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吉岡 宏敏

column
教え方を教える | 人材開発

教え方を教える

 「共育」という言葉に最初に出会ったのは、2006年「資生堂『共育』宣言」だった。資生堂としては、従業員の成長と会社の成長の重なりという企業が人を育てることの原点を改めて確認するメッセージであったが、それよりも、教育を共育と表現したときに見えてくるシンプルな気づきが、新鮮だった。  なるほど、教え教えられることで、人々は共に育つのだ。教えることによって、教える側も成長するという事情がストレートに喚起される言葉だったからである。  近年、学習手段による学習効果の違いを説明する論として良く聞かれる「ラーニング・ピラミッド」では、もっとも効果が低い方法が「講義を聞く」、次いで「読む」、「視聴する」、「実演してもらう」、「議論する」、「練習する」という順で、学習の定着効果は向上し、もっとも効果的な学習方法は、「教える」とされる。  そんな“理論”を知らなくても、教えるためには、自身の知識を整理し、分かりやすい教える順番を考えなければならないから、結局自分の勉強になることは、誰しも経験のあることだろう。どの会社でも、若手社員がOJTトレーナーや先輩指導員、メンターとして、新入社員を指導するのは、教える彼ら自身の教育も狙いとしている。ただ、この共育事情がたいていは若手社員まででとどまっているのは残念である。  上位階層の従業員が下位階層の後輩を教育するために、「教え方を教える」といったコンセプトの階層別研修があってもよいのではないか。たとえば、仕事は一人前でできるようになった5年目くらいの後輩が目の前の業務に埋没するあまり、疲弊したり、疑問を感じたり、漠然と将来に悩んでいるようなときに、どう指導し、動機付けるか。人が、仕事に前向きに対峙できるための要件の、最大のものは「有意義感」である。だからたとえば、その仕事にどんな意味があるのか、を教えられるようにする。  とすれば、後輩が担っているどんな業務でも、それが、会社全体、事業全体にとってどのような意味があるのか。あるいは、社会に対する自社の価値提供として何を担っているのか。また、自身のキャリアの将来にとって今この仕事をやりぬくことの意味は何か、等々をきちんと教えられるようにするという研修である。そのためには、全社視点や社会視点、あるいはキャリア視点で自社事業と業務を再整理する作業を研修ですることになるから、そのこと自体の本人にとっての教育効果は明らかだろう。  “自分の次の課長の”育成法を教える課長研修は何回か実施させていただいているし、シニア人材が自身の持つ知識や技術を伝承できるようにする研修があっていい。そうした「教え方を教える」研修の一番のポイントは、教えるスキルのインプットではない。そのことももちろん不可欠だが、大事なことは、「自分は“何を”教えるか」、「自分は何を“教えたい”のか」を考えさせることである。ともすれば、言葉になっていない自分固有の方法やスキルを顕在化させることであり、自分の意思や想いを、他者に伝えるべき価値があるかどうか評価することである。  教えることの学習効果とは、経験から学んだことを評価し体系化することである。それが組織の活きたナレッジであり、共育というコンセプトは、昨今喧伝される組織学習やナレッジカンパニーの原点なのである。

無知は哀しい | その他

無知は哀しい

 恥ずかしながら40歳になるまで、ザルそばの薬味のワサビは、直接そばにつける、あるいは口直しにちょっと舐めるものだとは知らなかった。あるとき、池之端藪の小上がりで独り菊正宗ぬる燗をやりながら、隣の初老の客を見るともなく見ていたら、ワサビをちょんちょんと蕎麦につけると、その部分はつけ汁につけずに手繰った蕎麦の下だけ蕎麦猪口に入れてズズッとすすっている。  真似をしてみたら、その旨いことといったら堪らない。ワサビが引き立て役になって蕎麦の味が香り高く際立ち、口腔をうならせる。後で調べてみたら、薬味のワサビは本来そのためのもので、つけ汁に溶いたらまったく意味がない、と知った。なぜ誰も教えてくれなかったのか、とその時、くやしさに身もだえしたものだった。若い時から蕎麦好きで、たいていの老舗蕎麦屋には通っていた、この20年間は、蕎麦の味を十全には味わえていなかったということなのだから。  なんともったいない時を過ごしたことか。無知のせいで、蕎麦喰いの快楽を実に20年間も味わっていなかったとは。大げさに言えば、食という人生の愉しみについて取り返しのつかない損失である。おそらくは、蕎麦喰いとしては、薬味のインパクトを知っている人が味わう蕎麦の60〜70%の堪能レベルだったに違いない。なぜワサビがそこにあるのかをよく考えもせずに、つけ汁に溶いていた自分が実に情けない。  かくのごとく、無知は哀しい。無知はその本人にとって、豊かになるはずの人生を阻害する。たとえば、歴史の知識がある人とない人では、NHK大河ドラマを面白がる度合いが違うだろう。それもささやかだけれども、人生の豊かさの違いである。知らないからわからない面白さや醍醐味は、きっとあらゆる事柄にある。無知ゆえに、そのこと自体にすら気づかないのだ。  逆にいえば、知識は人の人生を豊かにする。よく研いだ包丁で長葱を切ると細胞をつぶすことがないので、くさみのない、格段に旨い刻み葱になる、あるいはボンゴレビアンコの旨さはちょっと煮立て“乳化”させたソースにあるとか、理屈がわかればしみじみと料理が愉しくなる。漢字や言葉の由来を知れば、それだけで人々の知恵の連鎖に触れ世界は深まる。  どんな事柄でも、理由がわかれば、物事はより面白くなる。企業の階層別研修では、よく、WHY思考というものをテーマとする。WHY=なぜ〜〜を問うことで、たとえば、目の前の業務の意味や、ルールの意味を考える。それが仕事の有意義感や面白さにつながり、また、何をなすべきかがわかる。そうしたWHY思考は、仕事の場だけでなく、実は日常のすべて、生活のすべてのことわりに向けて働かせるべき態度として重要なのである。  「なぜ、この仕事をするのか」、「この仕事の意味は何か」を問うことは、イノベーションの源泉といわれる。ひたすらWHYを突き詰めることで本質まで立ち返って初めて、新しい視点やアプローチ、アイディアが生まれるからだ。もちろん、蕎麦のワサビの意味に気づいたからと言って、生活のイノベーションはうまれない。しかし、暮らしの中のささやかな革新の契機にはなるのではないか。  すくなくとも私はそれ以来、「薬味の効用」に目を開かれ、ステーキを焼くときも、辛子、ワサビ、柚子胡椒、大根おろし、ディル、クミン、ガラムマサラ、梅肉、練唐辛子、晒し玉ねぎ、海苔佃煮、、等々を合わせてみるという、小さなイノベーションに挑戦し続けているのだった。

無能の大罪 | その他

無能の大罪

 企業内教育は、個々人のパフォーマンスを高めるために不可欠の施策である。OJTやOff-JTにより、早く求められる成果をだせるようになって、生産性に貢献してほしいから、育成する。しかし、そこで高められる能力とは、企業固有スキルであって、大半は汎用的スキルと重なるけれども、大事なのはその会社ならではの必要スキルである。  だから問われるのは、その会社で成果を出せる能力にすぎない。「あいつは能力が低くて困る」という上司のぼやきは、正確に言えば、パフォーマンスが低い、貢献となる行動をとれていない、という意味で、決して、「能力」そのものを深刻に評価しているのではない。たかだか、いまこの会社で求められる行動発揮に問題があるだけである。  企業で評価されるのは、行動とその結果である。評価制度は通常、業績評価と能力評価のふたつで構成される。その能力評価とは、潜在能力ではなく、発揮能力。その会社で階層別に求められる発揮能力=行動を評価するものである。なので、名称自体も能力評価ではなく、行動評価とする評価制度が増えてきている。  問われるのは、能力ではなく行動である。仮に能力が低くても、行動ができていればいいし、行動ができるレベルにないなら訓練をすればいい。訓練をしても行動ができないなら、その仕事は無理だということだけである。それが、能力が足りないからか、やる気がないからか、あるいは別の何かのせいか、その理由はどうあれ、である。  企業の現場において、個々人の能力の多寡は、重要でない。行動と行動発揮を促進する訓練、つまりはマネジメントが問われるのであって、「あいつは能力が低くて困る」などと、上司に言われる筋合いはないのである。行動発揮が十分でなければ、それなりの評価となり、それなりの処遇になるだけであって、あえて能力を発揮せずに、そうした働き方を選んでいる人だっているかもしれない。  その意味で、従業員の能力のあるなしは、問題ではない。しかし、この上司=管理職者だけは、文字通り能力が問われるではないか。問われるどころか、無能なマネジャーは組織にとって有害といっていい。管理職も役割定義されているから、求められる行動ははっきりしている。ただ、明文化された役割行動をとるだけでは、マネジメントはできない。内外の不測の事態に対応した判断ができるには、「能力」が必要なのである。  その最前線での判断が会社に与える事業的影響もさることながら、たとえば、クレームだったり事故だったりに対して、逃げたり、責任転嫁したり、矢面に立たなかったりする上司を目の当たりにした部下たちはどうなるだろうか。当の管理職者に対してのみならず、任用した会社に対しての落胆、失望、諦観。個々人を活用して、組織としての成果を上げていくしくみである会社にとって大罪である。  管理職役割定義に書かれていることの根幹は、要は、意思をもって、いろいろ工夫して、判断してくれ、ということであり、それには、一定の能力を前提する。そこで必要な能力とは、課題発見力だったり、分析判断力だったり、指導力だったり、育成力だったりいくらでも書き連ねられるけれども、もっとも大事なのは、「意思」と「覚悟」である。  これは、経験によって磨かれるだろうけれども、そもそもそれを持ち得るかどうかは能力だろう。だから、昇格のアセスメントでも、意思決定にかかわるスキルとともに、必ず、「達成意欲」や「姿勢」、「自律一貫性」といったさまざまなスキル名称をもって、それらのレベルを測定しようとする。  よくリーダーシップの要件として、人間力といった言葉が語られる。そこには、ともすれば高邁な人徳や器の大きさのイメージがあるが、それほどのものは必要ない。ただ、意思と覚悟を持てる能力だけは、管理職者には不可欠であり、その意味での無能な管理職者を決して作り出してはいけないのである。

フェミニンリーダーシップ | その他

フェミニンリーダーシップ

 ふたたび、ジェンダーについて書く。  ダイバーシティマネジメントを体現する人材活用の一環として、女性管理職比率を目標設定することがある。それについては賛否両論あって、否定派は、一定数の女性管理職登用を目指すがゆえに、本来の登用基準より低い“女性用基準”が生まれることを危惧する。ひいては、女性の尊厳を傷つける施策だとまで言うむきもある。  しかし多少無理はしても、一定比率の女性管理職を人数枠設けて“外形的に”作ることが早道であることは確かだろう。女性の管理職候補者が育ってきてから同じように選考して、などと言っていたら、女性の管理職が増えるのがいつになるかわからない。だからこその強引な目標設定だったのだから。  そこでの主たる懸念は、このように登用した女性管理職が管理職としてパフォーマンスをちゃんとあげられるか、ということだが、その心配はあたらないのではないか。きっと女性たちは、管理職能力を発揮できるはずだからである。  ある時期から、採用担当者の方々からこんな悩みを聞くことが増えてきた。選考過程で、評価の高いほうから採用していくと、女性ばかりになってしまうので、男性を採るために採用基準を下げざるを得ない、と。これはこれで大丈夫か? という気もするが、それは置くとして、優秀で元気な女性が会社に入ってきている時代である。我々も、研修の場で、女性のほうが自由で創造的な発想をする場面を何度も目撃している。  いやいや確かに女性社員は優秀だけれども、管理職としての能力はどうだろうか、と疑問を呈する方もいるだろう。それなら優秀な女性社員の業務遂行ぶりをよく見てほしい。彼女らの特長は、複数の並行作業の優先順位づけと割り切り、判断の速さである。  仕事も家事もこなすために、定時退社や場合によっては時短勤務を必須として、効率的にかつ割り切った判断で仕事をする。よく言われるようにそもそも家事というシャドウワークは、マルチタスクの並行処理であるから、仕事においても、男性社員のようにうだうだ思い悩まずに進めていくクールさがある。  管理職の仕事の大半は、多種多様な案件の意思決定である。優先順位の高いものから、早く、的確に判断する仕事である。そこには冷徹な割り切りもしつつ、やるべきことを粛々とやっていくことが求められる。かつて女性ならではのリーダーシップを分析し話題なった本『フェミニンリーダーシップ』(マリリン・ローデン)を持ち出すまでもなく、こうした管理職業務が女性に向いていないとはとうてい思えない。問題は、女性の管理職能力ではなく「管理職志向のなさ」にあるにすぎないのだ。  アセスメントセンター方式による昇格アセスメントでは「インバスケット」というシミュレーション演習を使う。管理職の立場でたくさんの案件を短時間で処理するという判断ゲームで、純粋に管理職としての意思決定力を診断するものだ。純粋に、という意味は、会社固有の暗黙知や職場の人間関係や業務情報の多寡によらずに、ということである。  従来の、人事考課の結果と部門長推薦と役員面接による登用決定だけでは見落とすかもしれない管理職能力を診るために、アセスメントの活用が増えてきている。同時に、そうした従来型の登用方式が女性の管理職登用を阻害してきたものでもある。アセスメントによって、予断なく純粋に管理職能力を見極めれば、女性管理職の登用にさほどの無理はなくなっていくだろう。  もちろん、管理職に必要なものは、ここで書いてきた意思決定力、つまり管理能力だけではない。リーダーシップと言ったり、人間力と言ったりする人々に影響を与える力がないと人はついてこないし、管理職としての強い役割意識もまた不可欠だ。それらについての女性たちの適性はまだわからない。もし多くの女性が管理職になりたいと思わないのであれば、その姿勢やマインドからして、このあたりはあるいは不得意かもしれない。  しかしそれも心配はないのではないか。管理職とは役割であって、演じるものである。男性よりも演技に長けているのが女性だという通俗的な女性観が正しいとすれば、リーダーとしての役割を、割り切って演じられるはずだから。

評語の標語化 | 人事制度設計

評語の標語化

 評価票の無機質さは、なんとかならないものか。なにより学校の通信簿のような「評語」が大人げない。  コメントはいろいろ書かれているものの自身の評価結果が味気ない評語の羅列で示されている。成績としての良し悪しだけはわかるが、業務遂行や行動におけるリアルなレベルは伝わらないし、だからどうする、が見えない。ゆえに、上司コメントや面談による指導が評価という行為には不可欠とならざるをえない。  評語とは、 1. 批評の言葉。評言。 2. 成績の評価を示す言葉。優・良・可の類。 と辞書にあるが、人事の世界ではもっぱら後者の意味でつかわれる。評語=SABCDとか54321などの評点レベルの表現語、である。ついでに言うと、数字評語は、成績レベルとしては直感的だし、平均処理といったわかりやすい集計処理ができるけれども、アルファベットはいただけない、と常々思う。  評語だけではレベルがわからないから、評価制度ではたいていその説明がついている。それもまた味気ない。たとえば、 S / 5 期待を大きく上回る A / 4 期待を上回る B / 3 期待どおり C / 2 期待を下回る D / 1 期待を大きく下回る といった表現で、味気ないだけでなく、そもそも、4と5、2と1の違いである「大きく」とはなにか。あいまいである。なので、評価者研修では、「期待とは、等級に求められる水準であり、5は、上位等級レベル」だとか、「問題があれば、2。支障があれば、1」などと解説する。  解説がいるくらいなら、評語自体をメッセージ化してしまったらどうか。それならば、見てすぐに自分のステータスがわかる。たとえば、こんな具合に。 ■上位等級レベル。昇格準備  ←S / 5 期待を大きく上回る  ■卒業レベル。要上位課題確認 ←A / 4 期待を上回る   ■等級相応。要ストレッチ   ←B / 3 期待どおり ■問題あり。要確認      ←C / 2 期待を下回る ■業務支障。降格危機     ←D / 1 期待を大きく下回る   いわば、評語の標語化である。標語とは、「主義・主張,運動の目的などを簡潔に示した短い語句。モットー。スローガン」であるから、ここであげた即興例なんかより、もっと自在に、もっと独自表現で、自社にとっての評語表現をメッセージ込めて作ればよい。  評語の一つ目の意味は、「批評の言葉。評言」である。当社にとって、5レベルの優れた人をどう評するか、が標語としての評語作成の出発点である。大げさに言えばそこに、会社の理念や組織哲学が表出するはずであり、味わいのある評価票がうまれるのではないか。  何を評価するかの観点は、多種多様だし、その表現もまたいくらでもある。企業固有でかつ琴線にふれるような文学的表現があってもいいとも思う。最近読んだ本のなかに、人を評する言葉としてこうあった。  佇まいの凛冽、志操の高潔、言動の超俗。

ほしいものが、ほしいわ | その他

ほしいものが、ほしいわ

 このキャッチコピーを覚えているだろうか。成熟時代のマーケティングを象徴する広告として、80年代末期に書かれたものである。  当時、躍進を遂げていた西武百貨店は「おいしい生活」というコピーをかかげ、百貨店はモノを売るのではなく、生活提案産業だと謳った。たとえば食器は、食事をするための道具であるけれども、さまざま使い方を見せることで購買を促進できる。その使い方を、新しい暮らし方や格好いいライフスタイルとして見せたのが、その時のマーケティングだった。  部屋は狭いし、十分な収入があるわけではなくても、そこには、豊かな“気分”がある。そうした気分を味わうための道具として、さまざまなモノを売る。現実は変えられないけれども、気分は変えられる。だから、新しい暮らし方やモノの使い方の情報を発信し、つぎつぎと新しい気分の消費=関連するモノやコトの消費を煽っていくということである。  気分を喚起するマーケティングは、ニーズにあった商品を揃えるのではなく、ニーズを作り出す。欲望の対象になる商品を生産するのではなく、欲望そのものを生産するということである。「おいしい生活」から数年後、この事情を消費者にむけてストレートに言い放ったセンセーショナルなキャッチコピーが、「ほしいものが、ほしいわ」だったのである。  つぎつぎと「ほしいもの」を作り出す社会は、いまも続いている。情報ネットワークや先端技術は、新しい欲望を生み出す大きな原動力だし、金融工学の進化は、金持ちの欲望を大衆化した。供給者の思惑どおり、いつの間にか日本にもハロウィンが年中行事化しつつあるように、常に虎視眈々と暮らしのなかに新しい消費を喚起するイベントが仕掛けられる。  働く欲求としてよく聞かれる「自己実現」もまた、その獲得をそそのかされた「ほしいもの」ではないか。社会に出る若者が面接で言う「自己実現ができる仕事がしたい」という一言の違和感くらいなら良いが、働くからには、マズローのいう低次の欲求段階を経ていたる最上位の欲求を目指さねばならないという強迫観念が若年層の転職を後押しているかもしれない。働くうえでは「夢」を持たねば、と喧伝される風潮もそれを煽る。  しかし、実現すべき自己などというものがどこにあるかよくわからない。まさに、「ほしいもの(=自己実現)が、ほしいわ」。こうした呪縛にとらわれるのは、働くことを手段だと思い込んでいるからである。手段だから、目的が要る。なんのために働くのか、それは、生活のためだけではなく、集団欲求や社会性欲求のため、ひいては自己実現という素晴らしい目的のため。だから、頑張ってはたたらく価値がある、となる。  もっと気軽に、働きたいから働く、でよいのではないか。働くことが愉しいから働く。万有引力ならぬ情念引力をもって世界を語ろうとした異端の思想家シャルル・フーリエは、快楽労働と言った。つまり、手段としての労働ではなく、目的としての労働である。  そういえば、消費だって、実はそれ自体が愉しい。メーカーや小売業にそそのかされた気分や欲望のためであろうとなかろうと、モノを買うという行為は、愉しい。それが、交換経済ではない貨幣経済がもたらした快楽だった。「ほしいもの」は、消費であれ、労働であれ、それがなされた時点で、すでに獲得されているのである。だれのものでもない、自分だけのものとして。  だから、その労働の自分だけの面白さを感得することこそが、「ほしいもの」なのではないか。企業組織がやるべきことは、なにより、その仕事の意義と意味、とりわけその従事者当人にとっての意味づけを喚起することだ。ビジョンや戦略はつねに一人ひとりの意味づけに資するという観点から、表現され、また語られ、参照されるべく仕組まれなければならないのだ。  あなたがたの「ほしいもの」は、ほら、目の前にあるじゃないか、と。

居ることの問題 | その他

居ることの問題

 従業員の常習的な欠勤のことをアブセンティズム(absenteeism)という。何らかの体調不調により、仕事を休んでしまう「病気欠勤」をさすが、病気を理由にした長期欠勤をくりかえすことによる生産性の低下を問題視する際に使われるようになった。さらに近年は、アブセンティズムならぬプレゼンティズム(presenteeism)という言葉が使われることがある。休むことよりも、“居ること”のほうが問題だということである。  何らかの不調があっても出社して仕事を続ける「疾病就業」がプレゼンティズムのもともとの意味だ。たとえば、頭痛や風邪などの軽い変調や花粉症などの慢性的な変調、うつ病などのメンタル失調により、仕事の能率が落ちてしまうことの問題ということである。ただその限りなら、病気欠勤(アブセンティズム)よりも従業員本人の生産性の観点からは、少しでも職務遂行が進む分まだいいだろう。問題は、組織に与える影響にある。  インフルエンザの疑いがあればまず出社を控えるのは当然だが、普通の風邪であっても、無理して会社に行くことで、他のメンバーが感染してしまうかもしれない。そうなれば結果として組織のパフォーマンスが落ちてしまうことになりかねない。発熱でボーっとした状態で鼻水流しながら、重要な案件の議論に参加することがチームとしての間違った判断をもたらすかもしれない。欠勤して早期に直せばよかったのに、無理して出社を続けることで悪化し、結果的に長期にわたって休まざるを得ない状態になるかもしれない。だとすれば、欠勤により本人の仕事が滞ること以上の影響を、その人は組織に与えていることになる。  こうした健康と生産性のマネジメントからの問題提起がプレゼンティズムという言葉に込められた一つの主張だった。長期欠勤ほど目立たないからこそ、経営者はプレゼンティズムの見えざるとリスクに気がつきにくい、ということへの警鐘である。  さらに加えて、周囲への影響という観点では、プレゼンティズムにはもうひとつの問題提起が潜んでいるのではないか。それは、周りのメンバーに対する心理的な影響。組織として、多くの人々とともに働く喜び、そのモチベーションへの影響である。  心身の不調により意欲や能率が低下していながら長く就業し続けるメンバーは、同僚にとって困った存在になることがある。目標の達成や課題解決に向けたチームとしての活動が阻害されてしまう場合があるからだ。他のメンバーが不調な仲間をサポートする必要に迫られたり、それを重荷に感じるメンバーが生じることによって、チームワークがぎくしゃくする。仕事に臨むには不十分な状態なのに組織の一員としてそこに居る。短期間ならともかく、それが常態化していたりする。その姿勢が、周囲のモチベーションを損なう。不調な仲間が、仕事を、万全な状態ではなくてもできるものだと考えているように感じ、おおげさにいえば、仕事に対する冒涜にも見えるからだ。  仕事をするということは、その対価を得て生活するための手段ではある。しかし人によっては、それ以上に仕事自体が目的である。仕事自体の醍醐味ややりがいや意義や意味が感じられるから、モチベーションをもって働く。そして、一人ではできないより大きな仕事を行うために、人々と組織として事にあたる――それが会社だ、と思っている人たちにとっては、不調な社員が“居ること”で感じる違和感や心地悪さは大きい。自身の仕事観そのものが揺さぶられるからである。  不調であっても出社すべきだと思うことも、仕事は万全な状態でバリバリやるべきものだと思うことも、就労価値観の違いなのだから、それも組織のダイバーシティだ、ととらえるべきなのかもしれない。しかし、そこで失うものの大きさこそ、最大の見えざるリスクではないか。  もちろん、病気という不調によるのなら、プレゼンティズムも仕方がない面もある。であれば、個々人に対して健康管理という組織人としての行動規範を厳しく問うべきなのかもしれないし、不調な社員が自分の不調を自覚し、「がんばって仕事をする」のではなく、改善策を講じる行動をとるように促すマネジメント、つまり安全衛生管理のマネジメントの徹底の問題でもあるだろう。  より大きな問題は、病気でもないのに意欲も能力もない困った社員=問題社員が多くの会社に存在することである。いわく、恒常的なローパフォーマー、コミュニケーション不全、フリーライダー、モンスター社員などなど。こうした社員が“居ること”の問題こそ、生産性の観点ではなく、仕事に生きがいを感じている多くの従業員のモチベーションを守るという観点から問われるべきだろう。

ハイパフォーマの要件 | 人材育成方針策定

ハイパフォーマの要件

 人材開発の仕事で、360度診断を使うことが多い。  よく、「部下からの評価などあてにならない」、「考課したことないから基準がバラバラ」、「好き嫌いが入り込む」といった理由をあげ、360度診断を否定する声も聞くが、それは当たらない。確かに、「マネジメントとは何か」を知らない部下が、自分の基準で主観的に付ける上司の「点数」は、うのみにできない。しかし、360度診断は、点数の高低をみるものではない。集計された周囲評価の項目間のバラつき方とその自他ギャップに意味がある。  個々人がつける点数水準はどうあれ、項目間の差を集積した周囲者評価のカタチ(=項目ごとの点数の折れ線グラフ表示)によって、できている(と周囲が感じる)項目とできていない(と周囲が感じる)項目が特定できる。加えて、本人の自己評価のカタチを重ねてみることで、行動課題がさまざま浮かび上がるという仕掛けである。  たとえば、周囲評価の(相対的に)低い項目と自他ギャップの大きい項目にまず着目する。対象者の全体傾向としてみるのであれば、それがその層の育成課題を検討する材料となり、個々人でいえば、本人みずから、その理由を内省し、行動変容へのきっかけとするといった研修内での使い方が一般的だ。  多くの会社で360度診断をやっていて、実に興味深いのは、ハイパフォーマに決まってみられる“外形”があることだ。まず、周囲評価のカタチと自己評価のカタチが相似している人は、だいたいできる営業マンだったり、優秀なマネジャーだったりする。つまり、自己認識がちゃんとできている。  さらに成果を上げている人に特徴的な外形は、自他が相似したうえで、自己評価のカタチは、周囲より大きな振幅になっている。つまり、できている項目は、自身ではもっとできているという高い点だし、できていない項目の自己評価の点は極端に低い。出来不出来のメリハリが、周囲評価よりも効いているのだ。  自己認識が正しいうえで、強い自信と強い課題感の表れと思えば、それが優秀さを示すひとつの要件として納得できるのではないか。このことは会社が違ってもほぼ例外なくあてはまる特徴だが、加えて、ハイパフォーマ分析(=パイパフォーマを特定してもらい彼らに共通する特徴を抽出する分析)を行えば、その会社ならでは優秀人材の要件も分かるから、こうした診断から見えてくることは、能力や行動の課題以外にもさまざまある。  毎年、管理職評価用に診断を実施していたある金融機関では、なかなか含蓄深い特徴がみられた。360度診断は周囲評価としてひとつにまとめてしまう場合と、上司、同僚、部下といった評価者属性ごとに結果をわけて表示する場合がある。この会社では、上司、同僚、総合職部下、一般職部下の4つに分けて周囲評価集計を表示していた。  傾向としては、同僚評価はとくにそうだが、総じて甘い評価で、上司評価以外はあまりメリハリがつきにくい(銀行でしばしば見られる傾向ではある)。そのなかで、ハイパフォーマに共通する特徴がひとつあった。それは、上司評価のカタチと一般職部下のカタチがそっくりだったということである。  これは2つの意味で示唆的である。  まず第一に、上司の目にも、一般職部下の目にも同じに映るような、分け隔てない振る舞いが、ハイパフォーマの特徴だという点。常に、誰に対しても変わらぬ行動、とくにヒエラルキー的役割分担の堅固な組織における振る舞いとして、なるほど、と思わせる。  もう一点、注目したいのは、一般職の方々の観察眼の鋭さである。同僚や総合職部下といった周囲者が、防衛的だからか、互助的なのか、中心化傾向で変化に乏しい評点をつけているなかで、上司同様のエッジが効いた評価をしている。いかにも情緒的でないきっぱりしたメリハリが見える。一般職の方々の雇用環境や仕事スタンス、価値観など、この的確な視線の理由としていろいろ推察できることもまた、360度診断ならではの醍醐味である。

シャドウイングのすすめ | 人材開発

シャドウイングのすすめ

 シャドウイングといっても、ネイティブの発話を聞くそばからそのまま口に出していく(=影のように)英語練習法のことではない。仕事の実態を知るために行うキャリア教育としてのジョブシャドウイングだ。  やり方は、仕事する社会人に半日とか1日間、中学生、高校生や大学生が一人、影のようについて一緒に行動する。それにより、普段見えない仕事の実態や、人が働くということのリアリティを理解できるという効用がある。インターンシップが職業体験であるのに対し、ジョブシャドウイングは、単なる観察である。観察だからこそ、知り、感得することに集中できるし、一対一の関係のなかで、その働く本人の思いや考え方を仕事の合間や事後に聞くことができる。  米国では定着した教育手法であるが、日本でも、キャリア教育として取り組む中学校や高等学校が増えてきた。何人かの人事担当の方々からも、年々、各地の学校からの要請があると聞いた。中高教育なかで浸透しつつあるようだが、むしろ、大学と企業の間で、こうしたシャドウイングの仕組みができるべきではないか。  職業選択の前提となる仕事観やキャリア意識がないから、といって、1、2年生からの「キャリア形成支援」の取り組みが大学では盛んであるが、それに意味があるとは思えない。キャリアの方向性など、仕事を何年か経験してから初めて見えてくるものだ。学生がキャリアデザインするといった矛盾に満ちたキャリア教育や就職予備校めいた指導のおかげで、面接で、「クラブ活動でのリーダーシップの発揮」などをPRする学生ばかりになる。  キャリア形成とは、授業として教えるものではない。大事なことは、自分が興味ある仕事、あるいは、あまり知らないいろいろな仕事の実態やそこで人が何を想い働いているという有様を感得することだ。そのことが職業選択の視界を広げる。それができるジョブシャドウイングのしくみがあれば、ほかに特別なキャリア教育はいらないのではないか。もはや死語のようになってしまった感があるが、学生の本分は勉強である。大学4年間のほとんどの時間を、学問というものに没頭させる経験こそが、将来、長く仕事していくなかで、ボディブローのように効くキャリア形成支援のはずである。  シャドウイングをすすめる理由は、もうひとつある。シャドウイングされる側に対する教育効果があるからだ。それが、CSRを実践することだから、ではない。シャドウイングされる人自身が、改めて自分の仕事の意味や意義に気づくという効用である。キャリアアンカーで知られるエドガー・シャインは、一方で「プロセス・ファシリテーション」というコンサルティング手法を提唱しているが、そのポイントは、「外部の、第三者による素朴な問い」が、組織の構成員たちの暗黙知を顕在化させる効果をもつということだ。  シャドウイングする社外かつ職業社会というものの外部者である学生が発する問いに答える経験は、自身の仕事を再発見する貴重な機会に違いない。キャリアの節目にあるような入社3年目や5年目あたりの若手社員層が学生にシャドウイングされるといった施策は、会社内でよく行うキャリアデザイン研修よりも効き目があるはずである。  エグゼクティブ・コーチングにも、シャドウイングがある。コーチングのプロセスは、1.360度インタビューなどの診断にはじまり、2.解決すべき課題を合意し、3.方策を検討し、4.その実行を定期的に検証・検討しながら促進するというものだが、この4.のフェイズで、コーチが一日“影になって”観察し、フィードバックすることをシャドウイングという。これはなかなか不思議な光景で、かつて外資系企業の日本支社長のコーチングで、影として一緒に会議に出たときの人々の不審な表情をいまでも思い出す。  コーチングにおけるシャドウイングもまた、本人だけでは気づかないことを、顕在化するための方法である。組織もそうだが人も、日々の経験や慣れや繰り返しが地層のように蓄積し、それが判断や思考の前提になりがちである。その“当たり前”という前提を「Why」で揺さぶることが時に必要なのだとしたら、自分自身で行うのが難しいそれを、第三者がやってくれるシャドウイングの効用はもっと注目されていいのではないか。

組織を編集する | その他

組織を編集する

経営をしていたころ、いちばんの愉しみは、組織図を描くことだった。 まず第一の醍醐味は、組織のガラを決めるところにある。あぁでもないこうでもないと、いかに最適な組織図を描くかに腐心する。なにより組織図は、形として美しくなければならない。どうやっても美しくない組織図しかできなければ、それは戦略がおかしいといってよい。組織と戦略はそうした表裏の関係にあるものだからこそ、この作業は面白い。 組織の形が決まったら、次は、各組織のリーダーの配置である。これが第二の、よりスリリングな醍醐味だ。誰を登用するか、誰の役割を変えるか・・・組織構造を決めるよりもはるかに頭を悩ますことも多いけれども、ときに、一瞬にして決まることもある。ポイントは、個別組織の人事と“全体”を常に同時に考えることである。 ある部門に適材が思いつかなくて、ふと、まったく候補でない人物を置いてみると、予想外に全体が様(さま)になり、またその部門の可能性が広がったりすることがあったりする。大げさにいえば、天の配剤めいたこうした瞬間があるからやめられない。ここまでは必ず、経営企画担当にも人事担当にも任せず、また外資系企業だったけれどもヘッドクォーターの横やりも排して、自分で描き上げたものだった。 間違えてはいけないことは、組織のガラづくりと人事の検討は必ず分けて行うということである。さもないと、人を先に想定して組織を考えてしまうからだ。そうした組織は、そもそも、美しくないし、変に飛び出た箱があったりして奇妙な組織図になることが多い。また、現状の人材レベルの範囲を超えない組織(=戦略)になりがちである。 ガラとしての組織図は、戦略を実現するコンセプトそのものだから、その限りで最適解を検討しなければならない。次に、人材を配置していくときには、当然、適する能力や経験の人材が足りなかったりするから悩むことになる。でも、それこそが考えどころであり、新しい組み合わせや育成面でチャレンジングな配置が生まれる契機になる。 雑誌やメディアの“編集”という作業は、コンセプトメイキングとエディティングからなる。それにより、個々の情報素材(=識者の寄稿やインタビューや文献情報などなど)を、総合したときに、単なる個々の集合を超えたメッセージや情報価値を生成させることを目指すものだ。経営にとっての組織図もまた、個々人の力の集合を超えた組織の総合力を発揮させるという意味での編集に他ならない。 そういえば、組織とはそもそも、個人の能力限界を超えるものとして生まれたものだった。組織図を持ち出すまでもなく、すべての組織は、もともと編集されるべきものなのである。

ゲートキーパー | その他

ゲートキーパー

窓際族ならぬ「ドア際族」という言葉があったことをご存じだろうか。 いつでも組織パフォーマンスを左右するのは、中間管理職の能力と活力に決まっているけれども、その要件として喧伝されるものは、時々によって一様ではない。異業種交流など社外活動に積極的で、社内にとどまらない知見と人脈をもつ管理職こそが組織の力を高めるとされた時期に、反面その人たちは、ドアを開けて出て行ける=いつでも辞められる、という意味で使われていた。 日本企業がその成長を競い合っていた頃の、企業の自己革新とか現場からのイノベーションには、会社固有の価値観や情報の範囲を超えた知見を持つ管理職の育成が必要だけれども、それは同時にキーマンの流動化を促進することでもあるというジレンマだった。その後、経営にとって長いシュリンクとリストラクチャリングの季節を通過していま、「他流試合」の要請を実に多くの人材開発部門の方々から聞く。 やはり求められているのは、管理職者としての視野の拡大と人脈である。自身の能力や知識の限界への気づいてもらい、また異なる発想に刺激され、以降も継続する人脈も持ってほしい、というのが共通する経営の思いだ。その背景には、防衛戦のなかで堅固になった“企業の壁”の弊害が、顕在化しているからだろう。壁にとらわれない広い視野と柔軟な発想をもつ管理職が、環境変化に即応する経営に必要ということだ。 ドア際族とは、ネットワーク論で言い換えれば、ゲートキーパーである。社内の情報と人脈、社外の情報と人脈、その双方のネットワークの結節点にいる人。(ある知見を)知っている人、ではなく、(社内社外を問わず)知っている人を知っている人、である。あるいは、知っている人を探し出せる人。ネットワークの結節点で企業の境界に臨み、軽快に、小さなゲートをつかさどる人たちである。 経営学の教科書にあるコンティンジェンシー理論(=状況適応論)は、外部環境の不確実性に対応した経営のためには、組織内部に不確実性を持つことが必要だと言った。でも、ここには、企業の壁が前提されている気配がある。大事なことはむしろ、企業の壁自体をすり抜けて、組織の内外の情報が行き来する現場のダイナミズムではないか。ゲートキーパーとは、それをする人である。 ゲートには、関所という意味もある。とすれば、ゲートキーパーは出入りさせる情報かどうかを判断し、場合によっては遮断する機能を担う。はたして個々の従業員が、その会社にとっての情報の重要性を判断してもよいものか。それが、経営にとって資するものと言えるか。個々人の価値観に依存してしまう危険があるのではないか。 といった心配は、しかし、無用である。ゲートキーパーたるその人が採用され、いま活躍されているということ自体が、その会社の価値観と力量を体現しているはずだからである。

フレームで考える | その他

フレームで考える

 「創造とは、フレームワークだ」と公文俊平さんは言った。  まだインターネットが登場する前、パソコン通信をつかって、当時シアトルに在住していた公文俊平さんにメールインタビューをしたことがある。何回かのやりとりを編集せずに、ライブ感もってそのまま掲載する試みで、マニアックに制作していた企業組織論専門誌の企画だった。「叛企業文化論」と銘打った(なんと青臭い!)特集のなかで、企業文化をテーマに、独自で厳密な論を展開してもらったあと、次号のテーマ「場の創造性」を巡ってまたメール交換したのだが、そのやりとりのときに公文さんが言った印象的な言葉がこれである。  「創造とは、フレームワークだ」という発言の文脈も詳細も忘れてしまったけれども、そのときの指摘はこうだ。何か考え出さなければならないことがあるとする。そこでひとつ、新しいアイディアを思いついたら、例えば、そのアイディアを配置できる、2軸4象限のフレームを創出せよ。そして、空白の3象限を埋めていくようにさらにさらに創り出せ。創造とはそういうものだ。たしかそのようなことを言っていたのだった。  フレームというものは、たしかに、たいへん便利な思考の道具である。  マーケティング環境分析では、お馴染みの『SWOT(Strengths-強み、Weaknesses-弱み、Opportunities-機会、Threats-脅威)』や『3C』(Customer,Company,Competitor)などは必須ツールだし、最近増えてきている経営幹部候補育成の研修では、とくに『PEST』を使うセッションを念入りにやったりする。PESTとは、政治(Politics)、経済(Economy)、社会(Society)、技術(Technology)の枠で、例えば自社に影響与えるマクロトレンドを最も広く考える際に使う。  経営とは、突き詰めれば競争と数字であり、そのリアリティの薫陶が幹部育成には不可欠ではあるが、その前提となる社会と自社の関係と将来についての見識も経営者の大事な要件である。だからこんなセッションをやったりするが、これが結構できないことが多い。PESTの枠内に書き込むべきコトがなにも出てこなかったりする。  このような普段考えないような事柄を考えたり、問題の原因をできるだけ広範に洗い出したりする際には、最初に「発散」という発想技法を使うのが常套手段だ。グループや個人でブレーンストーミング(=発散)をして、たくさんのアイディアを生みだし、そのあと「収束」し構造化するという段取りだが、白紙の状態からの発散はなかなか難しい。そこでフレームを用意して、発散すると、漏れなく、深いアイディアがたくさん出せる。たとえば、職場の問題と原因の洗い出しなら、『7S』(Strategy、Structure、System、Style、Staff、Skill、Shared Value)とか『PDCA』(マネジメントの基本であるPDCAも汎用的なフレームとして使い勝手がよい)が、有効な道具になる。  枠があるほうが新しいモノゴトを発想しやすいということである。  そのことは、事業の課題や戦略を構想する際にたくさんのフレームワークが使われていることでもよくわかる。その紹介だけで本一冊分はゆうにある世の中の創造技法というものも、多くは、フレームワークだ。ただ、公文さんがいったいちばん大事な指摘は「フレーム自体を考え出せ」ということである。  PEST分析がうまくできないケースが多いと書いた。その理由は、ともすれば、「視野が狭い」、「目の前の仕事に思考が埋没している」、「社会的な問題意識がない」といった研修の受講者の意識にあるとされる。その要因ももちろんあるだろうが、もう一つの理由は、一つのフレームが大きすぎるからである。P(政治)ならPの枠のなかで、より細かいフレームを自分で設定していけばいいのだが、それがわかっていないから、漠然と立ち向かい、何も思いつかない羽目になる。  「フレームで考える」ということは、「フレームを考える」ことでもある。  4象限の枠組みでいえば、まず二つの軸をどう設定するか。その組み合わせはいくらでもある。どれだけ自由に、自分なりの軸を思いつけるか。そのうえで発想していく。創造という行為は、まずフレームを創り出し、そのフレームで発想していくことともいえる。ただいきなりフレームを設定せよといっても雲をつかむような話なので、公文さんは、最初のアイディアがまずあれば、それを配置しうる2軸を考え出せ、といったのだろう。  その軸を考え出すための“枠”というものもあるのではないか。いわば、フレームを考えるためのフレーム。一つのヒントは、その枠は、フレームワークにより創り出すアイディアは事業や仕事に結びつくものである、という目的から規定されることにある。つまり、事業や仕事の意味や意義、付加価値から発想される軸、ということである。意味や意義、付加価値とは、「なぜ自社はこの事業をしているのか?」という本質的な問いの答えだ。  禅問答みたいな分かりにくいことを書いている。こんな例をだせば言いたいことのニュアンスを伝えられるだろうか。  たとえば、鉄道の会社が、自社の事業を「鉄道事業」と思うか、「輸送事業」と思うのでは、例えばそこで思いつくフレームはきっと違ってくる。デパートが「百貨を売る物販業」なのか、「総合生活提案業」なのか、でも違う。あるいはかつて、コカコーラのボトルには「Drink Coca Cola!」と書いてあったが、ある時から「Enjoy Coca Cola!」と変わった。その時に、コカコーラ社の従業員がもし皆でPEST分析を試みて、PとかSとかの中でいろんなフレームを設定するとしたらそれは、「Drink〜〜」時代とは違うフレームが設定されるのではないか。  事業や仕事に関わる創造のためのフレームを考えるには、「なぜ自社はこの事業をしているのか?」といった本質的な問いがまず必要のはずである。フレームを創りだし、そのなかで発想していく方法を「フレーム思考」と呼ぶとすれば、「フレーム思考」は、本質的な問い=「Why思考」と表裏一体なのである。