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吉岡 宏敏

column
正しい権限移譲 | 人材開発

正しい権限移譲

 マネジメントテストというものがある。管理職研修の演習として使われる「問い」の一種で、回答の選択肢は4つあり、どれも正しいように見える。そのなかの一問「権限を委譲する場合に必要な観点は?」の4択は、こうなっている。  ① 任せた点については一切介入しない  ② 上手くいっていない時に限定して介入する  ③ メンバーからの申し出があれば介入する  ④ 必要に応じて何時でも介入する  正解はどれか?     権限移譲とは、上司が自身の業務の一部を部下に任せること。任せた業務については、判断含めて部下にゆだね、結果の責任は自分が負う。ということから考えると、②とか③になりそうだが、正解は、①。それでは単なる「丸投げ」ではないか、とも見えるが、丸投げの場合、責任も部下に負わせる点がちがう。  報連相はさせるものの、業務遂行は部下にまかせ、そこには介入しない。失敗したら責任は自分が負うという覚悟で、あえてある部下に任せる。ゆえにその部下本人も生半可な気持ちでは受けられないし、受けた限りは、上司の覚悟を持った期待に応えるべく必死で難しい業務に尽力する。しかも、どうやるか自分で考えなければならない。それが、部下の成長につながるというわけである。  さて、そのように正しく権限移譲し、部下の能力と意欲が伴えばうまくいくのか。 判断を伴わない業務であれば、たしかにそうだろう。しかし、それは権限委譲ではなく、単なる概括的業務指示(=目的だけを明示し達成方法を任せる)ということではないか。近年は、そのことを権限移譲と呼ぶことも増えてはいるが、権限の最たるものは、意思決定の権限であり、権限移譲というからには本来は「判断も含めて」部下にゆだねる。     それが正しい権限移譲だとすると、はたして、管理職者でないものが、管理職がすべき判断の一部を担えるのか。責任が伴わない判断はありえない、といっているのではない。判断するには、そこに管理職者としての「意思」と「意志」がいるから難しいのではないかという疑問である。  管理職者は本来、「自分はこうすべきだ」、「自分がこうしたい」と思うから自ら判断を下しているはずだ。もしそうしていない管理職者がいたら、その人は単なるヒラメ・リーダー(=上ばかり見て自ら判断しないリーダー)であって、経営の一端たるリーダーではない。    部下に判断を任せるということは、そのような管理職としての「意思」と「意志」を持てという強制である。今は管理職でないけれども、管理職の立場にたっての意思決定をあえてさせる、という意味での育成機会。ゆえに、権限移譲とは、後継者育成の手法であって、一般的な部下育成方法でもなければ、管理職者が自身の業務負荷を減らす方法でもないのではないか。  とすれば、「誰に」移譲をするかが大事なのはもちろん、「誰が」移譲をするのかがさらに問われることになる。へたをすると、ヒラメリーダーの再生産になってしまうからだ。

ツケを払わないリーダー | その他

ツケを払わないリーダー

 「ほんとに情けなくて」と、知人がなげいて話したのはこんなことだった。  上司が部下の若者を、蕎麦でも食っていかないか、と誘った。その上司にしては滅多にないことなので、たまにはご馳走になろうかな、とついていった。すると連れていかれたのは駅前の立ち食いソバ屋。券売機で自分の分だけ買うと、並んで食べ、数分で別れた。「ホント、あれが上司って信じらないっすよ、ケチもいい加減にしろって感じっすよ」とその若者から翌日憤懣をぶちまけられたのだという。  ここまでのことはなかなかないが、上司が部下におごるという「常識」はもはや通用しないのかもしれない。終業後の付き合い自体が部下にうっとうしがられ、上司としてもさほど高くない管理職報酬から自腹をきってまでおごるのも業腹だ。なにより、ワークライフバランスとは仕事と仕事以外の切り分けであり、仕事以外で部下に対してそんな支出をする必要性はない。しかし一方で、これはリーダーシップの劣化かもしれないのではないか。  昔、一緒に食事をしたりたまに呑んだりするときに、必ずおごってくれる上司がいた。さすがに恐縮して、あるとき固辞し、たまには払わせてくれと頼んだのだが、彼は「これでいいんだから、素直におごられていろ。昔のツケの支払いなのだから」と言った。  彼も若かったころ上司におごられていて、その上司からは、「私がおごった分は、私に返さずに君に部下ができたときに彼らにおごることで返せばいい。そういうことになっているんだ、組織ってものは」と諭されたというのだ。だから、ツケの支払い。昇格し部下を持った時に、そのように借りを返しているということなのだ。これも一種の、リーダーシップカスケード(=リーダーの連鎖的育成)だろう。  冒頭の立ち食いソバの上司もきっと若いころには、上司におごられただろうに、管理職になってから自分は一切しない。なぜか。それはきっと、人を束ねて仕事をしているという自覚が希薄なのではないか。職務分掌に書かれた役割を果たすだけであって、人を動かす立場であることの自覚も覚悟も薄いのではないか。  まぁ、おごる上司が必ず人間力があるというわけでもないし、今日的にはむしろ倹約家でコンプラ的にも褒められるふるまいなのかもしれない。ただ、綿々と続くリーダーシップの連鎖が途切れることは残念に思う。  「その上司も上司だけど、その若い部下も実に情けない」と冒頭の話をした知人は続けた。だって、「たった330円なんですよ! それをおごってくれないなんて!」と気色ばって憤懣をぶちまけてるけど、それをいうなら、そんな金額でそこまで怒るのあまりにみみっちいから、と。

背筋が伸びる本 | 人材開発

背筋が伸びる本

 姿勢を良くする健康本の話ではない。思わず姿勢をただしてしまうような読書体験を与えてくれる著者について書く。本を読んでいると、その著者の知性や感性、生き方や思想に感銘を受けることは多いが、読むたびに、五歳児チコちゃんのごとく「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」と一喝されるのが中井久夫さんだ。  みすず書房の「中井久夫集」全11冊では、経年で発表された順の代表的な著述が読める。ウィルス研究から精神病理学に転じ、統合失調症の臨床場面への貢献やPTSDの先進的研究で知られる中井さんだが、それ以上に、科学から文学までを射程にした多彩な著作に溢れる「知」と「意」と「感性」が強烈。精神医学による社会貢献意志はもちろん、人間存在の深淵と芸術性を両睨みしホリスティックに人とはなんなのか追及する一貫した姿勢が、どのページにも横溢している。  精神病理学の分野では、サリバンのセルフシステム論を日本に紹介し発展させ、有名な寛解過程論などすぐれた業績は多い。その背景には、生命とは世界の中の「流れ」であり世界と人は不即不離だという思想観があることが文章からうかがえ、専門性を超えた示唆と刺激に満ちている。以前読んだいくつかの著作では、量子力学からウィトゲンシュタインまでを引用するところがすごかった。  中井久夫集の第一巻は、最初期、30~40歳のころの著作集だがそのなかの「サラリーマン労働」(1971年)はのちの名著「分裂病と人類」につながる出発点とされ、日本のサラリーマンのうつ病について先駆的見解が語られている。またこの時期にすでに「ウィトゲンシュタインと“治療”」(1976年)で、哲学の革命者ウィトゲンシュタインの思想の精神医学への影響やさらには統合失調症治療への応用可能性を指摘する。その先鋭な問題意識に改めて圧倒される。  経年に読んでいくと、その底流には、徹底してニュートラルで正確な記述が一貫していて、ともすれば偏見や半可通な見方も出来しがちな精神疾患を語る際の、細心にして論理的な気配りがよくわかる。直接会った時にもそのことを痛感したものだった。  もう30年も前に、中井久夫さんにインタビューをしたことがある。聞きたかったことは、会社という仕組み自体がもつ人々の精神疾患へ影響性、つまり「組織精神病理」といった観点を提示してほしかったのだが、そんな当方の安易でセンセーショナルな狙いには、一切乗ってこなかった。問いに答える代わりに、そのような問いの前提となる人間精神の在り様を「地層」のアナロジーをもって噛んで含めるように教えてくれた。結果、当方のうすっぺらな問題意識におのずと気づかされ、まさに「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」と声には出さずに一喝されたのだった。

社長の眼力 | その他

社長の眼力

 経営責任者の方々に共通する特徴に、強力な眼力(=めぢから)がある。どの方も例外なく、はじめて会ったときの一瞥には、「こいつは何者か、どのレベルの者か」と一瞬で射貫かれた思いがする。眼光紙背に徹す、ということばがあるが、書物ならぬ人として背中まで見抜かれる恐怖に震えざるを得ない。  なぜそうなるのか。一つは、即時の判断を日々強制されているからだろう。社長の仕事はつねに最終判断である。適時適格な判断に至る情報の取捨選択には「短時間の本質理解」を重ねていかなければ、間に合わない。当然ながら、相対する意味のある人物かどうかも一瞥で見抜かなければならないのだ。  もう一つは、人を、経営資源と見ているからだろう。資源としての価値だけが大事であって、そこには、人に対する感情は必要ない。だから、資源としての力量、可能性、課題点を見定めることだけに集中して人を見る。いや、「見る」でも「観る」でもなく、「診る」なのだ。かくてレーザー光線のセンサーのごとく、冷たく強い眼光で瞬時スキャニングするのである。  勇気をふるって、その眼光にたじろぐことなく対峙ができたとしても、ぞくりとする場面がかならず訪れる。話をしていたのがふと口を閉ざし、冷徹な目を当方に向けたまま、にやりと嗤ったときだ。それは会談の終わりを告げる合図であり、目の奥の光の揺らぎだけが、会談の成否を告げているのだった。  社長以上にただならぬ眼光に出会ったことが一度だけある。筒井康隆さんと話したときだ。断筆時代にインタビューを受けてもらったとき、話しながらこちらを見据える彼の眼は、あきらかに、当方の頭蓋を突き抜けはるかに遠い彼方を見ていたのだった。言葉を発しながらも、それは目の前の人物に向けてではない、彼の眼にはあきらかにだれも映っていない。不気味だったけれども、そこには自律的な思考の躍動があった。  もしかすると社長たちも、目の前の人物評定を早々に終えた後は、孤独な経営責任者だけが見据える彼方を展望して、問いをきっかけに誰にともなくその想いややるべきことを話していたのかもしれない。ひとしきりして我に返り、目の前の人物の存在に気づく。その状況がおかしくて、思わずにやりとしたのかもしれない。だとすれば、その会談は当の社長には有用だったはずだ。仮によい「資源」ではない相手だったとしても、聞かれ話し続けるなかで、自分の考えを深め進める機会だったからだ。  これが、エグゼクティブコーチングのスリリングな醍醐味なのである。

ストレスワクチン | モチベーションサーベイ

ストレスワクチン

多くの組織で問題になっているメンタルヘルスの予防的施策として、ストレスワクチンという処方がある。 メンタル不調を結果するような状況に至る前に、ワクチンを打ってストレスの抗体を作り、個々人のストレス耐性を高めておく手法だ。「ワクチンを打つ」とは、Off-JTのワークショップとフォロープロセスのことで、まずは組織診断によりその会社固有のストレス因子を検出し、それを使ってストレスフルな状況の予行演習を体験する。主に、入社間もない社員に対し行われる予防施策である。 企業内ストレスにさらされる状況はある程度決まっている。一般的には、入社直後や配属直後、異動後や転勤後、管理職への昇格したときがそうであり、加えて各社の業務や組織の特性と風土や慣習によって、ストレス状況の類型化ができる。部門による人間関係の特性や組織の意思決定のクセが、その会社固有のストレス因子かもしれない。それを“抗原”として、想定される状況下で、自分がどのように対処すべきかを先行して考えることで、ストレスを受け止める力を身につけさせるということである。 言うまでもなく、生産性を追及する組織である限りストレスは必須だから、組織のストレスをなくしていくのではなく、個人のストレス耐性が課題になる。「メンタル失調になりそうな候補者を検出できないか」という採用担当の方々からの要請も少なくないように、“個々人の資質問題”に偏りがちなアプローチに対して、ストレスの抗原−抗体反応の仮説は魅力的ではないか。 この仮説が正しければ、EAPや産業保険医体制の整備、あるいは管理職へのメンタルヘルス研修などで、不調者の予兆を個別的に早期発見、早期対応するくらいしかメンタルヘルス対策がないなかで、組織的な予防施策として展開できるからである。 「必ず直面するストレス状況を、事前にイメージさせ、受け止められるようにする」とは、その時どうすればよいかをシミュレーションさせることだけが大事なのではない。何より、その状況の背景の意味を考えさせ、理解させること。個人の業務や役割の意味とその背景にある会社のミッション、そうした業務が自分にとって、自分の将来にとってどのような意義を持つのかを、深く考えさせることこそが重要だ。つまり、将来のストレス状況にポジティブな意味づけを予め前提させる。ストレスとモチベーションが表裏の関係あること自体を体感させるのが、こうした施策の最大のポイントだろう。 さらに、ストレスワクチンの効用はもうひとつある。組織の暗黙知が明示化することである。抗原を検出するための事前のストレス診断により、暗黙のルールや集団行動のクセのインパクトがわかる。例えば、ある部門はきわめて家族的な人間関係に特性があるかもしれない。新入社員がこうしたことを事前に知ることで、効率的に仕事に集中できるはずだ。 かつて、辞めてほしくない社員に対して、アメリカの会社は“ゴールデン・ハンドカフ(金銭による手錠)”をかけるが、日本の会社は“エモーショナル・ハンドカフ”をかけると言われたことがある。日本企業の雇用関係は、長期雇用の黙契がなくなり、成果と報酬の契約的関係になりつつあるとはいえ、暗黙のルールや人間関係の圧力は存在する。ストレスワクチンは、それに対するプラグマティックな挑戦でもあるのではないか。

自分の言葉で語る | その他

自分の言葉で語る

多国籍企業で働いていたときに、「リーダーシップ・カスケード」という言葉を知った。組織のなかを、カスケード=CASCADE(幾筋もの滝)のようにリーダーシップを連鎖させていくことを意味し、各国のリーダーが集まるキックオフ・ミーティングの席上では、ビジョンや方針の話のなかで、“カスケードする”という言葉が何度も聞かれた。単なるWATERFALL やTORRENT(瀑流)ではなく、CASCADE(幾筋もの滝)というのが、言いえて妙だった。ビジュアルイメージでいえば、華厳の滝ではなくて、竜頭の滝である。 リーダシップを連鎖させるとは、情報を伝えていくことではない。会社の方針や目標達成のミッションを、自組織の問題として分解し伝達することは大事だが、それだけでは十分ではない。組織の構成員を動かすためには、会社の方針自体よりも、それを背景とする個々のリーダーの意思と姿勢がはっきりと伝えられなければならない。 つまり、自分の言葉で語ることだ。 「私は、どう考え」、「私は、どうしたいか」、「私が、どうやっていくか」をどれだけ明示できるか、である。その多国籍企業のキックオフミーティングでは、各国のリーダーにそのことを体得させる仕掛けがたくさんのセッションとして用意されていた。多様な文化や価値観を前提するからこそ、このシンプルな原理に腐心するのだと納得できる。 リーダーシップのあるなしを判断するための問いとして、「うしろを振り返ると、喜んでついてくるフォロワーがいるか」というものがある。この基準によれば、フォロワーは、仕方なくではなく、みずから喜んでついていくのでなければならないので、ハードルはかなり高い。 リーダーシップの有無やレベルは、リーダーの言動を見聞きしたフォロワーが決めるものだとすれば、リーダーに問われるのは、管理的なスキルだけではない。ハードルを越えるために重要なのは、人々が安心してついていける信頼感や、ついていきたいと思わせるような、人々をわくわくさせる言動だろう。 自分の言葉で語るのは、その第一歩である。 「私が描く」自組織の魅力的な絵(=ビジョン)が構成員に提示できれば理想だが、そこまでできなくても、「私が〜〜」という観点で会社の方針をブレークダウンすることから、リーダーシップの発揮は始まる。 このことは、あらゆる階層に当てはまるのではないか。 管理職になっていなくても、リーダーシップの発揮はあるし、その経験が管理職への成長のプロセスでもある。リーダーシップの育成には、管理職前の社員に対して、「君は、どうしたいのか」を追求する。さらには、後輩に対する業務指示や業務連絡の際には、常に「私は」、「私が」という表現を意識させることもひとつの方法だろう。要は、主体的な意思こそが、人を動かすという事情を体感させていくことだ。 それはまた、中期的に各階層のリーダーを輩出し続ける連鎖、という意味でのリーダーシップ・カスケードにもつながるはずである。

人質の解放 | その他

人質の解放

数年前、銀行員向け週刊誌の連載で「人質の解放」という記事を書いた。伝統的日本企業の1.後払い型賃金カーブと2.熟練の企業固有性という二つの特徴は、従業員にとって「辞めると不利になる条件」で、人質のようなものだ。バブル崩壊後の人員削減ブームを経たうえで求められる柔軟な人事管理のために、人質は解放されなければならない、という主旨だったが、この記事は掲載されなかった。この原稿入稿後にイラクで日本人が人質にとられる事件がおこり、内容は関係ないものの人質メタファ自体がふさわしくないと、急遽原稿を差し替えることにしたからだ。 経済学に、企業とは、様々な人々が投資しリターンを得る「場」だ、とする議論がある。そのキーコンセプトは、ホステージ=人質だそうだ。たとえば、下請けと元請けの関係。元請から厳しい取引条件を出されても、下請けが乗り換えないのは、特定の商品にあうような設備投資をすでにしてしまっているからである。こうした「人質」が、関係を安定させる。企業組織でいえば、各メンバーがそこに人質をとられているから、組織が安定的な形態となる。 従業員にとっては、ひとつは、後払い型の報酬体系による「見えざる投資」であり、もうひとつは、「その企業の熟練形成に投資してしまっている」という意味の人質である。それにより従業員は辞めにくいから、組織を安定させる。 一方で人質の存在は、人員の代謝を阻害する。実際に会社を辞めた中高年者は、給与ギャップの大きさに直面し、また多くの人にとっては、自身の経験・スキルの市場性の低さが再就職を難しくする。 長期雇用の黙契が破棄され、ヒューマンリソースフローのマネジメントが要請されているなかで、人質の存在は大きな問題であるということである。その後、再びリーマンショックによる人員削減も経たが、こうした事情はあまり変わってはいないのではないか。 成果主義型や市場連動型の賃金制度改訂の流れのもと、年功的運用はまだまだ多いものの、「見えざる投資」という人質性は少し低くなってきてはいる。しかし、一方の熟練の企業固有性が低まり、企業の従業員の市場価値が高められてきているようには思えない。 熟練というと現業職のようだが、むしろ問題は、管理職能力の市場性のなさだった。ゼネラリスト育成のOJTで養成される管理職能力の中身は、もしかすると、さまざまな部門風土、派閥、人間関係、企業固有の意思決定の「クセ」や暗黙のルールの知識や使い方の熟練かもしれない。とすれば、中高年管理職の能力は、今いる会社の文脈を離れては十分には発揮できない。 企業の対応策として、ひとつの共通した傾向は、「エンプロイアビリティ(=雇用されうる能力)」の育成である。専門知識や専門技術自体の市場性も、事業環境の変化によって保証されない。むしろ、職務遂行能力や管理職スキルの原理を知り、個別の手法を身につけることが、個々人が持ち運べるスキルとして汎用性がある。階層別研修において、ロジカルシンキングや業務指示スキルといったスキルモジュールが必修や選択のプログラムとして組まれることが一般的になってきている。 エンプロイアビリティとは、言い方を変えれば「辞められる能力」だ。しかし、会社がそのような施策を用意しても、本人の職業意識が“企業固有”であれば効果はない。 市場性を高めるために何より大事なことは、本人の成長意識であり、与えられた役割における自分の意思と能力を常に問いなおすことだろう。職務遂行というよりも職務をつくりだせる力、意思あるから人がついてくる力、仕事に対峙し成長しようとする力、それらを自覚的に磨くことが職業人としての市場価値を高める。つまり、自律的にキャリア形成できるということこそが市場性につながる。 実は、企業固有スキルに市場性がないのではない。管理職能力というとあいまいで、転職の面接のときに説明しにくいけれども、長い経験のなかで培ったスキルが別の職場で役に立たないはずがない。自身の能力に無自覚のまま、自らのキャリア形成を会社にゆだねる態度に、市場価値がないのである。 ちなみに、人質事件を考慮して、書き換えた原稿の新しいタイトルは、「会社で有能、外では無能?」だった。

コミュニケーションに「こころ」はいらない | その他

コミュニケーションに「こころ」はいらない

縁あって、平田オリザさんの話を聞いた。 平田さんは、劇団を主宰するとともに、現代演劇の理論化とそれを活用したコミュニケーション教育で知られる。16歳のとき自転車で世界一周したことは有名だが、近年は、大学の教員も歴任し、管直人政権下では内閣官房参与の任にあった。 そのなかで、大阪大学で共同研究している「ロボット演劇」の話があった。ロボットが劇を演じ、人が観客として鑑賞する。そのお披露目では、ロボットの演技で、観客は涙を流したという。感情も意思もないロボットも、演じることで人を感動させられたということだ。 ロボット演劇が成立するとしたら、演技つまり“コミュニケーションの型”が的確でさえあれば、自身の感情や思い、価値観とは無関係に、人を動かすことができるということではないか。これは、企業組織のなかのコミュニケーションを考える際にも示唆的である。 以前、ある仕事で複数の企業の管理職者たちに、「リーダーシップの持論」をインタビューしたことがある。主旨は、部下育成に優れるリーダーとおぼしき方々を選定し、「人を育てるリーダーとは何か、どう行動しているか」を聞いて、類型化することだった。どの方の話も自身の実践の中で培われた方法論で興味深いものだったが、ある女性管理職の方の言葉が印象的だった。 彼女は、管理職を「どう効果的に演じるか」について語り、また、部下にも「あなたの役割を演じるんだ、とまず考えなさい。あなた自身と役割は別のものだから」と指導していると言った。 そのとき「管理職を効果的に演じる」といわれてみて、リーダー達がそれぞれに実践している行動を改めて振り返ると、確かに、みな芝居がかっていた。それが、リーダーシップ・コミュニケーションという型(=演技)ということだ。 さらに彼女のスタンスは、管理職でなくても、若い社員であっても業務の役割があり、組織の一員という役割もあるのだから割り切れ、ということである。そして、役を演じろと。 ロボット演劇の話は、コミュニケーションに「こころ」はいらないという極端な仮説である。コミュニケーションとはそういうものだ、とは短絡できないが、ただ、コミュニケーションに「こころ」は必須ではないという指摘は、大事なことだろう。「こころ」とは、あるがままの自分とか、本当の自分の思いであり、それを考えるあまり、組織のなかで不具合や葛藤が起こってくることもある。 若年層に頻出しているメンタル失調やそれに伴う離職者が多いことには、こうした不具合も原因しているのではないか。自分を見つめなおしたり、あるがままの自分であるべき、といった内省は、会社で働く上で必要がない。会社の一員としての「役」を、いかに意識的に演じるか、という姿勢があればいい。 平田さんの演劇教育は、企業研修にも応用可能である。タフな社員を育成するために、新入社員の時から、「役」を演じる面白さ、楽しさを教える施策として、展開してみようと思う。 以上 参照 コミュニケーションに「こころ」は必要 という立場でコラムの執筆があります。 (リンク先はこちらです↓) https://www.transtructure.com/column/20100809/

麻薬的残業の正体 | その他

麻薬的残業の正体

「なかなか残業が減らせない」という声が、多くの人事担当の方々から聞かれる。業務効率の向上はもちろん、過重労働の軽減やワークライフバランスを考慮した働き方の要請からも長時間労働をなくしていかねばならないが、その実現は簡単ではない。 その理由には、「当社の仕事は“特殊”だから」という、“共通”したものや、「お客さんに合わせざるを得ないから」、「なによりもまず業績回復」といった組織の状況があげられるが、従業員の側にある要因の指摘としてしばしば聞かれるのが、目先の仕事に没頭してしまう自発的かつ習慣的残業。好きで残業しているとしか思えない、いわば、「麻薬的残業」である。 ITエンジニアやクリエイティブワークといった顧客とともにモノを作り上げていくタイプの仕事に多い、「時間をつぎ込むだけ品質が上げられる」との想いで、際限なく残業を続ける人々の存在である。彼らは、強制されてではなく自ら進んでやっているように見えるし、かつてのWorkaholic世代であった上司からみれば「まあ仕方がない」とも思える。ライフの充実のために残業するな、と命じても、家に早く帰ってもやることがないとまで言われれば、それはそれである種のワーククライフバランスか、と納得したりする。 麻薬的残業の麻薬性は、目の前の仕事の面白さや分かりやすい顧客満足の手ごたえにある。たとえば多様なプロジェクトワークのなかで顧客との同志的な感覚や達成の高揚感を感じる。顧客満足の向上は、自分の価値の向上にも思える。結果、日々の仕事に耽溺し、多大な時間を投下するということになる。 この限りでは、たしかに理解はできる。やりがいを感じて働いている分、よしとしたい、と言えなくもない。問題はこの働き方がメリハリなく習慣化していることである。仕事の緊急度や求められるアウトプット品質のレベルにかかわらず常にだらだらと残業を続けることをやめられない。その常習性が問題だ。 そこには、不安からの逃避という心理があるのではないのか。仕事の分かりやすい面白さにのめり込むことで、本来の仕事のあり方や自身のキャリアやビジョンの不安から、意識的にか無意識的にか目を閉ざしているのかもしれない。そのことが、将来の仕事やキャリアのための自己投資の時間確保を阻害し、成長への不安をまた醸成するという悪循環。 だとすれば、これは個人の側だけの問題ではなく、やはり組織の問題だろう。麻薬的残業の足元にある不安は、組織の将来の不安に起因するはずだからだ。 背景にある組織の不安仮説としては、自社のビジネスモデルへの不安、そこにもとずく人材像の不安、あるいは組織の在り方の不安。つまり、会社の事業の将来が見えない、仕事の将来が見えないということが、自分自身のキャリアや成長目標を見えなくしている。どんな能力開発に投資すべきかが分からない。そうしたビジョンやメッセージが伝わってこない組織が、自分の価値を見失わせ、目先の仕事に逃避する。 いわば「ビジョンなき繁忙」が生み出すメリハリのない麻薬的残業。タイムマネジメントの実践には、この観点も忘れてはならないだろう。

発達不全 | その他

発達不全

 研修のなかで、参加者一人一人の行動を観察しアセスメントすることがある。そのときのポイントの一つは、グループで議論をしていて意見が対立したときに、別の観点を提示して、その停滞局面を打破し議論を前に進めるような発言をしているか、ということだ。  単に、同調したり、頑なに自説にこだわるのではなく、意見の違いを踏まえたうえでコミュニケーションの階梯を一段あげるような発言たりえてるか、に注目して観察をする。そこに、思考力やリーダーシップ、とくにコミュニケーションのスキルレベルを診ることができるからである。  グループディスカッション演習では、だいたいどのグループにもそうした役割を果たす人がいるものだが、ときに、そうした場面がまったく見られないことがある。そもそも意見の対立自体が起こらなくて、むしろ違いの表出を避けるかのようにグループの結論がまとまる。予定調和的な議論が展開され、正解というか優等生的な答がきちんとだされたといった印象。そんな会社が何社かあった。  それが事業特性から醸成されている社風なのかもしれないし、優秀な人たちならではの“研修だから”といった割り切った所作かもしれないけれども、そこには強い違和感を覚える。個々人は優秀でおそらく実務でも問題ないけれども、もしかするとこの集団は、「大人の仲間関係」ではないのではないか。つまり、違いを前提にして合意形成に至るというコミュニケーションレベルに至っていないのではないか。  成長過程で、集団におけるそうした振る舞いのベースが身に付くには、3段階の仲間意識の発達を経ると臨床心理学でいわれる。  子供は、小学生高学年くらいから、親の言うことよりも友達の言うことを重視するような仲間意識が現れる。その第一段階は、「ギャンググループ」と呼ばれ、そこでの一体感は、同一行動による。同じ格好や行動をするから、仲間だということである。つまりみんなでつるんで、悪さばかりしているからギャング。  第二段階は、「チャムグループ」。チャム(chum)とは、ぺちゃくちゃしゃべってばかりいることで、この年代の一体感は、言葉による確認になる。「昨日〇〇を見た」「私も見た見た」「あれかっこいいよね」「そうそう」と言葉でお互いが同じだと言い合う。ときに自分達だけの共通の言葉で、行動ではなく内面の類似性を確認する。これが中学生ぐらい。  高校生以上になると、本来の仲間という意味の「ピアグループ」となる。今までと違って、お互いの違いを認めたうえでの、仲間意識。チャムの段階だと、自分の言葉を否定されると自分を否定されたと受け取るけれども、そうではなくなる。つまり、議論ができるようになる。  大学生を対象にしたエンカウンターグループセラピーを実施しているカウンセラーに、「受験教育のなかで仲間関係を十分に経験せずに大学生になって、ギャングやチャムを楽しむ学生が増えている。より深刻な問題は大学生の病理現象の変化だ」と聞いたことがある。学生のノイローゼは、かつては“自分”に関するものだったが、いまはすべてが“対人関係”の悩み。「人と付き合えない」「女性と口がきけない」「沈黙が怖い」といった集団としての行動がうまくとれないといったものだ。  もしかすると、企業の中のコミュニケーションもチャムレベルにとどまっている場合もあるのかもしれない。そこでピアの議論などすると仲間関係がうまくいかない。だから大人の議論を避ける。もしかすると、メンタルイッシュ―もその発達不全に起因しているかもしれない。  大人のコミュニケーションとは、お互いが違うときに、少しずつ傷つけあって、第三の道を見出していくことだ。第三の道とは、交渉における合意点であるだけなく、今までにない考え方や方法でもある。だとしたらそれは、決められたことをきちんとやるのではなく、仕事のやり方の革新を生み出すために不可欠の、集団の振る舞いでもあるのではないか。  組織変革力が求められる状況下、それは社風やコミュニケーションのクセといって片づけられない、きわめて大きな問題なのかもしれない。

マネージャーの意思に始まる | その他

マネージャーの意思に始まる

 誰でもが同じように評価でき、評価される側も納得感のある評価制度を設計することは難しい。  しくみを精緻に作りこもうとして、ともすれば複雑な計算式による評価が、どうも実態と離れた運用となり「評価のための評価」となってしまうことがある。あるいは、抽象度の高い評価項目に対して、基準が分からず曖昧でつけにくいと、現場の管理職者から文句がでたりもする。  いま主流になってきている絶対評価は、基準に即した評価ということだから、基準がはっきりしなければ始まらない。目標管理であれば、目標の達成水準が大事だし、能力評価や行動評価でも何をもって標準的か、標準より高いレベルか、低いレベルかを判断するか評価者を悩ませる。しかし、その答えを評価制度を作った人事部に求めるのは筋違いだろう。  目標の達成水準とは、管理者自身が「この部下には、ここまではやってほしい」と思うレベルである。さらに、ここまでいけば120%だし、この状態なら不十分で80%だと心づもる。「この部下には」、つまり等級や熟練度や給与に相応なレベルということも勘案して、である。その、自分が意思する達成水準を、期首に部下本人とにぎることがMBO(目標管理)の基本だろう。  能力や行動の評価も同じことだ。「この部下には、こういう行動をとって欲しい」という意思を、評価項目に即して具体的に描き、伝えておく。あとは、期中の具体行動をもって評価し、みづからつけた評点についての基準と根拠の説明責任を果たす。説明責任が果たせなければならないのは、もちろん、部下本人の納得感のためでもあるが、それ以上に経営に対する説明と宣言でもある。  目標にしろ能力や行動にしろ、評価運用時の「基準」とは、マネジメントの意思そのものだからだ。自部門では、誰に、何を、どのレベルでやらせることによって、組織目標を達成するという意思の表明である。そこは管理職者自身が、やりたいように自由に、裁量性をもって行えばいいのである。ただし、説明責任を果たせることを絶対条件として。  その意思が独りよがりでないかを確認をするのが、二次評価者の役割だし、意思する「基準」が他と比べてレベルがあっているかどうかは、一次評価者同士の評価会議で、目標達成水準や評価根拠の妥当性を相互検証すればいい。たとえば、いかに抽象的な能力評価項目であっても、この等級でこういった行動なら、「3」じゃなくて「2」だな、といった評価会議での検証・共有が蓄積していくことで、自社のリアルな評価基準が浸透していくことになる。  だから評価制度は、管理職者が意思を持って運用しやすいしくみであることが最重要な要件である。そして、評価者たちがみな、裁量性と説明責任を意識した評価運用をする。評価会議等を通じたその組織的実践が、各社固有の評価品質を高めていくはずである。  各社の人事部の方々を集めて評価セミナーをやることがある。そこではいつも、MBOで目標を立てるのは、上司か部下のいづれかを聞いてみる。すると、たいていは部下が立てる社の方が多い。もちろん、最終決定は上司なのだろうけれども、やはり、部下の目標は上司が設定することを原理原則にして、目標設定というマネジメント意思の表明を突きつけるべきではないか。

ネガティブフィードバック | その他

ネガティブフィードバック

 聞きなれない言葉だが、厳しい評価結果をきちんと伝えることの意味で、そのための面談スキルを教えたい、という御要請が増えている。  そうした面談のテクニックとしては、座る位置は対面でなく斜め、必ず先に席についていてイニシアティブをとる、ねぎらいやほめることから始めるとか、相手の心理フェイズの移行に即した心理学的コミュニケーションのワザとか、いくつかはあるものの、コトの本質は「勝負は、面談前についている」であって、日常のマネジメントがダメであれば、面談の場面だけでどんなスキルを発揮しても効果は望めない。  ネガティブフィードバックとは、LP(ローパフォーマ)に対して、まず前段で低い評価を伝え、処遇が悪くなることを伝え、理解させることである。そのうえで後段、今後の改善に向け、動機付け、アドバイスし、方針を合意することである。日常の指導が不十分であまりコミュニケーションもなく面談に臨んだら、まずは、この前段で紛糾する。つまり、イエローカード出されていないのに、いきなりレッドカード。本人うすうすわかっていたとしても、そこはマネジメント批判という武器を得て反撃に転じる。  多くのマネジャーは、ともすれば、HP(ハイパフォーマ)やAP(アベレージパフォーマ)とのコミュニケーションには時間をとっている反面、見切っているし気分も乗らないからかLPとはほとんどその時間をとっていない。本来は逆で、HPは放っておいてもやるのだから、LPとこそ時間をかけ指導しなければならない。LP指導にある程度の時間をかける効用は、第一に、「見られている、気に掛けられている」という本人認識、第二に問題行動に対するその時点での指摘=イエローカード提示、のふたつ。  こうした日常のマネジメントが留意されれば、心理学も駆使した面談テクニックを使うことで、悪い評価に「納得」はさせられないまでも「理解」はさせられる。自己評価が高いLPは、悪い評価はなにがあっても納得しない。しかし、日常のコミュンケ―ション(=相互確認)を踏まえて、上司がそのように評価することを理解することは、ギリギリできるのである。さらに、自分を気に掛ける日常の態度から、改善を望む上司のスタンスをわかっているから、後段の会話にまでいたることができることがたいへん大きな効用だ。  だから、ネガティブフィードバックスキル研修では、面談テクニックも教えるけれども、日常のLPへの指導、そのコミュニケーションスキルの獲得がポイントになる。大事な日常の指導にこそ、コミュニケーションのワザが効くからだ。そして、もうひとつ必ず扱う内容は、LPを作り出させないための心得だ。単なる業務遂行能力の多寡だけが、パフォーマンスを分けるものではない。LP予備軍には、行動特性や性格、あるいは人間関係面での“LPになりそうなアラームが出ている状態”というものがある。  そうしたアラームをきちんと掴んで、個々人のLP化をどう阻止するか、ということである。すでにいるLP対策もさることながら、LPを生み出さないことこそがマネジメントの要諦だろう。それが本来、マネジャーとして業務と人の両面をマネジメントすることの役割であり、醍醐味のはずである。