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吉岡 宏敏

column
愉楽の本屋 | 人材開発

愉楽の本屋

 かつて本屋は、ワンダーランドだった。子供のころは近所の本屋に入り浸っては、並ぶ背表紙に垣間見えるまだ見ぬ世界にわくわくしたし、大学の行き帰りには神保町を経由して、新本古本両にらみで本の街に遊んだ。両手に買った本を入れた紙袋を下げて歩いていると、まったく同じ姿の植草甚一さんとすれ違ったりしたものだった。  そんな日々は遠い昔、いまやすっかりアマゾンの上顧客になったせいか、本屋で長い時間を過ごすこともない。そもそも、ワンダーランドたる書店がもはやなくなってしまった。青山ブックセンターやリブロポートといった個性的な書店空間はなくなり、中小書店は廃業し、生き延びている大型書店の棚からは、大物量の本があることの魅力以外は感じられない。  かつて日参していた神保町の書泉グランデも三省堂書店も、行くことはない。アマゾンで欲しい本が買えるからこそ、書店には、出会いや発見を求めたいけれども、ありふれた分類で並ぶ大量な本たちからは予期せぬ邂逅はなかなか起こらないのだ。書店には、書店としての情報編集があるべきで、それこそが書店のアイデンティティであるはずなのに。  そんななかでただ一店、いまも独自の佇まいが快適でわざわざ出向く書店がある。神保町の東京堂書店だ。どの棚をみても、見飽きず、発見があり、ついつい大量購入してしまう。他の書店との違いが一目瞭然なのは、新刊書籍の置かれる1階レジ前のひとシマ。このシマの4辺は、①広い意味の文学系、②広い意味の科学系、③広い意味の社会系、④広い意味の美学系の本が並ぶ。  「広い意味の」と言っているのは、置かれる書籍が実に多種多彩だからだ。たとえば美学系のなかには、絵画やアートはもちろん、写真、広告、デザインから映画、演劇、役者、TVさらには本屋の本などの新刊がならぶ。ちなみに先日「プリズナー№6完全読本」を即買いしたが、こんなマニアックな新刊は他の書店の新刊書コーナーでは見かけない。  どこの書店の新刊コーナーにもあるような売れ線の平積みなどが前面にあったりはしない代わりに、さまざまな分野の新刊が小分けの平積みだったり棚にたてられたり、その並びの妙が際立っている。いろんな顔の本たちが集い、競い合い、感応したり相互作用する光景のすばらしさ。そこには、本を売る仕事としての明確な意思、目配り、大げさに言えば書店員という職業を選んだ者の矜持が感じられる。  2階3階の分野別のフロアも含めて、書店という「場」をどのように区切り、どの本を置くか、どのような並びにするか、がきちんと仕組まれている。その編集のワザ=本の選択とその配置が、個々の本を並びという関係の中で屹立させ、思わず手に取り、買う気になってしまうのである。  かつて百貨店がその売り場づくりを競った時代に流行った言葉でいえば、ビジュアルマーチャンダイジングである。本は、題名、著者、形状、意匠、素材質感が混交したオブジェであり、展示の仕方次第でいかように魅力的な「場」を作り上げることができる。書店はなによりそのことを追求してほしい。服やバッグといったファッションアイテムは、売り場では決して、サイズ別とか素材別とか色別に並べたりしないように。

変われる能力 | その他

変われる能力

 昔、ユビキタス(ubiquitous)という言葉が流行ったことがあった。いつでも、どこでも、誰でもコンピュータネットワークを使える社会を展望する用語だったが、いまや、もうスマートフォンによりそれは実現できていて、こんな言葉はことさらに使われることもなくなった。  インターネットをインフラとし、AIなどの先端技術は想像を絶する速さで作業を変えサービスを変え、働き方を変えていこうとしている。経営者の方々は、現在視点ではなく未来視点をもって、中長期の戦略を描こうと日々腐心されているが、10年後20年後の将来ですら、その経営環境を見極めることは難しい。  未来の自社の必要人材像とあるべき組織像を描き、今から、人材育成や新たな就業のしくみづくりに着手したいけれども、10年後20年後の人材要件=どんな専門性をもち、どんな能力をもち、何にモチベートされるのか。そのあるべき論はなかなか作り得ないのだ。それほど、第四次産業革命と呼ばれる今直面する環境は、先が読めない。 ただ、人材要件として、ひとつだけ確かなことがある。不安定で不確実で、複雑であいまいな状況の中で、対応できる能力。つまり、変化に対応し、新たな環境に適応する能力が求められるということだ。その能力とは、要は、「変われる能力」ではないか。何よりまず、自分が変わることができなければ、新しい発想や大胆な判断も生まれないし、環境適応とは適応できるように自分が変わることだからだ。 では、変われる能力とは、どのような能力か。 それには、まず人が変われない理由から考えてみるのがいい。常識や固定概念や過去のやり方が新しい発想や方法の創出を阻害する。それらは、今まで有効だったし、繰り返しのなかで強化され、堅固に出来上がっている。思考や認識が、そうした出来上がった枠組み(=パラダイム)に縛られているから、その外や異質な世界を自在に感じ、自身の考えを変え行動を変えることができないのだ。 であれば、第一に、パラダイムを完成させなければいいのではないか。ものを見る軸や整理のしかたを、常に、未完成の状態にしておいて、新しい事態に臨む。パラダイムをゆらいだ状態にとどめ、決して、定めないという自然体で変化をうけいれるということだ。その事態や事象を整理すべく、都度、適切な軸やフレームを創出するという意味の創造力。やわらかいアタマが大事とはそういうことではないか。 人の身体の免疫システムには「自己不完結性」という特徴があると、生命科学者の清水博さんに聞いたことがある。外敵が侵入してきたにとき、初めてその外敵に応じた適切な免疫システムが「生成する」。どんな外敵が侵入してくるかは、事前には分からないので、防御体制はできあがっていない(=完結していない)状態にある。だからこそ、都度、どんな外敵にも適応することができるのだ。 つまり、「今ある自分を変える」のではなく、環境との関係の中で、「都度、新しい自分になれる」こと。変われる能力とは、独自の、独立した「自分という完結」に決して至らないでいられる力といってもよい。いわば、自身を完成させないでいられる能力。大人としての成熟なんて、目指してはいけないのである。

成長幻想 | その他

成長幻想

 経済や社会の成長が必ずしも手放しでは喜べないことは、すでに誰もが知っている。その原動力となるテクノロジーの進化にも功罪ともにあることが指摘される。企業経営もやみくもな拡大指向ではない、「成長前提でないサステナビリティ」が表明されたりもする。 成長は、常に望ましいことであるというのは錯覚であって、もしかすると身の回りから地球規模に至るまで、成長とは単なる「変化」に過ぎないかもしれない。そしてその事情は、わたしたち人間についても同様なのではないか。 おぎゃあと生まれ、動物としては異例の長い保育期間を経て、20歳代でだいたい身体はできあがり、身体面では以降緩やかに衰えていくだけである。その一方で、心というか精神というか知性というか、つまり「人としての内面」は老年に至るまで成長を続けると言われる。近年は、高齢者になっても創造力だけは向上を続けるという希望観測めいた説まで聞かれるほどだ。  つまり、身体はある時で止まるが、加齢とともに、人ととしては成長する。さて、それは本当なのか。成長するとは、大人になるとは、要は、社会的存在としての自己を確立し社会のなかでできることが増えていくことである。自分のほしいままに振る舞う暴君=幼児が、親子関係のなかでアイデンティファイされ、家庭、学校のなかで前社会的な自己に気づき、社会に出て経験のなかで、社会内存在として自覚し行動し能力発揮できるようになる。  さまざまな欲望をコントロールしつつ、重要な欲望の充足のために努力し、社会のなかで、やりたいことの実現ややれることの拡大がなされる。プリミティブな言い方をすれば、昨日できなかったことが今日できるようになるのが、成長。というと、そのポジティブさは疑いようがないように思える。 しかし反面、成長とともに、昨日できたことが、今日できなくなることもあるのではないか。たとえば、なんにも縛られずに自由に自在に発想すること。とりとめのない想像の翼を無限に広げること。大人になると、そんなことをしてはいられないからだ。社会のなかの大人として生きていけるようになることとは、いろんなルールや枠組みや箍や常識や自己規制などなどにまみれることでもある。そこの葛藤から社会適応不全の病も出来する。  ある本に「成長とは、より頑なになっていくこと」とあった。よく見る頑固老人のみならず、心の自由を失っていくような成長のネガティブな一面を言い得ていると思う。ゆえに、人の成長も単なる変化に過ぎないとみる方が健全なのではないか。昨日の自分と今日の自分は違う、そのことこそが素晴らしいのである。

人を好きになるスキル | その他

人を好きになるスキル

 経営幹部育成のアセスメントとコーチングで定評ある人物がいる。アセスメントの結果明らかになった強みと弱みをベースに、強みを伸ばし、弱点を克服すべく、定期的なコーチングをしていくのだが、この人の凄さは、強みのまったくない、いわば箸にも棒にも掛からぬ人材であっても、明らかな成長を結果させることだ。  いったいいかなるワザを使うのか。聞くと、「要は、徹底した褒め殺しなんだよね」と笑って答える。さて、よくいわれる、褒めて伸ばすのポイントは、やみくもに褒めるのではなく、本人もよくできたと思っているあたりをきちんととらえて褒めることである。しかし、箸にも棒にも~~の人物であれば、できたと思えることがらを探すこと自体が難しい。そこをいかに褒め殺すのか。  いわば、褒める点がないのに褒めるということである。「それはねぇ、ふつうに褒めてもまったく届かないし、効果ない。ただね、褒めてくれる相手が、本当に自分のことを好きで褒めてくれるとなれば、がぜんやる気になるんだ」と彼はいう。褒められるはずもないのに、おためごかしでなく褒めてくれる、その本気さは、自分への好意に裏打ちされているからこそ伝わる。そこで素直に期待に応えようと頑張るということである。  「だからさ、まず、その人を好きになるんだよ」とその秘訣を語る。しかし、好き嫌いなんて生理的な感覚を、意思をもって制御できるんだろうか。ありていにいえば、コーチングのプロとして成果を出すために、その人を好きになる。しかも、本気で好きにならなければ、効果はないのだ。仕事のためとはいえ、「この人を好きになろう」と決めて好きになるなんて、器用なことができるのか。  と疑問を呈すると、「それができなきゃだめでしょ。そもそも部下を好きになるスキルこそ、管理職者がもつべき基本スキルなんだから」と彼は答える。では、好きになるにはどうするか。「そのためには、まず、その人をひとりの人間として認め、その人ならではの人となりに興味をもつことだ」と続けた。  なるほど、好きになるとは言葉の綾で、まず第一に、その人そのものを認める、というか畏敬の念を持つことが大事なのだ。能力とか出来不出来とか性格的問題とか以前に、ひとりの人間としての尊厳に敬意を払うことができれば、その態度はおのずと自分への好意としてうけとられるのだろう。  例えば、医療現場でよく語られる医者の基本姿勢というものがある。医者が投薬をするとき、なぜその薬が必要かを説明する。ともすれば、専門家の助ける人=医者と、素人の助けを求めている人=患者の関係のなかで、一方的なコミュニケーションになることが多い。しかしその際に、なにより患者自身の意思や納得感を尊重して、つまり畏敬の念をもって接することがいちばん大事で、それにより、投薬効果も高まるといわれている。  そういえば彼から、人を切り捨てるような言い方を聞いたことがない。悪口や批判はいうけれども、あたたかい。どんな人にも、人としての尊厳、平たく言えば、それぞれの来し方行く末に対して敬意を払い、かつ、その個別性をなにより面白がっているように見える。そう、その人を面白がる=興味を持つ、これが第二のポイントなのである。  「人に興味を持つ」というと、もうひとり思い出す人物がいる。もう20年以上前のころだが、優秀な管理職者だなぁと常々感心していた取引先の課長がいた。会社もその課長の管理能力を高く評価していて、どこの部署でも鼻つまみ者になる問題社員ばかりが彼の課員として次々送り込まれてきていた。そこでちゃんと「再生」させるのが見事だったが、いかにもたいへんな仕事だな、と思って、その苦労を聞いてみると、愉しそうにこう言った。  「いやすごく面白い。コイツは、ここを押すと、動く気になる、アイツには、この言葉が響く、とか、みんな違う。それぞれのスイッチを探し出していくのがたまらない醍醐味なんです」

市場価値向上プログラム | 人材開発

市場価値向上プログラム

 自分は労働市場でどう評価されるか。今のパフォーマンスや今までのキャリアは、社外ではどれくらい価値があり、いくらの値がつくのか。そのことは、転職の際に初めてわかることであって、自社にいる限りは知り得ない。そうした企業人の市場価値を在職中に測り、その向上を促進するプログラムをつくったことがある。  市場価値が転職の際に問われるとすれば、そこには、いくらで売れるかを決めるいくつかの評価基準があるはずである。まずはその専門家の知見を参考にするために、「人材流通」業のプロたち―ヘッドハンター、サーチファーム、人材紹介業の方々に集まってもらい、サンプル人材のレジュメだけをみて、その市場価値を検討するミーティングを重ねた。  人材を「商品」として扱うだけに、彼らの見方はシビアでかつ共通性がある。ただそれは職人的な暗黙知でそれを言語化するためのセッションだった。そこで、明示化された観点を整理するとともに、それが読み取りやすいレジュメ書式を開発する。その観点ごとにグレーディングの基準を定めるという風に市場価値診断の枠組みを作っていった。そこで分かったことは、レジュメだけで市場価値の有無が相当程度判断できるということだった。  なぜか。レジュメによって職歴そのものが評価できるということ以上に、自身の職歴を「どう書いているか」がその人の能力や成長可能性、成果発揮可能性を示すのである。自身の経験をどう書くか、とは、どう自己認識しているか、と同義だからだ。つまり、自分の経験を客観視し、評価する、その姿勢や認識力がレジュメの文章には浮き彫りになる。  商品としてその人材が売れるためには、たとえば、30歳を超えたらマネジメント経験がなければならないし、35歳を超えたらマネジメントスタイルができていなければならないというのが労働市場の常識の一つである。マネジメントスタイルができているか否か、とは、自身のマネジメントの強み弱みや優先順位付けの付け方等のクセがわかっているか否かで判断できる。  それは通常、インタビューで聞き判断することだが、たとえばレジュメ書式に「成功した経験」に関する記載項目をうまく工夫して用意すれば、その記述から十分に読み取ることができる。「何を」成功としてとらえているか、「なぜ」成功したと認識しているか、、、、つまりは、経験やキャリアをどう意味づけているかが見えるし、自己認識力のレベルもまた見える。  自己認識力とは、管理職にもっとも必要な能力であり、それはまた成長できるためのベース能力でもある。それが、在籍する企業固有でない変幻自在のキャリアを作り上げる。ゆえに転職で問われる能力とは、汎用的に発揮、貢献できそうな能力(=エンプロイアビリティ)はもちろんだか、より大事なのはどのような環境であっても、成長し成果発揮し新しいキャリアを築けていけそうな能力(=キャリアコンピテンシー)である。市場価値向上プログラムは、この能力の向上もまた意図するものとなったのだった。

Willingly Follow | その他

Willingly Follow

 リーダーシップスキルといえば、例えば、「広い視野もって先を展望でき、新たにビジョニングでき、自分の言葉でその意味を語れて、人々を動機づけられる能力(=変革リーダー)」、あるいは、「人々の思いを傾聴し、主体性を喚起でき、実行を支援しつつ、チームを活性化しベクトルを揃えられる能力(=サーバントリーダー)」など様々に言われる。  そうしたスキルを磨くトレーニングは想定できるものの、結局のところリーダーとして一番大事ものは「人間力」であって、こればかりはなかなか育成できない(=リーダーシップ資質論)という声も根強い。確かに、現実の組織のなかで、明らかにリーダーシップのある人物の共通項としての人間力はわかりやすい。さて、そのような「人間力」は育成できないものなのか。 そもそも、優れたリーダーたる人間力って何なのだろう。胆力、懐の深さ、人として魅力的、光輪めく眩しさ、溢れるエネルギー、不屈の闘志、有能なれど無邪気、揺るがぬ正義感、信念、不断の情熱と意志、、、、そんな風に人間力要件を上げていったらとてもリーダーなんかになれそうもない。もっとハードルを下げて言えば「この人になら付いて行こう」と思うかどうか、ということではないか。  そうしたリーダーシップにおける人間力をうまく言語化しているのは、有名なクーゼス&ポズナーのリーダーシップ定義だ。いわく、「うしろを振り返ると喜んでついてくるフォロワーがいるか」。大事なのは、そのフォロワーは仕方なくついていくのではなく、「喜んでついていく(=Willingly Follow)」、という点。権威や強制や諦観によらず、自ら進んで主体的にリーダーに従うということだ。  クーゼスとポズナーは数千人のエグゼクティブに「ついていきたいリーダー」の要件を聞き、20項目にまとめた。それをチェックリストとして、5大陸10万人超の人々が7項目を選んだ長期間かつ広範囲な調査結果がよく知られている。その結果、30年間にわたって以下の4項目が常に上位4位だった。   ・正直である ・先見の明がある ・仕事ができる ・やる気にさせる  うち、「正直」はほぼ常に第一位だった。これはなかなか腑に落ちる結果である。これらをじっと眺めれば、「何より正直で表裏なく言葉通りに行動し、仕事に対して情熱をもち、人を導く知識とスキルをもち、どこに向かうのかを知っている」といったリーダー像が浮かび、要は、「信頼できるかどうか」がカギなのだとわかる。  あまりにも当たり前だが、信頼できないリーダーには誰もついていきたくないし、リーダーが信頼されていなければどんなメッセージも信頼されないのだ。この事情は、社長であれ身近な上司であれ、誰しもがしばしば体感する原理である。  信頼される行動とはなにか。これなら、この4項目からも推察できるし、他山の石的な観点もふくめ経験の中でいろいろと要素分解できるだろう。それを自覚し行動の癖付けを徹底することによって、人間力のベースと思しき信頼性の向上は可能なはずである。

弱連結のすすめ | その他

弱連結のすすめ

 アウトプレースメント(=再就職支援)サービスの現場には、興味深いノウハウがいくつかある。日本の場合、多くは大手企業をやめて再就職先を探すのだから、たいてい行先は以前よりも小さな会社となり、ともすれば元気をなくしがちな就職活動の促進や報酬ギャップに悩んで逡巡する「決定」の促進のために有効なさまざまな策が求められる。  たとえば、求職者同士でグループをつくって求職活動中定期的に集り、成功例や失敗例を共有して、相互の励ましやアドバイスで集団として前向きなエネルギーの再生産をはかる「グループカウンセリング」。これは、グループダイナミクスによる活動意欲の維持向上のワザである。また、自己分析として「願望」の棚卸を徹底的に行い、「自分のやりたいこと」を改めてこの機会に描きだすことは、納得した意思決定の背中を押す効用がある。 こうしたプラグマティックな手法のなかで、人脈の棚卸しというものがある。転職活動に使うために社外やプライベートで待っている個人のさまざま人的ネットワークを振りかえり洗い出すものだが、大事なことは、ここで見えてきたキーマンに対して「転職先の紹介」を頼んではいけないということだ。突然何年ぶりかで接触しても、そんなうまい話があるはずがない。なにより、そんな重たい依頼をしたら当の相手がしんどくて、きっと会うことも逡巡するだろう。 ポイントは、紹介のハードルを下げること。たとえば、「今後の行先と考える業界の仕事の実態はどんな人に聞けばいいか」といった相談を持ち掛ける。もし聞けるような人を知っていれば、その人を紹介してくれないかと頼む。そこで紹介されたその人に求めるのも転職先の紹介ではなくて、あくまでももっと手前の情報収集にとどめる。このような形で、人から人へたどっていく中で、有用な情報を得たり、新たな気づきを得たり、運よく転職につながるような直接的な機会に出会うことが結果したりする。 ネットワーク論でいうところの「弱連結」をたどるというのが、ミソなのだ。 人的ネットワークには、Strong Tie(強連結)とWeak Tie(弱連結)がある。強い結びつきとは、相手を良く知っていて、思いを同じくし、具体的に支援しあい行動を共にする相手である。その意味では、同質的で閉じた関係性。それに対して、弱い結びつきとは、例えば社外の人でどこかのパーティで会っただけのつきあいとか知人の知人とか、オープンで自身とのつながりは薄い関係である。その分、ふだんの強連結の相手(例えば社内の同僚)にはない、異質性や未知の情報が交通する関係性である。ゆえに、「弱連結」はイノベーションにつながるとされ、「弱連結の強味」がネットワ―キングにおけるパラドックスとしてよく知られる。    であれば、社内においても弱連結ネットワークを作っておくのがよいのではないか。直接の業務上の関係(=強連結)ではない、ゆるいけれども顔の見える多様な関係。それは、いまや日常的に求められる新しい仕事の仕方(=イノベーション)を喚起するかもしれないし、社内での転職(=キャリアチェンジ)の契機になるかもしれないから。

目標の二重管理 | その他

目標の二重管理

 目標管理のなかで「目標難易度」というものがある。難易度高であれば、1.2とか難易度低ならば0.8とかの係数が決められていて、達成度に乗じるという仕組みである。といっても、目標そのものに達成が難しい目標と易しい目標があるという意味ではない。その目標を「担う人物にとっての難易度」である。  ここでよくある誤解は、「担う人物にとっての難易度」を、その人の経験や能力に対しての妥当性の度合ととらえること。つまり、ベテランなら妥当な目標だが新任者が同じ目標を担うなら難易度1.2だとつい考えてしまう。これは間違いで、その人が属する等級に即して妥当な目標か、とみるのが正しい難易度判断である。  要員バランス等のせいで、上位等級レベルの目標や逆に下位等級レベルの目標を担わなければならないときに、前者は難易度1.2の目標、後者は難易度0.8の目標ということになる。あくまでも在籍等級だけが基準になるので、ベテランだろうが駆け出しだろうが、同等級であれば、同じレベルの目標を担い、難易度は1.0である。  さて、となると「それじゃあ、組織目標が達成できないじゃないか」と困惑するマネジャーもでてくる。組織目標が200で構成員が2人の組織があるとする。2人は同等級だとすると、それぞれの目標は同じ100。ただし、Aさんはベテラン、Bさんは異動してきたばかりのニューメンバー。目標管理としてはそれで正しいが、組織マネジメントとしては困ったことになる。  Bさんは、どうがんばっても80しかできない。Aさんは余裕で目標達成。とすると組織としては、180で目標未達となってしまうからだ。さてどうするか。このマネジャーは考えた。目標管理のルールはわかるものの、現場としては組織目標達成をしなければならない。そうか、二重の目標管理をやってしまおう、と。つまり、人事管理上の目標と組織管理上の目標をわけてしまったのだった。  Aさんの目標は120、Bさんの目標は80と設定して、組織マネジメントを行う。  Aさんに対しては、「君の目標は120。これを必達してくれ。ただ目標達成すれば業績評価は100%ではなく120%とする」と言う。  Bさんに対しては、「君の目標は80。これを必達してくれ。ただ君の等級としては低い目標なので、達成しても業績評価は80%だ。早く力をつけて100の目標を担えるようになってくれ」と言う。  外形的には、人事管理における目標管理として正しくないかもしれない。しかし目標管理それ自体は目的ではなく手段である。なんのための手段かといえば、組織目標達成と成果配分と人材育成。「二重管理の意味」が、上司部下の間でしっかりと握れていれば、これら目的は達成できるのだからこの逸脱は許容できるのではないか。  何より評価制度は、管理職者が意思をもって工夫し活用すべきマネジメントの道具であるのだから。

正しい権限移譲 | 人材開発

正しい権限移譲

 マネジメントテストというものがある。管理職研修の演習として使われる「問い」の一種で、回答の選択肢は4つあり、どれも正しいように見える。そのなかの一問「権限を委譲する場合に必要な観点は?」の4択は、こうなっている。  ① 任せた点については一切介入しない  ② 上手くいっていない時に限定して介入する  ③ メンバーからの申し出があれば介入する  ④ 必要に応じて何時でも介入する  正解はどれか?     権限移譲とは、上司が自身の業務の一部を部下に任せること。任せた業務については、判断含めて部下にゆだね、結果の責任は自分が負う。ということから考えると、②とか③になりそうだが、正解は、①。それでは単なる「丸投げ」ではないか、とも見えるが、丸投げの場合、責任も部下に負わせる点がちがう。  報連相はさせるものの、業務遂行は部下にまかせ、そこには介入しない。失敗したら責任は自分が負うという覚悟で、あえてある部下に任せる。ゆえにその部下本人も生半可な気持ちでは受けられないし、受けた限りは、上司の覚悟を持った期待に応えるべく必死で難しい業務に尽力する。しかも、どうやるか自分で考えなければならない。それが、部下の成長につながるというわけである。  さて、そのように正しく権限移譲し、部下の能力と意欲が伴えばうまくいくのか。 判断を伴わない業務であれば、たしかにそうだろう。しかし、それは権限委譲ではなく、単なる概括的業務指示(=目的だけを明示し達成方法を任せる)ということではないか。近年は、そのことを権限移譲と呼ぶことも増えてはいるが、権限の最たるものは、意思決定の権限であり、権限移譲というからには本来は「判断も含めて」部下にゆだねる。     それが正しい権限移譲だとすると、はたして、管理職者でないものが、管理職がすべき判断の一部を担えるのか。責任が伴わない判断はありえない、といっているのではない。判断するには、そこに管理職者としての「意思」と「意志」がいるから難しいのではないかという疑問である。  管理職者は本来、「自分はこうすべきだ」、「自分がこうしたい」と思うから自ら判断を下しているはずだ。もしそうしていない管理職者がいたら、その人は単なるヒラメ・リーダー(=上ばかり見て自ら判断しないリーダー)であって、経営の一端たるリーダーではない。    部下に判断を任せるということは、そのような管理職としての「意思」と「意志」を持てという強制である。今は管理職でないけれども、管理職の立場にたっての意思決定をあえてさせる、という意味での育成機会。ゆえに、権限移譲とは、後継者育成の手法であって、一般的な部下育成方法でもなければ、管理職者が自身の業務負荷を減らす方法でもないのではないか。  とすれば、「誰に」移譲をするかが大事なのはもちろん、「誰が」移譲をするのかがさらに問われることになる。へたをすると、ヒラメリーダーの再生産になってしまうからだ。

ツケを払わないリーダー | その他

ツケを払わないリーダー

 「ほんとに情けなくて」と、知人がなげいて話したのはこんなことだった。  上司が部下の若者を、蕎麦でも食っていかないか、と誘った。その上司にしては滅多にないことなので、たまにはご馳走になろうかな、とついていった。すると連れていかれたのは駅前の立ち食いソバ屋。券売機で自分の分だけ買うと、並んで食べ、数分で別れた。「ホント、あれが上司って信じらないっすよ、ケチもいい加減にしろって感じっすよ」とその若者から翌日憤懣をぶちまけられたのだという。  ここまでのことはなかなかないが、上司が部下におごるという「常識」はもはや通用しないのかもしれない。終業後の付き合い自体が部下にうっとうしがられ、上司としてもさほど高くない管理職報酬から自腹をきってまでおごるのも業腹だ。なにより、ワークライフバランスとは仕事と仕事以外の切り分けであり、仕事以外で部下に対してそんな支出をする必要性はない。しかし一方で、これはリーダーシップの劣化かもしれないのではないか。  昔、一緒に食事をしたりたまに呑んだりするときに、必ずおごってくれる上司がいた。さすがに恐縮して、あるとき固辞し、たまには払わせてくれと頼んだのだが、彼は「これでいいんだから、素直におごられていろ。昔のツケの支払いなのだから」と言った。  彼も若かったころ上司におごられていて、その上司からは、「私がおごった分は、私に返さずに君に部下ができたときに彼らにおごることで返せばいい。そういうことになっているんだ、組織ってものは」と諭されたというのだ。だから、ツケの支払い。昇格し部下を持った時に、そのように借りを返しているということなのだ。これも一種の、リーダーシップカスケード(=リーダーの連鎖的育成)だろう。  冒頭の立ち食いソバの上司もきっと若いころには、上司におごられただろうに、管理職になってから自分は一切しない。なぜか。それはきっと、人を束ねて仕事をしているという自覚が希薄なのではないか。職務分掌に書かれた役割を果たすだけであって、人を動かす立場であることの自覚も覚悟も薄いのではないか。  まぁ、おごる上司が必ず人間力があるというわけでもないし、今日的にはむしろ倹約家でコンプラ的にも褒められるふるまいなのかもしれない。ただ、綿々と続くリーダーシップの連鎖が途切れることは残念に思う。  「その上司も上司だけど、その若い部下も実に情けない」と冒頭の話をした知人は続けた。だって、「たった330円なんですよ! それをおごってくれないなんて!」と気色ばって憤懣をぶちまけてるけど、それをいうなら、そんな金額でそこまで怒るのあまりにみみっちいから、と。

背筋が伸びる本 | 人材開発

背筋が伸びる本

 姿勢を良くする健康本の話ではない。思わず姿勢をただしてしまうような読書体験を与えてくれる著者について書く。本を読んでいると、その著者の知性や感性、生き方や思想に感銘を受けることは多いが、読むたびに、五歳児チコちゃんのごとく「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」と一喝されるのが中井久夫さんだ。  みすず書房の「中井久夫集」全11冊では、経年で発表された順の代表的な著述が読める。ウィルス研究から精神病理学に転じ、統合失調症の臨床場面への貢献やPTSDの先進的研究で知られる中井さんだが、それ以上に、科学から文学までを射程にした多彩な著作に溢れる「知」と「意」と「感性」が強烈。精神医学による社会貢献意志はもちろん、人間存在の深淵と芸術性を両睨みしホリスティックに人とはなんなのか追及する一貫した姿勢が、どのページにも横溢している。  精神病理学の分野では、サリバンのセルフシステム論を日本に紹介し発展させ、有名な寛解過程論などすぐれた業績は多い。その背景には、生命とは世界の中の「流れ」であり世界と人は不即不離だという思想観があることが文章からうかがえ、専門性を超えた示唆と刺激に満ちている。以前読んだいくつかの著作では、量子力学からウィトゲンシュタインまでを引用するところがすごかった。  中井久夫集の第一巻は、最初期、30~40歳のころの著作集だがそのなかの「サラリーマン労働」(1971年)はのちの名著「分裂病と人類」につながる出発点とされ、日本のサラリーマンのうつ病について先駆的見解が語られている。またこの時期にすでに「ウィトゲンシュタインと“治療”」(1976年)で、哲学の革命者ウィトゲンシュタインの思想の精神医学への影響やさらには統合失調症治療への応用可能性を指摘する。その先鋭な問題意識に改めて圧倒される。  経年に読んでいくと、その底流には、徹底してニュートラルで正確な記述が一貫していて、ともすれば偏見や半可通な見方も出来しがちな精神疾患を語る際の、細心にして論理的な気配りがよくわかる。直接会った時にもそのことを痛感したものだった。  もう30年も前に、中井久夫さんにインタビューをしたことがある。聞きたかったことは、会社という仕組み自体がもつ人々の精神疾患へ影響性、つまり「組織精神病理」といった観点を提示してほしかったのだが、そんな当方の安易でセンセーショナルな狙いには、一切乗ってこなかった。問いに答える代わりに、そのような問いの前提となる人間精神の在り様を「地層」のアナロジーをもって噛んで含めるように教えてくれた。結果、当方のうすっぺらな問題意識におのずと気づかされ、まさに「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」と声には出さずに一喝されたのだった。

社長の眼力 | その他

社長の眼力

 経営責任者の方々に共通する特徴に、強力な眼力(=めぢから)がある。どの方も例外なく、はじめて会ったときの一瞥には、「こいつは何者か、どのレベルの者か」と一瞬で射貫かれた思いがする。眼光紙背に徹す、ということばがあるが、書物ならぬ人として背中まで見抜かれる恐怖に震えざるを得ない。  なぜそうなるのか。一つは、即時の判断を日々強制されているからだろう。社長の仕事はつねに最終判断である。適時適格な判断に至る情報の取捨選択には「短時間の本質理解」を重ねていかなければ、間に合わない。当然ながら、相対する意味のある人物かどうかも一瞥で見抜かなければならないのだ。  もう一つは、人を、経営資源と見ているからだろう。資源としての価値だけが大事であって、そこには、人に対する感情は必要ない。だから、資源としての力量、可能性、課題点を見定めることだけに集中して人を見る。いや、「見る」でも「観る」でもなく、「診る」なのだ。かくてレーザー光線のセンサーのごとく、冷たく強い眼光で瞬時スキャニングするのである。  勇気をふるって、その眼光にたじろぐことなく対峙ができたとしても、ぞくりとする場面がかならず訪れる。話をしていたのがふと口を閉ざし、冷徹な目を当方に向けたまま、にやりと嗤ったときだ。それは会談の終わりを告げる合図であり、目の奥の光の揺らぎだけが、会談の成否を告げているのだった。  社長以上にただならぬ眼光に出会ったことが一度だけある。筒井康隆さんと話したときだ。断筆時代にインタビューを受けてもらったとき、話しながらこちらを見据える彼の眼は、あきらかに、当方の頭蓋を突き抜けはるかに遠い彼方を見ていたのだった。言葉を発しながらも、それは目の前の人物に向けてではない、彼の眼にはあきらかにだれも映っていない。不気味だったけれども、そこには自律的な思考の躍動があった。  もしかすると社長たちも、目の前の人物評定を早々に終えた後は、孤独な経営責任者だけが見据える彼方を展望して、問いをきっかけに誰にともなくその想いややるべきことを話していたのかもしれない。ひとしきりして我に返り、目の前の人物の存在に気づく。その状況がおかしくて、思わずにやりとしたのかもしれない。だとすれば、その会談は当の社長には有用だったはずだ。仮によい「資源」ではない相手だったとしても、聞かれ話し続けるなかで、自分の考えを深め進める機会だったからだ。  これが、エグゼクティブコーチングのスリリングな醍醐味なのである。