念をもって接することがいちばん大事で、それにより、投薬効果も高まるといわれている。  そういえば彼から、人を切り捨てるような言い方を聞いたことがない。悪口や批判はいうけれども、あたたかい。どんな人にも、人としての尊厳、平たく言えば、それぞれの来し方行く末に対して敬意を払い、かつ、その個別性をなにより面白がっているように見える。そう、その人を面白がる=興味を持つ、これが第二のポイントなのである。  「人に興味を持つ」というと、もうひとり思い出す人物がいる。もう20年以上前のころだが、優秀な管理職者だなぁと常々感心していた取引先の課長がいた。会社もその課長の管理能力を高く評価していて、どこの部署でも鼻つまみ者になる問題社員ばかりが彼の課員として次々送り込まれてきていた。そこでちゃんと「再生」させるのが見事だったが、いかにもたいへんな仕事だな、と思って、その苦労を聞いてみると、愉しそうにこう言った。  「いやすごく面白い。コイツは、ここを押すと、動く気になる、アイツには、この言葉が響く、とか、みんな違う。それぞれのスイッチを探し出していくのがたまらない醍醐味なんです」

市場価値向上プログラム | 人材開発

市場価値向上プログラム

 自分は労働市場でどう評価されるか。今のパフォーマンスや今までのキャリアは、社外ではどれくらい価値があり、いくらの値がつくのか。そのことは、転職の際に初めてわかることであって、自社にいる限りは知り得ない。そうした企業人の市場価値を在職中に測り、その向上を促進するプログラムをつくったことがある。  市場価値が転職の際に問われるとすれば、そこには、いくらで売れるかを決めるいくつかの評価基準があるはずである。まずはその専門家の知見を参考にするために、「人材流通」業のプロたち―ヘッドハンター、サーチファーム、人材紹介業の方々に集まってもらい、サンプル人材のレジュメだけをみて、その市場価値を検討するミーティングを重ねた。  人材を「商品」として扱うだけに、彼らの見方はシビアでかつ共通性がある。ただそれは職人的な暗黙知でそれを言語化するためのセッションだった。そこで、明示化された観点を整理するとともに、それが読み取りやすいレジュメ書式を開発する。その観点ごとにグレーディングの基準を定めるという風に市場価値診断の枠組みを作っていった。そこで分かったことは、レジュメだけで市場価値の有無が相当程度判断できるということだった。  なぜか。レジュメによって職歴そのものが評価できるということ以上に、自身の職歴を「どう書いているか」がその人の能力や成長可能性、成果発揮可能性を示すのである。自身の経験をどう書くか、とは、どう自己認識しているか、と同義だからだ。つまり、自分の経験を客観視し、評価する、その姿勢や認識力がレジュメの文章には浮き彫りになる。  商品としてその人材が売れるためには、たとえば、30歳を超えたらマネジメント経験がなければならないし、35歳を超えたらマネジメントスタイルができていなければならないというのが労働市場の常識の一つである。マネジメントスタイルができているか否か、とは、自身のマネジメントの強み弱みや優先順位付けの付け方等のクセがわかっているか否かで判断できる。  それは通常、インタビューで聞き判断することだが、たとえばレジュメ書式に「成功した経験」に関する記載項目をうまく工夫して用意すれば、その記述から十分に読み取ることができる。「何を」成功としてとらえているか、「なぜ」成功したと認識しているか、、、、つまりは、経験やキャリアをどう意味づけているかが見えるし、自己認識力のレベルもまた見える。  自己認識力とは、管理職にもっとも必要な能力であり、それはまた成長できるためのベース能力でもある。それが、在籍する企業固有でない変幻自在のキャリアを作り上げる。ゆえに転職で問われる能力とは、汎用的に発揮、貢献できそうな能力(=エンプロイアビリティ)はもちろんだか、より大事なのはどのような環境であっても、成長し成果発揮し新しいキャリアを築けていけそうな能力(=キャリアコンピテンシー)である。市場価値向上プログラムは、この能力の向上もまた意図するものとなったのだった。

Willingly Follow | その他

Willingly Follow

 リーダーシップスキルといえば、例えば、「広い視野もって先を展望でき、新たにビジョニングでき、自分の言葉でその意味を語れて、人々を動機づけられる能力(=変革リーダー)」、あるいは、「人々の思いを傾聴し、主体性を喚起でき、実行を支援しつつ、チームを活性化しベクトルを揃えられる能力(=サーバントリーダー)」など様々に言われる。  そうしたスキルを磨くトレーニングは想定できるものの、結局のところリーダーとして一番大事ものは「人間力」であって、こればかりはなかなか育成できない(=リーダーシップ資質論)という声も根強い。確かに、現実の組織のなかで、明らかにリーダーシップのある人物の共通項としての人間力はわかりやすい。さて、そのような「人間力」は育成できないものなのか。 そもそも、優れたリーダーたる人間力って何なのだろう。胆力、懐の深さ、人として魅力的、光輪めく眩しさ、溢れるエネルギー、不屈の闘志、有能なれど無邪気、揺るがぬ正義感、信念、不断の情熱と意志、、、、そんな風に人間力要件を上げていったらとてもリーダーなんかになれそうもない。もっとハードルを下げて言えば「この人になら付いて行こう」と思うかどうか、ということではないか。  そうしたリーダーシップにおける人間力をうまく言語化しているのは、有名なクーゼス&ポズナーのリーダーシップ定義だ。いわく、「うしろを振り返ると喜んでついてくるフォロワーがいるか」。大事なのは、そのフォロワーは仕方なくついていくのではなく、「喜んでついていく(=Willingly Follow)」、という点。権威や強制や諦観によらず、自ら進んで主体的にリーダーに従うということだ。  クーゼスとポズナーは数千人のエグゼクティブに「ついていきたいリーダー」の要件を聞き、20項目にまとめた。それをチェックリストとして、5大陸10万人超の人々が7項目を選んだ長期間かつ広範囲な調査結果がよく知られている。その結果、30年間にわたって以下の4項目が常に上位4位だった。   ・正直である ・先見の明がある ・仕事ができる ・やる気にさせる  うち、「正直」はほぼ常に第一位だった。これはなかなか腑に落ちる結果である。これらをじっと眺めれば、「何より正直で表裏なく言葉通りに行動し、仕事に対して情熱をもち、人を導く知識とスキルをもち、どこに向かうのかを知っている」といったリーダー像が浮かび、要は、「信頼できるかどうか」がカギなのだとわかる。  あまりにも当たり前だが、信頼できないリーダーには誰もついていきたくないし、リーダーが信頼されていなければどんなメッセージも信頼されないのだ。この事情は、社長であれ身近な上司であれ、誰しもがしばしば体感する原理である。  信頼される行動とはなにか。これなら、この4項目からも推察できるし、他山の石的な観点もふくめ経験の中でいろいろと要素分解できるだろう。それを自覚し行動の癖付けを徹底することによって、人間力のベースと思しき信頼性の向上は可能なはずである。

弱連結のすすめ | その他

弱連結のすすめ

 アウトプレースメント(=再就職支援)サービスの現場には、興味深いノウハウがいくつかある。日本の場合、多くは大手企業をやめて再就職先を探すのだから、たいてい行先は以前よりも小さな会社となり、ともすれば元気をなくしがちな就職活動の促進や報酬ギャップに悩んで逡巡する「決定」の促進のために有効なさまざまな策が求められる。  たとえば、求職者同士でグループをつくって求職活動中定期的に集り、成功例や失敗例を共有して、相互の励ましやアドバイスで集団として前向きなエネルギーの再生産をはかる「グループカウンセリング」。これは、グループダイナミクスによる活動意欲の維持向上のワザである。また、自己分析として「願望」の棚卸を徹底的に行い、「自分のやりたいこと」を改めてこの機会に描きだすことは、納得した意思決定の背中を押す効用がある。 こうしたプラグマティックな手法のなかで、人脈の棚卸しというものがある。転職活動に使うために社外やプライベートで待っている個人のさまざま人的ネットワークを振りかえり洗い出すものだが、大事なことは、ここで見えてきたキーマンに対して「転職先の紹介」を頼んではいけないということだ。突然何年ぶりかで接触しても、そんなうまい話があるはずがない。なにより、そんな重たい依頼をしたら当の相手がしんどくて、きっと会うことも逡巡するだろう。 ポイントは、紹介のハードルを下げること。たとえば、「今後の行先と考える業界の仕事の実態はどんな人に聞けばいいか」といった相談を持ち掛ける。もし聞けるような人を知っていれば、その人を紹介してくれないかと頼む。そこで紹介されたその人に求めるのも転職先の紹介ではなくて、あくまでももっと手前の情報収集にとどめる。このような形で、人から人へたどっていく中で、有用な情報を得たり、新たな気づきを得たり、運よく転職につながるような直接的な機会に出会うことが結果したりする。 ネットワーク論でいうところの「弱連結」をたどるというのが、ミソなのだ。 人的ネットワークには、Strong Tie(強連結)とWeak Tie(弱連結)がある。強い結びつきとは、相手を良く知っていて、思いを同じくし、具体的に支援しあい行動を共にする相手である。その意味では、同質的で閉じた関係性。それに対して、弱い結びつきとは、例えば社外の人でどこかのパーティで会っただけのつきあいとか知人の知人とか、オープンで自身とのつながりは薄い関係である。その分、ふだんの強連結の相手(例えば社内の同僚)にはない、異質性や未知の情報が交通する関係性である。ゆえに、「弱連結」はイノベーションにつながるとされ、「弱連結の強味」がネットワ―キングにおけるパラドックスとしてよく知られる。    であれば、社内においても弱連結ネットワークを作っておくのがよいのではないか。直接の業務上の関係(=強連結)ではない、ゆるいけれども顔の見える多様な関係。それは、いまや日常的に求められる新しい仕事の仕方(=イノベーション)を喚起するかもしれないし、社内での転職(=キャリアチェンジ)の契機になるかもしれないから。

目標の二重管理 | その他

目標の二重管理

 目標管理のなかで「目標難易度」というものがある。難易度高であれば、1.2とか難易度低ならば0.8とかの係数が決められていて、達成度に乗じるという仕組みである。といっても、目標そのものに達成が難しい目標と易しい目標があるという意味ではない。その目標を「担う人物にとっての難易度」である。  ここでよくある誤解は、「担う人物にとっての難易度」を、その人の経験や能力に対しての妥当性の度合ととらえること。つまり、ベテランなら妥当な目標だが新任者が同じ目標を担うなら難易度1.2だとつい考えてしまう。これは間違いで、その人が属する等級に即して妥当な目標か、とみるのが正しい難易度判断である。  要員バランス等のせいで、上位等級レベルの目標や逆に下位等級レベルの目標を担わなければならないときに、前者は難易度1.2の目標、後者は難易度0.8の目標ということになる。あくまでも在籍等級だけが基準になるので、ベテランだろうが駆け出しだろうが、同等級であれば、同じレベルの目標を担い、難易度は1.0である。  さて、となると「それじゃあ、組織目標が達成できないじゃないか」と困惑するマネジャーもでてくる。組織目標が200で構成員が2人の組織があるとする。2人は同等級だとすると、それぞれの目標は同じ100。ただし、Aさんはベテラン、Bさんは異動してきたばかりのニューメンバー。目標管理としてはそれで正しいが、組織マネジメントとしては困ったことになる。  Bさんは、どうがんばっても80しかできない。Aさんは余裕で目標達成。とすると組織としては、180で目標未達となってしまうからだ。さてどうするか。このマネジャーは考えた。目標管理のルールはわかるものの、現場としては組織目標達成をしなければならない。そうか、二重の目標管理をやってしまおう、と。つまり、人事管理上の目標と組織管理上の目標をわけてしまったのだった。  Aさんの目標は120、Bさんの目標は80と設定して、組織マネジメントを行う。  Aさんに対しては、「君の目標は120。これを必達してくれ。ただ目標達成すれば業績評価は100%ではなく120%とする」と言う。  Bさんに対しては、「君の目標は80。これを必達してくれ。ただ君の等級としては低い目標なので、達成しても業績評価は80%だ。早く力をつけて100の目標を担えるようになってくれ」と言う。  外形的には、人事管理における目標管理として正しくないかもしれない。しかし目標管理それ自体は目的ではなく手段である。なんのための手段かといえば、組織目標達成と成果配分と人材育成。「二重管理の意味」が、上司部下の間でしっかりと握れていれば、これら目的は達成できるのだからこの逸脱は許容できるのではないか。  何より評価制度は、管理職者が意思をもって工夫し活用すべきマネジメントの道具であるのだから。