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吉岡 宏敏

column
1人7役 | その他

1人7役

 中間管理職は忙しい。  プレイングマネジャーとして、必死に目標達成に邁進する一方で、経営者から「環境が変化しているから、今までのやり方を続けるだけではだめだ。みずから変革をリードしろ」といわれ、絶対に不祥事は起すなとコンプライアンスの徹底とリスク管理を厳命され、さらには、メンタルイッシューに気配りせよ、ダメな部下だろうがくれぐれもパワハラに注意せよ、と要求は増えるばかりだ。  加えて、次世代リーダーが育っていないと気付いたせいか、近年は、「当社は、管理職者の人材育成力が十分でない。人という経営資源を責任もって育てられるようにそのスキルを高めてくれ」といった、経営からの指示がよく人事部門に出たりする。たしかに管理職者の役割は、教科書的にいえば自組織の目標達成と人材育成ではあるけれども、中長期的な育成マインドと人材育成スキルをにわかに高めることは容易ではない。育成が大事なことと痛感しつつも、マネジャーの負荷感は高まるばかりだろう。  たとえば、「キャリア面談」というものが増えてきた。単年度の人材育成という意味では、期首に目標や課題を握り、期中指導し、きちんと人事評価をして、部下の成長課題を含めてフィードバック面談をするといったサイクルが回されているが、それとは別に、中長期の成長の意思確認と指導を明示的にするというものだ。若年層に対しては、リテンション、中堅社員に対しては“複線化”等の進路選択、50歳前後の社員は役職定年や雇用延長のレディネスといった狙いのキャリアマネジメント施策である。  つまり、マネジャーはキャリアカウンセラーの役割も要請されるのだ。「自分のキャリアは自分で決めろ、そんなことまでできるか」という管理職者の声が聞こえてきそうだな、と思っていたら、米国の人材マネジメントの本を見て驚いた。そこには、マネジャーが果たすべき7つの役割としてこうあった。 1. コミュニケーター ・部下と公式および非公式な話し合いを持つ ・部下の本当の悩みに耳を傾け、理解する 2.カウンセラー ・部下がキャリアに関連するスキル、興味、価値観を明確化できるよう援助する ・部下がさまざまなキャリアの選択肢を探せるように援助する ・部下がそれらの選択肢がそれぞれ適切かどうか評価できるよう助ける ・部下がキャリア目標を達成するための行動計画を立てられるよう援助する 3. 評価者 (略) 4. コーチ ・具体的な職務に関連するスキルや専門的スキルを教える ・部下の効率的な働きを促す ・向上のための行動を具体的に提案する 5. アドバイザー ・組織の成長に関する非公式および公式な現実を部下に伝える ・部下のためになりそうな訓練機会を提案する ・キャリア発達のための適切な戦略を提案する 6. 仲介者 ・部下を、キャリアの面で互いに助け合うことができそうな人材に引き合わせる ・部下が適切な教育または雇用機会にめぐり合えるよう援助する ・部下が外部の機関の援助を受けられるように橋渡しし、支援する ・紹介した機関が有効に作用しているかどうか追跡調査する 7. 擁護者 ・経営面での改善策がうまくいかなかった場合、別の戦略を部下と一緒に考える ・代表者として、部下の心配事を経営幹部に伝え、具体的な改善策が取れるように働きかける  仲介者や擁護者の記述には笑ってしまうけれども、数の多さに驚きながらも総じてうなずける役割の整理ではある。7役に書き連ねられると辟易するマネジャーもいるだろうが、人材育成やキャリア支援という意味では、多様な役割が求められるのは事実だろう。問題は、それ以外の、自部門の戦略や業務や不測の事態に応じたたくさんのマネジメントの仕事に加えて、こうした役割を果たさねばならないという負荷である。  中間管理職は組織の要であり、その機能発揮が経営を支える。ゆえに役割と責任の拡大とは仕方がないのだとしたら、まず「武器」を与えるべきではないか。たとえば、ICTによるタレントマネジメントシステムは、その観点から設計されるべきであり、武器のひとつとして、早々にマネジャーの手元に配備されることを期待したい。

「管理」という誤訳 | その他

「管理」という誤訳

 Managementを「管理」と訳すからいけないのである。  マネジメントは「経営」であって、管理ではない。だから、マネジャーは管理職ではなく、経営職である。そのことは、多くの人が分かっているけれども、言葉のもつ力は強い。「管理」というラベルがついているために、ついつい、課長という管理職者は課の経営ではなく、まず管理をしてしまう。役所のような手続きに気を配り、木を見て森を見ないようなマネジメントをしてしまったりする。  だから、管理職階層の名称を経営職層としている会社は正しい。正しいラベルをつけておけば、ときに人事部の方々から管理職研修で要請される「管理職は、非管理職のプレーヤーとはちがい、経営サイドの一員であることを分からせてほしい」といったこともなくなるだろう。名は体を表すのだから、その名称は極めて重要である。  誤訳の最たるものが、「目標管理」ではないか。目標管理がドラッカーの言ったMBO(Management by objectives)の翻訳だとしたら、この誤訳の弊害は甚大である。まず、目標管理という言葉は、「目標を管理する」と読める。部下たちの目標を管理することを目的化してしまい、目標の設定と達成度の把握だけに注力してしまったりする。  原語を知っていれば、逐語的に訳して、「目標による管理」と理解する。これは幾分ましではあるけれども、まだ組織目標を分解して達成を図るという組織のオペレーションや個々人の業務管理のニュアンスに留まる。「目標による経営」と言ってはじめて、マネジャーが部門経営の意思と責任をもって、組織成果と人材活用の最大化をめざし、人々の目標という“ツール”を工夫凝らして駆使することになる。  もちろん、ラベルはどうあれ、そうした含意を理解していればいいだけのことだから、マネジャー昇格時にきっちり教えておけばいい。ただ、繰り返しリマインドしないと、管理という言葉のパワー(言霊?)に侵されかねないから、評価者研修や管理職研修では、目標管理(MBO)の意味を必ず強調し再確認することをお勧めする。  ついでにいえば、そもそもドラッカーは「Management by objectives and self-control」と言った。目標を設定し、自律的な業務遂行を促すということである。いちいち指示しなくても、部下が自分でやるべきことをやっていく、そういうマネジメントのことである。つまりそれにより、マネジャーが楽にならなければならない。  ともすれば、管理的な観点で正しい目標設定に腐心するあまり、目標管理制度の運用で多大な時間と労力がかかったりする。それでも、それにより部下が自律的主体的に動いてくれればいいわけだから、そうした目標たりえているかが一番問うべきポイントだろう。あるいは、決め事やルールに縛られないマネジャーの裁量性と説明責任による目標管理制度の自在な運用が、もっとさまざまに、あってもいいのではないか。  Manageとは、意思をもって、いろいろ工夫して、やりとげる――をもともとの語義とするのだから。

By Communication | その他

By Communication

 目標管理制度は難しい。  目標さえ適切に設定できれば、あとは、達成できたかどうかを見るだけだから、評価に迷いはないのだけれども、このそもそもの目標の設定が悩ましいのだ。適正な目標の設定は、 1. 組織目標の分解  2. 難易度設定(=等級相応の目標)  3. 目標の表現  が3つのポイントとされるが、これがなかなかできない。  組織目標に連動していなければならない(1.)のに、「自身のダイエット」が目標化されるなんて笑い話が現実にあったりする。また、等級が違うのに同じ目標だったりする(2.)ことも多い。とくに、多くの会社で共通してできていないのが、3.の表現の妥当性。目標表現の基本は、「To be」、つまり目指す状態を示さなければならないのに、「To do」が目標として書かれている。プロセスや行動といった手段だけが書かれ、その結果のゴールが示されていないのである。  ゴールとして達成した状態、その達成水準が示されていれば、期末でできたかできなかったかの判断に悩むことはない。そうできるように、目標=目指すゴール、とそのためにやるべき行動、を切り分けて考えよ、ということだ。要は、「手段を目的化するな」ということである。  「To be」表現の重要性は、とくに定性目標でクローズアップされる。たとえば、モチベーション高い組織状況ならES調査結果、効率的な働き方の定着なら、時間外労働時間数など何らかの定量指標が達成水準と設定されるならいいけれども、そういった指標がない目標もある。だからたとえば、部下育成なら、どのような状態(=レベル)にするかの記述が不可欠になる。若手営業担当が部下なら、独力で顧客訪問ができる、独力で顧客ニーズ把握ができる、独力で提案ができるレベル、といった書き分けということだ。  では、目標として、「コミュニケーションのよい状態」というゴール設定はありうるか。  まず、コミュニケーションの良い状態とはなにか。それが特定できなければならない。口数の多い組織、一体感ある組織、和気藹々組織、阿吽の呼吸組織、、等々とあいまいではあるができなくはないかもしれない。しかしそもそもの問題は、コミュニケーションとは、「手段であって目的ではない」ということだ。だから、この目標は成立しない。コミュニケーションもまた、目的と手段が混同され使われがちな言葉である。  人事部の方々から、社内のコミュニケーションを良くする研修をしたいとの御要請をいただくことがある。しかし、コミュニケーションは手段であるから、大事なことは、コミュニケーションをよくすることで解決しなければならない組織課題はなにか、ということである。その課題の内容により、どの種のコミュニケーション機能をつかうか、あるいは、誰に、どのようなコミュンケ―ションスキルを身につけさせるかは変わってくるし、もしかすると解決手段はコミュニケーションではないのかもしれない。  手段としてのコミュニケーションには、明確なさまざまな機能がある。相互理解や伝達、意思疎通、共感形成といった情報の交換・交流だけではなく、行動促進や交渉、さらには情報の創造という機能もある。創出的なディスカッションはよく経験することだし、コミュニケーションするなかで意味が生まれることもある。そのためのスキルを教えることもできる。統合した会社のビジョン作成セッションや風土改革には、複数のコミュニケーション機能を組み活用したりする。  そうしたコミュニケーションのどの機能を使って、あるいはスキルを磨いて、どのような組織状態を実現するのか。組織のコミュニケーション課題とはつまり、「For Communication」ではなく「By Communication」なのである。

マズローの罪 | その他

マズローの罪

 入社2年目や3年目社員の研修で決まって要請されることがある。それは、「初任配属が希望と違うかもしれないけれども、目の前の仕事を全力でやることが次のキャリアにつながる」というメッセージを伝えてほしいということだ。  現場の仕事が予想以上にしんどいとか上司と相性が悪くて評価されていないとかの状況に加え、同期の彼は希望通りの配属なのに自分は違う。やりたい仕事がやれていない、どうすれば今後、そうした「自分のやりたい仕事」つけるのか、といった想いを持つ若手社員が多いということである。    そもそも社会に出たばかりで、自分のやりたい仕事が明確であるのだろうか? 子供のころや学生時代に何かのきっかけや社会的問題意識から、明確な目指す職業ゴールを持つ人もいるだろうが、多くは、仕事経験の中で、向き不向きや自分は何を面白いと思うのかを“発見”していくのではないか。 まだほとんど仕事経験がないときの自分のやりたいことなど単なるイメージにすぎないのに、それにとらわれて迷ってしまう。ましてや、大学のキャリア教育で、自分の将来のキャリアをデザインしたりするから、自分がやるべきこと、やりたいことを言語化し、それにこだわってしまう。 自己実現の呪縛である。よく知られるマズローの欲求階層は、最上位に自己実現欲求を置く。この整理は、人はなぜ働くか、という問いの答としては明快ではあるけれども、実現するべき自己がまずあるかのような誤解もうむ。経験や関係のなかで、自己がアイデンティファイされていくという事情をともすれば見落としてしまう。  キャリアデザインでは、よく「やりたいこと」と「できること」を棚卸しし、その重なりが強みだ、と言ったりする。しかし、この二つは独立しているのではなくて、経験を経ての「できること」つまり能力の向上や広がりが、次の「やりたいこと」を生み出していくことのダイナミズムこそがキャリア発展の醍醐味である。  こうした若手社員研修では、目の前の仕事をただやるのではなくて、その意味(会社にとっての、社会にとっての、自分にとっての)を考え、全力を尽くすこと。そのことの意義を、具体的に気付かせることに腐心する。だから最初の配属がどうあれ、無能な上司であろうが、そこを成長の場にできるかどうかは本人次第と分からせる。  とはいっても、最初の配属先がその人の将来を決める、といった調査結果もある。そのときどんな上司につくかが、その後の進路を左右するようなクリティカルな経験といった面もあるかもしれない。社会に出たばかりの若者にとって、上司の影響力がきわめて大きいこともまた事実だろう。  できる管理職者だなぁと日ごろから思い、おそらく部下にとって良い上司と目されるあるメーカーの課長に、この、新入社員の自己実現呪縛の話をしたら、彼はきっぱりとこう言った。  「そんなこと簡単だよ。これが君のやりたい仕事だ、といって業務をわたせばいい」

自分の可視化 | その他

自分の可視化

 行動を変えるには、まず自分を知らなければならない。だから、自身の行動や性格、思考のクセ、対人関係のスタイルなどを可視化するツールを、研修でよく活用する。  360度診断では、自分の行動が周囲の人たちからどう見られているかが分かる。パーソナリティ診断では、コミュニケーションや判断、好き嫌いの特徴やビジネス行動の得意不得意を知る。言動のスタイルを4分類して、自分がどのスタイルにあたり、他のスタイルの人たちとの接し方を学んだりするのは、コミュニケーションスキル研修の常套手段だ。  スタイル分類はいろいろな流派があるけれども、理論的出自は共通なのでスタイル名称は異なるものの意味していることがあまり変わらないから、一度知ると、結構共通言語的に使える。そのトラディショナルなものを初めて体験したときは、驚愕したものだった。  先にチェックリストに答えることで、自分が知らないうちにスタイル分けがされている。同じスタイルでグルーピングされて、演習をやるのだけれども、その振る舞いやアウトプットが、自分たちのスタイルを教えられた後で振り返ると、その特性をあまりにも如実に示していたからだった。  ちなみに私のグループは、例えば営業相手の顧客タイプでいえば、「結論から言え」、「世間話はいらない」、「余計な挨拶は不要」、「長々と理由は言うな」という“単刀直入すぐに決めたい”派。その特性は知らないまま、演習をするという仕掛けで、演習のお題は、(1)自分達を一言でいうと何か (2)自分たちの好きなもの とか他愛ない事柄を話し合って決めるといったものだった。  まず、われわれのグループは、いちばん早く演習が終わっている、というのが後で知る特徴のひとつ。他のたとえば“社交派”グループは声高にうるさく熱く議論をしているし、“親密派”は無駄話ばかりして時間超過といったわかりやすさ。さらにわがグループでは、(1)自分達を一言でいえば、「唯我独尊」だったし、(2)好きなものは「ドイツ製品」という見事にスタイル特性に符合するアウトプットだったのである。  こういった自分の特性の可視化は、それを知ることで、自覚的に行動を変えることができる。360度診断の結果から、なぜ周囲はそう感じているのかを考え、行動改善を図る。資質的にチームワークが苦手ならそういう自分を意識して行動する。スタイル特性を知れば、その活かし方、留意点を踏まえ、ビジネス行動を意図する、といった具合。  たいていはこんな風に行動に生かせるのだけれども、どうやら、自己認識ができても変えられない特性もありそうだということもわかってきた。それは、「対人感受性」。これが、低い人は、なかなか行動変容は難しい。そもそも感受しないのだから、気を付けようがないということもあるけれども、それ以前にその点に気を付けようという気にならないらしい。  あるとき、コミュニケーション不全者だけを集めた研修をしたことがある。2日間、手を変え品を変え対人行動のアセスメントを行い、厳しいフィードバックをした。多くは、以降の行動改善に結びついたけれども、もっとも重篤な受講者は変わらなかった。いわば、筋金入りの確信犯として、行動を変えようとしないのだった。  対人感受性が極度に低いから、対人問題そのものがその人にとっては存在しないのである。つまり、自分にとって、大きな問題ではない。自分の可視化に意味があるのは、それが、自身の問題認識に結びつく限りにおいてだろう。とすればまず、組織として他者とともに仕事し成果を上げていくことに必要な振る舞いは何か、その基本中の基本の問題意識の喚起から始めなければ、コミュニケーション不全の根絶はできないのかもしれない。 以上

企業の安楽死 | その他

企業の安楽死

 全ての企業が、ゴーイング・コンサーンであるべきなのか。  なくなった方がいいような反社会的な企業は論外としても、業績不振でどうあがいても立ちいかず瀕死の状態が長く続いている企業や、一時代を経てその役割を終えている企業もある。場合によっては、意志して企業をいったん終息させたほうがよいかもしれない。  そうした「企業の安楽死プログラム」を逆説的につくって、関わっていた企業組織論専門誌に掲載しようと思ったことがある。といってもそれは、容易ではない。企業は、ステークホルダーズに支えられた社会的存在だから、経営者の勝手にはできない。投資家や顧客に対する手立てはいろいろ考えられるものの、従業員の存在がある以上、会社がなくなって従業員がいきなり生活できなくなったら“安楽”とはいえない。  そんなことを夢想しては、経営学や組織論の論客と議論したけれどもどうもうまく方法論化できない。そんな奇をてらったプログラム仮説作成はあきらめようとしていたら、なんと、実業のほうが危機的状況を迎え、自分の会社の安楽死を検討せざるを得ない状況となったのだった。  状況はこうだ。20年くらい前、社員数200人売上100億円の会社がバブル崩壊後に、3分の1の規模に縮小。しかもバブル崩壊直前に分不相応に立派な自社ビルを建てていたため、その負債で半永久的に黒字化は不可能という羽目に陥っていた。瀕死の状態で会社を死守し、消耗戦のなかで金利を支払っていくことの展望のなさから、真剣に「安楽死」計画を練ることにした。  ベンチャー事業としての存在理由、いわば魂(=事業コンセプト)は捨てたくないし、仲間たちが路頭に迷ってしまっては、安楽死ではなく悲惨な会社の最期になってしまう。かくて、不良債権ごと会社を消滅させながら、事業と人を生きながらえさせる計画をたてたのだった。「社員全員雇用の条件をつけた、営業権譲渡」と「訴訟覚悟の会社清算の実行」というシナリオである。  そのためには、単年度黒字化が必須である。現状赤字であり、営業権は、事業展望とともに買い手がつくわけだから、その証としての単年度収益の確保は、絶対条件だった。あまり詳しくは書けないけれども、メインバンクとももろもろ謀りながら、アクロバティックではあるが、実態としての事業の黒字化を実現し、その発展としての事業計画をもって、いくつかの会社の経営陣に対しての“営業”を行った。  いま我々の研修事業で提供している「上級プレゼンテーション研修」のコンテンツであるところの“タフ・クエスッチョン”の最大級版を浴びせられる場面を何度も経験したなかで、ようやくある会社の社長が、買ってくれることになった。売却価格の妥当性は当事者としてはなんとも言えないものの、なにより全員雇用や訴訟案件としてのリスクも含んでまるごと受け入れたその社長の判断には、大胆にして思い切りのよい経営判断として感謝し感服をしたものだった。  しかもその会社にとって、購入した事業はもともとのその会社のドメイン範囲外のものだった。その会社の一員となって何か月かたったとき、社長に、なぜ買う気になったのかを聞くと、「知らない領域の事業だし、聞いても良くわからなかった。採算性も不確かだし。とくに、事業展開の今後の広がりは、何を言っているか意味不明。でも、君たちがそれを確信持っていろいろ語っているのが、なんか面白くてね、その構想自体にも興味が湧いたんだ」と笑った。  経営者の意思決定とは、教科書的な意思決定の常識とは全く別物なのだと、このとき知った。つまり、そこに有効な「企業の安楽死プログラム」を作り得たからではなくて、ある一人の、独自の経営意思と出会えたことによって、私のいた会社の安楽死は実現したのだった。

脱線予防 | その他

脱線予防

 高い能力があれば、経営幹部になれるかといえば、そうではない。  マネジメントスキルがあり、リーダーシップ行動も実践し、必要な経営リテラシーを充分に持ち合わせていても、大事な局面で感情に流された判断をしたり、自身の名誉へのこだわりで失敗したりすることがある。そうした、優秀でありながら経営幹部として道を誤ってしまうような個人特性を、エグゼクティブ・ディレイラ―という。つまり、エグゼクティブとしてのキャリアから脱線(=derail)する要因。  具体的には、依存的、論争的、尊大、目立ちたがり、回避的、奇抜、不感知的、衝動的、完璧主義、リスク嫌い、感情的、といった性格・行動特性があげられる。もちろん、こうした傾向は多かれ少なかれ、誰しもが持ち合わせているから、問題になるのは、その度合いが強すぎる場合である。ともすればそれが、抑えきれず表出し、経営者としての道を誤らせることがある。  だから、そうしたディレイラ―が低いことを確認することが、役員選抜のひとつのポイントになる。経営者としてのスキルレベルの測定は、「アセスメントセンター方式」によるアセスメントが有効である。シミュレーション環境のなかで、意思決定や行動をさせアセスメントすることで、思考面、対人面、資質面の必要スキルレベルを細かく評点化することができる。しかし、その中では、エグゼクティブ・ディレイラ―の測定はできない。  評価されているとわかっているのだから、アセスメントの場ではうまく立ち振る舞おうとするのが当然である。その能力が高いと診断されたとしても、実際の現場でその能力をちゃんと発揮しようとするかはそもそも保証できない。それは、能力の有無とは別の、真摯さや実直さによる。ましてや問題ある(とたいていは本人も気づいている)個人特性は、診断の場では見せないように演じるはずだからである。  性格診断のような心理テストも十分ではない。やってみればわかるように、項目に答えているうちに、ある程度は“演じる”こともできてきたりするからだ。役員によるインタビューや役員による日常の評価でもその検出は難しい。なぜなら、上司に対しては、「うまく振る舞おうとする」。  ディレイラ―のレベルを診るのは、本人の周囲者、とくに部下の声を聴くのが有効である。インタビューや360度診断によって、部下がその人をどう見ているかを把握する。さきに列挙したような、ネガティブな個人特性は、日常の部下指導のなかで、滲み出るものだし、部下は実に敏感に感じ取っているものなのである。  では、エグゼクティブ・ディレイラ―を持っていれば、経営者失格なのか。しばしば天才的な経営者には、ときに、ここであげているような人間的な欠陥もあわせ語られる伝説がある。ディレイラ―がありながら、脱線しない経営者特性はなにか。  先日、あるホールディングスの社長に「社長たるもの」の要件を聞いた。これは社長になってから日々思うのだが、と前置きしながら彼は、なにより経営のサステナビリティを第一に考えることの重要性を強調し、「社長である“自分”を律すること」と言った。社長こそが(自身が退いた後につながる)経営の継続性を体現しなければならない。それができる自己制御能力・姿勢・意思が社長に備わるのでありさえすれば、ディレイラ―は大した問題ではないのかもしれない。

新世代が正しい | その他

新世代が正しい

 ここ数年の若手社員に対する評価として、まじめでそつなく振る舞う人が多くて扱いやすいけれども、本音がなかなか見えない、といった声を聞くことがある。いわく「期待されていることをやればいいという態度が、実にさめている感じで、何考えているかわからなくてね」と。  しかしそもそも、働く場で本音を出すことが必要なのだろうか。こういった指摘の前提には、同じ会社で働くかぎりは、本音をぶつけ合いたいという旧世代の“常識”がある。家族主義経営を標榜しないまでも、どこか、職場の仲間同士は、腹を割った人間的な付き合いも含んだ協働関係でありたいと願っている。それは、快適な環境という面もあるだろうが、一方で「本当の自分」を出さねばならないことがストレスになり、メンタル失調に結果するかもしれない。  役割等級という言葉があるように、企業組織とは、個々人が必要な役割を果たすことが求められる場である。だから、職能給でなく職務給、つまり職務(=役割)に報酬が払われる。人事考課で問われるのは、役割を果たせたかどうか、であって、全人格評価ではまったくない。管理職であれ、中堅社員であれ、また新入社員であれ、役割を果たす。要は、きちんと役を演じることを通じて、結果をだせばいい。本音(めいたもの)を出す、出さないもまた、役の演じ方のひとつにすぎないのではないか。その意味で、優秀な管理職者は、優秀な役者ということもできる。  それでは殺伐とするではないか、という指摘は当たらない。同じ組織目標達成に向けて、真剣に役割を果そうする態度が相互信頼をもたらすはずだし、そこに共感や凝集性が生まれる。そこでさらに、本音の表出など必要ないし、その効用があるとも思えない。もし、本音をぶつけ合うことでパフォーマンスがあがることがあるとすれば、それは、そもそもの役割や目標の設定がおかしかったということである。  かつて企業は、船のメタファーで語られた。であれば、社員同士、一蓮托生で突き進むわけだから、まるごとの人間関係の要請も分かる。しかし、今、企業のメタファーはあきらかに船ではない。多様な人々が交通し、かなり多くの時間を共有し、そのビジョンやミッションにもとづく役割を演じる「場」といったイメージだろう。だからこそ、凝集性の要となる、会社のビジョン、ミッション、バリューがきわめて重要であり、だからこそ近年多くの企業が、自社の存在理由を改めて問い、こうした自社のコンセプトの明確化と発信に腐心しているのである。  ときに、新入社員たちが本音を言えないのは、会社の一兵卒としての緊張からだと、本音を言いあえる場を用意することもあるが、そもそも彼らはそんなことを望んではいないだろう。また、きっとそこでは、そつなく、“期待される本音”を話すに違いない。よく言われるように、傷つくのを恐れ、人間関係全般で、役を演じるようなふるまいが新世代の特性なのかもしれないが、そのことは、まだ古い企業観にとらわれている旧世代よりは、いまの企業組織での働き方の適性が高いともいえる。  「最近の若い者は〜〜」として語られる世代間ギャップの多くは、新世代の方が正しい。なぜなら、新しい世代は、未来人の先行モデルだからである。

好き嫌い | その他

好き嫌い

 「自分は~~」と話す若者が好きだ。対して、「自分的には~~」、「私的には~~」と話す人々は大嫌いである。  「私的には~~」の、「的」とはいったいなにか。「私に言わせれば~~」と言われれば、あんた何様? とその上から目線が気に入らないものの、まだそのスタンスはわかる。そこまでのきっぱりさもなく、「自分の感覚や好み、考え方からすると、~~~なんだよね、ま、あくまで私としては、なんですけどぉ~~」といったズルさの透けて見える自己主張に虫酸が走る。  と、個人的な好き嫌いで暴言を吐いている私が、さて、期末の評価時期を迎えたとする。この手の人が部下だったら、きっと悪い評価をつけたくなる。業務上のミスをしたとしても、「自分は~~」と話す部下だったら、そんな悪い評価はつけないかもしれない。だって、私は好ましい姿勢だと思っているから。  こんな風に人々が評価されないために評価制度はある。評価制度は、会社として、とってほしい行動、なってほしい人材像を基準として提示して、それに即してのみ、出来不出来を判断してくれ、というメッセージである。会社としての良し悪しを、会社としての基準でみる。これに対して、好き嫌いによる判断は、上司である自分の中の基準(価値観だったり、人生観だったりの)による判断である。  自分の“中にある”基準は、もちろん、信念をもって持ち続ければいいけれども、部下を評価する基準は、自分の“外にある”共通の基準でなければならない。何を当たり前のことを殊更に言っているのかと思われるだろうが、好き嫌いは知らぬ間に、評価者の眼を曇らせることがある。価値観がまったく異なる人の行動は、理解できない分、バイアスがかかったりする。  管理職の方々は誰しも、評価に臨めば好き嫌いの感情で判断しないようにとして自分を律しているはずではあるが、好き嫌いのベースには価値観、ともすれば人としての善悪判断につながる個々人の軸があったりするから、厄介だ。とくに、評価を通じて部下を成長させようと考える真面目な管理職者なればこそ、自身が良かれと信じる指摘、指導をしてしまう。それが、個人的な価値観の押しつけになったりする。  多かれ少なかれ、評価やその結果としての処遇には、好き嫌いが入り込むのが、人々の関係の束=組織の宿命かもしれないし、家族主義経営的な日本企業の良き文化というものもそこにあったかもしれない。しかし現代の組織は、ダイバーシティである。性別や年齢や国籍といった外形以上に、その内面の価値観や嗜好、大げさに言えば生き方のスタンスすらメンバーごとに多様に異なる。  とすれば、今まで以上に自分の“外にある”基準、会社が定める評価制度、評価基準に即した評価を徹底しなければならない。そのためには、管理職たる者、資格等級定義や職位の役割定義は完全に頭に入っているのは当然として、業績評価にしろ、行動評価にしろ、評価基準を理解し、自部門における具体基準を、言葉にして語り、また、それで指導、評価できなければならない。  徹底して、会社が定めた基準だけに準拠する。部下育成とはこうあるべきとの自身の信念をもつ方々には、なんとも窮屈かもしれない。そこは、手あかにまみれたこの言葉を呟いてみたらどうだろう。「たかが仕事、されど仕事」。  マネジャーの仕事は、人を使って、組織目標を達成することだ。その限りの人材の活用、育成だから、自身の価値観との葛藤などいらない。割り切って、組織の基準に従って評価し、そこへ向け指導すればいい。しかしだからこそ、自身の価値観や経験に束縛されない、また相手の価値観も気にしない、自由で創造的な指導方法も生み出しうるのではないか。  個々人の内面や本質なんかに拘泥することなく、人の集団がパフォーマンスをあげることを純粋に考えること。それが、マネジャーにとってのWord of wisdom、「たかが仕事、されど仕事」なのである。

一言で言え! | その他

一言で言え!

コンセプチャルスキルといえば、ロバート・カッツが提唱した管理職に必要な3つのスキルカテゴリーのひとつで、かつ最重要とされる。日本語では、概念化能力。物事を俯瞰して概念的・抽象的に把握し、本質をとらえる力を意味するというと、なにやら仰々しいが、要は、「要は、〜〜〜〜である」と一言で言える能力ということである。 しかしこれが難しい。一方で、管理職者に必要な能力として、分析能力というものがある。物事を分解して問題を特定し、原因を検討して、その構造を明らかにする。問題解決に際しては、この分析能力も大事だが、それだけだと、ともすれば、分析は見事でありながら、本来の問題解決とは無縁の答えになったりする。 概念化能力の伴わない分析能力の弊害とは、譬えて言えば、問題の事象を分解し、細かく分析をした結果を、もう一度組み立ててみると、あれ、これはもうぜんぜん違う問題じゃないか、といった事態。管理職の方々が、こんなこと指示したっけ? と部下のアウトプットを見て首をひねる時も、得てしてこのようなことが起こっていたりする。つまり、それが目の前の課題であれ、あるいは事業判断の局面であれ、いきなり分析的、要素対応的に対峙してしまい「要は何なんだ」という本質が見えなくなってしまうということである。 顧客や上司に求められ、なんらかの企画提案をするときの失敗の多くは、こうした概念化力の欠如による。その典型例は、相手から「そもそも、欲しい提案と違うけど、何しに来たの?」という気配漂うやるせない失敗の状況。顧客や上司は、課題やニーズをいろいろ言うが、それらは、ほんとうに困っていることなのか、単なる思い付きなのか、レベル感バラバラである。それらの言葉に対して、分析能力だけを発揮したときに悲劇は起こる。 ときに、自分がやりたいこと、実現したいことが、顧客自身や上司自身にわかっていないことさえある。心理カウンセリングの世界には、本人が語る相談目的と「主訴」は異なるという原則がある。同様に、顧客や上司が、自身の真のニーズに気づいていないことだってある。ポイントは、語られる話の全貌や背景となる会社状況を、俯瞰し、本質を仮設すること。顧客の個々の言葉にまどわされず、要は何がしたいのか、何を解決すべきなのか、を把握できさえすれば、少なくとも的外れな企画提案は起こりえない。 では、概念化能力を高めることはできるのか。つねに視点をあげる、WHYをしつこく問う、つねにコミュニケーションのメタレベルを意識する、あるいはコンセプトメイキングのフレームワークを学ぶとか、方法はいろいろあるだろう。一番簡単な方法は、どんな問題も課題もニーズも、常に「一言で言えば、どういうことか」と考え、なにがなんでも、言葉にしてみるということではないか。それを、徹底することで、きっとコンセプトというものが見えてくる。 うだうだ説明する部下にいらだち、「要は何なんだ!? 一言で言え!」とどなる上司は、正しい部下育成を行っているのである。

藤田田さん | その他

藤田田さん

日本マクドナルドの創始者だった藤田田さんと定期的に会っていたことがある。といっても裏方に過ぎなくて、同社の広報誌に掲載するため、各界の識者との対談をコーディネイトしていたからだ。誰と会っても、臆することなく語る藤田さんの商売哲学は、独自の視点と商売の論理に裏打ちされたゆるぎないインパクトがあった。なにより、その強烈な主張にたいていのゲストがたじろいでしまう様は、見ていて痛快だった。 ある新進気鋭の学者は、アカデミックな観点からの消費論を展開すべく意気込んで対談に臨んだけれども、藤田さんの堅固な商売感覚に対してまさに蟷螂の斧。用意してきた論点や主張は、「それって、いくら儲かります?」という切り替えしに沈んだ。終了後、帰りのエレベータの中で肩をおとし、「何言っても、あれだ。ぜんぜん聞いてくれないんだものなぁ」とぼやいていたものだった。 ある人材派遣会社の社長には、「あんたは鵜匠ですな」と言い放ち、むっとしている相手に一切構わず、とうとうと自説を語ったこともある。ときに、意気投合する相手もいて、そうしたときの盛り上がりは半端ではなかった。当時、社会経済システムをテーマにした話題作を発表していたある小説家とは、日本の植民地支配や共産主義をめぐって、とてもここには書けないような発言を連発しては、「そうそう!」、「まったくそのとおり!」、「世論は、間違っているけど、実は〜〜〜」、「ですよね〜!」と、対談時間は大幅に押したものだった。 まさに天衣無縫の振る舞いで、政治家であれ、企業の社長であれ、高名なジャーナリストであれ、まったく同じように、聞きたいことを聞き、言いたいことを言う。そこには、いつも、一貫した現場の商売論と無邪気なまでの好奇心があった。全店の数字をリアルタイムで把握して、店舗に足を運び、従業員に話しかけるという日々。いつも、ネクタイピンもカフスボタンもマクドナルドマークだし、さまざまなキャンペーンを自ら発想し、指示していた。あるとき、広告の仕上がり見本にあるコピーの「春です、得です」を見た藤田さんは、「得です、ではだめだ。お得です、にしなさい」と広告のコピーさえも、直接変えてしまうのだった。 当時人気の時代劇で“裏の仕事人”役だったある役者には、「毎回結構な謝礼をもらうけど、あれは、どこに貯めているのですか。家族の眼もあるし、あまり使っているように見えないし」と、真剣に、劇中人物への質問をした。返答に窮して、あいまいなことを言うのをさらに追及して困らせていたものだった。こうした無邪気な好奇心は、誰に対しても向けられ、だからこそ、ストレートな物言いや強烈な商売論に辟易としながらも、しだいに藤田さんの筋金いりの商人ぶりが無邪気な好奇心と表裏一体であることが相手にもわかってきて、対談の終わりはいつもよい雰囲気だった。 そして、対談が終わると藤田さんはいつも、お礼としてマクドナルドの店舗で使える無料券の束を手渡すのだった。どのゲストにも例外なく、堂々と。

絶対評価は絶対か? | 人事制度運用支援

絶対評価は絶対か?

その定義は「基準に照らしての評価」にすぎないから、絶対評価といってもそれが“絶対に”正しいわけではない。評価の納得性や育成の観点からいって、相対評価よりも使い勝手がいいということである。   人事評価における絶対評価とは、被評価者同士を比較して序列化する相対評価に対して、あらかじめ設定された個人目標の達成水準や行動評価項目の評価基準をもって個々人を独立的に評価することをいう。 「君はよくやっているが、あいつに比べると劣っているから、C評価」などと言われて納得できるはずもないが、それ以上に、相対評価では育成に使いづらい。 相対評価でつけられた評点は、つねに他者との関係できまるから、なにをどうすれば、高い評点にいたるのか、つまり、自身が成長するのかがわからない。基準との距離を見る絶対評価であれば、たとえば行動評価で「君の等級では、あとこの2つの項目がBになれば、卒業レベルだ。その2項目がCなのは、要件である〜〜〜〜ができていないこと。だから今後業務で意識すべき課題は〜〜〜〜」といった指導ができる。だから、人事制度を設計する場合、その評価制度は絶対評価とするのが主流になっている。 発揮能力や行動や成果を測定する道具としては、絶対評価であるべきなのは当然であるが、その一方で、絶対評価の弊害もある。評価基準自体があいまいであれば、評価の中心化や高ぶれが起こったりする。かといって、基準を具体化詳細化しようとするとキリがないし、逆に精緻に作りこまれた評価基準は、本来その意思や裁量性が発揮されるべきマネジャーに杓子定規な評価行動を強制したりする。 よく目標管理を運用されている会社で問題とされる「目標レベルのばらつき」とは、要は基準自体がおかしいわけだから、絶対評価の納得性もゆらいでしまう。かくて、目標設定をいかに適正に行うかに腐心し、必然的にそこに時間と手間をかけざるを得ない。個々人の目標という基準に即して独立的に評価する以上、そこが根幹になるからだ。 全社横断的に目標レベルを揃えることは難しいし、行動評価基準に誰しもが迷いなく評価できる明快さを持たせることは至難の業である。基準は、評価制度を使うマネジャーたちが運用のなかで明確化し共有していくしかない。一次評価者同士の目標設定会議や評価会議を地道に繰り返し、「基準」を共有していくことが、絶対評価を適正な評価手法として活用していく最良の方策である。 それでもなお、基準に即して評価することは、難しい。もしかすると、人が人を評価するということの限界がそこにはあるのかもしれない。つまり、どちらがいいか人と人を比べればわかるけれども、「基準」との距離なんて個別正確に測定できない。もしそうだとすれば、賢い方法は、まず相対評価をしてから絶対評価をすればいい。実は、多くのマネジャーがアタマのなかでやっていることである。